第九話 歴史の中へ
一定の間隔で、馬の蹄が乾いた地面を叩いていく。
何頭もの馬が通り過ぎるたびに、街道には薄く土埃が舞い上がった。
風に混じって鼻へ届く土と草の匂い。
道の両脇には見慣れない木々が続き、その向こうには霞んだ山の稜線が重なっている。
陸家の屋敷から離れるほど。
凌華の知らない景色が、次々と目の前へ現れていった。
本来なら。
もっと周りを見る余裕があったのかもしれない。
けれど今の凌華に、そんな余裕はなかった。
「……無理」
列の後方。
凌華は馬上で身体を強張らせ、必死に手綱を握っていた。
馬が一歩進むたび身体が上下へ揺れる。
その揺れに合わせようとしているつもりなのに、どうしても腰が浮いてしまう。
『まだ一刻も経ってねえぞ』
腰に下げた長剣から、呆れたような声が聞こえた。
「お尻が痛い……」
『そこかよ』
「だって痛いものは痛い!」
思わず声を上げると少し前を進んでいた呂蒙が肩越しに振り返った。
「凌華! 大丈夫か!」
「大丈夫じゃないです!」
「元気そうだな!」
「どこが!?」
呂蒙の豪快な笑い声が、街道へ響いた。
――絶対心配してない。
凌華が恨めしそうにその背中を睨んでいると、さらに前を進んでいた陸議まで振り返った。
凌華の姿勢を一目見るなり。
「姿勢が崩れています」
「今そこ指摘します!?」
「落ちますよ」
「落ちないように頑張ってるんです!」
「なら背を伸ばしてください」
「鬼……」
凌華が小さく呟く。
すぐさま。
『言っただろ』
孫策が楽しそうに口を挟んだ。
「孫策は黙って」
「また独り言ですか?」
前方から陸議の声が飛んでくる。
「はい!」
即答した。
もう。
言い訳を考えることすら面倒になってきた。
陸議は馬上からしばらく凌華を見ていたが、やがて何も言わず前へ向き直った。
その背中を見送りながら。
凌華は小さく息を吐く。
「……絶対怪しまれてる」
『とっくにな』
「あなたのせいだからね」
『俺は喋ってるだけだ』
「それが原因なんだってば」
『無視すりゃいいだろ』
「できないから困ってるの!」
そんなやり取りをしながら。
凌華はふと口元を緩めた。
身体は痛い。
馬から落ちないようにするだけで精一杯。
それでもこうして誰かと軽口を叩けていることが少し嬉しかった。
陸家を離れた不安は、もちろんある。
これから何が起こるのか分からない。
自分が知っている歴史へ、一歩ずつ近づいているような感覚も消えない。
胸の奥には朝からずっと小さな緊張が居座っている。
それでも。
顔を上げれば。
前には陸議がいる。
その近くには呂蒙がいる。
そして。
腰には、相変わらずうるさい孫策がいる。
凌華は手綱を握り直した。
少なくとも。
今は一人ではなかった。
***
太陽が頭上を越えた頃。
一行は街道から少し外れた場所にある、小さな宿営地へ到着した。
馬を休ませる場所があり、簡素な建物もいくつか並んでいる。
兵たちは慣れた様子で馬から降りると、荷を下ろし始めた。
「今日はここで休みます」
陸議の言葉に凌華は心の底から安堵した。
「やっと……」
馬の首を軽く撫で自分も降りようとする。
片足を鐙から外し身体を横へ向けた。
その瞬間。
「……あ」
脚に。
まったく力が入らなかった。
長時間、慣れない姿勢で馬にしがみついていたせいなのか地面へ足を下ろした途端、膝がぐにゃりと折れる。
「わっ」
身体が傾いた。
――落ちる。
そう思った瞬間。
腕を強く掴まれた。
「危ない」
すぐ近くから聞こえた声に凌華は顔を上げた。
陸議だった。
片手で凌華の腕を支え、倒れかけた身体を引き戻している。
「……すみません」
「だから姿勢をと」
