第七話 二人の孫策
それから数日後。
陸家の朝は、いつもとは明らかに様子が違っていた。
普段なら、庭から聞こえてくるのは兵たちが稽古をする掛け声や、木剣のぶつかり合う乾いた音くらいだ。
けれどその日は、朝から屋敷のあちらこちらを人が行き交い、門の方から慌ただしい声が飛び交っていた。
「門を開けろ!」
「馬を厩へ!」
「客人をお通しする準備を!」
何人もの兵が足早に走り、使用人たちもそれに合わせるように忙しく動いている。
庭の中央で短剣を構えていた凌華は、その騒がしさに気づいて顔を上げた。
額には朝の稽古で滲んだ汗が浮かび、両手には一本ずつ短剣が握られている。
「……何?」
少し離れた場所で凌華の構えを見ていた陸議も、屋敷の方へ視線を向けた。
その直後。
廊下の向こうから一人の兵が姿を現し、こちらへ向かって駆けてくる。
「陸議様!」
「どうしました?」
陸議が落ち着いた声で応じる。
兵は二人の前まで来ると、息を整える間も惜しむように告げた。
「孫将軍がお見えです!」
「…………」
その瞬間。
凌華の指から力が抜けた。
右手に持っていた短剣が滑り落ち、地面へぶつかる。
カラン、と。
澄んだ金属音が、庭に響いた。
「……え?」
兵が思わず凌華を見る。
陸議も眉を寄せたが、すぐに兵へ視線を戻した。
「孫将軍が?」
「はい。すでに門前に」
「分かりました。すぐ向かいます」
兵は一礼すると、再び屋敷の方へ駆けていった。
その背中が遠ざかっても。
凌華は動かなかった。
いや。
動けなかった。
さっきまで握っていた短剣が足元に落ちていることさえ、一瞬忘れていた。
「凌華?」
陸議に呼ばれ、ようやく唇が動く。
「…………来た?」
「ええ」
「孫策が?」
「孫将軍です」
「本人?」
陸議が怪訝そうに凌華を見る。
「本人以外の孫将軍とは?」
「います」
『おい』
腰に下げていた長剣から、すかさず低い声が聞こえた。
凌華は反射的に口を押さえる。
危ない。
今の返事は完全におかしい。
「……何でもないです」
陸議は明らかに納得していなかったが、それ以上は追及しなかった。
代わりに、凌華の顔を少し覗き込む。
「顔色が悪いですが」
「ちょっと心の準備が……」
「孫将軍と会ったことが?」
「ないです」
「ではなぜ?」
「ないからです!」
思わず強く答えてしまった。
陸議の眉間に、さらに深い皺が寄る。
当然だ。
会ったことのない人物が訪ねてきただけで、これほど動揺する理由など普通はない。
凌華は誤魔化すように視線を逸らし、腰の長剣へ目を落とした。
「……どうするの」
陸議に聞こえないよう、声を潜める。
『何がだ』
「あなた」
『俺?』
「孫策来たんだけど」
『聞いてた』
「孫策が」
『ああ』
凌華は一度、屋敷の方を見る。
それから腰の長剣を見る。
「孫策のところに」
『…………』
「孫策持って行くの?」
一瞬の沈黙のあと。
『ややこしいな!!』
「私が言いたい!」
思わず言い返したところで。
前を歩き始めていた陸議が、ぴたりと足を止めた。
「凌華」
「はい!」
勢いよく顔を上げる。
陸議がこちらを見ていた。
「先ほどから何を――」
「行きましょう!」
最後まで言わせず、凌華は落とした短剣を拾い上げると、誤魔化すように陸議の横を通り過ぎた。
「……凌華」
背後から呆れたような声が聞こえたが、振り返らない。
そのまま屋敷へ向かって歩きながら、凌華は腰の長剣へそっと手を添えた。
微かに。
本当に僅かに。
鞘の奥から震えが伝わってくるような気がした。
いつもなら、凌華が何か言えばすぐに言い返してくる孫策が。
