第六話 知っている未来
「もう……無理……」
朝靄の残る陸家の庭に、凌華の情けない声が響いた。
夜露を含んだ土を踏みしめながら、凌華は何度目かも分からない庭の端を目指して走っている。
額には汗が滲み、息を吸うたびに胸が大きく上下した。
脚も、もう重い。
「まだ半分です」
少し離れたところから、陸議の涼しい声が飛んでくる。
凌華は走りながら顔を上げた。
「嘘でしょ……?」
「嘘を言ってどうするのです」
「陸議さん、鬼……」
「喋る余裕があるなら走れますね」
「そういう意味じゃない……!」
凌華は泣きそうな顔のまま、それでも足を動かした。
剣術を教えてほしい。
確かに、自分からそう頼んだ。
誰かに強制されたわけではない。
けれど。
まさか最初の数日間、剣に触らせてすらもらえないとは思っていなかった。
庭を走る。
合図とともに止まる。
腰を落とし、姿勢を保つ。
決められた足運びを何度も繰り返す。
そして、また走る。
来る日も来る日も、その繰り返しだった。
「私が想像してた剣術と違う……」
息も絶え絶えに呟いた瞬間、腰に下げている長剣から楽しそうな笑い声が聞こえた。
『ハハハ! ひでえ面だぞ凌華!』
「誰のせいでこんなことしてると思ってんの……」
『お前が勝手に始めたんだろ』
「そもそもあなたが私を戦わせたからでしょう!」
「凌華?」
「――っ」
凌華の足が止まりかけた。
少し離れた場所で、陸議が怪訝そうにこちらを見ている。
「……何ですか?」
「今、誰と話していました?」
「自分です」
「…………」
「独り言です」
陸議は数秒、凌華を見つめた。
「そうですか」
口ではそう言った。
けれど。
絶対に信じていない。
このやり取りも、もう何度目だろう。
剣の孫策からは、何度も念を押されている。
――俺のことは、誰にも言うな。
だから陸議には、長剣の中に男がいて、しかもその男が孫策を名乗っていることを隠している。
問題なのは。
「……あなたが普通に話しかけてくるからでしょ」
凌華は走りながら、できるだけ小声で呟いた。
『無視すりゃいいじゃねえか』
「無視できる音量じゃないの!」
「やはり誰かと話しています?」
「話してません!」
また陸議の声が飛んできた。
凌華は慌てて振り返る。
陸議の目が細くなっていた。
完全に怪しまれている。
「……走ってきます!」
これ以上追及される前に、凌華は勢いよく走り出した。
『怪しすぎんだろ』
「黙って!」
背後から陸議の視線を感じながら、凌華はさらに速度を上げた。
***
それからひと月ほどが過ぎた。
陸家での凌華の生活にも、少しずつ決まった流れができ始めていた。
朝は陸議の指導を受けながら稽古をする。
昼になると、陸家の女性たちにこの時代の礼儀や生活の仕方を教えてもらった。
知らないことばかりだった。
衣服の扱い方も。
食事の作法も。
人との接し方も。
現代の常識が通じないことは多く、戸惑うことも少なくない。
そして夜になると、自室や庭先で剣の孫策と話をする。
その後、眠る。
悪夢はまだ見る。
目を閉じれば、村の炎や倒れていった人々が夢に現れる夜もあった。
けれど。
毎晩ではなくなった。
食事も少しずつ取れるようになり、身体にも少しずつ力が戻ってきている。
そして、その日。
陸議が手にしているものを見た瞬間、凌華の顔が明るくなった。
「今日は持っていいんですか?」
そこには、あの二振りの短剣があった。
「ようやく最低限の足運びができるようになりましたから」
「最低限……」
凌華の口元が少し下がる。
どうにも褒められている気がしない。
「ただし今日は振りません」
「えー!」
「構えるだけです」
「それ剣術って言う?」
「言います」
即答だった。
相変わらず容赦がない。
凌華は不満そうな顔をしながらも、差し出された二振りの短剣を受け取った。
初めて持った時より。
少しだけ軽く感じる。
このひと月、ひたすら身体を動かしてきた成果なのかもしれない。
「右を前へ」
「はい」
「肩の力を抜く」
「はい」
「右手を上げすぎです」
「はい……」
