第四話 陸家の客人
深い水の中へ沈んでいるような感覚だった。
どこかで誰かが叫んでいる。
けれど、その声は水の向こうから聞こえてくるように遠く、何を言っているのかうまく聞き取れない。
身体を動かそうとしても、手も足も思うように動かなかった。
――逃げろ!
突然、男の声が耳を打った。
――凌華!
今度は別の声が自分の名を呼ぶ。
その瞬間、ぼやけていた景色が一気に色を取り戻した。
燃え上がる家々から黒い煙が立ち昇り、逃げ惑う人々の悲鳴があちこちから響いている。
その中で、一人の男が目の前に倒れた。
地面へ広がっていく赤い血。
凌華は息を呑んだ。
自分の手には長剣が握られている。
「違う……」
振りたくない。
もう誰も斬りたくない。
そう思っているのに、身体は凌華の意思を無視するように動いた。
一歩踏み込み、剣を振る。
刃が人の身体へ食い込む。
あの嫌な感触が、柄を握る手から腕へ伝わってきた。
男が倒れる。
けれど、終わらない。
次の男が迫ってくる。
また身体が動く。
「やめて……」
剣を振る。
また一人、目の前で倒れた。
震えながら自分の手を見る。
真っ赤だった。
指の間まで血に濡れている。
「違う……私じゃない……」
落とさなければ。
凌華は必死に手を擦った。
何度も。
何度も。
水で洗っているはずなのに、赤い色は消えてくれない。
擦れば擦るほど、むしろ皮膚の奥へ染み込んでいく。
「取れない……!」
その時、背後から誰かが近づいてくる気配がした。
凌華は怯えて振り返った。
「来ないで!」
反射的に剣を振る。
刃が相手へ向かう。
そして。
月明かりのような淡い光の中で、その顔が見えた。
――陸遜。
「――っ!!」
凌華は勢いよく飛び起きた。
「はっ……はぁ……!」
荒い呼吸が喉から漏れる。
心臓が激しく脈打ち、胸の奥が痛い。
しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
「……どこ……」
恐る恐る周囲を見回す。
頭上にあるのは、見覚えのない木組みの天井だった。
身体には柔らかな掛け物がかけられ、きちんと整えられた寝台へ寝かされている。
「……夢?」
呟いてから、すぐに違うと気づいた。
夢だったのは、最後だけだ。
村が襲われたことも。
賊が来たことも。
自分が剣を握ったことも。
すべて、本当にあった。
「…………」
凌華はゆっくり自分の両手を持ち上げた。
血はない。
綺麗に洗われている。
それなのに…
剣を振った時の感触だけが、まだ手のひらの奥に残っている気がした。
指先が小さく震え始める。
「……っ」
凌華は両手を掛け物の中へ押し込んだ。
見たくなかった。
その時だった。
「目が覚めましたか?」
「――っ!」
突然聞こえた声に、凌華は勢いよく振り返った。
部屋の入口に、一人の青年が立っていた。
「……!」
身体が強張る。
その反応を見た青年は、すぐに足を止めた。
「驚かせてしまいましたね」
落ち着いた、穏やかな声。
聞き覚えがある。
あの村で、意識を失う直前に聞いた声だ。
「……陸……」
そこまで口にして、凌華は止まった。
危うく、また未来の名を呼ぶところだった。
青年が少し不思議そうにこちらを見る。
凌華は一度唇を閉じてから、慎重に言い直した。
「陸議……さん」
「はい」
やっぱり。
夢ではない。
目の前にいるのは、本物の陸議だ。
「ここは……?」
「私の屋敷です」
「屋敷……」
凌華は改めて室内を見回した。
華美ではない。
けれど、数日間世話になっていた村の家とは明らかに違っていた。
柱や床は丁寧に整えられ、室内に置かれている家具にも粗雑なところがない。開かれた戸の向こうには手入れされた庭が見え、朝の柔らかな光が部屋の中まで差し込んでいた。
そして、どれだけ見回しても。
電灯もテレビもエアコンもない。
コンセントさえ、どこにも見当たらない。
当然だ。
ここは、現代ではない。
その事実が、改めて胸へ重く落ちてきた。
「……どのくらい寝てました?」
「二日ほどです」
「二日!?」
思わず大きな声が出た。
陸議は驚くこともなく頷く。
「はい。医師には疲労が原因だろうと言われました。大きな怪我はありません」
「…………」
二日。
自分は、それほど長く眠っていたのか。
凌華はしばらく黙っていたが、やがて恐る恐る尋ねた。
「村は……?」
陸議の表情が僅かに曇った。