今は。
何も言わなかった。
***
屋敷の前へ出ると、すでに何頭もの馬が並んでいた。
長い道を走ってきたのだろう。
馬たちは鼻から白い息を吐き、時折落ち着かなさそうに地面を蹴っている。
その周囲には、旅装の兵たちがいた。
陸家の兵とは装備も雰囲気も違う。
凌華は陸議の少し後ろを歩きながら、その光景を見回した。
そして。
視線が止まる。
兵たちの中央。
一人の男が立っていた。
「…………」
凌華は無意識に足を止めた。
最初に思ったのは。
――若い。
だった。
もっと威圧感のある男を想像していた。
史書に記された『小覇王』。
若くして江東を駆け、その武勇によって勢力を急速に広げていった孫策。
その名前から、凌華は無意識のうちに、もっと近寄りがたい武将の姿を思い描いていたのかもしれない。
けれど。
目の前にいる男は若かった。
日に焼けた肌。
鍛えられた身体。
立っているだけで周囲の空気を引っ張るような力強さはある。
けれど、恐ろしいという印象はなかった。
むしろ。
鋭さの奥にある目は生き生きとしていて。
口元には、いつでも豪快に笑い出しそうな明るさがある。
その男が陸議の姿に気づいた。
途端に。
ぱっと顔が明るくなる。
「陸議!」
よく通る声が響いた。
「久しぶりだな!」
「孫将軍」
陸議が前へ進み、礼を取る。
「わざわざこちらまで、いかがされました?」
「近くまで来たから寄った!」
「……それだけですか?」
「それだけじゃ悪いか?」
「供を連れて突然来られるこちらの身にもなってください」
「相変わらず固いな、お前!」
孫策は腹の底から楽しそうに笑った。
その声を聞きながら。
凌華は呆然と彼を見ていた。
「……孫策」
思わず名前が零れる。
本物。
そう思ってから、すぐに違和感を覚えた。
腰にもいる。
だから、どちらを本物と呼べばいいのか分からない。
けれど。
少なくとも目の前の孫策は。
生きている。
呼吸をしている。
笑っている。
歴史の中で生きている孫策だった。
『…………』
腰の長剣は沈黙したままだ。
凌華はそっと顔を伏せる。
「ねぇ」
返事がない。
「孫策」
少し間があった。
『……聞こえてる』
ようやく返ってきた声は、いつものものとは明らかに違っていた。
低く。
どこか遠くを見ているような声だった。
凌華は目の前の孫策を見て、それから腰の長剣を見る。
「大丈夫?」
『何がだよ』
「だって……」
その先を言えなかった。
目の前にいるのは。
若い頃の自分なのだ。
まだ生きている自分。
剣の中にいる孫策が、いつの孫策なのか凌華には分からない。
それでも。
この光景が彼にとって何でもないはずがないことくらいは分かった。
『…………』
けれど、剣の孫策は答えなかった。
その時。
「で?」
生きている孫策の声が聞こえた。
凌華が顔を上げる。
いつの間にか孫策の視線が真っ直ぐこちらへ向いていた。
「そいつが例の娘か?」
「――!」
背筋が反射的に伸びる。
「例の、とは?」
陸議が尋ねた。
「賊を十数人斬った女がいるって聞いたぞ」
一瞬。
周囲の音が消えた。
凌華の顔から血の気が引いていく。
手のひらに。
あの日の感触が蘇った。
剣を振り抜いた重さ。
刃が何かを断った感触。
倒れていく男。
血。
「…………」
呼吸が浅くなる。
その変化に、陸議はすぐ気づいた。
「孫将軍」
低い声だった。
咎めるような響きに、孫策も凌華の様子を見る。
そして。
自分が何を口にしたのか気づいたらしい。
「……悪い」
意外なほど素直に謝った。
凌華は自分の手へ視線を落とした。
指先が震えている。
すると。
