第三話 剣の声
『しっかりしろよ』
「…………え?」
凌華は、その場から動けなかった。
薄暗い家の中に人の姿はない。
目の前にあるのは、布に包まれた長剣だけだった。
さっきまで確かに誰もいなかったはずだ。戸口の向こうから聞こえる村人たちの声は遠く、少なくとも、この家の中で自分に話しかけた者はいない。
それなのに。
確かに聞こえた。
若い男の声だった。
「……今、誰か……」
凌華が恐る恐る周囲を見回した、その時だった。
――ドンッ!
外で何かが激しく壊れる音が響いた。
続いて、女の悲鳴が上がる。
「きゃあああっ!」
凌華の肩が大きく跳ねた。
何が起きたのか分からないまま戸口へ顔を向ける。
『おい』
また聞こえた。
今度は聞き間違いではない。
すぐ近く――いや、目の前から聞こえた。
「……!」
凌華は弾かれたように振り返り、長剣から一歩後ずさった。
「しゃ、喋った……!」
『そこ驚いてる場合か?』
「いや驚くでしょ!?」
誰もいないのに剣から男の声がする。
こんな状況で驚くなという方が無理だ。
けれど、長剣の男は凌華の混乱など意に介さなかった。
『来るぞ』
「え?」
『敵だ!』
直後、家の外から荒々しい怒鳴り声が響いた。
「いたぞ!」
「女がいる!」
複数の足音が地面を蹴る。
その音が真っ直ぐこちらへ近づいてくるのを聞いた瞬間、凌華の顔から血の気が引いた。
逃げなきゃ。
頭では、そう思った。
けれど、足が床に縫いつけられたように動かない。
ついさっきまで自分がいた博物館の光景が、何の前触れもなく脳裏へ蘇った。
爆発音。
吹き飛ばされた展示物。
煙の向こうで倒れていた人。
目の前で命を失っていった人々。
「……っ」
呼吸が浅くなる。
胸の奥が急激に狭くなったようで、うまく息を吸えない。
「嫌……」
『おい!』
「嫌……!」
また人が死ぬ。
そんなもの、もう見たくない。
怖い。
逃げたい。
けれど、身体が動かない。
『凌華!』
「――!」
突然名前を呼ばれ、凌華は顔を上げた。
視線の先にあるのは、やはり長剣だけだ。
「……なんで」
どうして。
この剣は、私の名前を知っている?
問いかけようと唇を開いた、その瞬間だった。
木の扉が凄まじい音を立てて蹴破られた。
「――っ!」
飛び込んできたのは二人の男だった。
汚れた衣服をまとい、それぞれの手には粗末な刃物が握られている。村人とは明らかに違う、殺気立った目が真っ直ぐ凌華へ向けられた。
「いたぞ!」
凌華は反射的に後ずさった。
一歩。
また一歩。
やがて背中が壁へぶつかる。
逃げ道がない。
『剣を取れ!』
「無理!」
考えるより先に答えていた。
『死ぬぞ!』
「だって私、剣なんて使えない!」
『知ってる!』
「じゃあなんで!」
『俺が教える!』
男の一人が刃物を構えたまま迫ってくる。
凌華は壁へ背中を押しつけた。
「来ないで……!」
震える声を聞いた男が、面白がるように笑った。
「変な女だな」
刃が振り上げられる。
怖い。
死にたくない。
その感情だけが、頭の中を埋め尽くした。
「――嫌っ!」
凌華は反射的に長剣へ手を伸ばした。
指が柄を掴んだ、その瞬間。
――ドクン。
心臓が、身体の内側を叩くように大きく跳ねた。
「……っ!」
何かが流れ込んでくる。
熱い。
最初に右手。
そこから腕を駆け上がり、肩を抜け、背中を通って脚へ落ちていく。
自分のものではない感覚が、身体の奥へ入り込んでくる。
剣を握ったことなど一度もない。
それなのに。
どう動けばいいのかを、身体のどこかが知っている。
『右へ踏め』
凌華は意味も分からないまま右足を踏み出した。
直後、男の刃が頬のすぐ横を通り過ぎる。
「――!」
あと少し遅ければ斬られていた。
『抜け!』
言われるまま、布の中から長剣を引き抜く。
澄んだ金属音が家の中へ響いた。
初めて目にする刀身は、想像していたよりもずっと長かった。
そして重い。
両手から腕へずしりと重さが伝わってくる。
なのに、不思議だった。
持てる。
さっきまでなら持ち上げることさえできるのか不安だったはずなのに、今はこの重さを身体が受け止めている。
『腰を落とせ』
「む、無理……!」
『いいからやれ!』
男が再び斬りかかってきた。
『左!』
声に反応して凌華の身体が動く。
刃が目の前を横切った。
避けられた。
『今だ!』
「何すればいいの!?」
『振れ!』
「――っ!」
凌華は目を閉じた。
ただ、言われた通りに長剣を振った。
次の瞬間。
手のひらから腕へ、何かを断った嫌な感触が伝わってきた。
「…………え」
恐る恐る目を開ける。
目の前にいた男が、ゆっくりと崩れ落ちた。
床へ身体が倒れる音が、妙にはっきり聞こえた。
時間が止まったようだった。
凌華は震える手を見る。
握っている長剣。
その刀身に、さっきまでなかった赤いものが付いている。
「…………」
何をした?
