証拠
「……っ!」
ぐらりと視界が揺れ、左頬に強い痛みが走った。
思わず自身の左頬を手で押さえ、クレイグに頬を打たれた事実に呆然とする。
クレイグが私にも暴力を振るうのではないかと、ルシアンもヘレナも心配してくれていた。
だが、クレイグとの婚約期間中に、彼は私に強い言葉を使うことはあっても暴力を振るうことはなかった。
だから自分は大丈夫だろうと心のどこかで思ってしまっていたのだ。
「いい加減にしろ! ルシアンではなく俺を選ぶべきだとどうしてわからないんだ!」
「…………」
やはり、クレイグは何も変わらない。
私の言葉を聞くつもりなんてないのだろう。
「おい、リザ!」
「そこまでだ」
その時、背後から声が聞こえ、私はゆっくりと振り返る。
「ヘレナ先生……」
そこには階段を上ってきたばかりのヘレナが一人立っていた。
途端にクレイグがバツの悪そうな表情を浮かべる。
「サーヴィス伯爵令息。なぜ、リザに手を上げた?」
そう問いかけながら、ヘレナはずんずんとクレイグに近づいていく。
対するクレイグは気圧されるように一歩後ろへ下がる。
「それは……彼女が間違っているからで……」
「ほう? 間違っていれば暴力を振るうのか? そもそもリザは間違っているのか? 何を間違った?」
「リザは俺よりルシアンを選ぶかのような発言を……」
「ん? それの何が間違っている? お前はもうリザの婚約者じゃない。彼女の未来に口を出す権利はないんだ」
「あ、あなたこそ無関係だろう! 口を出さないでもらいたい!」
激昂するクレイグを観察するように見つめるヘレナ。
「ふむ。都合が悪くなれば論点をずらして恫喝か……。まるで子供だな」
クレイグを見上げ、ヘレナは鼻で笑う。
「お前とリザの関係に口を出すつもりはない。だが、リザに暴力を振るった件を見過ごすわけにはいかないんだ」
色付き眼鏡の奥、ヘレナの瞳がすっと細められる。
「これは私の持論だが……一度誰かに暴力を振るった人間は、暴力に対するハードルが下がってしまう傾向にある。そのせいで何度も繰り返すんだ……。まさに今のお前がそれだよ」
「お、俺はこれまでリザに暴力なんて……!」
「違う違う」
ヘレナはそのまま自身の首に手を添え、クレイグを見据えた。
「ルシアンの首を絞めただろう?」
「……っ!」
「あれから一ヶ月も経たないうちに今度はリザへの暴力だ。三度目、四度目がないと言い切れるのか?」
ハッとした表情になるクレイグ。
どうやら、自分の行為が他人からどう見られてしまうのか……そのことにようやく気づいたらしい。
「それに、酒に酔った王城騎士団員が暴力事件を起こしたばかりなんだ。まあ、被害者も同じ騎士団員だったからか内輪の揉め事として謹慎程度で済んだらしいが……。騎士団も暴力行為に関しては神経質になっている」
クレイグの顔色が一気に悪くなる。
なぜなら、彼は王城騎士団への内定がすでに決まっているからだ。
「お前の素行については、学園を通して王城騎士団へ報告をさせてもらおう」
「な……っ!」
決定的なヘレナの言葉を聞き、クレイグは苛立つように自身の前髪をぐしゃりと握る。
しかし、その動きがピタリと止まった。
「証拠……。そうだ、証拠がない! 俺がルシアンの首を絞めた証拠も、リザの頬を打った証拠も……!」
クレイグは最悪の状況を打破する一筋の光を見つけ、興奮気味に捲し立てていく。
「たかが講師の証言だけで王城騎士団が動くはずがない! 残念だったな!」
「証拠はあるさ。目撃者という証拠がな」
ヘレナはあっさりと結論を口にする。
そして、ヘレナの声が合図だったかのようなタイミングで、黒のローブを身に纏った者たちがぞろぞろと階段を上って現れたのだ。
(あれは……王城魔術師団!?)
黒地に銀糸で刺繍されたローブは、我が国が誇る魔術師のトップのみが着ることを許されたもの。
エメラインを捕縛するためにヘレナが呼んでいた魔術師団員たちが到着したのだ。
「仕事を増やして悪いが、証言を頼めるか?」
ヘレナが声を掛けたのは、団員たちの中でも一番年嵩な灰色髪の男性。
「もちろんだ。この目で見たものを偽るつもりはない」
その言葉を聞いた瞬間、クレイグは目を見開く。
「あ……」
そして、縋るように私に向かって手を伸ばした。
「リザ……」
「…………」
しかし、私は無言で首を横に振り、クレイグの求めに応じるつもりはないと態度で示す。
「そんな……」
クレイグは全身から力が抜け落ちたかのように、その場に座り込んでしまうのだった。
◇
その後、被害者の側に加害者を置いておくわけにはいかないと言って、魔術師団員たちがクレイグを外へ連れて行く。
そして、残った団員たちはエメラインの状況を確認するために部屋へ入り、入れ替わるように見張りとして残っていたルシアンが部屋から飛び出してきた。
「リザちゃん! 大丈夫だった!?」
「いえ、あの……」
クレイグに打たれた左頬の痛みはまだ引いておらず、鏡を見て確認はしていないが、腫れている可能がある。
そんな顔をルシアンに見られたくなくて、私は無意識に手で左頬を隠す。
そんな私を見かねて、ヘレナがルシアンへ経緯を説明してくれた。
「あいつ……よくもリザちゃんに……!」
怒りに震えるルシアン。
しかし、私は自分の怪我よりも、確かめなければならないことがあった。
「あの、ルシアン様の除籍届が提出されたって本当ですか?」
「え? どうしてそれを……?」
「やっぱり、本当だったんですね」
「除籍届? 一体何の話をしているんだ?」
訳がわからないといった様子のヘレナに、ルシアンが当主の署名入り除籍届を持ち歩いていたこと、その除籍届がクレイグの手によって提出されたらしいことを説明する。
「何だってまたそんな大事なものを持ち歩いていたんだ……」
呆れた表情でルシアンを見つめるヘレナ。
「いや……制服のポケットに入れてたはずなんだけど……」
「見つからないんですか?」
「うん……」
そして、学園長からの呼び出しは、貴族籍を抜けたルシアンの今後の学園生活についての話だったそうだ。
「おそらく、退学になると思う……」
「そんな……!」
「僕が学園に通えていたのは『ランプリング侯爵令息』っていう肩書があったからだし、それがなくなったんだから仕方がないよ」
そう言って、ルシアンは困ったように笑う。
「まあ、もともと卒業したら勘当されるっていう話だったし、それが少し早まっただけだから」
「でも、除籍届は不当に提出されたものですし、どうにか撤回を……」
「いや、撤回をする必要はない」
そこに待ったをかけたのはヘレナだった。
「ちょうどいい。私がもらってやる」




