第五話 二振りの短剣
陸家で暮らし始めて、七日が過ぎた。
朝の陽が庭へ差し込み、木々の葉を柔らかく照らしている。
凌華は縁側に腰を下ろし、膝の上へ置いた自分の両手をじっと見つめていた。
指を曲げる。
開く。
もう一度、握る。
目立つ傷はほとんど残っていない。
あの村であれほど長剣を振り回し、何人もの賊と戦ったというのに、奇妙なくらい身体には大きな怪我がなかった。
時折、筋肉に重い疲労を感じる程度だ。
けれど。
問題なのは身体ではなかった。
この手を見るたびに、思い出す。
柄を握った感触。
刃が何かを断った時、手のひらから腕へ伝わってきた重さ。
血に染まった自分の指。
凌華は無意識に手を擦り合わせた。
「……今日も?」
突然背後から声を掛けられ、凌華は慌てて両手を膝の上へ置いた。
振り返る。
「陸議さん」
そこには陸議が立っていた。
手には、食事の載った盆を持っている。
ーー正確には私が食べるはずだった盆を。
「また残したと聞きました」
「……食べましたよ」
「三口ほど、と」
「…………」
凌華は何とも言えない顔になった。
誰だ。
わざわざ報告したの。
「食欲なくて」
「昨日も同じことを言っていました」
「…………」
「一昨日も」
「分かりましたって」
凌華は少し頬を膨らませた。
陸議はそんな凌華を見ながら、隣ではなく少し離れた場所へ腰を下ろした。
ここ数日。
彼はずっとそうだった。
必要以上に凌華との距離を詰めようとしない。
村での出来事以来、誰かが急に近づいてくるだけで身体を強張らせることがある。
陸議は、おそらくそれに気づいている。
だから不用意に触れない。
近づく時には声を掛ける。
凌華が自分から距離を縮めない限り、一定の間隔を保ってくれていた。
「眠れていますか?」
「…………」
凌華は庭へ視線を逸らした。
「凌華殿」
「尋問ですか?」
「心配しています」
即答だった。
凌華は困った。
そんなふうに真っ直ぐ言われてしまうと、誤魔化しにくい。
「……夢を見ます」
陸議の表情が僅かに変わった。
「村の?」
凌華は小さく頷いた。
「剣を持ってて……」
自分の右手を見る。
「何度も人を斬る夢」
「…………」
「起きても、まだ手に感触がある気がするんです」
凌華は指を握った。
何も持っていない。
分かっているのに、掌の奥にはあの長剣の柄が残っているような気がする。
陸議は口を挟まず、ただ静かに聞いていた。
「変ですよね」
「変ではありません」
「でもこの時代なら、人が死ぬなんて珍しくないでしょう?」
「だから悲しまなくなるわけではありません」
凌華は横目で陸議を見た。
若い。
自分が現代で見た陸遜の肖像画とも違う。
ゲームや創作の中で描かれていた陸遜とも違う。
当然だ。
目の前にいるのは、歴史上の人物として完成された『陸遜』ではない。
今を生きている一人の青年なのだから。
「……陸議さんって」
「はい」
「何歳なんですか?」
陸議が少し意外そうな顔をした。
「突然ですね」
「聞いてなかったなって」
陸議が年齢を答える。
凌華は頭の中で、自分が知っている年代と照らし合わせた。
やっぱり。
大きく矛盾していない。
目の前にいる陸議の年齢も。
この時代の状況も。
自分が知っている歴史と重なっている。
本当に。
私は、歴史の中にいる。
「凌華殿は?」
「二十二です」
「…………」
陸議が僅かに目を見開いた。
「何ですか?」
「いえ」
「今、何か思いましたよね」
「もう少し幼いかと」
「失礼!」
思わず声が大きくなる。
陸議が微かに笑った。
「冗談です」
「陸議さん冗談言うんだ……」
「私を何だと思っているのです?」
凌華は何も考えず答えた。
「……陸遜」
「それは誰です?」
「あ」
口に出してから気づいた。
またやった。
「…………」
「…………」
二人の間に、何とも言えない沈黙が落ちる。
『馬鹿』
腰元の長剣から小さな声が聞こえた。
凌華の頬が引きつった。
「今のは忘れてください」
「以前もそう呼びましたね」
「気のせいです」
「二度目です」
「偶然です」
陸議の眉が僅かに寄った。
「私の知らない私の名を、二度も?」
「…………」
返す言葉がない。
『諦めろ。お前、嘘下手すぎる』
うるさい。
凌華は心の中で剣へ悪態をついた。
目の前の陸議は、明らかに納得していない。
当然だ。
自分の知らない名前を、素性の知れない女が二度も自分へ向かって口にしたのだから。
それでも、陸議はしばらく凌華を見つめたあと、それ以上追及しなかった。