「被害は出ました」
その一言で胸が締めつけられる。
「……死んだ人……」
「います」
凌華は俯いた。
掛け物の下で、指が強く握られる。
「ですが、あなたが守った者も多くいます」
「…………」
「村人から話を聞きました」
凌華の指が掛け物を掴んだ。
「あなたが子どもたちを助けたと」
「……でも」
「はい」
「私も……殺しました」
陸議は何も言わなかった。
その沈黙が怖かった。
責められるのだろうか…
それとも、当然のことだと言われるのだろうか。
どちらも聞きたくない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「……私」
声が震える。
「何人……殺しましたか?」
陸議はすぐには答えなかった。
代わりに、静かに問い返した。
「知る必要がありますか?」
凌華が顔を上げる。
「え?」
「今のあなたが、それを知る必要がありますか?」
「でも……」
「知れば楽になりますか?」
凌華は口を閉じた。
答えられない。
人数を知ったところで、何かが変わるわけではない。むしろ、その数字を一生忘れられなくなるような気がした。
陸議は凌華の様子を見てから、少し離れた場所へ腰を下ろした。
近づきすぎない。
手を伸ばしても届かない程度の距離を保ってくれている。
今の凌華には、それがありがたかった。
「私は、あなたがどのような経緯であの村にいたのか知りません」
「…………」
「なぜあれほどの剣を持ちながら、剣を恐れているのかも」
凌華の身体が僅かに強張る。
そして陸議の眼差しが、静かに凌華を捉えた。
「そして――なぜ私の名を聞いて陸遜と言ったのかも」
「……!」
忘れていた。
村で初めて彼を見た時。
自分は確かに口にしてしまった。
――陸遜。
まだ目の前の青年が名乗ってすらいない、未来の名前を。
「それは……」
何と言えばいい?
あなたは将来、陸遜と名乗ります。
呉に仕え、大都督になります。
夷陵で劉備を破ります。
そして――。
その先に待っていることまで。
凌華は知っている。
けれど。
言えるわけがなかった。
「…………」
しばらく迷った末、凌華は俯いた。
「ごめんなさい」
結局、口から出てきたのはそれだけだった。
「今は……言えません」
陸議はしばらく凌華を見ていた。
何かを見極めようとしているような視線だったが、やがて静かに答えた。
「分かりました」
「……え?」
凌華は思わず顔を上げた。
「話したくなったときに話してください」
あまりにもあっさりしている。
昨夜――正確には二日前、あれほど怪しんでいたはずなのに。
「……疑わないんですか?」
「疑っています」
「疑ってるんだ……」
思わず本音が漏れた。
陸議の口元が僅かに緩む。
「当然でしょう」
「……ですよね」
「身元不明の女性が突然現れ、尋常ではない数の賊を倒し、私の名を知っている」
「…………怪しい」
「かなり」
「…………」
凌華は本気で掛け物を頭まで被りたくなった。
しかし、陸議の声が少し柔らかくなる。
「でも」
凌華が顔を上げる。
「悪意があるようには見えません」
「…………」
「それに、本当に刺客であるなら」
陸議は少し考えてから続けた。
「もう少し上手く振る舞うでしょう」
「…………」
どう考えても褒められてはいない。
「私、そんなに分かりやすいですか?」
「ええ」
即答された。
「……ちょっとくらい考えてください」
「考えた結果です」
「…………」
歴史上の陸遜って。
こんな人だったっけ。
凌華は少しだけ頬を膨らませた。
その表情を見た陸議の顔が、ほんの僅かに和らいだ。
本当に一瞬だった。
けれど。
凌華は気づいた。
そして不思議なことに。
さっきまで胸を締めつけていた苦しさが、ほんの少しだけ軽くなった。
***
その日の夕方。
部屋へ食事が運ばれてきた。
湯気の立つ料理を前に、凌華は黙ったまま器を見つめていた。
食べなければならない。
頭では分かっている。
二日も眠っていたのだから、身体だって食べ物を必要としているはずだ。
実際、空腹も感じている。
凌華は箸へ手を伸ばした。
けれど。
指先が目に入った瞬間。
剣を握っていた自分の手が重なった。
血に濡れた刀身。
手のひらへ残った感触。
「……っ」
凌華は素早く箸を置いた。
駄目だ。
食べられない。
そのままどれほど時間が経ったのか。
