第3話 戻るという約束
銀の薔薇の一件から十日後、リゼットは城下の聖堂を訪れると言い出した。
年に一度、王女が孤児院へ春の寄付を届ける日だった。代理を立てるよう王も王妃も勧めたが、リゼットは首を縦に振らなかった。
「だって、子供たちと約束したのです」
「事情を話せば分かります」
「去年、来年も参りますと言いました」
「それは事件が起きる前のことです」
「あの子たちとの約束は、事件の前でも後でも変わりません」
結局、カイルは近衛を二十人増やした。
王女の馬車の前後に騎馬兵を置き、沿道の窓を調べ、聖堂の地下納骨堂まで前日に確認した。聖職者たちからはやり過ぎだと苦情が出たが、聞かなかった。
「今日は修道士が多いようですね」
聖堂へ着くなり、リゼットが言った。
「近衛が十二人、修道服を借りています」
「鐘楼にいる方も?」
「あれは弓兵です」
「神様もさぞかし驚いておられるでしょうね」
「神が殿下を守ってくださるなら、人員を半分にしても構いません」
くすくすと、小さな声が聞こえた。
「きっと今頃、責任の重さに怯えていらっしゃいます」
リゼットがそう言って笑っている。その顔を見て、カイルは連れてきてよかったと少しだけ思った。
孤児院の子供たちは王女を待ちかねていた。贈り物の菓子よりも、彼女が読み聞かせる物語を楽しみにしていたらしい。
リゼットは、陽の差す小礼拝堂に腰を下ろし、子供たちに囲まれて絵本を開いた。
眠りに落ちた姫君を、王子が茨の城から助け出す話だった。
「姫様とおんなじだ」
一番小さな子供が言った。
「わたくしのお城には、荊はありませんよ」
「でも、いっぱい寝るんでしょ?」
「ええ。あなたより少しだけ」
「この人が起こすの?」
小さな指がカイルを指した。
リゼットが首を振る。
「この人は王子様ではなく、騎士です」
「じゃあ、ちゅーしないの?」
礼拝堂のあちこちから笑い声が上がった。
カイルは咳払いをした。
リゼットは本で口元を隠している。耳が少し赤い。こちらと目が合った。
「この騎士は、朝になると水を飲め、食事をしろと、とても細かく起こしてくれます」
「えー、やだぁ」
「姫様、寝たふりしたら?」
「呼吸で分かります」
そうカイルは淡々と答えた。
子供たちが一斉に嫌そうな顔になる。リゼットはついに声を立てて笑った。
その笑い声に重なって、遠くで鳥が鳴いた。
高く、短く、二度。
カイルは素早く立ち上がった。警戒の合図に決めていた音だ。
「殿下、お伏せください!」
リゼットを抱くように床へ倒した直後、色硝子を突き破って矢が飛び込んできた。たった今まで彼女の頭が合った場所を通り抜け、祭壇の木枠に突き立つ。
子供たちが悲鳴を上げた。
「南の控え室へ! 窓から離れろ!」
修道服を脱ぎ捨てた近衛たちが、子供と聖職者を誘導する。
カイルはリゼットを立たせ、自分の外套で頭から包んだ。
「お怪我は」
「ありません。それより、子供たちを」
「近衛が守ります。私から離れないでください」
二本目の矢は来なかった。
外では剣戟が始まっている。鐘楼に潜んだ敵なら、こちらの弓兵が仕留める。だが、今の矢は角度が違った。
カイルは礼拝堂の奥を見た。
半開きの告解室。その暗がりで、何かが光った。
次の瞬間、黒い修道服の男が飛び出す。
カイルは剣を抜き、リゼットを背に庇った。振り下ろされた短剣を受け、手首を返して弾く。男の懐へ踏み込み、柄頭で顎を打ち上げた。
男が蹌踉めく。だが倒れない。左手にもう一本、刃を隠していた。
振り上げられた切先がカイルの肩を裂く。
構わず剣の腹で男の手を打ち、力一杯蹴り倒す。駆けつけた近衛二人が、その腕を捻り上げた。
「生かしておけ」
カイルは命じ、リゼットを振り返った。
彼女の顔は青ざめていた。その視線は、床に落ちた短剣でも、捕えられた男でもなく、カイルの右肩を見ていた。
「浅い掠り傷です」
カイルがそう言った時、外から声が飛んだ。
「もう一人います!」
鐘楼とは反対側、墓地へ向かって逃げているという。
「ラウル、殿下を祭具室へ」
そう言ってカイルが駆け出そうとした時、袖が掴まれた。リゼットだった。
「どこへ行くのです」
「逃走した者を追って捕えます」
「他の方に任せてください」
