第八話 その名は呂蒙
「――そこ!」
凌華が地面を強く蹴った。
右手に握った短剣を振り抜く。
けれど、その刃が陸議へ届くより早く。
カンッ!
乾いた音が庭に響いた。
陸議の木剣が下から正確に短剣を捉え、凌華の右腕を外側へ弾く。
「わっ!」
予想以上の衝撃に、凌華の身体がぐらりと傾いた。
少し前までなら。
そのまま尻餅をついていただろう。
けれど。
「……っ!」
左足を横へ踏み出す。
地面をしっかり踏みしめ、崩れかけた身体を支える。
そのまま左手に残ったもう一本の短剣を、陸議へ向けた。
「……!」
陸議が僅かに目を見開く。
その反応を。
凌華は見逃さなかった。
――今。
驚いた。
ほんの少しだけれど。
自分の動きが陸議の予想を外れた。
それが嬉しくて。
「……行ける!」
凌華はもう一度踏み込んだ。
左の短剣を振る。
陸議が半歩ずれてかわした。
なら。
右。
「やっ!」
身体を捻り、右手の短剣を振り抜く。
カンッ!
今度も木剣に受け止められた。
けれど。
さっきより近い。
「もう一回!」
凌華が勢いよく構え直そうとする。
「待ってください」
「まだいけます!」
「凌華」
「はい」
「後ろ」
「……後ろ?」
何だろう。
凌華は言われるまま、一歩下がった。
その瞬間。
踵が何か硬いものへ引っかかった。
「……え?」
身体が傾いた。
立て直そうと腕を動かす。
間に合わない。
どさっ。
「…………」
「…………」
さっきまで短剣と木剣の音が響いていた庭が。
不自然なほど静かになった。
地面へ座り込んだ凌華と。
木剣を持った陸議。
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
その沈黙を。
『ハハハハハハ!!』
盛大な笑い声がぶち壊した。
腰元の長剣から聞こえてくる、遠慮というものを一切知らない大爆笑。
凌華の眉が引きつった。
「……うるさい」
『今の見たか!? あんだけ格好つけて最後石につまずくとか!』
「黙れ!」
思わず怒鳴る。
すると。
陸議が不思議そうに凌華を見下ろした。
「誰に怒っているのです?」
「石です!」
「石に?」
「腹が立ったので!」
陸議は凌華ではなく。
足元へ転がっている小さな石を見た。
「石は何もしていませんが」
「陸議さんまで!」
『こいつ面白えな』
「あなたが言うな!」
「……?」
しまった。
凌華は慌てて口を押さえた。
陸議がこちらをじっと見ている。
以前なら「今、誰と話していたのです?」と聞かれていたところだが。
最近は。
もう何度目か分からない。
陸議は何か言いたそうに口を開きかけ。
結局、諦めたように小さく息を吐いた。
「とにかく」
木剣を持っていない方の手を、凌華へ差し出す。
「立てますか?」
「はい」
凌華はその手を取った。
指先が触れる。
陸議の手に力が入り、凌華の身体が軽く引き起こされた。
「ありがとうございます」
立ち上がって。
手を離そうとする。
そのはずだった。
けれど。
「…………」
一瞬だけ。
指が止まった。
握られた手が。
思っていたより温かかった。
「凌華?」
「あ、何でもないです」
我に返った凌華は、慌てて手を離した。
なぜか。
胸の奥が少しだけ変だった。
鼓動がいつもより速いような気がする。
――たぶん。
運動したからだ。
きっとそうだ。
『ほー』
腰元から。
妙に含みのある声が聞こえた。
「…………」
凌華は無言で長剣を睨む。
『ほー?』
凌華の眉間に皺が寄った。
すると。
『何も言ってねえだろ』
――腹が立つ。
ものすごく腹が立つ。
***
剣術の修行を始めてから、しばらく経った。
最初は庭を走るだけで息を切らし。