やがて、戸の向こうから声がした。
「入っても?」
陸議だった。
「……どうぞ」
戸が開き、陸議が部屋へ入ってくる。
彼は凌華の前に置かれた、ほとんど手のつけられていない食事へ一度目を向けた。
けれど、何も言わなかった。
その沈黙が逆につらくて、凌華の方から口を開いた。
「食欲がなくて……」
「そうですか」
「ごめんなさい」
「謝る必要はありません」
陸議は少し離れたところへ座った。
しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。
「……陸議さん」
「はい」
凌華は器へ目を落としたまま尋ねた。
「人を殺したこと、ありますか?」
口にしてから、自分でもなぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
こんな時代に生きている人だ。
まして、後に歴史へ名を残す武将になる人物なのだから。
あるに決まっている。
陸議は少し考えてから答えた。
「あります」
凌華は俯いた。
「怖く……ないんですか?」
「怖いですよ」
思ってもいなかった答えだった。
凌華が顔を上げる。
「怖いんですか?」
「当然です」
「でも……」
三国志の武将なのに。
そう言いかけて、慌てて飲み込んだ。
「怖くなくなるものだと思ってました」
陸議は静かに凌華を見た。
「怖くなくなってしまう方が、私は恐ろしいと思います」
「…………」
凌華の目が僅かに見開かれた。
「人を斬ることに何も感じなくなれば、守るために剣を取ったのか、斬るために剣を取ったのか分からなくなる」
「……守るため」
「あなたは、なぜ戦ったのですか?」
その問いに。
凌華の脳裏へ、あの子の顔が浮かんだ。
数日前、笑いながら花をくれた子。
転んだ小さな身体へ向かって、賊が剣を振り上げていた。
あの瞬間。
怖かった。
逃げたかった。
それでも。
「……助けたかった」
「なら、それを忘れないことです」
「でも……」
凌華の目に涙が溜まる。
「それでも、殺したことは消えない」
「はい」
陸議は否定しなかった。
凌華は少し恨めしそうに彼を見る。
「……そこは、消えるって言ってほしかった」
「嘘になりますから」
「陸議さんって結構厳しい……」
「よく言われます」
「言われるんだ……」
思わず口元が緩んだ。
ほんの少しだけ。
笑えた。
凌華は再び箸へ手を伸ばした。
指先はまだ震えている。
それでも。
料理を一口、口へ運ぶ。
陸議は何も言わなかった。
励ますことも。
褒めることも。
急かすこともなく。
ただ、そこにいてくれた。
***
夜になっても、凌華は眠れなかった。
目を閉じるたびに村の光景が浮かんでくる。
このまま寝台に横になっていても眠れる気がせず、凌華は静かに部屋を出た。
庭へ出ると、涼しい夜風が頬を撫でた。
空には明るい月が浮かんでいる。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
現代の夜よりも、空そのものがずっと暗い。
街灯も、建物から漏れる人工の明かりもない。
その分、夜空には信じられないほど多くの星が浮かんでいた。
天の川さえ見えそうなほどの星空を見上げているうちに、凌華の胸が苦しくなる。
「お母さんたち……」
今頃、どうしているのだろう。
博物館での爆発のあと。
自分は死んだことになっているのだろうか。
それとも、自分がこの時代にいる間、向こうの時間は止まっているのだろうか。
何も分からない。
帰りたい。
けれど。
帰る方法さえ分からない。
凌華は庭先へ腰を下ろし、膝を抱えた。
見上げた空はこんなにも綺麗なのに、知っている人は誰一人いない。
「……一人だ」
ぽつりと呟いた。
その時。
『いるだろ』
「…………」
凌華の動きが止まった。
聞き覚えのある声だった。
ゆっくり振り返る。
廊下の端。
月明かりの届く場所に、布へ包まれた長剣が置かれている。
「…………」
凌華は立ち上がった。
あの剣だ。
見るだけで、村での出来事が蘇る。
怖い。
それでも。
確かめなければならない。
凌華は一歩ずつ近づいていった。
「……あなた?」
返事はない。
「村で喋ったの……あなたでしょ?」
それでも沈黙したままだ。
凌華の眉が寄る。
「ねぇ」
『…聞こえてる』
「だったら返事してよ!」
『うるせえな』
「喋った!」
