第二話 ここは、どこ?
「…………え?」
凌華は、長剣を握ったまま動けなかった。
風が吹く。
ざわざわと草が揺れた。
遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
それ以外――何もない。
車の音も。
電車の音も。
人の話し声も。
凌華は恐る恐る身体を起こした。
「……痛っ」
全身が軋む。
けれど動く、凌華は確かめる様に身体を動かした。
腕もある。
脚もある。
身体を見下ろす。
服も、資料展へ行ったときのままだった。
「……生きてる?」
震える手で胸に手を当てた。
心臓が動いている。
「私……」
確かーー。
卒論の為に特別展に行って、展示品を見ていた。その後誰かがテロだ!って叫んで大きい音と爆発があって、逃げようとした。
でももう一度吹き飛ばされて…。
身体が動かなくなって。
そして――。
「…………死ん、だ…よね?」
口にした途端、急に怖くなった。
「いやいや……」
首を横に振る。
「死んでない。生きてるし」
頬をつねる。
「痛い」
もう一度。
「痛い……」
夢じゃない。
少なくとも、夢の中で頬をつねって確認するなんて古典的なことをしている自分が、妙に現実的だった。
凌華は周囲を見回した。
見たこともない大きな山。
どこまでも続く草原。
少し離れた場所には林がある。
道らしきものも見えるが、舗装などされていない。
電柱すらない…。
「…………どこ?」
スマートフォン。
思い出したように凌華は慌ててポケットを探った。
「スマホ……!」
ない。
「そうだ、落としたんだ……」
博物館で。
なら誰かに――。
そこまで考えて、止まる。
誰に?
人がいない。
「……まず、人探さなきゃ」
立ち上がる。
その瞬間。
右手に重みを感じた。
「…………」
長剣。
「なんでこれがあるの……?」
資料展に展示されていたものだ。
間違いない。
あれだけ印象に残っていたのだから見間違えるはずがない。
黒い鞘。
赤い装飾。
凌華は恐る恐る持ち上げた。
「重っ……!」
両手で持ち直す。
当然だ。
本物の剣なんて持ったことがない。
いや。
「これ、持ってて大丈夫なの……?」
銃刀法。
そんな単語が頭をよぎる。
「警察に見つかったら……」
そこまで言って。
周囲を見る。
「……警察、いる?」
嫌な予感がした。
けれど凌華は、それを考えないようにした。
とにかく人を探そう。
事情はそれからだ。
長剣をその場へ置いていくことも考えた。
だが。
数歩歩いて、振り返る。
草の上に一本だけ残された剣。
「…………」
なんとなく。
置いていけなかった。
「……持っていくからね」
誰に言っているんだろう。
凌華は長剣を抱えた。
当然、返事などない。
***
どれくらい歩いただろう。
「……もう無理……」
凌華は道端に座り込んだ。
喉が渇いた。
足も痛い。
何より――心細い。
「コンビニ……」
ない。
「自販機……」
あるわけがない。
「Googleマップ……」
スマホがない。
「…………詰んだ」
泣きたくなってきた。
いや。
少し泣いた…。
「何なの、ここ……」
誰も答えてくれない、返事が返ってくるはずもないのに凌華は沈む気持ちを抑える様に独り言を呟く。
しばらく、どのくらい歩いたか分からないが、凌華は遂に体力の限界を感じ、長剣を抱えて座り込んだ。
家に帰りたい。
大学へ帰りたい。
友達に会いたい。
さっきまで卒論が嫌だとか、将来が分からないとか考えていた。
そんなもの、どうでもいい。
帰りたい。
ただそれだけだった。
その時。
遠くから音が聞こえた。
「……?」
凌華が顔を上げる。
カラカラという音、何かが近づいてくる。
「車……?」
違う。
馬だった。
「…………馬?」
一頭ではない。
二頭の馬が木製の荷車を引いている。
凌華は立ち上がった。
「すみませーん!」
必死に手を振る。
「すみません!」
荷車が止まった。
乗っていた男が凌華を見る。
凌華はふと気がつく…服装がおかしい。
時代劇?