「まあ、いいでしょう」
「……いいんですか?」
「いずれ話してもらいます」
穏やかな口調なのに、なぜか逃げ道がない。
「…………怖い」
「何がです?」
「何でもありません」
凌華はそっと視線を逸らした。
この人。
やっぱり将来、大都督になる人だ。
今すぐ問い詰めたりはしない。
けれど、忘れてくれるわけでもない。
妙なところで絶対に逃がしてくれない。
***
午後になり、凌華は屋敷の中をゆっくり歩いていた。
まだ長時間身体を動かすと疲れが出る。
それでも、一日中部屋で寝ているよりはずっと良かった。
少しずつでも身体を動かしていたかった。
廊下を歩いていると、開け放たれた戸の向こうから乾いた音が響いた。
カンッ。
少し間を置いて、また金属同士がぶつかる音がする。
カンッ。
凌華の足が止まった。
胸の奥がざわつく。
あの音を聞くだけで、身体が勝手に村の光景を思い出そうとする。
見たくない。
そう思うのに。
何をしているのか気になった。
凌華は恐る恐る庭を覗いた。
そこでは数人の兵が稽古をしていた。
木剣を打ち合わせている者。
槍を構え、何度も同じ動きを繰り返している者。
少し離れた場所では、刃を潰した剣を使って足運びを確かめている者もいる。
武器が動くたび、凌華の呼吸が少しずつ浅くなった。
『見るな』
突然、腰に提げた長剣から声がした。
凌華は視線を逸らさないまま答える。
「……平気」
『平気じゃねえだろ』
「…………」
図星だった。
剣の孫策には、誤魔化せないらしい。
「でも」
凌華は稽古を続ける兵たちを見つめた。
「私、このままでいいのかな」
『何がだ』
「また襲われたら」
その言葉を口にしただけで、村の光景が一瞬脳裏へ蘇った。
逃げ惑う人々。
泣いていた子ども。
振り上げられた剣。
「またあなたに助けてもらうの?」
『別にいいだろ』
「よくない」
即答した。
剣の中の孫策が黙る。
「私が剣を持ったら、あなたが私の身体を動かしてくれる」
『正確にはちょっと違うがな』
「同じようなものでしょ」
凌華は自分の手を見つめた。
「でもそれじゃ……あの人たちを斬ったのが、私なのかあなたなのか分からない」
今度こそ。
孫策は何も言わなかった。
「それが一番嫌」
責任を押しつけたいわけではない。
自分は悪くないと逃げたいわけでもない。
だからこそ、苦しい。
あの時。
自分の意思で剣を振ったのか。
剣の中にいる孫策の力によって振らされたのか。
その境界が分からない。
なら。
「だったら」
凌華は再び庭へ目を向けた。
「自分で剣を使えるようになった方がいいのかな」
『…………』
「どう思う?」
少し間を置いて。
孫策は意外なことを言った。
『嫌ならやめとけ』
「え?」
凌華は思わず腰の長剣を見る。
『剣なんざ、好き好んで持つもんじゃねえ』
「孫策が言う?」
『俺だから言ってんだよ』
声が少し低くなった。
さっきまでの軽い調子とは違う。
『一度持ったら、戻れねえこともある』
凌華は黙った。
その言葉に、どんな意味が込められているのか。
今の凌華には分からない。
「……でも」
もう一度、庭を見る。
兵たちは稽古を続けている。
「守りたい」
『誰をだ』
「分からない」
この時代へ来て、まだそれほど時間は経っていない。
大切な人と呼べる相手など、ほとんどいない。
それでも。
村で花をくれた子どもの顔が浮かぶ。
自分を受け入れてくれた村人たち。
何も分からない自分を助け、今もこうして居場所を与えてくれている陸議。
もし。
また何かが起きたら。
ただ震えながら、誰かに助けてもらうだけなのは嫌だった。
「自分くらい、自分で守れるようになりたい」
凌華は少し考えてから続けた。
「それから……誰か一人くらい」
自分の手で。
守れるようになりたい。
長い沈黙のあと。
孫策が静かに答えた。
『……そうか』
それだけだった。
けれど。
それ以上、止めようとはしなかった。
***
「剣術を?」
その日の夕方。
凌華から話を聞いた陸議は、露骨に眉を寄せた。
「はい」
「昨日まで剣を見るだけで震えていた方が?」
「今も怖いです」
「でしたら――」
「だからです」
凌華が言葉を遮った。
陸議が黙る。
「怖いから、ちゃんと知りたい」
「…………」
「何も知らないまま、またあの長剣を握る方が怖いんです」
陸議の視線が、凌華の傍らにある長剣へ向いた。
「……あの剣を使うのですか?」
「それは……」
凌華は長剣を見る。
『俺を見るな』