「今説教しないでください」
「事実です」
「優しさどこ行ったんですか」
「支えていますが」
「…………」
言われて凌華は自分の腕を見る。
確かに。
陸議の手は、まだそこにあった。
「…………」
凌華が気づく。
ほぼ同時に。
陸議も気づいた。
二人の間に、ほんの僅かな沈黙が落ちる。
「…………」
「…………」
先に動いたのは陸議だった。
ゆっくり手を離す。
「立てますか?」
「はい」
凌華は自分の足で立ち直した。
そのはずなのに。
なぜか。
胸の辺りが少し落ち着かない。
――また。
でも。
きっと。
これも馬に乗っていたせいだ。
疲れているだけ。
絶対そう。
『ほー』
「…………」
腰元から。
聞き覚えのある声、凌華の眉間に皺が寄る。
『何も言ってねえぞ』
「その“ほー”が腹立つ」
「凌華?」
陸議が怪訝そうに見る。
「独り言です!」
「もう聞き飽きました」
「ですよね!」
自分でもそう思う。
***
夕方。
宿営地には食事の匂いが漂っていた。
一日の移動を終えた兵たちは、いくつかの集まりに分かれ、簡素な食事を取っている。
凌華もその中に座っていた。
手元の食事を口へ運びながら。
ふと。
周囲へ目を向ける。
誰かが笑っている。
故郷に残してきた家族の話をしている者がいる。
酒の話で盛り上がっている者もいれば。
隣の男をからかって笑っている者もいる。
ごく普通の人たちだった。
「…………」
凌華の手が止まった当たり前のことなのに。
不思議だった。
この人たちは、自分が未来で読んだ史書には、おそらく名前すら残らない。
戦が起これば。
ただ。
何千の兵が動いた。
何百の兵が死んだ。
そんな数字の一部として書かれるだけなのかもしれない。
けれど今、目の前にいる一人一人には声がある。
笑い方がある。
家族がいて。
故郷があって。
きっと。
帰りたい場所がある。
「…………」
食事を持つ手が、完全に止まった。
「どうした?」
隣に座っていた呂蒙が、凌華の様子に気づいた。
「いえ」
「飯まずいか?」
「違います」
凌華は首を横に振った。
少し迷ってから。
「呂蒙さん」
「ん?」
「戦って……怖くないんですか?」
呂蒙が。
僅かに目を丸くした。
すぐには答えず手にしていた食事を置く。
そして。
「怖いぞ」
あっさりと。
そう答えた。
「…………」
凌華は少し笑った。
「陸議さんも同じこと言ってました」
「あいつと一緒にすんな!」
「仲良しじゃないですか」
「戦友だって言ったろ!」
どうやら。
そこはかなり重要らしい。
凌華が思わず笑うと呂蒙も口元を緩めた。
「怖いけどな」
少しだけ声が落ち着く。
「それでもやるしかねえ時がある」
「…………」
「守りてえもんがあるなら尚更だ」
凌華は黙って呂蒙の横顔を見た。
この人は、これから多くの戦を経験する。
やがて。
関羽を破る。
その名を。
後世まで残す。
そして。
その後。
ほどなくして――。
胸の奥にまた冷たいものが広がった。
「……呂蒙さん」
「何だ?」
「長生きしてくださいね」
「は?」
呂蒙が完全に固まった。
凌華自身。
突然すぎると思った。
数秒後。
「なんだそれ!」
呂蒙が吹き出した。
「お前、俺がもう死にそうに見えるのか?」
「違います!」
「縁起でもねえ!」
「だから長生きしてって!」
「まだ若いわ!」
「知ってます!」
『またやってんな』
孫策の呆れた声が聞こえる。
でも凌華は心からは笑えなかった。
冗談で言ったわけではない。
ただ。
生きてほしい。
今。
隣で笑っているこの人にできるだけ長く。
生きていてほしい。
それだけだった。
***
夜が深くなった頃。
凌華は宿営地の外れに座っていた。