理解したくない。
けれど、目の前の光景が答えを突きつけてくる。
『凌華!』
まだ、もう一人いる。
残った男が叫び声を上げながら迫ってきた。
それでも凌華は動けなかった。
『前見ろ!』
「私……」
『死にてえのか!』
「……っ!」
その言葉に身体が反応した。
震える両手で剣を構える。
今度は。
目を閉じなかった。
迫ってくる男を見る。
一歩、踏み込む。
『そこだ!』
剣を振る。
刃が走り、男の身体が倒れた。
「…………」
二人とも、もう動かない。
凌華の指から力が抜けた。
長剣が床へ落ちる。
カラン、と乾いた音が響いた。
「……私……」
自分の手を見る。
指先が震えていた。
「私が……?」
『…………』
「死んだ……?」
返事がない。
「ねぇ……」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
「死んだの……?」
『凌華』
「私が殺したの……?」
『今は――』
「私、人を殺したの!?」
『生き残ることを考えろ!』
強い声が飛んできた。
凌華は息を呑んだ。
外では、まだ争う音が続いている。
誰かの叫び声。
物が壊れる音。
悲鳴。
戦いは終わっていない。
「でも……」
『あいつらはお前を殺すつもりだった』
「だからって……!」
『じゃあ殺されりゃよかったのか!』
「そんなこと言ってない!」
堪えていた涙が溢れた。
『だったら立て』
「無理……」
『立て!』
「無理だよ!!」
凌華は両手で耳を塞いだ。
聞きたくない。
何も考えたくない。
「普通に大学行ってただけなの!」
剣へ向かって叫ぶ。
ついさっきまで、自分は大学生だった。
講義へ行って。
卒論の資料を集めるために博物館へ行って。
展示を眺めていただけだった。
「昨日まで……普通だったのに……!」
そう叫んでから、昨日という言葉さえ正しいのか分からないことに気づく。
ここへ来てから、どれほど時間が経ったのか。
そもそも、ここがどこなのかすら分からない。
「人なんて殴ったこともない!」
喧嘩すらまともにしたことがない。
誰かを傷つけようと思ったことだってない。
「なのに……」
床へ倒れた男へ目を向ける。
身体の奥から吐き気が込み上げてきた。
「こんなの……」
『…………』
「できないよ……」
しばらく、剣の男は何も言わなかった。
外の騒ぎだけが、二人の沈黙の間を埋めていく。
やがて。
『……悪い』
さっきまでの荒々しい声とは違っていた。
低く、静かな声だった。
凌華がゆっくり顔を上げる。
『でもな』
「……」
『今は、生きろ』
その時。
外から子どもの悲鳴が聞こえた。
「――!」
凌華は振り返った。
知っている声だった。
ここへ来てからの数日間、何度か顔を合わせた子。
笑いながら小さな花をくれた、あの子だ。
「……!」
考えるより先に身体が動いた。
凌華は床の長剣を拾い上げ、そのまま家を飛び出した。
「待って!」
外へ出た瞬間、目の前に広がった光景に息を呑んだ。
数日前まで穏やかだった村が、まるで別の場所になっていた。
家々の一部には火が回り、黒い煙が空へ昇っている。地面には壊れた農具や荷車が散乱し、村人たちは泣き叫びながら逃げ惑っていた。
その後ろを、武器を手にした賊たちが追っている。
「そんな……」
長剣を握る手が震えた。
怖い。
さっき斬った二人の感触が、まだ手のひらに残っている。
『助けたいか?』
「…………」
答えられない。
けれど、目だけは逃げる子どもを追っていた。
『なら俺を握ってろ』
凌華は柄を強く握った。
「……できるかな」
『できる』
「なんでそんなこと分かるの」
一瞬。
男が黙った。
そして。
『……俺がいる』
凌華は手の中の剣を見る。
「…………」