一歩。
陸議が前へ出た。
凌華と孫策の間へ入るように。
「凌華」
振り返った陸議の声は、先ほどまでとは違っていた。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
本当は、大丈夫ではない。
今すぐここから離れたい気持ちもある。
けれど。
凌華は震える指を握り込んだ。
逃げたくなかった。
ゆっくり顔を上げる。
目の前には。
歴史上でしか知らなかった孫策がいる。
「初めまして」
凌華は頭を下げた。
「凌華と申します」
「おう」
孫策が笑う。
「俺は孫策」
知ってる。
嫌になるほど知っている。
卒論の資料でも。
歴史書でも。
そして、腰にもいる。
「……はい」
凌華の返事を聞いた孫策が、少し面白そうに目を細めた。
「知ってるって顔だな」
「…………」
まずい。
表情に出ていたらしい。
「有名ですから」
「俺そんな有名か?」
「有名です」
「そうか!」
孫策は嬉しそうに笑った。
その反応があまりにも素直で。
凌華は一瞬、言葉を失った。
――単純。
そう思った瞬間。
『……昔の俺、うるせえな』
腰からぼそりと声がした。
凌華の口元が引きつる。
「あなたが言う?」
『俺はもっと落ち着いてる』
「どこが」
「ん?」
目の前の孫策が首を傾げる。
「俺が何だ?」
「あっ……」
凌華は慌てて首を横に振った。
「何でもありません!」
「そうか?」
「はい!」
危ない。
本当に危ない。
凌華が冷や汗を浮かべていると、孫策はそんな彼女を興味深そうに眺めた。
やがて。
「変な娘だな」
「よく言われます……」
「俺は好きだぞ、そういう奴」
にっと。
何の含みもなく笑った。
その瞬間。
凌華の胸の奥が、妙な音を立てた。
目の前の笑顔を見ながら。
昼間から頭の中にあった歴史が、再び浮かぶ。
この人が。
死ぬ。
史書では。
そう遠くない未来に。
現代にいた頃なら。
『孫策、二十六歳で死去』
そんな一文を読んでも、歴史上の事実として受け止めるだけだった。
何百年も前に終わった出来事。
変えることのできない過去。
けれど今は。
目の前で笑っている。
声も知った。
表情も知った。
陸議をからかう姿も。
自分へ向けられた笑顔も。
もう知ってしまった。
「…………」
凌華の表情から、自然と笑みが消えた。
孫策がそれに気づく。
「どうした?」
「……何でもありません」
凌華は小さく首を振った。
それ以上。
彼の顔を見ることができなかった。
***
その後。
孫策は陸議と話をするため、屋敷の中へ入っていった。
凌華は邪魔にならないよう、その場を離れた。
庭の奥まで来ると、腰から長剣を外す。
芝の上へ腰を下ろし。
布に包まれた長剣を、自分の正面へ置いた。
「…………」
『…………』
お互い。
しばらく何も言わなかった。
凌華は膝を抱えたまま、長剣を見つめる。
「ねぇ」
『なんだ』
「似てる」
『俺なんだから当たり前だろ』
「でもちょっと違う」
『どこが』
「若い」
間髪入れず。
『喧嘩売ってんのか?』
凌華は少しだけ笑った。
いつもの孫策だ。
そのことに、どこか安心した。
けれど。
その笑みは長く続かなかった。
「……あの人」
声が小さくなる。
『…………』
「本当に死ぬんだよね」
返事がない。
凌華は俯いた。
「私が知ってる歴史だと」
少し間があった。
そして。
『ああ』
凌華の顔が上がった。
初めてだった。
剣の孫策が。
はっきり認めた。
「……やっぱり」
『ああ』
「あなたは」
凌華は長剣を真っ直ぐ見つめた。
「その後の孫策なんだ」
『…………』