『だから喋るっつってんだろ』
凌華は思わず長剣を指差した。
「剣が喋ってる!」
『そこからかよ』
「だって剣だよ!?」
『見りゃ分かる』
「普通、剣は喋らないの!」
『普通の剣じゃねえんだよ』
「じゃあ何!?」
少しの沈黙があった。
やがて剣の男が、妙に落ち着いた声で言った。
『……まあ座れ』
「なんで剣に座れって言われなきゃいけないの」
『話長くなるぞ』
「…………」
凌華はしばらく長剣を睨んでいたが、やがて警戒したまま腰を下ろした。
自分の正面へ長剣を置く。
月明かりに照らされた庭先で、一人の女と一本の剣が向かい合っている。
冷静に考えれば、あまりにも妙な光景だった。
「まず」
凌華が口を開く。
「あなた、何者?」
『その前にお前だ』
「私?」
『凌華』
「……なんで名前知ってるの?」
『村で散々呼ばれてただろ』
「……あ」
確かに。
村人たちは何度も凌華の名前を呼んでいた。
それなら説明はつく。
けれど。
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
博物館で意識を失う直前。
確かに聞いた気がする。
――やっと見つけた。
あの声も。
この男だったのではないか。
「……資料展で」
凌華が静かに言った。
『ん?』
「私が死ぬ前……何か言った?」
長い沈黙が落ちた。
『……知らねえ』
「…………」
嘘。
なぜか、そう思った。
声の調子なのか。
答えるまでの間なのか。
理由は分からない。
けれど今は追及しなかった。
「じゃあ次」
凌華は長剣を真っ直ぐ見据えた。
「あなたの名前」
『…………』
「名乗って」
剣の男は、少しだけ迷ったようだった。
やがて。
いつもの豪快な調子で答えた。
『孫策』
凌華の動きが止まった。
「…………は?」
『孫伯符』
「…………」
庭を夜風が通り抜ける。
木々の葉が静かに揺れ、どこかで虫が鳴いている。
凌華はしばらく何も言えなかった。
「…………誰?」
『孫策だっつってんだろ!』
「いやいやいやいや!!」
凌華は勢いよく立ち上がった。
「それは無理!」
『何がだよ!』
「だって孫策いるから!」
『俺も孫策だ!』
「この時代に本物がいるの!」
『俺が本物だ!!』
「じゃあ今いる孫策は何なの!?」
『…………』
「ほら!!」
剣が黙った。
凌華はますます納得できない。
「おかしいじゃん!」
『……俺だって最初はそう思ったんだよ』
「え?」
凌華の勢いが止まった。
今までとは違う声だった。
少し低く。
どこか遠いものを見るような響きが混じっている。
『この時代に来て分かった』
「何が?」
『俺がいる』
「……だから剣の中に」
『違う』
即座に否定された。
そして、静かな声が続く。
『生きてる俺が、いる』
凌華の背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
「…………」
『まだ若ぇ俺がな』
「あなた……」
凌華は目の前の長剣を見つめる。
「いつの孫策なの?」
返事がない。
「ねぇ」
『それは言えねえ』
「なんで?」
『今はな』
「…………」
何かを隠している。
それだけは間違いない。
凌華は眉を寄せた。
「じゃあ一つだけ」
『なんだ』
「私をここに連れてきたの、あなた?」
再び沈黙が落ちた。
今までで一番長かった。
『…………違う』
「本当に?」
『ああ』
「じゃあなんで資料展にいたの?」
『…………』
「どうして私と一緒に来たの?」
『…………』
「なんで私が剣を握ったら戦えたの?」
『…………』
何を聞いても答えない。
凌華は長剣から目を逸らさず、さらに問いかけた。
「それから――」
胸の奥がざわつく。
あの時の声が蘇る。
「どうして私が死ぬ前に」
凌華はゆっくり言葉を続けた。
「『やっと見つけた』って言ったの?」
その瞬間。
木々を揺らしていた風が止んだ。
庭が、不自然なほど静かになる。
『…………』
剣の孫策は答えなかった。
けれど。
その沈黙だけで十分だった。
凌華は確信する。
この剣は自分よりもずっと多くのことを知っている。
なぜ自分がここへ来たのか。
なぜ自分が剣を扱えたのか。
そして、おそらく――。
自分自身についても。
何かを知っている。
それを。
凌華に隠している。
『凌華』
「何?」
『一つだけ言っとく』
珍しく真剣な声だった。
『俺のことは、誰にも言うな』