「…………」
確かに。
この長剣は嫌だ。
ただ、怖いからというだけではない。
自分の武器だと思えないのだ。
これは。
孫策のものだ。
少なくとも、凌華にはそう感じられた。
「別のがいいです」
「なぜ?」
「重いから」
嘘ではない。
実際、普通に持てばかなりの重さがある。
「あなたはあれを振り回していたと聞きましたが」
「…………」
「かなり自在に」
「その話はやめてください」
「しかし――」
「やめて」
自分でも分かるほど声が震えた。
陸議が口を閉じる。
凌華は俯いた。
「……ごめんなさい」
「いえ。こちらこそ」
二人の間に少しだけ沈黙が落ちた。
やがて陸議が立ち上がる。
「分かりました」
「え?」
「来てください」
***
陸議に連れられて向かったのは、屋敷の一角にある武具の保管場所だった。
戸が開かれた瞬間。
凌華は思わず陸議の後ろへ半歩隠れた。
壁際や棚には、大小さまざまな武器が整然と並べられている。
長さの違う剣。
穂先を布で覆われた槍。
壁へ掛けられた弓。
用途の分からない武具まである。
これほど多くの武器を一度に目にすると、それだけで胸が落ち着かなくなった。
「……いっぱいある」
陸議は凌華の反応を一度確認してから、棚に並ぶ剣を一本ずつ確かめ始めた。
一本を手に取る。
「これでは長すぎる」
元へ戻し、別のものを持ち上げる。
重さを確かめて首を振った。
「これも重いですね」
凌華は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「……何を探してるんですか?」
「あなたが扱えそうなものです」
さらに奥へ進む。
そして。
ある場所で陸議の手が止まった。
「これなら」
取り出したのは、二振りの短い剣だった。
「……短剣?」
凌華も少しだけ近づく。
長剣とは比べものにならないほど短い。
刀身は細身で、余計な装飾もほとんど施されていない。
武器であることに変わりはない。
それでも、あの長剣ほどの威圧感は感じなかった。
「持ってみますか?」
凌華は一瞬ためらった。
村での光景が頭をよぎる。
「……はい」
陸議から一本を受け取った。
「…………」
軽い。
手の中に武器があるという事実は、やはり怖い。
それでも長剣を握った時ほど、身体は強張らなかった。
続いてもう一本を受け取る。
右手と左手。
それぞれに一本ずつ短剣を持つ。
凌華は不思議そうに両手を見た。
「二つ?」
「一本でも構いません」
「…………」
凌華は試しに構えてみた。
当然ながら、構え方など分からない。
何となく両手を身体の前へ出してみる。
「……変ですか?」
「かなり」
「そんな即答しなくても」
陸議が凌華の横へ立った。
「右足を少し後ろへ」
「こう?」
「逆です」
「……こう?」
「もう少し」
陸議が凌華の腕へ手を伸ばしかける。
けれど途中で手を止めた。
凌華は、その手を見る。
この数日間。
陸議が自分へ不用意に触れようとしなかったことを思い出した。
「……触っても大丈夫ですよ」
陸議が凌華を見る。
「よろしいのですか?」
「はい」
確認してから、陸議は凌華の腕へ軽く触れた。
必要以上に力を入れず、角度だけを直す。
「肩に力が入りすぎています」
「怖いから」
凌華は正直に答えた。
「では、まず剣に慣れるところからですね」
凌華は両手に持った二振りを見た。
「私でも使えますか?」
「すぐには」
「…………」
即答だった。
凌華が少し不満そうな顔をする。
「ただ」
陸議は続けた。
「あなたは身体の使い方そのものは悪くありません」
「剣なんて握ったことないですよ」
「それが不思議なのです」
陸議の目が僅かに鋭くなった。
「村の者から聞いたあなたの動きは、素人のものではない」
凌華の心臓が跳ねた。
『余計なこと言うなよ』
腰元から孫策の声が聞こえる。
分かってる。
凌華は何とか平静を装った。
「……偶然です」
「偶然で十数人を相手に?」
「…………」
その言葉が耳へ入った瞬間。
周囲の音が遠くなった。
十数人。
初めて聞いた。
これまで陸議は、自分が何人斬ったのか教えなかった。
なのに今。
何気なく。
その数字を知ってしまった。
十人を超える人間を。
自分が。
「……っ」
呼吸が浅くなる。
短剣を持つ指から力が抜けていく。
「凌華殿?」
陸議の声が聞こえる。
けれど遠い。
手の中の短剣が震える。
落としそうになった、その瞬間。
陸議が素早く手を伸ばした。
凌華の手から二振りとも受け取り、そのまま離す。