「左はそこではありません」
「はい……」
「腰が引けています」
「はい……」
直されるたびに、凌華の返事から少しずつ元気がなくなっていく。
その時。
『お前、センスねえな』
腰の長剣から、呆れたような声が聞こえた。
凌華の眉がぴくりと動いた。
「…………」
『なんだよ』
凌華は笑顔のまま陸議を見た。
「陸議さん」
「はい」
「ちょっとだけ長剣振っていいですか?」
『待て待て待て!』
「なぜです?」
「斬りたいものができました」
『俺は剣だぞ!?』
「駄目です」
「ですよね」
凌華は素直に諦めた。
***
けれど。
稽古を続けるうちに、奇妙なことも起こり始めた。
その日、陸議は木剣を使って、凌華に相手との距離の取り方を教えていた。
まだ打ち合う段階ではない。
木剣の軌道を見て避ける。
それだけのはずだった。
陸議が軽く木剣を振る。
凌華はそれを避けた。
その瞬間。
「……今のは?」
陸議の声がした。
「え?」
凌華は短剣を構えたまま動きを止めた。
「もう一度してください」
「何を?」
「今の足運びです」
「普通に避けただけですけど」
「もう一度」
陸議が構え直した。
木剣が凌華へ向かって振られる。
次の瞬間。
凌華の身体が動いた。
考えたわけではない。
反射だった。
一歩。
木剣の軌道へ入るように踏み込みながら身体を捻る。
刃が来るはずだった場所から身を外し、そのまま相手の懐へ入る。
気づいた時には。
右手に持った短剣が、陸議の脇腹へ向けられていた。
寸前で止まる。
「…………」
「…………」
二人とも動かなかった。
凌華がゆっくり自分の右手を見る。
「……あれ?」
自分でも何をしたのか分からない。
「私、今……」
陸議の視線が、凌華の手から足元へ移った。
「誰に習いました?」
「陸議さん」
「私は教えていません」
「…………」
言われてみれば、その通りだった。
こんな避け方も。
こんな踏み込み方も。
短剣をこの位置へ出す方法も。
一度も習っていない。
『俺だ』
腰元から孫策の声が聞こえた。
凌華の表情が変わる。
『身体が覚え始めてんだよ』
凌華は思わず長剣へ目を落とした。
「……どういうこと?」
できるだけ小さな声で尋ねる。
『俺の動きをな』
陸議が怪訝そうにこちらを見る。
「凌華?」
「あっ……何でもないです」
慌てて顔を上げる。
けれど。
胸の奥に、冷たいものが広がっていく。
村で戦った時。
凌華は孫策の声に従って身体を動かした。
右へ。
左へ。
踏み込め。
振れ。
何も分からないまま、ただその声に従った。
その時に身体へ流れ込んできた感覚が。
今も、自分の中に残っている?
「……怖い」
無意識に言葉が漏れた。
陸議は聞き逃さなかった。
「何がです?」
「…………」
凌華は右手の短剣を見つめた。
「自分じゃない動きができること」
陸議はすぐには答えなかった。
凌華の表情を見ながら、少し考える。
そして。
「なら使わなければいい」
「え?」
凌華が顔を上げる。
「今の動きを」
「でも強いんじゃ……」
「強ければ何でも良いわけではありません」
陸議は手にしていた木剣を下ろした。
「まず自分の身体を知ることです」
「自分の……」
「誰かの真似ではなく」
その言葉が。
妙に胸へ刺さった。
腰元の長剣からも、何も聞こえない。
孫策も黙っている。
「あなた自身の戦い方を作ればいい」
凌華は両手の短剣へ視線を落とした。
「……私の戦い方」
「はい」
「作れますか?」
「時間はかかるでしょう」
「そこは『できます』って言ってくださいよ」
陸議は少し間を置いた。
「できます」
「今言われても……」
思わず凌華が笑う。
陸議の口元も僅かに緩んだ。
その表情を見て。
凌華もまた、自然に笑っていた。
***
その日の午後。
凌華が屋敷の廊下を歩いていると、いつもとは違う空気が漂っていることに気づいた。
普段なら静かな廊下を何人もの兵が足早に行き交い、庭の向こうでは何かを伝える声が飛び交っている。
何かあったのだろうか。
そう思って足を止めた時だった。
「陸議様!」