「死んだ後?」
『そこまでは言ってねえ』
「でも――」
『凌華』
強い声に遮られる。
凌華は口を閉じた。
『今は聞くな…』
「どうして?」
『お前が知らなくていいことがある』
その言葉に。
凌華の胸の奥に、ずっと引っかかっていた疑問が浮かんだ。
「私のことも?」
『…………』
「資料展で『やっと見つけた』って言ったことも?」
孫策は答えない。
「私たち、前に会ったことある?」
庭を抜ける風が、凌華の髪を揺らした。
長い沈黙のあと。
『ない』
短い答え。
けれど。
凌華はすぐに眉を寄せた。
「…………」
長剣を見つめる。
「嘘」
『…………』
「なんとなく分かる」
『女って面倒くせえな』
「誤魔化さないで」
『そのうち話す』
「いつ?」
『そのうちだ』
「一番信用できない答え」
『うるせえ』
凌華は膝へ顎を乗せた。
そして。
しばらく迷ったあと。
「……助けたい」
孫策は何も言わない。
「生きてるあなた」
『…………』
「あの孫策を」
長剣の中の男は黙ったままだった。
凌華は昼間見た笑顔を思い出す。
「暗殺されるんだよね」
『…………』
凌華が知っているのは、大まかな歴史の流れだけだ。
孫策は許貢の食客による襲撃を受け、その時に負った傷が原因となって命を落とす。
史料によって細かな記述に違いがあったことまでは覚えている。
けれど。
少なくとも。
関係する名前は覚えている。
「許貢」
その名を口にした瞬間。
目の前の長剣が。
ほんの僅かに震えた。
凌華は見逃さなかった。
「その人が関係してる」
『…………』
「なら、その人を先に――」
『やめろ』
鋭い声が飛んだ。
凌華が息を止める。
「え?」
『今すぐ何かするのはやめろ』
「なんで?」
『お前の知ってる歴史が、ここでもそのまま起きる保証はねえ』
「でも!」
『それに許貢一人どうにかすりゃ全部終わると思うな』
凌華は言葉を失った。
『歴史ってのはな、そんな単純じゃねえ』
「……じゃあ見殺しにする?」
『そうは言ってねえ』
「だったら!」
『焦るな!』
庭に。
孫策の怒声が響いた。
もちろん。
それを聞いているのは凌華だけだ。
それでも。
凌華の肩がびくりと震えた。
孫策がこれほど強く怒鳴るのは珍しい。
『助けてえなら、まず生きろ』
「…………」
『お前はまだ、自分一人まともに守れねえ』
言い返せなかった。
事実だった。
村でも自分一人の力では、何もできなかった。
『未来を変えるってのは、知識だけじゃできねえ』
「……分かってる」
『分かってねえ』
「分かってるよ!」
凌華も負けるように声を上げた。
「だから強くなろうとしてるんじゃん!」
『…………』
「もう目の前で誰か死ぬの嫌だから!」
脳裏に。
村の光景が蘇る。
燃える家。
逃げ惑う人々。
泣いていた子ども。
地面へ倒れていった人たち。
凌華は唇を噛んだ。
「知ってるのに何もできないのは……もっと嫌」
最後の言葉は震えていた。
孫策は何も言わなかった。
風だけが、二人の間を通り過ぎる。
しばらくして。
『……そうか』
返ってきたのは、それだけだった。
けれど。
さっきまでの怒気は消えていた。
その声はどこか。
嬉しそうにも聞こえた。
***
「お前、面白い剣持ってんな」
「――っ!?」
突然。
すぐ背後から声が降ってきた。
凌華は文字通り飛び上がった。
勢いよく振り返る。
そこにいたのは。
今まさに話題にしていた、生きている孫策だった。
「いつからいたんですか!?」
「今来た」
「本当に!?」
凌華は思わず詰め寄る。
孫策が怪訝そうに眉を上げた。
「何だよ」
――聞かれた?