足運びを直され。
姿勢を直され。
短剣を握らせてもらっても、構えるだけで一日が終わった。
それでも。
少しずつ。
本当に少しずつではあるけれど。
凌華は剣を持つことそのものを、以前ほど怖がらなくなっていた。
もちろん。
すべてが消えたわけではない。
眠れば今でも時折、夢を見る。
刃に血が付いている。
手を洗っても。
何度擦っても。
赤い色が落ちない。
そんな夢。
稽古中に強い金属音が響けば、反射的に肩が強張ることもある。
刃先が自分へ向けられれば、村で襲われた時の記憶が一瞬だけ蘇ることもあった。
それでも。
二振りの短剣だけは。
少し違った。
凌華は自分の手の中にある二つの刃を見る。
これは。
あの日、人を斬った剣ではない。
陸議が自分のために選んでくれたもの。
そして。
誰かに強制されたわけではなく。
自分の意思で持つと決めた武器。
だから。
まだ怖くても。
握ることができる。
「今日はここまでです」
陸議の声に。
凌華は顔を上げた。
「もう?」
「二刻近くやっています」
「……そんなに?」
驚いて空を見る。
稽古を始めた時より、太陽はずいぶん高い位置まで昇っていた。
「集中すると時間を忘れる癖がありますね」
「昔からです」
そう答えながら。
凌華の頭に、ふと現代の記憶が浮かんだ。
卒論の資料を読み始めて。
気づけば何時間も経っていたこと。
そこまで考えたところで。
胸の奥が、小さく痛んだ。
「…………」
今。
向こうはどうなっているのだろう。
大学は。
家族は。
自分は。
あの資料展で死んだことになっているのだろうか。
それとも。
時間そのものが止まっているのか。
何一つ分からない。
「どうしました?」
陸議の声で現実へ引き戻された。
「……何でもないです」
凌華は笑って誤魔化した。
最近。
この言葉ばかり使っている気がする。
陸議もそれ以上は追及しなかった。
話したくないなら、無理に聞かない。
彼はいつもそうだった。
それが。
ありがたくて。
同時に。
ほんの少しだけ寂しかった。
――いつか。
話せるだろうか。
自分が。
千八百年以上も先の未来から来たことを。
その未来で。
彼の名前を知っていたことを。
***
昼を少し過ぎた頃。
陸家の屋敷に。
突然、大きな声が響いた。
「おい!」
庭にいた凌華が、びくりと肩を揺らす。
「陸議はいるか!」
よく通る男の声が、屋敷の入口から聞こえてくる。
凌華はそちらを振り返った。
「……また孫策?」
『俺じゃねえ』
「分かってる」
『俺も孫策だぞ』
「もうそれ面倒くさい」
『何だと?』
そんな会話をしているうちに。
声の主が庭へ姿を現した。
凌華は長剣との会話を止め、男を見る。
精悍な顔立ち。
日に焼けた肌。
鍛えられた身体つき。
身に着けているものは、孫策のように人目を引くものではない。
けれど。
歩き方。
周囲へ向ける視線。
身体の重心。
戦うことに慣れている人間なのだと、今の凌華にも何となく分かった。
男もすぐに凌華へ気づいた。
「ん?」
視線が凌華の顔へ向く。
そして両腰の二振りの短剣、腰に下げられた長剣へと動く。
最後に。
もう一度、凌華の顔へ戻ってきた。
「お前が例の女か?」
「…………」
凌華の肩が落ちた。
また。
その呼び方。
「例の女って呼ばれてるの私?」
『有名人だな』
「嬉しくない」
男は豪快に笑った。
「聞いたぞ。賊を一人で斬ったって」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
凌華の表情が固まった。
胸の奥が。
ひやりと冷える。
「あ……」
男も。
凌華の変化にすぐ気づいた。
さっきまでの笑顔が消える。