真っ先に浮かんだ言葉がそれだった。
「……あの」
男も凌華を怪訝そうに見ている。
当然だ。
こちらも十分怪しい。
変な服装の見た事もない女が長剣を持って声をあげているのだ。
凌華は慌てて頭を下げた。
「すみません! ここがどこか分からなくて!」
男が何かを言った。
「…………え?」
聞いたことのない言葉。
中国語?
いや…
大学で少し中国語を取ったけれど、全然違う。
「ご、ごめんなさい。分からない……」
男も困った顔をする。
もう一人の老人が荷車から降りてきた。
じろじろと凌華を見る。
そして。
腰の長剣を見た。
その瞬間老人の表情が変わった。
「違います!」
凌華は反射的に剣から手を離した。
「これ私のじゃない……いや持ってるから私のなのかな……違うんです! 怪しい者じゃなくて!」
完全に怪しい。
自分でも分かる。
老人が何かを尋ねてきたが、言葉が理解できない。
凌華は泣きそうになった。
「……分からない」
声が震える。
「ごめんなさい……何言ってるか……」
その時。
頭の奥が、ズキンと痛んだ。
「っ……!」
凌華がこめかみを押さえる。
耳鳴りし、視界が揺れる。
そして。
老人の声が――突然、意味を持った。
「――娘、どこから来た?」
凌華が固まる。
「…………え?」
老人も驚く。
「言葉が分かるのか?」
「……分かる」
さっきまで理解できなかったはずなのに…。
「分かります……」
自分でも説明できない。
老人が警戒しながら尋ねた。
「名は?」
「凌華……です」
「姓は?」
「え?」
「家はどこだ」
家。
「…………」
答えられなかった。
日本。
そう言って通じるのだろうか。
「……分かりません」
老人の眉が寄る。
「家が分からぬ?」
「違うんです。私……」
何て説明すればいい?
『博物館でテロに遭いました。
気付いたらここにいました。
未来から来ました。』
自分で考えても頭がおかしい。
「……道に迷いました」
結局、それしか言えなかった。
老人は凌華をしばらく見ていた。
やがて小さく息を吐く。
「近くに我らの村がある。来るか?」
「……いいんですか?」
「このままでは日が暮れる」
凌華は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
その時。
老人が長剣を見る。
「それは?」
「……拾いました」
嘘ではない。
たぶん。
「手放せぬのか?」
凌華は長剣を見る。
「…………分かりません」
なぜ持っているのか。
なぜ置いていけないのか。
でも手放したいとは思わなかった…。
***
村へ着いた凌華は、言葉を失った。
「…………」
道の両側には、土を塗り固めた壁の家が並んでいた。
ところどころひび割れた壁。
藁や板で葺かれた屋根。
柱も梁も、綺麗に加工された木材ではない。節や歪みを残した木が、そのまま建物を支えている。
足元の道も土のままだ。
人や荷車が何度も通ったのだろう。地面には深い轍が残り、乾いた土が歩くたびに薄く舞い上がる。
家々の前では、女たちが桶を囲んで布を洗い、別の場所では老人が籠を編んでいる。
少し離れた畑では、男たちが鍬のような農具を振るって土を起こしていた。
機械の音はしない。
聞こえるのは、土を打つ鈍い音と、人の掛け声だけだった。
その脇を、裸足の子どもたちが笑いながら駆け抜けていく。
「待てー!」
「こっちだ!」
土埃を上げながら走る子どもの後ろを、数羽の鶏が驚いたように羽をばたつかせて逃げていった。
「…………」
凌華は呆然と、その光景を目で追った。
柵の向こうでは、牛がゆっくりと草を食んでいる。
荷を積んだ木の車。
軒先に吊るされた干し草。
積み上げられた薪。
どこからか漂ってくる、煙と土と家畜の入り混じった匂い。
電線もアスファルトもエンジンの音もない。
目に入るもののどこにも、凌華が知っている「現代」がなかった。
「…………何、ここ」
観光地?