一人の兵が凌華の前を駆け抜けていく。
その兵は凌華には目もくれず、そのまま廊下の奥へ向かった。
「江東より使者が参っております!」
凌華の表情が変わった。
――江東。
その地名は、卒論のために何度も目にしてきた。
三国時代について調べていた凌華にとって、聞き覚えがあるという程度のものではない。
特に呉を研究していたのだから、知らないはずがなかった。
凌華は思わず廊下の先へ目を向けた。
やがて陸議が姿を現し、先ほどの兵と何か言葉を交わす。
ここからでは声が小さく、すべてを聞き取ることはできない。
それでも。
「……孫将軍の軍より――」
途切れ途切れに聞こえてきた言葉に、凌華の胸がざわついた。
孫将軍。
この時代。
江東。
その二つが重なった瞬間、一人の名前が頭に浮かぶ。
まさか。
凌華は無意識に耳を澄ませた。
そして。
「孫策様からの使者です」
その名が聞こえた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……孫策」
思わず小さく呟く。
同時に、腰に下げていた長剣がほんの僅かに震えたような気がした。
凌華は長剣へ目を落とした。
「ねぇ、孫策」
返事がない。
いつもなら呼んでもいないのに話しかけてくるくせに。
「ねぇ」
少し間があった。
『聞こえてる』
ようやく返ってきた声は、いつもの孫策とは違っていた。
低く。
どこか張りつめている。
「あなた……」
何か知っているのだろうか。
そう尋ねようとした時。
『行くぞ』
「え?」
『もう少し近くで話を聞け』
凌華は眉を寄せた。
「いや、無理でしょ」
『なんでだよ』
「私、まだ正体不明の怪しい居候なんだけど」
『自覚あったのか』
「あるよ!」
思わず声が大きくなりかけ、凌華は慌てて口を押さえた。
幸い、周囲の兵たちは忙しく行き交っていて、こちらを気にする様子はない。
「勝手についていったら余計怪しまれるから」
『ちっ』
「舌打ちしない」
凌華はそう言いながらも、その場を離れることができなかった。
孫策。
その名前が、どうしても気になった。
しばらくすると、陸議が使者らしき男を伴って別の部屋へ向かっていく。
当然、凌華がそこへ入ることはできない。
けれど、開け放たれた戸の向こうから聞こえてくる声が、静かな廊下へ時折流れてきた。
凌華は邪魔にならない場所まで下がり、そこから聞こえてくる会話へ意識を向けた。
すべてを聞き取ることはできなかった。
けれど。
孫策。
江東。
軍勢。
そして、いくつかの地名。
断片的に耳へ届く言葉を拾っていくうちに、凌華の頭の中で、卒論のために何度も読んだ資料の内容が少しずつ繋がり始めた。
「……今って」
自分がこの時代へ来た頃の孫策の動き。
江東周辺の勢力図。
どの勢力が争い、誰がどこを治めていたのか。
資料の中でしか知らなかった歴史と、今この屋敷で起きている出来事が重なっていく。
「もしかして……」
凌華は息を呑んだ。
分かる。
この先、歴史がどのように動いていくのか。
孫策は江東で勢力を広げていく。
けれど、その時間は長くない。
やがて孫策が死に、その跡を弟の孫権が継ぐ。
孫権のもとには多くの者が集まり、それぞれが呉の歴史を形作っていくことになる。
周瑜。
魯粛。
呂蒙。
そして――陸遜。
その先には赤壁があり、荊州を巡る争いがあり、さらに時代が進めば夷陵の戦いが待っている。
凌華は正確な年月日まで覚えているわけではなかった。
歴史上で起こった細かな出来事を、一つ残らず暗記しているわけでもない。
それでも、卒論の題材として呉を調べ続けてきた。
だからこそ、大きな歴史の流れなら知っている。
凌華の視線が、使者と話している陸議へ向かった。
今はまだ若く、自分が知っている『陸遜』とはどこか違って見える青年。
けれど、この人もいずれ孫権に仕えることになる。
呂蒙とともに関羽攻略へ関わり、さらにその後には、夷陵で蜀軍を破るほどの大きな役目を担う。
そこまで思い出した時。
さらに先にある記憶が、凌華の脳裏をよぎった。
華々しい戦功だけではない。
