第54話 待っている人がいるので、今度こそ火星へ向かいます
第四十三深部採掘区で地表映像の常時中継が始まってから、住民たちの生活には小さな変化が生まれていた。
共同食堂の一角に設置された大型表示壁には、毎朝、その日の火星地表が映し出される。以前まで地下の人々にとって「朝」とは、照明が徐々に明るくなり、生活区画の時計が活動時間を知らせるだけのものだった。
今では違う。
地平線の向こうから太陽が昇れば朝になり、空が暗くなれば夜が来る。
地下にいること自体は変わらない。それでも、自分たちが地上と同じ一日の中にいるのだと実感できるようになっていた。
子供たちは毎日のように表示壁の前へ集まり、昨日と今日の空の違いを探している。
火星の空は劇的に変化するわけではない。それでも、遠くを走る作業機の位置が少し変わっていたり、砂塵の濃さが違っていたりすると、すぐに誰かが気づいた。
そして最近、もう一つ毎日確認される数字が増えた。
《超高速惑星間救難艇到着予定 あと九日十七時間》
その数字だけは、表示を頼んだ覚えがないとオスカーは言っていた。
実際に追加したのはリナだった。
『だって、湊さんがいつ来るのか分からないと困るでしょ』
何が困るのかと聞かれても、少女自身うまく説明できなかった。
ただ。
四十二年前とは違う。
今度は、誰かが来ると言っている。
ならば、到着までの日数を数えてみたかった。
その感覚は、地下の住民たちの間へ思いのほか早く広がっていった。
◇
「《スウィフト》の到着予定が、地下居住区の共有表示に常設されています」
軍用AIからそう聞かされた湊は、不思議そうに首を傾げた。
「何で?」
「待たれているからです」
「でも補給はもう届いてるよ?」
「あなた本人を待っているんです!」
軍用AIの声が艦橋に響いた。
《スウィフト》は火星への航路を順調に進んでいる。
途中で十二万人を救助し、その結果として予定より早い軌道へ戻されたことを除けば、今のところ新たな寄り道は発生していない。
軍用AIに言わせれば、それだけで奇跡だった。
「相良特務少佐。念のため確認しますが、今から火星到着までは、原則として火星へ向かうことだけを考えてください」
「分かってるよ」
「本当ですか?」
「火星で待ってる人いるし」
その返事に、軍用AIは一瞬言葉を止めた。
以前の湊なら、待っている人がいるから急ぐ、とは言っても、自分自身を待っている人がいるという意味では考えなかったかもしれない。
だが今は少しだけ違う。
第四十三深部採掘区には、湊が来る日を数えている人々がいる。
そのことを、本人なりには理解しているらしい。
神代玲華もそれに気づいたのか、柔らかい表情で湊を見る。
「到着したら、地下の方々にも会う予定ですか?」
「会いたいって言われたら」
「あなたから会いたいとは思わないんですか?」
「俺?」
湊は少し考え、それから頷いた。
「リナには会ってみたいかな。オスカーさんにも」
「それでいいんです」
神代が微笑む。
軍用AIも小さく表示灯を明滅させた。
「少しずつ、自分が会う側でもあることを覚えてください」
「補給する側じゃなくて?」
「両方です」
◇
《アレス・プライム》側では、地下六・二キロの救難が一段落したことで、四十二年前の第二救難補給便について正式な調査が始まっていた。
回収された乗員名簿は七十四名。
そのうち六十一名については、現代まで続く家族や親族が確認された。
残る十三名も記録照合が続いている。
旧第二輸送坑の現場からは、車載端末だけでなく、個人用記録媒体や認識票、工具箱、作業日誌なども次々に回収されていた。
エレナ・フォーク大佐は、その報告を読みながら眉を寄せた。
「遺族へ伝えるのは簡単じゃないな」
「四十二年間、行方不明のままですからね」
通信士も声を落とす。
死を伝えるだけなら。
まだ分かりやすい。
だが今回は。
彼らが最後まで救助を続けようとしていたという事実まで見つかっている。
それを知れば。
誇らしいと思う家族もいるだろう。
どうして救助側まで見捨てられたのかと怒る者もいるだろう。
四十二年という時間が。
誰の感情も。
簡単には整理させてくれない。
「第四十三採掘区の住民たちは?」
「七十四名の名前を共同区画に保存したいと申し出ています」
「記念碑か?」
「いいえ」
通信士が少しだけ笑った。
「『補給路の名前にしたい』そうです」
エレナは目を瞬いた。
「七十四人分?」
「全員では長すぎるので、第二救難補給隊の名称を使う案が出ています」
