第1話 よく眠る姫君
リゼット王女が眠りについたのは、昨夜の鐘が九つ鳴るより少し前だった。
翌朝の鐘が八つ鳴っても起きなかった。
九つ。十。正午。
侍医は「いつものことです」と言い、侍女長は「昨日は長く庭を歩かれましたから」と言った。それでもカイルは、寝台脇の椅子から動かなかった。
正午を少し過ぎて、白い天蓋の下で衣擦れの音がした。
カイルは読んでいた報告書の束を閉じる。
「水を」
それだけ言うと、部屋の隅に控えていた侍女は待ち構えていたように動いた。
リゼットはゆっくりと瞼を持ち上げた。春の空に似た淡い青の瞳が、焦点を探すように二度瞬き、最初にカイルを見つける。
「おはようございます、カイル」
「おはようございます、殿下。正午を回っております」
「それでは、こんにちはですね」
「睡眠は十五時間と四半刻。途中で一度寝返りを打たれましたが、呼吸、体温ともに異常はありません。起き上がる前に、まずは水を」
「よろしければ、夢の内容もご報告しましょうか?」
「悪夢でしたら」
「よい夢でした。あなたとお散歩をする夢です」
リゼットは微笑み、侍女から受け取った杯に口をつけた。少し飲み、カイルが見ていることに気づいた素振りでもう一口飲む。
「これでよろしいですか?」
「あと二口」
「カイル」
「侍医の指示です」
「先生は『目覚めたら水分を』と仰っただけでしょう」
「量は私に任せると」
正確には侍医がそんな委任をした事実はない。だがリゼットは追求せず、言われた通り二口飲んだ。
十二年前。八歳だったリゼットは、城へ紛れ込んだ呪術師に眠りの呪いをかけられた。
術は完成しなかった。十一歳の従騎士だったカイルが、儀式の途中で呪術師に斬りかかったからだ。呪術師は近衛に討たれ、その一味はほとんどが捕縛され、王女は三日後に目を覚ました。
よくやったと、人は言った。
だが、それからリゼットは人の倍近く眠るようになった。疲れれば丸一日、目覚めないこともある。
あのとき、あと一歩早く部屋へと踏み込めていれば。
考えても変わらないことを、カイルは十二年考え続けていた。
「今日の予定は?」
リゼットが聞き、カイルは返答した。
「午後二時から王妃殿下のお茶会。四時に音楽師が参ります。夕刻の南庭の散策は取りやめました」
「なぜです」
「風が強いからです」
「よい天気に見えますけれど」
「窓からご覧になられる分には」
リゼットは窓からカイルへと視線を戻した。
「では、お茶会の後に回廊を歩きます」
「西回廊は現在補修中です。東回廊は本日、使節団が通ります。北はこの時期冷えますので」
「南は?」
「……庭へ出られます」
「ではそちらに」
散策は取りやめたと言うのに、話は最初に戻ってしまった。
カイルは少し考え、ため息を吐いた。
「厚い外套をお召しになられるなら」
「もう春ですよ」
「今日は風が強いので」
リゼットが侍女たちを見た。助けを求められた侍女たちは、揃って視線を手元へと落とした。王女の近衛であるカイルと、王女本人のどちらに逆らうか。この城内において、最も簡単な問いの一つだった。
助け舟のないことに、リゼットは少し口先を尖らせる。春の瞳がカイルを見た。
「あなたは昨日も、庭の小石を拾わせたそうですね」
「殿下が躓くかもしれない大きさでした」
「三つあった植木鉢のうち、二つが今朝からありません」
「落下の恐れが」
「お茶に添えられる砂糖菓子の作り手も替わりましたか」
「以前の職人は、親族に賭博の借金があることが判明しました」
「新しく入った洗濯係を、たった半日で辞めさせたのも?」
「経歴を二年分、偽っていました」
リゼットは杯を膝の上に置き、小さく息をついた。
「わたくしが眠っている間に、この城から人がいなくなってしまいそうです」
「ご心配は要りません。残すべき者は残します」
侍女の一人が、ついに咳払いをした。
リゼットは唇に笑みを残したまま、カイルの左手へと目を向けた。
「昨夜は見張りを交代なさったのですか?」
「もちろんです」
「嘘ですね」
即答だった。リゼットの指先もカイルの手元を指す。
「右の手袋だけ、留め金を掛け違えています。あなたは少しも眠らなかった日の朝にそうなります」
カイルは黙って右手を見た。確かに、革紐が一つずれていた。
リゼットは小さく鼻を鳴らした。
「わたくしの睡眠時間を四半刻まで数える前に、ご自分が眠ってください」
「私は鍛えております」
「眠らなくてもよくなる鍛錬があるのですか?」
「非常時には三日まで支障なく動けます」
「一晩でもう手袋を間違えている方が?」
柔らかな声音は変わらない。だが彼女がこうして一歩も引こうとしない時、カイルが勝てた試しはなかった。
「……今夜は交代します」
「今夜ではなく、今日はもうお休みください」
「殿下のお茶会が終われば」
「今から」
「殿下」
「カイル」
青い目がじっと見上げてくる。
カイルは観念した。
「昼食を召し上がるのを見届けてから、二時間だけ仮眠を」
「三時間」
「二時間半」
「では、それで」
ようやくリゼットは満足そうに笑った。まるで、手がかかるのは彼の方だと言わんばかりの顔だった。
昼食の後、カイルは約束通り自室へ戻った。しかし二時間半きっかりで再び王女の居室へ戻り、南庭の散策に付き添った。
リゼットは厚い外套を着せられていた。日差しは穏やかで、風も、カイルの予想より少し弱かった。
「今日は、庭師がずいぶん多いのですね」
「庭師の服を借り、近衛から六人立たせています」
「そうだろうと思いました」
リゼットは白い花をつけた木の下で立ち止まった。頭上の枝が風に揺れる。カイルは半歩近づいた。
「そう警戒なさらずとも、枝は落ちてきませんよ」
「断言はできません」
「では、空が落ちてくるかもしれません」
「その場合も私が先に受けます」
きっと冗談のつもりだったのだろう。リゼットの笑みが、ほんの少し薄くなった。
そのまま、彼女の目はカイルの左眉の上辺りを見た。十二年前、呪術師の短剣がつけた古傷がある箇所だ。
「……空まで受け止めなくて、結構です」
「何者にも、殿下には触れさせません」
「そういうところを、いつも心配しすぎだと申し上げているのです」
カイルは答えなかった。守ることでしか、返す術を知らなかった。
あの日、石床に倒れ落ちた幼い王女の細い手。何度呼んでもぴくりとも動かなかった瞼。自分の血が彼女の白い頬へ落ちたことまで、今でも眠るたび夢に見る。
リゼットは、足元の花びらを一枚拾った。
「でも」
そよ風が吹いた。流れる横髪を片手で押さえながら、彼女は続ける。
「あなたがそばにいるなら、眠ることも怖くありません」
「でしたら、いつでも」
カイルは躊躇わずに答えた。
胸に手を当て、真っ直ぐに彼女の目を見る。
「生涯、御前に」
そう言ってから、臣下の誓いにしては少し重かっただろうかと思った。
リゼットは驚きもせず、手の中の花びらを大切そうに握った。
「ええ、約束ですよ」
リゼットは、ふわりと柔らかく微笑んだ。