陸遜という人物の、生涯の終わりまで。
自分は知っている。
「……嫌だ」
気づけば、声が漏れていた。
『何がだ』
腰元から孫策の声が聞こえた。
凌華は答えなかった。
ただ、遠くにいる陸議を見つめる。
今はまだ何も知らず、この時代を生きている人。
それなのに自分だけが、その先に待っている未来を知っている。
その事実が。
初めて、恐ろしいものに思えた。
***
その夜。
凌華は一人、庭へ出ていた。
昼間からずっと考えていた。
自分が知っている歴史のこと。
これから起こる出来事のこと。
そして、陸議を含めた、この時代を生きる人々の未来について。
考えれば考えるほど眠れる気がせず、凌華は長剣を抱えて庭先へ腰を下ろした。
頭上には、現代では見ることのできなかったほど多くの星が広がっている。
凌華はしばらくその空を眺めていたが、やがて膝の上に置いた長剣へ視線を落とした。
「孫策」
『ん』
「あなたは未来を知ってる?」
すぐには返事がなかった。
凌華は剣から目を逸らさない。
「……私より先の」
『なんでそう思う』
「なんとなく」
『女の勘ってやつか?』
「誤魔化さないで」
凌華の声が少し強くなる。
「あなた、生きてる孫策の名前を聞いても驚かなかった」
『驚いたぞ』
「最初だけでしょ」
『…………』
「陸議さんを見た時も」
凌華は以前、孫策が口にした言葉を思い出した。
――懐かしい名前だと思ってな。
あの時は意味が分からなかった。
けれど。
今なら、その言葉が妙に引っかかる。
「あなた、陸遜を知ってる」
『…………』
やはり答えない。
「それに」
凌華は膝の上の長剣へ手を置いた。
「私の知らないことも知ってる」
夜風が庭を抜け、木々の葉を静かに揺らしていく。
その音だけが二人の間に流れた。
「あなたはいつの孫策なの?」
『それは言えねえ』
「またそれ」
『悪いな』
「じゃあ質問変える」
凌華は少し迷った。
聞いていいのか分からない。
それでも、昼間からずっと胸の中に引っかかっていたことだった。
「孫策は……死ぬ?」
その瞬間。
剣の中から返ってくる気配さえ消えたように感じた。
今までとは明らかに違う沈黙だった。
凌華は膝の上の長剣を見つめる。
「私が知ってる歴史では、孫策は若くして死ぬ」
口にするのが怖かった。
それでも。
「二十六歳くらいで」
声が僅かに震えた。
凌華はまだ、生きている孫策本人には会ったことがない。
現代にいた頃なら、孫策は歴史上の人物でしかなかった。
何百年も昔に生きて、何百年も昔に死んだ人。
本を開けば、生年と没年が並んで記されている。
それだけだった。
けれど今は違う。
膝の上にある長剣から、その男と同じ名を持つ者の声が聞こえる。
笑い、怒り、凌華をからかい、時には励ましてくれる。
だからだろうか。
史書に書かれていた『孫策の死』が、初めて一人の人間の死として現実味を帯びて感じられた。
「あなたは……それを知ってる?」
長い沈黙のあと。
孫策がようやく口を開いた。
『凌華』
「何?」
『未来ってのはな』
いつもの豪快さはなかった。
『知りすぎると、ろくなことにならねえ』
凌華は僅かに目を細めた。
「それ、知ってる人の言い方だよ」
『…………』
「やっぱり知ってるんだ」
返事はなかった。
けれど、その沈黙そのものが答えのように感じられた。
凌華は顔を上げた。
満天の星が広がるこの空の下。
自分の知らない場所で、まだ若い孫策が生きている。
史書の中では、すでにその結末を知っている人が。
今はまだ何も知らず、生きている。
「……助けたら?」
『あ?』
「もし、死ぬって分かってるなら、助ければいいじゃん」
剣の孫策は黙っている。
凌華は構わず続けた。
「暗殺されるなら、その場所に行かなければいい。病気になる人がいるなら、その前に休ませればいいし、戦で死ぬ人がいるなら、その戦に行かなくて済む方法を考えればいい」
『凌華』
「私、知ってるんだよ」
凌華の声が少しずつ強くなる。
歴史のすべてを知っているわけではない。
細かな年月日も、史書に名前さえ残らなかった人々の運命も知らない。