「……悪い」
短い。
けれど。
迷いのない謝罪だった。
凌華は一度、ゆっくり息を吸った。
「…………」
大丈夫。
以前ほどではない。
あの出来事を言葉にされても。
すぐに呼吸ができなくなるほどではなくなった。
「大丈夫です」
完全に大丈夫ではない。
それでも。
今はそう答えられた。
凌華は姿勢を正す。
「凌華と申します」
「おう」
男が笑った。
「呂蒙だ」
「…………」
凌華の動きが止まった。
男は気にせず続ける。
「字は子明」
「…………」
数秒。
凌華は完全に固まっていた。
「……え?」
『また固まってるぞ』
孫策の声で、ようやく我に返る。
「だって……」
――呂蒙。
本物。
関羽攻略で大きな役割を果たした男。
孫権に仕え。
そして。
陸遜とも深く関わっていく人物。
歴史の授業でも、卒論の資料でも、何度も読んだ名前。
しかし凌華の頭に浮かんだのは、その功績だけではなかった。
この人も。
死ぬ。
さっきまで僅かに浮かんでいた凌華の笑みが。
ゆっくり消えていく。
「……何だ?」
呂蒙が怪訝そうに自分の顔へ触れた。
「俺の顔に何か付いてるか?」
「……いえ」
凌華は首を横に振る。
まただ。
孫策に会った時もそうだった。
目の前に生きている人間がいるのに。
自分の頭にはその人の死が浮かんでしまう。
これからも。
ずっと。
そうなのだろうか。
陸遜。
孫策。
呂蒙。
自分は知っている名前に出会うたび、その人がどんなふうに生きるかより先に。
――この人はいつ死ぬ。
そんなことを考えてしまうのだろうか。
嫌だ。
『凌華』
長剣の中から孫策が呼んだ。
その声で。
凌華は目の前の呂蒙を見る。
史書ではない。
今。
自分を不思議そうに見ている。
生きている人間。
「……大丈夫」
自分へ言い聞かせるように、小さく呟いた。
呂蒙が首を傾げる。
「何が?」
「こっちの話です!」
「変な奴だな!」
呂蒙が豪快に笑う。
凌華は思わず苦笑した。
「孫策にも言われました……」
「将軍に会ったのか?」
「この前」
「気に入られたろ」
「何で分かるんですか?」
「将軍、変な奴好きだからな!」
「私は変じゃない!」
凌華は思わず言い返して口を閉じる。
そして目の前で豪快に笑っている呂蒙をチラッと盗み見る。
――この人も。
史書の中とは違う。
ちゃんと。
生きている。
***
「お前、二刀使うのか?」
呂蒙の視線が、凌華の短剣へ向いた。
「まだ練習中です」
「見せてみろ」
「え?」
「俺が相手してやる」
「いやいやいや」
凌華は反射的に一歩下がった。
「無理です」
「何でだ?」
「呂蒙さんと戦うとか無理」
口から出て。
凌華は固まった。
呂蒙の眉が上がる。
「俺を知ってんのか?」
「あ」
またやった。
呂蒙の目が少し細くなった。
「さっきも名前聞いて驚いてたな」
「……有名だから」
「俺が?」
凌華は言葉に詰まった。
今の時点では。
たぶん。
後世ほど名を知られているわけではない。
「将来有望そうだから」
「何だそりゃ!」
呂蒙が腹を抱えて笑う。
『お前、誤魔化すの下手すぎる』
「うるさい」
「だから誰と話してんだ?」
「自分です!」
「本当に変な奴だな!」
そこへ。
「呂蒙殿」
落ち着いた声が割って入った。
凌華が振り返る。
廊下の向こうから陸議が歩いてくる。
「勝手に人の客人へ稽古をつけないでいただけますか」
「陸議!」
呂蒙が楽しそうに笑った。
「いいところに来た」
「嫌な予感しかしません」
「こいつ借りるぞ」
「駄目です」
即答だった。
「まだ何も言ってねえぞ!」
「どうせ模擬戦でしょう」
「何で分かった?」
「あなたの考えることは大体分かります」