さっきの話。
許貢。
暗殺。
未来。
一気に血の気が引く。
心臓が激しく鳴り始めた。
その時。
『落ち着け。俺の声はお前にしか聞こえてねえ』
腰ではなく、目の前に置かれた長剣から声が聞こえた。
凌華は反射的に叫ぶ。
「それ早く言ってよ!」
「何を?」
「あ」
凌華の口が半開きのまま止まった。
孫策が目を細める。
「お前、さっきから誰と話してんだ?」
「独り言です」
「ずいぶん会話形式の独り言だな」
「癖なんです」
「変な癖だな」
『馬鹿』
凌華は長剣を睨んだ。
――黙れ。
そんな凌華の様子を不思議そうに見ながら。
生きている孫策が、その場へしゃがみ込んだ。
「それにしても」
視線が長剣へ落ちる。
そして。
何気なく。
その手が伸びた。
指先が鞘へ触れようとした瞬間。
『――触らせるな』
声が変わった。
低く。
鋭く。
これまで聞いたことのないほど切迫していた。
「え?」
凌華は理由を考えるより先に動いた。
長剣を両腕で抱え込み、胸元へ引き寄せる。
孫策の手が。
宙で止まった。
「……何だ?」
「あ……」
凌華自身にも分からない。
なぜ。
孫策が孫策に触れることを。
剣の孫策は拒んだのか。
「すみません」
凌華は長剣を抱えたまま俯いた。
孫策は怒るでもなく、少し不思議そうに彼女を見る。
「大事なもんか?」
「……はい」
凌華は腕の中の長剣を見る。
少し考えて。
「たぶん」
『たぶんって何だ』
即座に文句が飛んできた。
もちろん、生きている孫策には聞こえない。
「じゃあ触らねえ」
そう言って。
孫策はあっさり手を引いた。
凌華は少し驚いた。
もっと強引な人なのかと思っていた。
けれど。
孫策はそのまま立ち上がることなく、長剣をじっと見つめている。
「でも」
孫策の表情からさっきまでの笑みが少し消え、眉間に皺を寄せながら首を傾げる。
「変な感じするんだよな」
凌華の心臓が跳ねた。
「変?」
「ああ」
孫策は自分の胸元へ手を当てる。
何かを探すように。
自分自身の中にある、説明のできない感覚を確かめるように。
「懐かしいっていうか」
『…………』
剣の孫策は沈黙している。
生きている孫策は、さらに首を傾げた。
「俺のもんだったような」
凌華が息を呑んだ。
腕の中の長剣へ目を落とす。
「そんなわけねえのにな」
孫策は自分で言ったことを笑い飛ばすように、口元を緩めた。
「初めて見る剣だ」
『…………』
剣の孫策は。
何も言わなかった。
その沈黙が。
逆に凌華には怖かった。
「……あなた」
長剣を見つめながら、小さく呟く。
「本当に何者なの……」
「ん?」
孫策がこちらを見る。
凌華は慌てて顔を上げた。
「何でもありません」
***
夕刻。
西へ傾いた陽が、陸家の門や庭を赤く染め始めた頃。
孫策たちは帰る支度を整えていた。
兵たちが馬を引き出し、手綱や荷を確認している。
孫策も馬のもとへ向かっていたが。
鐙へ足をかける直前。
「凌華!」
突然呼ばれた。
「はい?」
凌華が顔を上げる。
孫策は手綱を持ったまま、こちらを見ていた。
「お前、行くところないんだって?」
「……まあ」
改めて言われると。
少し傷つく。
そんな凌華の表情など気にせず、孫策は陸議を親指で示した。
「なら陸議んとこにいろ」
「え?」
「こいつなら悪いようにはしねえ」
陸議がすぐに眉を寄せる。
「勝手に決めないでいただけますか」
「もう置いてんだろ?」
「それは――」
「じゃあ決まりだ!」
「孫将軍」
「固い固い!」
面倒そうに手を振る孫策と、眉間に皺を寄せる陸議。
二人のやり取りを見て。
凌華は思わず笑った。
ほんの少し前まで。
二人とも。
歴史の中の名前だった。
今は違う。
目の前で話して。
怒って。
笑っている。
やがて孫策は馬へ跨った。
そのまま手綱を取る。
そして。
ふと凌華を見る。