昼間の喧騒は嘘のように静まり。
聞こえるのは時折、風に揺れる草の音と遠くで馬が鼻を鳴らす音くらいだった。
頭上には現代ではほとんど見たことがないほど、多くの星が瞬いている。
「……静か」
『寝ねえのか』
膝の横へ置いた長剣から声がした。
「眠くない」
『嘘つけ』
「…………」
凌華は膝を抱えた。
「ちょっとだけ怖い」
『何が』
「ここから先」
凌華は暗闇の向こうを見る。
「今まではまだ、歴史の近くにいただけだった」
『……』
「でもこれからは違う気がする」
孫策は何も言わない。
ただ凌華の言葉を聞いていた。
「孫策に会って」
生きている孫策の笑顔が浮かぶ。
「呂蒙さんにも会って」
夕方。
自分の隣で笑っていた男。
「陸議さんと一緒に動いて」
そしてずっと近くにいる青年。
少しずつ自分が。
本当に三国志の中へ入り込んでいる。
そんな感覚が強くなっていた。
「私が何かしたら」
凌華の声が小さくなる。
「変わるのかな」
『変えたいんじゃなかったのか』
「変えたい」
答えは。
すぐに出た。
「でも怖い」
『どっちだよ』
「両方」
凌華は空を見上げた。
「変えたいけど」
少し間を置く。
「もし私のせいで誰か別の人が死んだらって考える」
孫策は黙っている。
「孫策を助けたら」
凌華は一つずつ考えるように言葉を続けた。
「孫権が今みたいに呉を継がないかもしれない」
「そうしたら」
「赤壁だって」
「陸遜だって」
そこまで口にして凌華は言葉を止めた。
自分が知っている歴史。
好きだった歴史。
それそのものがなくなるかもしれない。
『好きだったのか?』
「三国志?」
『ああ』
「好きだったよ」
凌華は少し笑った。
「だから卒論にした」
『へえ』
「特に呉が好きだった」
『見る目あるな』
「あなたが言う?」
『当然だろ』
凌華は小さく笑った。
「その中でも」
そこで。
言葉が止まる。
『ん?』
「……陸遜」
孫策が黙った。
「好きだった」
『ほー』
「やめて」
『何が』
「その“ほー”」
『史書の男に惚れてたわけか』
「そういう好きじゃ……」
言いかけて。
凌華自身が詰まった。
現代にいた頃ならもっと簡単に説明できたはずだ。
憧れ。
尊敬。
好きな歴史上の人物。
今風に言えば。
推し。
きっと。
そういう意味だった。
でも今は…
「……分かんない」
『何が』
「本物の陸議さんは」
凌華は少し離れた宿営地の方へ視線を向けた。
「思ってたより意地悪だし」
『ああ』
「結構厳しいし」
『ああ』
「何でも見抜くし」
『面倒くせえよな』
「でも」
凌華の声が自然と柔らかくなる。
「優しい」
『…………』
「私が怖い時、ちゃんと待ってくれる」
村から連れてこられた夜。
食事ができなかった時。
剣を怖がっていた時。
「無理に聞かない」
自分が何者なのか。
なぜ未来の名前を知っているのか。
怪しんでいるのに。
話せと迫ったことはない。
「でも逃がしてもくれない」
孫策が小さく笑った。
『惚れてんな』
「――違う!」
凌華は勢いよく立ち上がった。
『声でけえ!』
「違うから!」
『誰も見てねえよ』
「そういうのじゃない!」
『じゃあ何だ』
「……分かんないって言ってるでしょ!」
『はいはい』
「絶対笑ってる」
『笑ってねえ』
「笑ってる!」
静かだった夜の宿営地に凌華の声が響いた。
直後。
「静かにしてください!」
少し離れた場所から聞き慣れた声が飛んできた。
「――!」
凌華の身体が固まる。
『ハハハハハ!』
「孫策のせい!」
「誰の?」
「…………」
暗がりから。
陸議がこちらへ歩いてくる。
凌華の顔が引きつった。
――終わった。
「まだ起きていたのですか?」