「……陸議さんにも?」
『特にあいつにはな』
「どうして?」
『今はまだ、知られねえ方がいい』
「…………」
納得はできない。
けれど、どれだけ聞いても今は答えるつもりがないのだろう。
「……分かった」
ひとまず従うことにした。
『それとな』
「まだあるの?」
『俺をあいつの近くに置くな』
「なんで?」
『気に食わねえ』
「会ったばっかりじゃん」
『なんか気に食わねえ』
「子どもか!」
『うるせえ!』
凌華は思わず吹き出した。
そして自分でも驚くほど自然に声を上げて笑った。この時代へ来てから。
初めてだった。
『……やっと笑ったな』
「え?」
凌華の笑い声が止まる。
『何でもねえ』
「今なんか言った?」
『寝ろ。明日もあの坊ちゃん来るぞ』
「坊ちゃんって……」
凌華は長剣を抱え上げる。
まだ少し怖い。
それでも、先ほどまでとは違っていた。
「陸遜を坊ちゃん扱いする人、初めて見た」
『陸遜、ねぇ……』
その声に何かが混じった気がして、凌華は足を止めた。
「……何?」
『いや』
剣の中で。
孫策は静かに笑った。
『懐かしい名前だと思ってな』
「…………?」
凌華には。
その言葉の意味が、まだ分からなかった。
***
翌朝。
凌華は陸議に呼ばれた。
昨日より身体は軽くなっていたものの、まだ完全に疲れが抜けたわけではない。
陸議は凌華の顔色を確かめるように見てから尋ねた。
「体調はいかがですか?」
「昨日よりは……」
「それなら良かった」
そこで陸議の視線が、凌華の腕の中へ移った。
そこには、布に包まれた長剣が抱えられている。
「……それ」
「はい?」
「昨日までは触れることさえ嫌がっていましたね」
「…………」
凌華の表情が固まった。
鋭い。
『やっぱこいつ嫌いだ』
腕の中から聞こえた声に、凌華は思わず小声で返した。
「黙って」
陸議が首を傾げた。
「何か?」
「何でもないです!」
凌華は慌てて首を振った。
自分でも分かる。
怪しい。
完全に怪しい。
陸議は何も言わず、しばらく凌華を見ていた。
その視線が痛い。
やがて彼は追及せず、静かに口を開いた。
「凌華殿」
「はい」
「今後のことについて、お話があります」
凌華の表情が変わった。
そうだった。
ここは陸家だ。
自分は身元も分からない人間で、いつまでも世話になるわけにはいかない。
凌華は長剣を抱く腕へ少し力を入れた。
「……私、出ていった方がいいですよね」
「なぜそうなるのです?」
「え?」
予想外の返事に顔を上げる。
陸議は静かに尋ねた。
「行く場所があるのですか?」
「…………」
答えられない。
この時代で頼れる人など、誰もいない。
「家族は?」
その言葉に胸が痛んだ。
いる。
本当なら。
ずっと遠い未来に。
けれど、ここにはいない。
「帰る場所は?」
「…………ありません」
今の自分にはーー
陸議はしばらく考えていた。
そして…
「でしたら」
真っ直ぐ凌華を見る。
「しばらく、ここにいればいい」
「…………え?」
凌華は目を瞬いた。
「身元が分かるまででも構いません」
「でも……」
「それに」
陸議の視線が、凌華の抱えている長剣へ向けられた。
「あなたには、確認したいことがいくつもあります」
「…………」
やっぱり。
ただの善意だけではないらしい。
凌華は少し困ったように眉を下げた。
「……監視ですか?」
「保護です」
「今、一瞬考えましたよね?」
「気のせいでしょう」
「絶対考えた」
陸議の口元が、ほんの僅かに上がった。
「では、決まりですね」
「勝手に……」
そう言いながらも。
凌華の胸の奥には、確かな安堵が広がっていた。
帰る場所はない。
この時代のことも分からない。
自分がどうしてここにいるのかさえ分からない。
それでも。
一人ではない。
今は、それだけで救われた。
『…………』
凌華の腕の中で。
長剣に宿る孫策は、二人のやり取りを黙って聞いていた。
やがて。
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
『またこいつに…拾われるのか』
その言葉を。
凌華は聞き逃した。
――第四話・了
凌華が無事に安全な場所で保護されて良かった
陸議と凌華の物語がこれから始まって行きます
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