その一言で、恐怖が消えたわけではなかった。
手は震えている。
足だって逃げ出したい。
それでも。
目の前で子どもが転んだ。
賊が追いつき、その小さな身体へ向かって剣を振り上げる。
「――やめて!!」
凌華は走った。
振り下ろされた刃へ長剣を叩きつける。
甲高い金属音が響いた。
腕へ強い衝撃が走る。
それでも離さない。
「逃げて!」
「凌華……!」
「早く!」
子どもが立ち上がり、必死に走っていく。
賊が凌華を睨んだ。
「女が!」
『来るぞ』
「……うん」
怖い。
それでも、もう目は逸らさなかった。
『右』
右へ踏む。
『下がるな』
後ろへ逃げそうになる足を踏みとどまらせる。
『相手の肩を見ろ』
言われた通りに見る。
肩が動く。
その直後に剣が来た。
凌華は身体をずらして刃を避ける。
『踏み込め!』
「――っ!」
前へ出る。
そして斬った。
また一人。
胸の奥が痛む。
それでも、今は止まれない。
『次!』
凌華は振り返った。
二人。
武器を構えた賊がこちらへ走ってくる。
『いける』
「無茶言わないで……!」
『俺を誰だと思ってんだ』
「知らないよ!」
『あ?』
「名乗ってないじゃん!」
『…………』
一瞬の沈黙。
「今それ!?」
『そういやそうだったな』
「馬鹿なの!?」
『誰が馬鹿だ!』
こんな状況なのに。
ほんの一瞬だけ。
胸を締めつけていた恐怖が薄れた。
『左から来るぞ!』
「分かった!」
凌華は再び剣を握り直した。
一人。
そして、また一人。
凌華自身には、剣術の知識など何もない。
構え方も知らない。
人と斬り合う方法など、知るはずもない。
それなのに、戦うたび身体が理解していく。
どの位置へ足を置けばいいのか。
どこを見れば相手の動きを読めるのか。
どの瞬間に踏み込み、どの軌道で振れば刃が届くのか。
頭で考えているのではない。
剣を握るたび、知らない誰かの経験が自分の中へ流れ込んでくる。
まるで、この長剣そのものが持っている記憶を、凌華の身体へ直接刻み込んでいるようだった。
そして――。
どれほど時間が経ったのか。
気がつけば、凌華は村の中央に立っていた。
荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見渡す。
さっきまで響いていた怒号は消えていた。
聞こえるのは、燃え残った家から木材が爆ぜる音と、火が何かを舐めるように燃える音だけ。
賊は。
もう誰も立っていなかった。
凌華が握る長剣の切っ先から、赤い雫が落ちる。
ぽたり。
土の上へ染み込む。
また一滴。
ぽたり。
「…………全部?」
『ああ』
「私が……?」
『…………』
凌華は周囲を見た。
倒れている人影がある。
一人。
その向こうにも。
さらに向こうにも。
数えようとして、途中で分からなくなった。
「……違う」
指が開く。
長剣が地面へ落ちた。
「違う……」
自分の両手を見る。
赤い。
血が付いている。
「私じゃない……」
必死に擦った。
「私じゃない……!」
衣服へ手を押しつけ、何度も拭う。
それでも。
落ちているはずなのに。
赤い色が皮膚の奥まで染み込んでしまったように見えた。
「取れない……」
『凌華』
「取れない……!」
さらに強く擦る。
皮膚そのものが赤くなる。
それでも止められない。
「嫌……!」
呼吸が乱れる。
吸っても吸っても空気が足りない。
胸が苦しい。
「私……こんな……」
『おい、もういい!』
「何人……?」
答えはない。
凌華は震えながら周囲を見た。
「私、何人殺したの……?」
『数えるな』
「何人!?」
『凌華!』
「私、人殺しじゃん……!」
膝から力が抜けた。
その場へ崩れるように座り込む。
「嫌……」
涙が止まらない。
