第2話 銀の薔薇
春の夜会には、隣国から来た使節も招かれていた。
リゼットの体調は良好。昼寝は一時間。食事も問題なし。広間までの経路は三度確認し、給仕の名簿にも不審な点はなかった。
それでもカイルは、王女の後ろに立ったまま、百二十七人の招待客を順に見ていた。
「百二十八人です」
前を向いたまま、リゼットが囁いた。
「何がです」
「あなたが数えている方。楽団の指揮者をお忘れですよ」
「指揮者は三日前から城内におります。確認済みです」
「なるほど」
カイルは少しだけリゼットの耳へ口元を近づけた。
「それより、お疲れでは」
「まだ始まって半刻です」
「先ほど、瞬きを二度続けて行いました」
「人は瞬きをするものです」
「殿下は眠気があるとき、僅かに右目の方が先に下がります」
リゼットが振り返った。
「……よく見ていますね」
「護衛ですので」
近くにいた侍女が、無言で視線を逸らした。
隣国の若い公爵が挨拶に来たのは、そのすぐ後だった。金髪の人好きする男で、リゼットと同じぐらいの年頃だ。外交上の都合から、二人の縁談を期待する者がいることをカイルも知っていた。
「一曲、お相手を願えますか」
公爵が優雅な動作で手を差し出した。
リゼットが答えるより早く、カイルは口を挟んだ。
「殿下は長い曲を続けて踊ることを侍医から止められております」
「では短いものを」
「今の曲は八分あります」
「次の曲なら?」
「曲目表によれば十一分です」
「その次は?」
「十二分」
公爵は片眉を上げた。
「貴殿は楽団の曲目を全て覚えているのか?」
「殿下のご予定に関わりますので」
「カイル」
リゼットの穏やかな声がした。
てっきり咎められると思ったが、彼女は公爵へと微笑みかけた。
「次の曲の前半だけでしたら。わたくしの騎士も、それなら許してくれるでしょう」
公爵は笑い、カイルは不本意ながら一礼した。
踊る二人を、カイルは広間の端から見守る。
公爵の手の位置に問題はない。距離も礼儀の範囲内。床に滑りやすい箇所が一つあるが、そちらへは近づいていない。
「それを嫉妬と言わずに何と言うんだろうな」
同僚である近衛騎士のラウルが、隣で呆れたような声を出した。
カイルは視線を逸らさないまま答える。
「警戒だ」
「曲の長さまで調べて?」
「必要な情報だ」
「殿下に婚約者が決まったら、寝所の壁の中にでも立つつもりか?」
カイルは答えなかった。
考えたことがないわけではない。だが壁の中からでは、異変に対応するまでに時間がかかり過ぎる。
曲が半分を過ぎると、リゼットは約束通り公爵から離れた。公爵が恭しく彼女の指先に口づけている。
無礼ではない。隣国式の正式な挨拶だ。
分かってはいるが、カイルはその指先を後で消毒するよう侍女に伝えようと思った。
「重症だな」
ラウルが言った。
「何が」
「いや、幸せそうで何よりだ」
意味を問いただす前に、使節団の従者が進み出た。
公爵からリゼットへの贈り物だという。細長い箱が開かれ、中から精巧な銀の薔薇が現れた。花弁の一枚一枚が薄い金属で作られ、茎には小さなゼンマイがついている。
「巻けば花が開き、音楽が流れます」
公爵が説明した。
リゼットが手を伸ばす。
その瞬間、カイルは花芯に針ほどの小さな穴を見つけた。
「触れてはなりません」
箱を従者の手から払い落とす。
銀の薔薇が床に転がる。衝撃でゼンマイが動き、花弁が開いた。
澄んだ音が一つ鳴る。
同時に、花芯から細い針が飛んだ。
カイルはリゼットの前に身体を入れた。針が制服の袖を裂き、その下の左腕を浅く掠める。
「全員、動くな!」
近衛が使節団を囲む。悲鳴とざわめきの中、カイルは床に落ちた針をリゼットが誤って踏まないよう杯を被せた。
「殿下、ご無事ですか」
「それは、こちらの台詞です」
リゼットの声が低い。
カイルは近衛の方を向いた。
「かすり傷です。ラウル、広間を封鎖しろ。贈り物に触れた者を全員——」
「カイル」
静かで柔らかな声だった。
それなのに、広間の喧騒を縫って真っ直ぐにカイルの耳へと届いた。
見ると、リゼットが彼の左腕を両手で押さえている。
白い手袋に血が触れそうになり、カイルは素早く腕を引いた。
「殿下、お触れになりませんよう。針に毒があるかもしれません」
「では、あなたはなぜ平気な顔をしているのです」
「殿下に当たらなかったからです」
青い目から、完全に笑みが消えた。
「カイル、それを平気とは言いません」
侍医が呼ばれ、傷は直ちに洗われた。幸い、針に塗られていたのは眠り薬で、傷も浅く、すぐに洗浄したため症状は出なかった。右腕なら剣を持つのに支障が出たところだが、左腕だったのも幸運だった。
そう説明すると、リゼットはますます機嫌を悪くした。
「わたくしの代わりに毒を受けることを、幸運とは呼びません」
夜会を切り上げたリゼットは、彼女の居室で自らカイルの包帯を巻き直した。
カイルが侍女に任せるよう何度言っても聞かなかった。
細い指が、手首の上で布を結ぶ。
「きつくはありませんか?」
「問題ありません」
「痛みは?」
「ありません」
「嘘ですね。あなたは腕を痛めると、親指が少しだけ内側へ曲がります」
そう言われて、カイルは手を開いた。
「……よく見ておられますね」
「あなたほどではありません」
結び目を整えながら、リゼットが言った。
結局、銀の薔薇は公爵が用意したものではなかった。城へ運び込まれる途中で箱がすり替えられていた。捕えられた荷運び人は、顔を隠した男から金を受け取ったと白状した。
箱の底からは、黒い茨をかたどった小さな印が見つかった。
十二年前、王女の寝室の床に描かれていたものと同じ印だった。
報告を聞いたリゼットは、僅かに目を伏せただけだった。
「あの者たちは、まだわたくしを眠らせたいのですね」
「二度と近づけません」
「近づいたではありませんか」
静かな指摘が胸に刺さった。
カイルは一層深く頭を下げた。
「次は必ず、事前に防ぎます」
「その時は、またご自分の身体で防ぐおつもりですか」
「必要であれば」
リゼットの手が止まった。
「……必要にはさせません」
「殿下?」
「わたくしのために、あなたが傷つくことです。二度と、必要にはさせません」
リゼットは包帯の端を指先で押さえた。
ほんの微かに震えている。恐怖を堪えているのが分かる。それは、明らかな自分の失態だった。
「ご安心ください」
カイルは顔を上げ、真っ直ぐにリゼットの目を見た。
「私は殿下を守るためにおります」
リゼットはしばらく彼を見つめ、それから眉を下げて小さく微笑んだ。
「ええ。あなたは、そういう方でした」