凌華は二人を交互に見た。
呂蒙は楽しそうに笑い、陸議は呆れた顔をしている。
けれど。
本当に嫌がっているようには見えない。
「……仲いいんですね」
「そう見えますか?」
陸議が言う。
「見える」
すると。
呂蒙が豪快に笑った。
「見る目がねえな!…仲良しじゃねえ」
「じゃあ?」
凌華が尋ねる。
呂蒙は少しだけ笑みを変えた。
そして。
「戦友だ」
その言葉を聞いて。
凌華は僅かに目を細めた。
――戦友。
これから。
この二人は同じ呉の中で戦っていく。
自分はその先を知っている。
けれど。
今は。
そんな未来の知識とは関係なく。
その言葉が。
妙に好きだと思った。
***
結局。
どういうわけか。
模擬戦をすることになった。
「どうしてこうなったの……」
庭の中央。
凌華は二振りの短剣を構えていた。
正面には。
呂蒙。
さすがに真剣ではなく。
手には稽古用の木製の武器が握られている。
「安心しろ!」
呂蒙が笑う。
「何を?」
「死なねえ程度にやる!」
「全然安心できない!」
『ハハハ! いいぞ子明!』
「そっち応援するの!?」
『面白そうだからな』
「最低!」
そんな凌華へ。
横から陸議の声が飛ぶ。
「凌華」
「はい」
凌華はすぐに表情を戻した。
「勝とうとしなくていい」
「え?」
「今まで覚えたことだけしてください」
凌華は二振りの短剣へ視線を落とした。
「……はい」
「それと」
「はい」
陸議は凌華の腰にある長剣へ一度だけ視線を向けた。
「長剣の動きを使わないこと」
「…………」
凌華の表情が変わった。
――やっぱり。
見抜かれている。
孫策から身体へ流れ込む。
自分が習ったことのない動き。
あれではなく。
陸議から教わったことだけで戦え。
そういう意味だ。
「分かりました」
凌華はゆっくり息を吐いた。
正面では。
呂蒙が構えを取る。
先ほどまで笑っていた男の空気が。
一瞬で変わった。
「来い!」
凌華は息を吸う。
怖い。
目の前に武器を持った人間がいる。
その事実だけで。
身体の奥に残る記憶が騒ぎ出す。
でも。
違う。
これは。
あの村ではない。
呂蒙は自分を殺そうとしていない。
これは稽古。
右。
左。
足。
肩の力を抜く。
陸議に教わったことを、一つずつ頭の中で確かめる。
「――行きます!」
地面を蹴った。
右の短剣。
受けられる。
すぐ左。
かわされる。
――速い。
「おっ」
呂蒙が楽しそうに笑う。
「悪くねえ!」
「まだ!」
凌華は止まらない。
呂蒙の正面から外れるように回り込む。
右手を大きく動かす。
囮。
狙うのは。
左。
けれど。
呂蒙の武器が簡単にそれを受け止めた。
「いいな!」
直後。
反撃が来る。
「――っ!」
凌華は慌てて後ろへ下がった。
木製とはいえ。
まともに受ければ痛い。
――危ない。
そう思った瞬間。
身体の奥で。
何かが動こうとした。
自分が考えるより先に。
足が右へ踏み出そうとする。
村で。
何度も感じた感覚。
『右へ踏め』
孫策の声が聞こえた。
その通り動けばきっと避けられる、しかし凌華は動かなかった。
「……違う」
『あ?』
「今日は私でやる」
『…………』
孫策が黙る。
呂蒙が再び迫ってくる。
怖い。
どうすればいい。
分からない。
それでも。
凌華は逃げずに見た。
肩。
腰。
足。
――相手の身体を見ろ。
陸議に何度も教えられた。
武器だけを見るな身体の動きを見れば。
次が分かる。
呂蒙の肩が動く。
腰が捻られる。
――来る。
「……ここ!」
凌華は自分で決めた方向へ踏み込んだ。
呂蒙の攻撃が。
身体すれすれを通り過ぎる。
避けた。
自分で。
「――っ!」
そのまま左手を動かす。