「黒い茨の者であるなら、ここで逃すわけにはいきません」
「でもあなたは怪我をしています」
「問題ありません。動けます」
「行かないでください」
それは、初めて聞くほど強い声だった。
カイルは思わず足を止めた。
「殿下」
「わたくしのために、危険な場所へ行かないで」
細い指は震えていた。
襲撃に晒されたばかりだ。無理もない。
本当ならば彼女を自分から離して置いていくべきではない。それでも、襲撃者を捕えなければ、きっとまた次がある。次こそ、彼女が傷つくかもしれない。
「必ず、戻ります」
カイルは、袖を掴む指へ自分の手を重ねた。
「お約束します」
そう続けたが、リゼットは離そうとしない。
ラウルが無言で彼女の隣に立つ。近衛五人が祭具室を囲んでいるのを確かめて、カイルはその指をそっと解いた。そのまま振り返らず礼拝堂を飛び出す。
逃走した男は、墓地の外れに繋がれた馬へ乗るところだった。
カイルは勢いままに石垣を飛び越えた。男が振り向きざまに投げた短剣を剣で叩き落とす。馬上へと上がりきる前に外套を掴み、地面へと引き摺り落とした。
相手が何かを唱えかける。
即座に顎へ拳を入れて黙らせ、腕を背の方へ捻り上げた。
右肩から流れた血は、カイルの指先まで濡らしていた。
男を縛り上げて礼拝堂へと戻ると、扉の前にリゼットが立っていた。
「お待ちくださいと申し上げたはずです、殿下」
「あなたも、危険な場所へは行かないでと申し上げたはずです」
「犯人は捕えました」
「ええ。ご立派です」
そう言いながら、リゼットは少しも笑っていない。
カイルは続けた。
「戻るという約束も守りました」
「傷を増やして戻ることを、約束した覚えはありません」
「増えてはいません」
「では、その血はどこから?」
リゼットの手が、カイルの赤くなった右腕を指し示す。
カイルは黙った。すぐに止血をしていればこうはならなかったかもしれないが、この状況の前には些事だった。
リゼットは、カイルの顔から靴の先までを見た。そして、何か張り詰めていた糸が切れたかのように、長い息を吐いた。
「……帰りましょう」
リゼットの声は、いつもの穏やかさに戻っていた。
「今度は、わたくしのそばから離れないでください」
◇
捕らえた二人から、多くは聞き出せなかった。
彼らはやはり十二年前の呪術師の残党だった。黒い茨を印とし、リゼットの身体に残った呪いを「未完の祝福」と呼んでいる。彼女を再び手に入れ、今度こそ術を完成させるつもりらしい。
誰が率いているのか。次にいつ動くのか。尋問は続いたが、二人は口を閉ざすばかりだった。
リゼットは城に戻ってから、傷の手当てが終わるまでカイルのそばを離れなかった。
最後の包帯が巻かれ終わった直後、緊張が解けたのか、夕食も取らずに眠ってしまった。
カイルは寝室まで彼女を運んだ。
侍女が掛布を整える。寝台脇の小卓には、読みかけの本が何冊も積まれていた。その一番上のものに、カイルは見覚えがあった。
王家の禁書庫にある、『眠りの術と残響』という書物。
十二年前の事件を調べるため、カイル自身も読んだことがある。呪いを解く方法については、結局ほとんど何も書かれていなかったはずだ。
開かれたままの頁の余白には、細かな書き込みがびっしりと残されていた。
「殿下が書かれたのか」
侍女に尋ねると、彼女は頷いた。
「ここ数年、よく古い本をお読みになられています。ご自分の呪いについて、知っておきたいのだと」
眠るリゼットの右手が、掛布の外へ落ちている。カイルが戻そうと指先に触れた時、白い手のひらに何か黒いものが見えた。
細い茨のような、黒い線。
息を呑んで手を返す。しかし、そこには何もなかった。
窓辺で揺れた枝の影が、一瞬そう見えただけなのだろう。カイルは息を吐いた。
眠っているはずのリゼットが、彼の手を握った。
「……カイル」
てっきり目覚めたのかと思ったが、寝言のようだった。
カイルは音を立てずに跪く。
「ここにおります」
眠りを阻害しないよう、静かに答えた。
「おそばにおります、殿下」
リゼットの指から力が抜けた。
カイルは椅子を引き寄せ、寝台脇に座った。
リゼットが目覚めるまでに、二十時間かかった。
その間ずっと、今度こそ何も近づけまいと、カイルは扉と窓を見張っていた。