「帰りたい……」
『…………』
「帰りたいよ……」
長剣は、もう何も答えなかった。
その時だった。
村から少し離れた道を、複数の馬が駆けていた。
地面を蹴る蹄の音が重なり、土煙が上がる。
その先頭を走る一人の青年が、遠くに立ち昇る黒煙を見つめていた。
村が襲撃を受けたとの報せを受け、周辺を巡回していた兵を率いて急行してきたのだ。
「急いでください!」
青年の声に応え、後ろの兵たちが馬をさらに走らせる。
まだ若い。
顔立ちには少年の面影さえ残っている。
しかし手綱を握る姿に危なげはなく、激しく揺れる馬上でも姿勢は崩れなかった。
やがて村へ入った青年は、すぐに異変へ気づいた。
「これは……」
手綱を引き、馬の速度を落とす。
後ろから来た兵たちも、目の前の光景を見て言葉を失った。
あちこちに倒れている賊。
一人や二人ではない。
「既に戦闘が……?」
兵の一人が呟く。
「誰がこれを?」
青年は馬から降りた。
周囲へ視線を巡らせながら慎重に村の中へ進み――やがて中央にいる一人の少女を見つけた。
黒い髪。
この辺りでは見慣れない顔立ち。
衣服は血に汚れ、その傍らには一本の長剣が落ちている。
「……女性?」
少女は地面へ座り込んでいた。
周囲の状況だけを見れば、彼女が戦ったと考えるのが自然だった。
けれど。
青年の目には、とてもそうは見えなかった。
勝者の顔ではない。
武人の顔でもない。
ただ、酷く怯えている。
青年は警戒しながらも、ゆっくり彼女へ近づいた。
「あなた」
凌華の肩が跳ねた。
「――っ!」
反射的に長剣へ手を伸ばそうとする。
けれど、指が途中で止まった。
触れられない。
剣を見るだけで、先ほどの感触が蘇る。
青年はその様子を見て、すぐに足を止めた。
「大丈夫です」
静かで穏やかな声だった。
「私はあなたを傷つけるつもりはありません」
凌華は恐る恐る顔を上げた。
涙で視界が滲み、青年の姿がぼやけて見える。
「……誰……?」
「まず怪我を見せてください」
青年が一歩近づこうとする。
「来ないで……」
「……分かりました」
彼はすぐに足を止めた。
本当に、それ以上近づいてこない。
凌華は僅かに戸惑った。
「そこにいます。ですから安心してください」
「…………」
青年は凌華を刺激しないよう、声を落としたまま尋ねた。
「あなたが、彼らと戦ったのですか?」
その瞬間。
凌華の顔が歪んだ。
「違う……」
青年の眉が僅かに寄る。
「私……」
凌華は自分の手を見た。
震えが止まらない。
「戦いたくなんて……」
そこまで聞いて、青年は質問をやめた。
今これ以上尋ねても、この少女を追い詰めるだけだと悟ったのだろう。
「分かりました」
青年は羽織っていた上着を脱いだ。
急な動きをしないよう、凌華の様子を見ながらゆっくり近づき、その肩へそっと掛ける。
今度は、凌華も拒まなかった。
「もう戦わなくて大丈夫です」
その一言で。
張り詰めていた何かが切れた。
「…………っ」
凌華の目から涙が溢れた。
「怖かった……」
「はい」
「私……人を……」
「今は考えなくていい」
「でも……!」
「あなたは今、生きています」
凌華は顔を上げた。
その言葉を、少し前にも聞いた。
――今は、生きろ。
凌華の視線が、地面に落ちた長剣へ向かう。
剣は沈黙したままだった。
「……名前」
凌華が小さく呟いた。
青年が首を傾げる。
「あなたの……名前……」
「私ですか?」
凌華が頷く。
青年は少し不思議そうにしながらも答えた。
「陸議と申します」
「…………」
凌華の呼吸が止まった。
聞き間違いだと思った。
そうであってほしいとすら思った。
「……りく……ぎ……?」
「はい」
その名を。
凌華は知っている。
卒業論文のために何度も資料を読み、何度も目にした名前。