「もういい」
「でも……」
「今日は終わりです」
「まだ何もしてない」
「だからです」
陸議は二振りの短剣を安全な場所へ置いた。
「急ぐ必要はありません」
「でも私――」
「凌華」
呼ばれた瞬間。
凌華は言葉を止めた。
初めてだった。
『凌華殿』ではない。
ただ。
凌華、と。
驚いて陸議を見る。
彼は先ほどまでと変わらない静かな表情で凌華を見ていた。
「剣を持てることと、強いことは同じではありません」
「…………」
「持たないと決めることも、弱さではない」
凌華は何も言えなかった。
「それでも持ちたいと思ったら」
陸議は置かれた二振りの短剣へ視線を向けた。
「その時は私が教えます」
胸の奥に。
ほんの少しだけ、温かなものが広がった。
怖いのに無理をしろとは言わない。
もう持つなとも言わない。
自分で決めることを待ってくれる。
「……ありがとうございます」
凌華は小さく頭を下げた。
***
その夜。
凌華は自室で、目の前に置かれた二振りの短剣を眺めていた。
昼間は持っているだけで震えた。
それでも今は、少しだけ違って見える。
自分で選んだ。
これから使えるようになりたいと思った武器。
そう考えると、不思議と目を逸らさずにいられた。
『ニヤニヤすんな』
突然聞こえた声に、凌華は眉を寄せた。
「してない」
『してる』
「してません」
『あいつから貰ったのがそんな嬉しいか』
「違うから!」
『ほー』
「練習用に貸してくれただけ!」
『ほー』
「何その言い方!」
凌華は二振りの短剣を抱えた。
「……でも」
確かに。
少し嬉しかった。
これは長剣とは違う。
誰かの記憶に身体を動かしてもらうための武器ではない。いつか自分自身の意思で使えるようになるためのものだ。
「名前とか付けようかな」
『やめとけ。ダセえぞ』
「あなたに言われたくない」
『俺の剣にはちゃんと――』
そこで。
孫策の声が不自然に止まった。
凌華は長剣を見る。
「……何?」
『何でもねえ』
「今、何か言おうとした」
『寝ろ』
「誤魔化した!」
それきり返事がなくなった。
「もう……」
凌華は諦めたように息を吐き、二振りの短剣を枕元へ置いた。
横になり、目を閉じる。
いつもなら。
すぐに村の光景が蘇ってくる。
けれど、その夜は。
ほんの少しだけ。
穏やかな気持ちで眠りにつくことができた。
***
翌朝。
朝の空気がまだ涼しい庭先で、凌華は陸議の正面に立っていた。
「お願いします!」
勢いよく頭を下げる。
陸議はそんな凌華を見て、念を押すように尋ねた。
「本当にやるのですね?」
「やります」
凌華は迷わず答えた。
陸議は小さく頷く。
「まず、ひと月は剣を振りません」
「…………え?」
凌華が顔を上げた。
「走ること。姿勢。足運び。体力作りからです」
「剣術は?」
「その後です」
「聞いてない!」
「今言いました」
「陸議さん!」
その瞬間。
腰元の長剣から盛大な笑い声が聞こえた。
『ハハハハハ!』
「うるさい!」
思わず声に出してしまった。
陸議が首を傾げる。
「……?」
「あ」
しまった。
凌華の顔が固まる。
「私、何も言ってません」
「今、明らかに誰かへ――」
「気合いです!」
「…………」
「こう……現代式の!」
「げんだい?」
「何でもないです!」
陸議の目が細くなった。
明らかに怪しまれている。
『お前、本当に嘘下手だな』
楽しそうな孫策の声が聞こえる。
凌華は心の中で孫策を思い切り殴った。
こうして。
凌華の剣術修行が始まった。
村では、生き残るために剣を握った。
自分で選んだわけではなかった。
怖くて。
逃げたくて。
それでも、生きるために振るうしかなかった。
けれど今度は違う。
自分の身を守れるようになりたい。
そしていつか。
誰か一人くらい、自分の力で守れるようになりたい。
そのために。
凌華は初めて、自分の意思で剣へ向き合うことを選んだ。
まだ彼女は知らない。
いつの日か。
右手に長剣を握り、左手には短剣を携えて。
あるいは二振りの短剣を自在に操りながら。
呉の戦場を駆けることになる未来を。
そして。
その姿を見つめる一人の男が。
誰よりも誇らしげに笑うようになることも。
今の凌華には、まだ何も分からない。
ただ。
何も分からないこの時代で。
未来へ進むための一歩だけは。
今、自分の足で踏み出した。
――第五話・了
孫策はきっと剣に名前付けたりしてたんだよ
それで周瑜とかに馬鹿にされていればいいよ