「また会おうぜ、凌華」
「…………」
胸の奥が。
きゅっと締め付けられた。
――また。
何でもない言葉のはずだった。
再会を約束する、ありふれた言葉。
なのに。
なぜか凌華には。
その言葉がとても大切な約束のように聞こえた。
「……はい」
凌華は笑った。
今度は。
しっかり彼の顔を見て。
「絶対」
孫策が一瞬だけ目を丸くした。
けれど。
すぐにいつもの明るい笑顔へ戻る。
「おう!」
手綱が引かれた。
馬がゆっくり動き始める。
やがて蹄が地面を蹴り、孫策たちは陸家を離れていった。
凌華は門の外へ遠ざかっていくその背中を、黙って見送った。
馬の蹄の音が少しずつ小さくなっていく。
人影も。
やがて見えなくなる。
歴史の中へ。
戻っていくようだった。
「…………」
凌華は身体の横で拳を握った。
――絶対。
死なせたくない。
まだ。
今日初めて会っただけだ。
ほんの少し話しただけ。
それなのに。
もう彼を。
史書の中の人物には戻せなかった。
「凌華」
隣から声がした。
陸議だった。
「どうしました?」
「……何でもないです」
「泣いていますが」
「え?」
凌華は頬へ手を当てた。
指先が濡れる。
そこで初めて。
自分が泣いていたことに気づいた。
「なんで……」
悲しいわけではない。
怖いのか。
寂しいのか。
それとも。
何か別の感情なのか。
自分でも分からなかった。
その時。
腰の長剣から。
ぽつりと声が聞こえた。
『……俺も、あんな顔してたんだな』
いつもの豪快な声ではなかった。
凌華は長剣へ目を落とす。
「孫策」
『ん?』
凌華は少しだけ迷った。
けれど。
「助けよう」
『…………』
「一緒に」
返事はすぐには来なかった。
夕暮れの風が二人の間を通り抜け、凌華の髪を揺らしていく。
やがて。
『……好きにしろ』
ぶっきらぼうな声が返ってきた。
けれど。
それが拒絶ではないことくらい。
凌華にも分かった。
***
その日の夜。
陸議の部屋には、小さな灯りが一つだけ点いていた。
昼間、孫策から渡された書状が机の上に広げられている。
陸議は一人。
その内容へ静かに目を走らせていた。
そこに記されているのは、江東を取り巻く情勢や周辺勢力の動き、そして今後を見据えた軍の状況だった。
陸議の視線が、一行ずつ文字を追っていく。
やがて。
ある名前のところで止まった。
――呂蒙。
「…………」
陸議はその名を静かに見つめる。
まだ直接、深く関わったことはない。
けれど。
孫策の陣営の中で少しずつ頭角を現し始めている男だった。
陸議はしばらくその名を見つめたあと、書状を静かに閉じた。
窓の外へ目を向ければ。
夜の陸家はすでに静まり返っている。
けれど。
その静けさとは裏腹に。
江東を取り巻く情勢は、少しずつ動き始めていた。
そして。
なぜだろう。
陸議の脳裏に。
一人の少女の顔が浮かぶ。
自分の事を時折聞いたことのない名で呼ぶ。
どこから来たのかも分からず。
剣を恐れているくせに。
誰かを守るために強くなりたいと言った少女。
「……凌華」
なぜか。
彼女もまた。
これから大きくなっていく時代の流れへ、深く関わっていくような気がした。
***
同じ頃。
凌華は眠っていた。
その夜は珍しく。
村の夢を見なかった。
代わりに。
見覚えのない場所に立っていた。
柔らかな風が吹いている。
周囲には、桜にも似た淡い色の花が咲き。
風が吹くたびに、その花びらが空へ舞い上がっていた。
凌華は一人。
その中に立っている。
「……ここ」
知らない場所。
そのはずなのに。
胸の奥が妙にざわつく。
怖いわけではない。
むしろ。
懐かしい…
ずっと昔に来たことがある場所へ帰ってきたような。そんな不思議な感覚だった。
その時。
少し離れた場所に。
誰かの背中が見えた。
男だった。
「…………」
凌華は目を凝らす。