短剣の先が。
呂蒙の脇腹へ向かう。
届く。
そう思った瞬間。
「甘い!」
「え?」
次の瞬間。
視界がぐるりと回った。
何をされたのか理解するより早く。
「わっ!」
背中から地面へ転がる。
どさっ。
「痛ったぁ……!」
空が見えた。
完全に負けた。
「そこまで」
陸議の声が響く。
凌華は仰向けになったまま大きく息を吐いた。
呂蒙がこちらを覗き込む。
「惜しかったな!」
「全然惜しくない……」
「いや」
呂蒙が手を差し出す。
「最後のは良かった」
凌華はその手を見る。
「本当?」
「ああ」
手を取る。
ぐっと引かれ。
凌華は立ち上がった。
「ただし」
「はい」
呂蒙がにっと笑う。
「弱い!」
「…………」
数秒。
沈黙。
直後。
『ハハハハハ!!』
孫策の大爆笑が響いた。
「分かってるよ!!」
凌華が怒鳴る。
呂蒙も腹を抱えて笑っている。
そして、ふと陸議を見ると。
彼もほんの少しだけ口元を緩めていた。
「陸議さんまで!」
「事実ですから」
「二人とも嫌い!」
そう言いながら凌華自身もいつの間にか笑っていた。
負けた。
完敗だった。
身体も痛い。
悔しい。
それでも不思議なくらい楽しかった。
初めてだった剣を持って戦うことを怖かった記憶ではなく、自分自身の経験として終えられたのは。
***
その夜。
「楽しかった」
寝台の上へ座りながら凌華はぽつりと呟いた。
枕元には二振りの短剣。
その少し離れたところには長剣が置かれている。
『ボロ負けだったけどな』
「楽しかったの!」
『はいはい』
凌華は頬を膨らませる。
けれど、すぐに短剣へ視線を落とした。
「でも」
二振りを手に取る。
昼間、自分で踏み込んだ感覚がまだ身体に残っている。
「私だけで動けた」
『…………』
「あなたの力、借りなかった」
少しの沈黙。
それから。
『そうだな』
その返事を聞いて凌華は長剣を見た。
「怒ってる?」
『なんでだよ』
「必要とされなくなるから」
一瞬。
孫策が黙った。
その沈黙に。
凌華は少し不安になる。
けれど。
『馬鹿』
「何よ」
『そのために教えてんだろ』
「……え?」
思っていなかった言葉だった。
孫策の声はいつものように乱暴で。
けれど。
どこか優しかった。
『俺がいなくても戦えるようになれ』
「…………」
凌華は長剣を見つめた。
なぜだろう。
その言葉が。
まるで。
いつか自分がいなくなることを前提にしているように聞こえた。
「孫策」
『ん?』
「あなた、いつかいなくなるの?」
『…………』
返事がない。
胸の奥に。
小さな不安が生まれる。
「ねぇ」
『寝ろ』
「またそれ」
凌華は頬を膨らませた。
孫策は。
もう答えなかった。
けれど。
眠りにつくまで。
その言葉だけが。
ずっと胸の奥に残っていた。
――俺がいなくても戦えるようになれ。
***
それから数日後。
呂蒙は再び陸家を訪れた。
けれど前回とは明らかに様子が違っていた。
「陸議」
声にいつもの豪快な明るさがない。
「将軍からだ」
差し出されたのは一通の書状だった。
陸議が受け取りその場で開く視線が文字を追っていくにつれその表情が少しずつ引き締まっていった。
凌華は少し離れたところから二人の様子を見ていた内容は分からない。
それでも胸の奥がざわざわする。
嫌な予感がした。
「何があったんですか?」
凌華が尋ねる。
陸議が書状から顔を上げた。
「孫将軍が、我々を呼んでいます」
「……我々?」
「私と呂蒙殿です」
凌華の胸がざわつく。
「どこへ?」
陸議が地名を告げる。
凌華はその名を聞いた瞬間。
頭の中にある記憶を必死に探した。
孫策。
この時期。
この場所。
歴史上では。
何が起きる?