「ちょっと夜風を」
「明日は早いです」
「はい……」
陸議が凌華の顔を見る。
しばらく。
じっと。
「何か不安でも?」
「…………」
また見抜かれた。
凌華は諦めたように肩を落とす。
「少しだけ」
すると。
「話しますか?」
「…………え?」
思わず陸議の顔を見た。
「陸議さんが?」
「私では不満ですか?」
「違います」
凌華は少し迷った。
それから自分の隣を示す。
「……座ります?」
「ええ」
陸議は凌華の隣へ腰を下ろした。
二人の間には。
人一人分ほどの距離がある。
近すぎず。
遠すぎない。
今の二人にはそれくらいがちょうどよかった。
しばらく二人とも何も言わず夜空を見ていた。
やがて。
「陸議さん」
「はい」
「もし」
凌華は。
慎重に言葉を選ぶ。
「未来に悪いことが起きるって分かってたら」
一度。
息を吸った。
「止めますか?」
陸議はすぐには答えなかった。
問いの意味を考えるように僅かに視線を落とす。
「内容によります」
「誰かが死ぬとか」
今度は口に出すのにそれほど迷わなかった。
「救えるなら救います」
凌華が陸議を見る。
けれど彼は続けた。
「でも。その結果、より多くの人が死ぬと分かっているなら」
「…………」
「迷うでしょうね」
凌華は視線を落とした。
やっぱり簡単ではない。
「もし正解が分からなかったら?」
「それでも選ぶしかありません」
「怖くないですか?」
「怖いです」
また。
その答えだった。
人を斬ることを尋ねた時も陸議はそう言った。
怖くないわけではない。
「でも」
陸議は夜空へ視線を向ける。
「選ばないことも、一つの選択です」
「…………」
凌華の表情が止まった。
「何もしなかった結果も、自分が引き受けることになる」
その言葉が胸の奥へ深く刺さった。
未来を変える、変えない、どちらを選んでも結果は残る。何もしなかったから、自分には責任がない。
そんなふうにはきっと考えられない。
「だから私は」
陸議は静かに続ける。
「分からなくても、その時最善だと思うことを選びます」
「……間違ってたら?」
「次を考えます」
「そんな簡単に?」
「簡単ではありません」
陸議がほんの少し笑った。
「ですが、未来が見えないのは皆同じでしょう」
「…………」
凌華の胸が締めつけられた。
――違う。
自分だけは少しだけ、未来を知っている。
だから選択することがこんなにも苦しい。
「……陸議さん」
「はい」
「もし私が」
言いかける。
今なら言えるだろうか。
私は。
未来から来た。
あなたのことを知っている。
孫策が死ぬことも。
呂蒙が死ぬことも。
そして。
あなたが。
陸遜という名で後世に残ることも。
全部ではない。
それでも。
あなたたちが知らない未来を。
私は知っている。
「…………」
けれど言葉は喉の奥で止まった。
「何です?」
陸議が待っている。
凌華はゆっくり首を横に振った。
「……何でもないです」
陸議は少しだけ凌華を見た。
「またそれですか」
「ごめんなさい」
責める声ではなかった。
「いつか話してください」
「……はい」
凌華は小さく答えた。
その“いつか”が本当に来ればいい。
いつかこの人に。
全部話せる日が来ればいい。
そう思った。
***
翌朝。
まだ空気に冷たさが残るうちに、一行は宿営地を発った。
昨日と同じように。
街道を進んでいく。
けれど昼前、前方から一騎の馬が猛烈な勢いで駆けてきた。
蹄が地面を叩き土埃が大きく舞い上がる。
兵たちの空気が変わった。
「陸議殿!」
馬上の兵が叫ぶ。
陸議が手綱を引き。
馬を止める。
「どうした!」
「孫将軍より伝令です!」
兵は馬から降りると急いで一通の書状を差し出した。