若くはない。
今日会った孫策より、ずっと年を重ねているように見える。
けれど。
その立ち姿を。
なぜか知っている気がした。
そして。
――凌華。
男が自分の名を呼んだ。
「……孫策?」
凌華の唇から自然と名前が零れた。
男がゆっくり振り返る。
けれど。
光に滲んでいるように、顔だけがどうしても見えない。
その隣には。
もう一人。
誰かが立っていた。
白い衣。
静かな横顔。
穏やかな立ち姿。
「……陸遜?」
二人が何かを話している。
唇は動いている。
けれど。
声が聞こえない。
「待って」
凌華は二人へ近づこうとした。
足を踏み出す。
けれど。
どれだけ歩いても距離が縮まらない。
「何を話してるの?」
返事はない。
「待ってよ!」
その瞬間。
孫策が笑った。
顔は見えない。
それなのに。
笑っていることだけは分かった。
そして。
今度は。
はっきり聞こえた。
――また会おうぜ、凌華。
今日。
馬上の孫策から聞いた言葉と。
まったく同じ言葉。
「待って!」
凌華は必死に手を伸ばした。
指先が届きそうになった瞬間。
花びらが一斉に舞い上がる。
視界が白く染まり。
孫策も。
その隣にいた男も。
景色の中へ溶けるように消えていく。
「孫策!」
凌華は叫んだ。
その瞬間。
目が覚めた。
「…………っ」
暗い部屋。
凌華は布団の中で目を見開いていた。
胸が激しく上下している。
心臓の音が。
耳の奥まで響いていた。
しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど。
見慣れ始めた陸家の天井が目に入り。
ようやく夢だったのだと気づく。
「…………」
凌華はゆっくり身体を起こした。
夢。
ただの夢。
そう思おうとした。
けれど。
胸の奥に残っている感覚が。
それを否定する。
妙に。
懐かしかった。
初めて見るはずの景色も。
年を重ねた孫策も。
その隣に立っていた男も。
まるで。
一度失くした記憶を。
ほんの一瞬だけ覗いてしまったような。
「……何、今の」
凌華は枕元へ目を向けた。
そこには。
いつもの長剣が置かれている。
「孫策?」
返事はない。
「起きてる?」
耳を澄ませる。
けれど。
長剣は沈黙したままだった。
凌華はしばらく剣を見つめていたが、やがて諦めるように布団へ身体を戻した。
目を閉じても。
先ほどの光景が消えない。
舞い散る花。
自分を呼ぶ声。
そして。
――また会おうぜ、凌華。
今日初めて聞いたはずの言葉なのに。
どうして。
あんなにも懐かしかったのだろう。
やがて。
考え続けることにも疲れたのか。
凌華の呼吸は少しずつ穏やかになっていった。
部屋に再び静けさが戻る。
けれど。
枕元の長剣の中で。
孫策は眠ってなどいなかった。
『…………』
凌華が見た夢。
そこで見た自分。
そして。
自分の隣に立っていた男。
孫策には。
すべて心当たりがあった。
だからこそ。
今は何も言えない。
凌華が自分自身で辿り着くより先に。
思い出させるわけにはいかなかった。
『まだ早えよ』
眠る凌華へ届かないほど小さな声で。
孫策は呟いた。
『思い出すにはな』
凌華から返事はない。
孫策も、それ以上は何も言わなかった。
その日。
凌華は初めて、今を生きている孫策と出会った。
史書の中で『小覇王』と呼ばれ、若くして命を落とす武将としてではなく。
豪快に笑い。
冗談を言い。
陸議をからかい。
そして別れ際には「また会おう」と笑う、一人の人間として。
ーー夜は静かに更けていく。
陸家の屋敷も、いつしか完全な静寂に包まれていた。
月明かりが部屋へ差し込み。
枕元に置かれた長剣の鞘を淡く照らしていた。
――第七話・了
孫策はいい人なのかそうじゃないのか
史実だと見方によって変わっていくんですが、凌華伝では善の方へ振り切ってます