けれど。
すぐには繋がらない。
細かな年月までは覚えていない。
だからこそ。
怖かった。
「私も行きます」
考えるより先に言葉が口から出ていた。
「駄目です」
陸議は即答した。
「どうして?」
「遊びではありません」
「分かってます」
「危険があります」
「だからです」
「凌華」
陸議の声が低くなる。
それでも。
凌華は退かなかった。
「私――」
言いかけて。
止まる。
――未来を知っている。
だから何か起きる前に孫策の近くにいたい。
そう言えればどれほど楽だろう。
けれど言えるはずがない。
「……役に立てるかもしれない」
苦し紛れにそれだけを言った。
「何を根拠に?」
陸議の問いに凌華は答えられない。
沈黙が落ちる陸議の目が厳しくなった。
「今回は残ってください」
「でも!」
「駄目です」
「陸議さん!」
「これは命令です」
凌華の動きが止まった。
「……命令?」
「あなたはまだ兵ではありません」
言い返そうとして言葉が出なかった。
正論だった。
「戦場へ連れていく理由がない」
「…………」
悔しい。
けれど何一つ反論できない、凌華は唇を噛んだ。
そんな二人の間で呂蒙が困ったように頭を掻いた。
「まあまあ」
「呂蒙さんは黙ってて」
「俺、巻き込まれただけなんだが!?」
凌華は両手を強く握る。
「……分かりました」
陸議の表情から。
ほんの少しだけ力が抜けた。
「では――」
「勝手についていきます」
「凌華」
「命令される立場じゃないので!」
言い切るなり凌華は踵を返した。
「待ちなさい!」
後ろから陸議の声が飛ぶ。
けれど。
凌華はそのまま走った。
「おい!」
背後で呂蒙の笑い声が響く。
「面白え女だな!」
「笑い事ではありません!」
陸議の声まで聞こえてくる。
凌華は走りながらその声を聞いた。
泣きそうになりながら、それでもこの2人のやり取りを愛しむように。
***
その夜。
凌華は自分の部屋で必要最低限の荷物をまとめていた。
衣服。
水。
持てるだけの食料。
何が必要なのかもまだよく分からない。
それでも行くと決めた。
『本気か?』
長剣から声がする。
「本気」
凌華は荷物をまとめる手を止めない。
『陸議に怒られるぞ』
「知ってる」
『危ねえぞ』
「知ってる」
少し間があった。
そして。
『死ぬかもしれねえ』
その言葉に凌華の手が止まった。
「…………」
怖い。
当然だった。
村で死ぬ恐怖は知った。
刃が自分へ向けられる恐怖も。
人を斬る感触も。
もう。
何も知らなかった頃には戻れない。
それでも。
「孫策の近くに行きたい」
『…………』
「歴史が動き始めてる」
自分の記憶が正しいのなら。
生きている孫策に残された時間は。
決して無限ではない。
いつ。
何が起きるのか正確には分からない。
だから余計に遠くにいることが怖い。
「遠くにいたら何もできない」
『……そうか』
凌華は少し意外そうに長剣を見る。
「止めないの?」
『止めても行くだろ』
「うん」
即答した。
孫策が小さく息を吐いたような気がした。
『なら一つだけ約束しろ』
「何?」
短い沈黙。
『死ぬな』
凌華は目を瞬いた。
そして。
少しだけ笑った。
「それだけ?」
『それだけだ』
「分かった」
長剣を腰へ差す。
続いて。
二振りの短剣を身につける。
荷物を手元へ引き寄せ。
凌華は深く息を吸った。
自分は歴史を知っているだけの大学生だ。
まだ弱い。
怖い。
迷ってばかりいる。
未来を変える方法なんて何一つ知らない。
それでも。
本当に未来を変えたいのなら。
安全な場所から。
史書に書かれた出来事を眺めているだけでは駄目だ。
***
翌朝。
まだ朝靄が地面近くに残る頃。
陸家の門前に、出立の準備を整えた一行が集まっていた。
馬が鼻を鳴らし。
兵たちが荷を確認する。
やがて。
陸議と呂蒙を中心にした一行が動き始めた。
蹄の音が。
少しずつ陸家から遠ざかっていく。
そして。
その後方。
かなり距離を空けた場所に。
一人の人影があった。
「……よし」
旅装を整えた凌華だった。
物陰から顔を出し。
遠ざかっていく一行を確認する。
『全然隠れられてねえぞ』
腰元から。
呆れた声が聞こえた。
「静かに!」
『俺の声はお前にしか聞こえねえよ』