陸議が受け取りその場で開く。
凌華は少し離れたところから見ていた。
文字を追っていた陸議の表情が僅かに変わる。
「……呂蒙殿」
「何だ」
「予定を変更します」
その言葉だけで凌華の胸がざわついた。
「何かあったんですか?」
陸議は一瞬だけ凌華を見た。
話すべきか。
迷ったように見えた。
それでも。
「付近で反乱勢力の動きが確認されました」
「反乱……」
「孫将軍の軍と合流します」
その瞬間。
凌華の心臓が一段強く鳴った。
――戦。
模擬戦ではない。
稽古でもない。
本物の戦がすぐ近くで起ころうとしている。
「凌華」
陸議がこちらを見る。
その表情はいつもの稽古中よりもずっと厳しかった。
「約束を覚えていますね」
「……はい」
「絶対に私の側を離れないこと」
「はい」
「勝手に戦わない」
「……はい」
「返事が遅い」
「はい!」
呂蒙が横で笑った。
「大丈夫だ陸議! 俺も見といてやる!」
「あなたが一番信用できません」
「何だと!?」
いつもなら笑えるやり取り。
けれど周囲の空気は明らかにさっきまでとは違っていた。兵たちの顔から笑みが消えている。
腰の武器を確かめる者。
馬具を締め直す者。
互いに短く声を掛け合う者。
鞘と金具が触れ合う硬い音があちこちから聞こえる。
凌華は自分の腰へ手を伸ばした。
二振りの短剣、指先が僅かに震えている。
『怖えか』
孫策の声がした。
凌華は正直に答えた。
「……うん」
『逃げてもいいぞ』
「逃げない」
『即答かよ』
「でも」
凌華はゆっくり息を吸った。
震える指で短剣の柄を握る。
「勝手には戦わない」
一瞬の沈黙。
それから。
『成長したな』
「一応ね」
怖い。
それでも。
今度は。
一人で何も分からないまま戦うわけではない。
凌華は顔を上げた。
陸議たちとともに。
孫策軍のいる場所へ向かった。
***
その日の夕方。
凌華たちは。
ようやく孫策軍の宿営地へ到着した。
「…………」
凌華は。
思わず馬上で息を呑んだ。
これまで見てきた小さな宿営地とは規模がまるで違う。
数え切れないほどの兵が行き交っている。
風を受け。
高く掲げられた旗が音を立てて翻る。
何頭もの馬が繋がれ、兵たちは武器を運び、荷を動かしあちこちから命令の声が飛んでいる。
鉄。
革。
土。
焚かれた火。
様々な匂いが。
風に混ざって鼻へ届く。
――これが。
軍。
凌華が圧倒されているとその喧騒の中央から。
「おう! 来たか!」
聞き覚えのある声が響いた。
凌華の視線が自然とそちらへ向く。
大勢の兵の中、一人の男がこちらへ歩いてくる。
孫策。
生きている孫策が。
以前と変わらない笑顔を浮かべていた。
「凌華まで来たのか!」
「……来ました」
「陸議、よく許したな!」
陸議の表情が僅かに険しくなる。
「許していません」
「え?」
「勝手についてきました」
「おい!」
孫策が一瞬呆気に取られ。
直後。
大声で笑った。
「やっぱ面白えな、お前!」
「笑い事じゃありません!」
凌華が抗議する。
けれど。
その途中で。
ふと。
視線が止まった。
孫策のすぐ近く。
一人の青年が立っている。
「…………」
長身。
整った姿勢。
周囲が騒がしい中でも、その青年だけは不思議なほど静かに見えた。
孫策のような。
その場すべてを巻き込むような勢いはない。
けれど。
落ち着いた佇まいの中に自然と目を引く何かがある。凌華はその顔を知らない。
現代で肖像画や創作の姿を見たことはあっても。
それが本人の顔であるはずがない。
それでも。
胸がざわついた。
孫策の隣。
対等に近い距離。
親しげな空気。
そして。
この時代。
この場所。
「……あ」
一人しか。