新しく人間が通れるようになった緊急避難路。
その正式名称。
《第二救難補給路》
四十二年前。
完成できなかった道。
それが今。
ようやく。
地下と地上を繋いでいる。
エレナはしばらく書類を見たあと、静かに承認した。
◇
その知らせを聞いたオスカーは、珍しく長い時間何も言わなかった。
共同食堂の表示壁には、第二救難補給隊七十四名の名前が小さく並んでいる。
その下には。
《第二救難補給路》
という新しい名称。
四十二年前。
自分たちのために出発して。
辿り着けなかった者たち。
今では。
その続きを走っている道に。
名前が残った。
『……これで、ようやく届いたことになるのかもしれんな』
オスカーの呟きに、隣にいたリナが首を傾げる。
『何が?』
『あの人たちの仕事だ』
老人は表示された七十四名の名前を見上げた。
『荷物だけではない。助けに行くという約束そのものが、四十二年遅れて届いた』
リナはしばらくその意味を考えていた。
やがて、少しだけ笑う。
『それ、湊さんに言ったら喜ぶかな』
『あの男なら「まだ全部運び終わってない」と言うだろう』
『言いそう』
二人とも。
同時に笑った。
◇
その頃。
《スウィフト》では、まさにその通りの会話が行われていた。
「第二救難補給便から回収できた支保材の転用が完了。使用可能だった工兵資材の九十一パーセントが第四十三採掘区へ搬入されました」
軍用AIが報告する。
「残りは?」
「保存状態が悪く、構造材としては使用できません。記念保存分を除き、金属資源として再処理されます」
「じゃあ終わり?」
「はい。四十二年前の第二救難補給便について、現在使用可能な物資はすべて本来の救難対象へ引き渡されました」
湊は少しだけ安心したように頷いた。
「よかった。ちゃんと届いたんだ」
「四十二年かかりましたけどね」
「でも届いた」
軍用AIは反論しなかった。
確かに。
目的地まで。
ようやく。
届いたのだから。
◇
《アレス・プライム》の復旧作業も順調に進んでいた。
生命維持能力は安定。
主要地下区画の安全確認も進み、避難所から元の居住区へ戻れる住民が増え始めている。
旧第三資源採掘盆地に造られた荷下ろし場も、今では正式な緊急物流拠点として登録されることになった。
宇宙港を再建するまでの一時設備。
そのはずだった。
だが。
大型貨物を軌道から無人降下させ、その場で自動分類し、旧式重機と新型機によって都市まで運ぶという方式が予想以上に効率的だった。
火星自治政府。
軍。
民間物流企業。
各組織が。
早くも。
同じことを考え始めている。
「相良特務少佐」
軍用AIが嫌そうな声を出した。
「何?」
「旧第三資源採掘盆地を正式な火星北部無人物流港へ転用する案が提出されています」
「いいんじゃない?」
「設計思想の参考者として、あなたの名前が入っています」
「消してもらえる?」
「どうしてですか!」
「作ったの機械だし」
「発案者はあなたです!」
「でも俺、火星にいなかったよ?」
「それを言われると、余計に意味が分からなくなるんです!」
白波が肩を揺らして笑い、久遠は物流港化した場合の処理能力を真剣に計算している。
神代はそんな二人を見てから、少しだけ呆れたように言った。
「久遠技術大佐。まさか正式設計まで始めていませんよね?」
「災害後の復旧計画には必要です」
「やっぱり始めているんですね」
軍用AIの味方は。
また減っていた。
◇
火星到着まで。
あと七日。
リナは毎日、地表観測映像を見ていた。
最初に外へ出た十五分間だけでは分からなかったことが、映像を見続けていると少しずつ増えていく。
砂嵐の前には遠くの景色が霞む。
同じ場所でも朝と夕方では岩の色が違って見える。
星にも動きがある。
地平線の向こうから現れる作業車両を見れば、どの方向から来るのか分かるようにもなった。
そして。
《スウィフト》が到着する方角も。
教えてもらった。
『あそこから来るんだ』
リナは表示壁の一角を指す。
隣にいた子供が尋ねた。
『見えるの?』
『今はまだ見えないよ。でも七日後には来るって』
『補給の人?』
『うん』
少し考えて。
『でも、たぶん補給だけじゃない人』
最近。
地下では。
相良湊という人間について。
妙な理解が広がり始めていた。
本人は補給兵だと言う。
確かに。
食料も。
水も。
薬も。
服も。
道も。
空まで。
届いた。
ただ。
地下の住民たちが。
それを全部「補給」と呼んでいいのか。
まだ誰も。