「分かってる!」
『もうバレてると思うぞ』
「そんなわけ――」
凌華が顔を上げた。
前方進んでいた一行が止まっている。
正確には。
一頭の馬だけが止まっていた。
その馬上で陸議がこちらを見ていた。
真っ直ぐに。
「…………」
「…………」
距離はある。
それでも完全に目が合った。
『ほらな』
「…………」
陸議が馬から降りた。
手綱を近くの兵へ渡す。
そして。
こちらへ向かって歩いてくる。
一歩。
また一歩。
凌華は逃げようかと思った。
けれど逃げたらもっと怒られる気がする。
「…………」
――怖い。
賊より。
ちょっと怖い。
やがて陸議が凌華の目の前で止まった。
「凌華」
「……おはようございます」
何事もなかったように挨拶してみる。
陸議の表情は変わらない。
「何をしているのです?」
「散歩です」
「荷物を持って?」
「長めの散歩」
陸議の視線が凌華の腰へ落ちる。
「武器も?」
「物騒な時代なので」
「…………」
「…………」
沈黙。
遠くから。
ぶふっ。
誰かが吹き出した。
次の瞬間。
「ハハハハハ!!」
呂蒙が馬上で腹を抱えて笑っていた。
「呂蒙さん笑わないで!」
「いや、無理だろ!」
陸議が深く息を吐いた。
「戻りなさい」
「嫌です」
「凌華」
「連れていってください」
「駄目です」
「お願いします」
「駄目――」
「陸議さん」
それまで。
どうにか誤魔化そうとしていた凌華の声が変わった。
陸議が止まる。
凌華は。
真っ直ぐ彼を見た。
「私、何もできないまま待つ方が怖い」
「…………」
「また誰かが死んだって聞くの」
声が少しずつ小さくなる。
村で自分が知らないところでも人は死んだ。
助けられなかった人がいた。
そして今。
自分は。
これから死ぬかもしれない人を知っている。
「もう嫌なんです」
陸議は何も言わず凌華を見つめていた。
長い沈黙だった。
朝の風が。
二人の衣を揺らす。
やがて陸議が小さく息を吐いた。
「……私の側を離れないこと」
「え?」
凌華が顔を上げる。
「勝手に動かない」
「…………」
「危険だと判断したら、必ず退く」
言葉の意味を理解した瞬間。
凌華の顔が明るくなった。
「じゃあ!」
「約束できますか?」
「できます!」
『絶対嘘だな』
「うるさい!」
反射的に長剣へ怒鳴る。
陸議の眉が動いた。
「何がです?」
「あ」
凌華の顔が固まる。
数秒考え。
「気合いです!」
「…………」
陸議は無言で額を押さえた。
少し離れたところでは呂蒙が再び腹を抱えて笑っている。
凌華は気まずそうに笑いながら。
それでも。
陸家の門の外へ目を向けた。
そこにはこれまで歩いたことのない道が続いていた。
この時代へ来てから凌華にとって陸家は、初めて安心して眠ることのできた場所だった。
陸議に守られ。
剣を学び。
少しずつ食事を取れるようになり、ようやく笑うこともできるようになった場所。
その安全な場所を。
今。
初めて自分の意思で離れようとしている。
向かう先には生きている孫策がいる。
そして凌華が書物の中でしか知らなかった歴史が。
これから現実として起ころうとしている。
何が待っているのかは分からない。
自分の知識が、どこまで役に立つのかも分からない。
未来を変えたいと願ったところで本当に変えられる保証など、どこにもない。
それでも。
凌華はもう。
遠い未来から歴史を眺めているだけの人間ではなかった。
昨日まで史書の中にいた人たちは。
今では。
目の前で笑い。
怒り。
自分の名前を呼ぶ。
だからこそ。
彼らに何かが起きると知りながら、安全な場所で待っていることはできなかった。
凌華は腰に差した二振りの短剣へ、そっと手を添えた。
まだ強くはない。
陸議にも。
呂蒙にも。
到底敵わない。
それでもこれは自分で選んだ一歩だった。
凌華は顔を上げる朝靄の向こうへ続く道を。
陸議たちの一行が、ゆっくりと進み始める。
凌華も。
その後を追って歩き出した。
こうして彼女は。
自分を守ってくれていた陸家を離れ。
初めて。
歴史が動いている場所へ向かうことになる。
史書を読む側ではなく。
その中で生きる一人として。
凌華は少しずつ。
自分が知っているはずの歴史の中へ、足を踏み入れ始めていた。
――第八話・了