思い当たらない。
「……まさか」
青年が凌華の視線に気づいた。
ゆっくり。
こちらを見る。
その瞬間。
孫策も二人の様子に気づいた。
「そういや紹介してなかったな!」
凌華の心臓が大きく鳴る。
嫌な予感ではない。
怖いわけでもない。
それでも。
次に出てくる名前を。
もう。
分かってしまった。
孫策が青年の肩を叩く。
「こいつは俺の親友だ!」
青年が少し困ったように笑った。
「孫策、それでは紹介になっていない」
穏やかな声だった。
落ち着いていてどこか知的な響きがある。
孫策は気にした様子もなく。
豪快に笑う。
「周瑜だ!」
「…………」
凌華の呼吸が止まった。
「字は公瑾」
その名前が。
耳から入った瞬間。
現代で読んだ無数の文字が。
一気に頭の中へ蘇った。
――周瑜。
孫策の親友。
孫権を支えた将。
赤壁。
そして。
あまりにも早い死。
「……周瑜」
気づけば名前を口にしていた。
青年――周瑜が。
僅かに首を傾げた。
「私をご存じですか?」
「…………」
凌華は答えられなかった。
また。
同じだった。
名前を聞いた瞬間。
目の前の人間が。
どんなふうに笑う人なのか。
何が好きなのか。
何を大切にしているのか。
まだ。
何も知らないのに。
自分だけがその最期を知っている。
孫策が死ぬ。
周瑜も。
呂蒙も。
そして。
ずっと先には。
陸遜も。
歴史の中で。
誰もが。
いつか死んでいく。
そんな当たり前のことが。
今は。
恐ろしいほど重かった。
「凌華?」
すぐ近くから陸議の声が聞こえた。
凌華ははっと我に返った。
目の前には。
不思議そうに自分を見ている周瑜がいる。
まだ。
何も起きていない。
今。
この人は。
生きている。
凌華は。
どうにか口元を緩めた。
「……初めまして」
少しだけ頭を下げる。
「凌華です」
周瑜も穏やかに笑った。
「周瑜です。よろしく」
「…………」
その笑顔を見た瞬間。
凌華の胸に新しい感情が生まれた。
――この人も。
死なせたくない。
孫策だけではない。
呂蒙にも。
長生きしてほしいと思った。
そして。
今。
初めて会った周瑜にまで。
同じことを思ってしまった。
一人を救えれば。
それで終わると思っていたわけではない。
それでも。
未来を知る人間として。
誰か一人の運命にだけ抗えばいいのだと。
どこかで考えていたのかもしれない。
けれど。
史書に記された名前が。
一人。
また一人と。
目の前で生きた人間へ変わっていくたび。
その考えは。
少しずつ崩れていく。
――一人を救うだけでは。
足りない。
そんな。
あまりにも大きな願いが。
この時。
初めて凌華の胸に芽生えてしまった。
腰に下げられた長剣の中で。
孫策が。
深く息を吐く。
『……始まったな』
「え?」
凌華が小さく反応する。
けれど。
『何でもねえ』
それ以上。
孫策は何も言わなかった。
凌華が知っている三国志は。
この時点では、まだ史書に記された流れから何一つ外れていない。
孫策は生きている。
周瑜も。
呂蒙も。
そして陸議も。
彼らはまだ。
自分たちに待つ未来を知らないまま、それぞれの今を生きている。
けれど。
その歴史のただ中に、本来なら存在するはずのなかった一人の少女が。
今。
確かに立っている。
未来を知りながら。
目の前で生きる人たちを、史書に書かれた通りに死なせたくないと願い始めた少女が。
その存在が。
これから何を変えるのか。
凌華自身にも。
まだ分からない。
歴史は今も。
彼女が知っている道の上を進んでいる。
けれど。
その流れの中へ落とされた小さな一石は。
すでに。
静かに波紋を広げ始めていた。
――第九話・了