後に名を改め、呉の歴史に大きく名を残す人物。
まさか。
そんなはずがない。
確かめずにはいられなかった。
「……字は……?」
青年の目が僅かに細くなった。
初対面の、それも素性の知れない女が、突然自分の字を尋ねてきたのだ。
先ほどまでの穏やかな表情に、ほんの少し警戒が混じる。
それでも青年は短く答えた。
「伯言ですが」
頭の中が真っ白になった。
陸議。
伯言。
間違いない。
後に名を改める、その人物は――。
「……陸遜」
凌華の唇から、無意識にその名が零れた。
青年の表情が変わった。
「……陸遜?」
聞いたことのない言葉を確かめるように、ゆっくり繰り返す。
先ほどまで凌華へ向けられていた穏やかな眼差しに、明らかな警戒が宿った。
「何です、それは」
「…………」
「なぜ私を見て、その名を口にしたのですか?」
当然だった。
今の彼は陸議だ。
まだ『陸遜』という名ではない。
自分とは関係のないはずの名を、素性も分からない女が自分を見ながら呟いたのだ。
怪しまない方がおかしい。
けれど凌華には、そんなことまで考える余裕がなかった。
目の前にいる。
本で読んだ。
資料で追い続けた。
遥か昔の歴史の向こう側にいたはずの人物が。
ずっと好きだった武将が。
今、自分を見ている。
「……本物……」
「何のことでしょう?」
陸議の警戒がさらに強くなる。
問いたださなければならない。
この少女は何者なのか。
なぜ自分の名を知っている。
そして、今口にした『陸遜』とは何なのか。
けれど。
凌華の身体は、とっくに限界を超えていた。
張り詰めていた意識が途切れる。
視界が大きく傾いた。
「……あ」
「危ない!」
陸議が咄嗟に腕を伸ばした。
倒れ込んできた凌華の身体を受け止める。
「しっかりしてください!」
声が遠い。
意識が闇へ沈んでいく。
その中で。
地面へ落ちた長剣から、声が聞こえた。
今度は、凌華にしか届かないほど小さく。
『……陸遜、か』
どこか懐かしむような声だった。
『そういうことかよ』
その意味を考える余裕など、もう凌華にはなかった。
完全に意識を失った少女を抱き留めながら、陸議はしばらくその顔を見つめていた。
そして視線を動かす。
地面に落ちている長剣。
「……この剣」
妙な違和感があった。
初めて見るはずなのに。
どこかで目にしたことがあるような気がする。
記憶を探っても、何も浮かんでこない。
それ以上に気になるのは。
腕の中の少女が口にした、あの言葉だった。
――陸遜。
「……何なのだ、それは」
小さく呟いてみても、答える者はいない。
「陸議様、この娘は?」
兵の一人が尋ねた。
陸議は腕の中の凌華へ視線を戻した。
泣いた跡の残る顔。
血に染まった手。
自分の名を知っていた。
字まで尋ねた。
そして、自分を見て『陸遜』という聞き覚えのない名を口にした。
怪しい。
分からないことが多すぎる。
だからこそ、このまま置いていくわけにもいかなかった。
しばらく考えた後、陸議は答えた。
「連れて帰ります」
「しかし、素性も――」
「だからこそです」
陸議は静かに言った。
「この状態で一人にするわけにはいきません」
兵へ命じ、地面に落ちていた長剣も拾わせる。
陸議はまだ知らない。
自分が今、何者を腕の中に抱いているのか。
凌華も知らない。
なぜこの時代へ来たのか。
なぜ剣が自分の名を知っているのか。
そして――剣の中の男が、なぜ『陸遜』という名を聞いて懐かしそうに笑ったのか。
何一つ分からないまま。
それが。
凌華と陸遜。
二人の長い物語の始まりだった。
――第三話・了
凌華どれだけの絶望だったのかなって思う…
読み返して
野鳥を捕獲する陸議みたいな…
…すみません