それでも、誰が大きな戦に勝ち、誰が敗れ、歴史に名を残した人たちがどこで命を落とすのか。
大きな流れなら知っている。
「だったら変えられるんじゃない?」
凌華は長剣を見つめた。
「未来」
孫策はすぐには答えなかった。
しばらくして、低い声が返ってくる。
『変えてどうなる』
「え?」
『孫策が死ななかったら?』
凌華の表情が止まった。
『その後の孫権はどうなる。お前が知ってる赤壁はどうなる』
凌華は答えられない。
そして。
『お前が知ってる陸遜は?』
胸の奥を、強く突かれたような気がした。
一つの出来事を変えれば、それだけで終わるわけではない。
孫策が生き続ければ、孫権が同じ立場になるとは限らない。
そうなれば赤壁も、荊州も、その先にある夷陵も、自分が知っている歴史とは違う形になるかもしれない。
当然。
陸議が『陸遜』として歩むはずだった人生さえ、変わってしまう可能性がある。
『一人救ったせいで、別の奴が死ぬかもしれねえ』
「そんな……」
『戦ってのはそういうもんだ』
「じゃあ」
凌華は眉を寄せた。
「知ってるのに何もしないの?」
『…………』
「目の前で死ぬって分かってても?」
『そうは言ってねえ』
「同じじゃん!」
凌華は勢いよく立ち上がった。
「私は嫌」
『凌華』
「そんなの絶対嫌」
自分がなぜこの時代へ来たのかは分からない。
誰かに選ばれたとも思っていないし、歴史を変えるための使命を与えられたとも思っていない。
ただ。
知ってしまっている。
これから何が起こるのか。
そして、その流れの中で誰が命を落としていくのか。
「もし目の前の人が死ぬって知ってて、助けられるかもしれないのに何もしなかったら」
凌華は長剣を真っ直ぐ見つめた。
声は震えていた。
「私、一生後悔する」
孫策は何も言わない。
「歴史が変わるのは……怖いよ」
未来を変えた結果、自分が生まれない世界になるかもしれない。
自分が知っている現代が、まったく違うものへ変わってしまうかもしれない。
何が起こるのかなど、凌華には想像もできなかった。
それでも。
「死んだ方がいい人なんて、歴史だからって決められない」
凌華は拳を強く握った。
「私はそう思う」
長い沈黙が続いた。
やがて。
剣の中で孫策が小さく笑った。
『……やっぱ変わらねえな』
「え?」
凌華が顔を上げる。
「今なんて言った?」
『何でもねえ』
「言った!」
『聞き間違いだ』
「絶対言った!」
『寝ろ!』
「またそれ!」
それきり、孫策は何を聞いても答えなくなった。
凌華は不満そうに長剣を睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。
けれど。
長剣の中で、孫策だけは遠い記憶を思い出していた。
――そうだった。
こいつは、昔からこういう女だった。
自分が傷つくことになっても、その先に何が待っているのか分からなくても、目の前にいる誰かを救える可能性が僅かでも残っているなら、諦めることができない。
歴史が相手だろうが。
運命が相手だろうが。
納得できなければ、何度だって立ち向かっていく。
『…………』
その姿を知っているからこそ、懐かしかった。
同時に。
また同じ道を歩ませることになるのかと思えば、胸の奥には言葉にできない寂しさも残る。
『まったく』
孫策は、凌華には届かないほど小さな声で呟いた。
『また始めんのかよ』
***
翌朝。
陸議は部屋に差し込む朝の光の中で、昨日届けられた書状へ目を通していた。
江東では、少しずつ情勢が動き始めている。
今はまだ、自分がその渦中にいるわけではない。
それでも書状に記された内容を追っていけば、この変化がいずれ自分たちの暮らしにも無関係ではなくなることくらいは分かる。
「……やはり」
陸議は書状を静かに置いた。
その時。
「陸議さん」
聞き慣れ始めた声に顔を上げる。
入口には凌華が立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
一見すれば、いつもと変わらない。