よく分かっていなかった。
◇
火星到着まで。
あと五日。
《スウィフト》の航法AIが、最終進入軌道の計算を開始した。
通常なら、《アレス・プライム》の宇宙港へ降下する。
しかし。
宇宙港は失われている。
代替地点。
旧第三資源採掘盆地。
現在。
火星北部無人物流拠点。
仮称。
《相良補給港》。
湊。
「待って」
軍用AI。
「何ですか」
「名前」
「自治政府の仮称です」
「変えて」
「なぜですか!」
「俺まだ行ってない」
「もうその理屈は禁止します!」
「もっと普通のでいいよ」
久遠が候補名称を表示する。
《第三救難物流港》
《アレス北部緊急物流拠点》
《旧第三採掘場救難港》
湊は三つ目を選んだ。
「これ」
「分かりました。自治政府へ変更申請を送ります」
軍用AIがため息をついた。
「あなた、自分の名前が付くことだけは本当に嫌がりますね」
「場所の名前なのに俺の名前だと変じゃない?」
「世の中には、人名由来の場所はいくらでもあります」
「でもまだ生きてるし」
「そこは関係ありません!」
◇
そして。
火星到着まで。
あと三日となった時。
第四十三深部採掘区から。
湊宛てに。
一つのデータが送られてきた。
内容。
住民からの質問。
七百八十一人分。
軍用AIが読み込み。
すぐに頭を抱えるような声を出した。
「多い!」
「全部俺宛て?」
「はい。質問というより、ほとんど要望も混ざっています」
上から。
読み上げる。
《地球の海は本当に塩辛いのか》
《犬という動物を触ってみたい》
《火星以外にも人間が住んでいるのか》
《地上で野菜を育てられるのか》
《宇宙船に乗って地球へ行けるのか》
《空が怖くなくなる方法を知りたい》
《新しい医療設備について説明してほしい》
《外の学校へ通えるのか》
《地下の学校をそのまま残せるのか》
《オスカーを地上へ連れていく方法は本当にないのか》
最後の項目で。
湊の目が止まった。
軍用AIも。
気づいた。
「相良特務少佐」
「分かってる」
「無理なものは無理です」
「うん」
湊は。
オスカーの医療情報を。
もう一度見た。
そして。
今度は。
閉じた。
「本人が行けないなら、無理に行かせない」
軍用AIは。
少し安心する。
「はい」
「でも」
湊は。
七百八十一件の質問を見る。
「答えられるのは、火星に着いたら答えたい」
「全部ですか?」
「聞かれてるから」
「七百八十一件ですよ?」
「一日じゃ無理かな」
「そういう問題では――」
軍用AIは。
そこで言葉を止めた。
湊は本気だった。
七百八十一人。
救難対象。
ではなく。
七百八十一人。
一人ずつ。
違う質問を持っている。
もう。
数字ではない。
◇
到着まで。
あと二日。
地下では。
何人かの住民が。
第二救難補給路の入口まで。
歩く練習を始めていた。
地上へ出るためではない。
まずは。
外から来る人に。
会うため。
オスカーは。
その様子を。
何も言わず。
見ていた。
やがて。
リナが尋ねる。
『おじいちゃんも会うよね?』
『向こうがここまで来るならな』
『湊さんなら来ると思う』
『そうだろうな』
老人は。
苦笑した。
『あの男は、六千二百メートルくらい近いと言いそうだ』
リナ。
『言うと思う』
◇
そして。
火星到着まで。
あと二十三時間。
《スウィフト》が。
火星を。
初めて肉眼で捉えた。
大型画面ではない。
艦橋前方。
小さな。
赤い星。
湊は。
少しだけ。
身体を前へ乗り出した。
「火星」
「はい」
軍用AIが答える。
「今度こそ、あなた本人も到着します」
「うん」
「途中で救難信号を拾わなければ」
「拾ったら?」
「そこは黙ってください!」
神代と白波が笑い、久遠は最終進入計算を確認している。
火星。
そこには。
四十二万人の都市。
四十年前の機械たち。
七百八十一人の地下住民。
そして。
百一歳の老人と。
初めて空を見た十七歳の少女。
湊が来るのを。
待っている人たちがいる。
その時。
航法警報。
短く。
一度だけ。
鳴った。
軍用AIが。
画面を見る。
そして。
黙った。
「何?」
湊が尋ねる。
「……火星軌道上から救難信号です」
艦橋にいる全員が。
ゆっくり。
軍用AIを見た。
湊。
「近い?」
「その質問を二度としないでください!」
火星まで。
あと二十三時間。
ようやく。
本当に。
到着するはずだった。
その目の前で。
今度は。
火星軌道から。
新しい救難信号が。
ただの補給兵を。
呼んでいた。