けれど陸議は、凌華の表情に昨日までとは少し違うものがあることに気づいた。
何かを決めた人間の顔だった。
「今日も稽古お願いします」
「もちろん」
「昨日より厳しくしても大丈夫です」
その言葉に、陸議が僅かに眉を上げる。
「何かありましたか?」
「…………」
凌華はすぐには答えなかった。
昨夜、自分の中で決めたことを、そのまま陸議へ話すことはできない。
自分が未来を知っていることも。
目の前にいる青年がこれから『陸遜』となり、どのような人生を歩んでいくのかを知っていることも。
今はまだ、絶対に言えない。
「強くなりたい理由が、一つ増えました」
「理由?」
「はい」
もし歴史が自分の知っている通りに進むのなら、この先、凌華は多くの人と出会うことになるだろう。
その中には、史書の中で最期を知っている者もいる。
その時が来た時。
何もできずに見ているだけではいたくなかった。
「守れるようになりたいんです」
「誰を?」
陸議に尋ねられ、凌華は彼の顔を見た。
まだ若い。
後世に名を残す大都督でも、夷陵で大軍を破る将でもない。
今、目の前で生きている一人の青年だ。
ほんの一瞬だけ。
――あなたを。
その言葉が喉元まで出かかった。
けれど、凌華は飲み込んだ。
今そんなことを言えば、陸議は間違いなく理由を尋ねるだろう。
それに。
どうして真っ先に陸議の顔が浮かんだのか。
その理由を、今の凌華自身もまだ理解していなかった。
だから。
「まだ秘密です」
少しだけ笑って答えた。
陸議は不思議そうに凌華を見ていたが、無理に聞き出そうとはしなかった。
代わりに、いつもと変わらない落ち着いた声で言う。
「では、まず昨日の倍走りましょう」
「え?」
凌華の笑顔が一瞬で固まった。
「強くなりたいのでしょう?」
「待って」
「行きますよ」
「精神論じゃなくて!」
「早く」
「陸議さん!!」
静かだった朝の庭に、凌華の声が響き渡った。
すると腰元の長剣から、待ってましたと言わんばかりの大笑いが聞こえてくる。
『ハハハハハ!』
「孫策も笑うな!!」
「……また独り言ですか?」
「あ」
凌華の身体が固まった。
陸議がじっとこちらを見ている。
またやった。
「凌華」
「気合いです!」
「昨日も聞きました」
「……逃げます!」
凌華は踵を返した。
「倍にしますよ」
「ごめんなさい!」
即座に戻ってきた凌華を見て、陸議は呆れたように小さく息を吐いた。
そんな二人のやり取りを、長剣の中にいる孫策は何も言わずに見守っていた。
凌華はまだ、歴史を変えるということの本当の意味を知らない。
死ぬはずだった一人を救えば、それだけで未来が幸福な方向へ変わるわけではない。一つの命が残ることで、本来なら生まれなかった出会いや争いが生じることもあれば、史書には存在しなかった戦が起こることさえある。その変化の先で、本来なら生きるはずだった別の誰かが命を落とす可能性もある。
誰かを救いたいという願いが強くなればなるほど、いつか凌華自身が、どちらを選んでも何かを失うような決断を迫られる時も来るだろう。
それでも今の凌華は、そんな未来を知らなかった。
ただ、目の前で失われると知っている命があるのなら、できる限り手を伸ばしたいと思っている。
そして彼女はまだ、その決意を初めて本当の意味で試される相手が誰なのかも知らない。
やがて凌華は、一人の男と出会う。
その男は、長剣の中でいつも凌華をからかい、励まし、時には誰よりも厳しい言葉を投げかけてくる男と同じ名を持っている。
――孫策。
史書では、若くしてその生涯を閉じる男。
凌華が初めて、知っている歴史そのものへ手を伸ばし、どうにかしてその運命を変えたいと願うことになる相手だった。
けれど、この時点ではまだ何も変わっていない。
孫策も。
陸議も。
そして凌華自身も。
それぞれがまだ、史書に記された歴史の流れの中にいる。
その道が初めて大きく揺らぐ時は、少しずつ近づいていた。
――第六話・了
陸議厳しい…
でもこの基礎訓練のお陰で凌華戦えるようになるから
凌華はきっとずっと陸議に感謝してる