一瞬、そう思った。
昔の暮らしを再現した施設なら、こんな場所もあるのかもしれない。
でも。
凌華の横を通り過ぎた女性が、水の入った桶を抱えたまま足を止めた。
じっと凌華を見る。
その視線が、彼女の服へ落ちる。
別の男も振り返った。
子どもたちまで、遊ぶのをやめて凌華を見ている。
「……そりゃ見るよね」
自分だけが、明らかに異質だった。
映画のセットでも。
観光地でもない。
ここでは、この光景こそが――日常なのだ。
老人の家へ連れていかれ、水をもらった。
「ありがとうございます」
凌華は夢中で飲んだ。
生き返る。
食事まで出してもらった。
質素な粥、それでも今まで食べた何より美味しく感じた。
少し落ち着いたところで、凌華は尋ねた。
「あの……ここって、どこなんですか?」
老人が地名を答える。
聞き覚えがない。
「もっと大きな……国というか……」
老人が怪訝そうな顔をする。
凌華は質問を変えた。
「今の皇帝って……誰ですか?」
空気が変わった。
老人が凌華を見る。
「なぜそのようなことを聞く?」
「……確認したくて」
老人が答える。
その名前を聞いた瞬間。
凌華の手から器が落ちた。
カラン。
「…………嘘」
心臓が激しく鳴り始める。
知っている。
卒論で何度も読んだ。
後漢…
「じゃあ……」
震える声で尋ねる。
「曹操って人……いますか?」
老人の顔が険しくなる。
「無論だ」
凌華の呼吸が止まりそうになる。
「劉備は……?」
「聞いたことはある」
「袁紹……」
「北方の雄であろう」
「…………孫策」
老人が少し考える。
「江東の孫伯符か」
頭が真っ白になった。
孫伯符。
孫策の字。
そんなものを、現代の一般人が自然に口にするはずがない。
「……今、何年……?」
老人が答えたその年号を凌華は西暦に直す。
そして。
「…………そんな」
力が抜けた。
孫策がいる…ということは。
曹操も、劉備もいる。
そして。
陸遜も――。
「三国志……」
凌華は呟いた。
三国志は歴史の中の出来事だ。
自分が卒業論文で読んでいた時代。
そんな馬鹿な。
「タイムスリップ……?」
死んで過去へ来た?
そんな非現実な事があり得るのだろうか。
凌華は頭を抱えた。
「帰れるの……?」
誰にも答えられない。
怖い…
さっきまでとは違う恐怖だった。
自分は日本から遠く離れただけではない。
約千八百年も離れた場所にいる。
「…………」
ふと。
部屋の隅に置いた長剣を見る。
あれだけは現代から一緒に来た。
「……あなた、何なの?」
当然、答えは返って来ない。
凌華は知らなかった。
その剣の中で。
一人の男が、ずっと彼女の声を聞いていることを。
***
それから数日。
凌華は村に身を寄せた。
そうする事で、少しずつ状況も分かってきた。
ここは江東にほど近い土地。
戦乱の影響で流民も多く、身元の分からない凌華も「戦で家族を失った娘なのだろう」と勝手に解釈された。
それは都合が良かった。
本当のことなど説明できない。
村の女性から服も頂いた。
お世辞にも着心地が良いとは言えないが、この時代の一般的な平服だった。
現代の服は布に包み、大切にしまった。
これだけが、自分が本当に現代にいた証拠だったから…
「凌華!」
子どもが駆けてくる。
「どうしたの?」
「これ!」
小さな花を差し出される。
「私に?」
子どもが笑みを浮かべて頷く。
凌華は久しぶりに笑った。
「ありがとう」
最初は怖かった村も、少しずつ居場所になっていった。
帰る方法は分からない。
でも。
生きなければならない。
だったらまず、この時代についてもっと知らなければ。
そう思い始めた頃だった。
ある日の夕方。
村の外から、一人の男が走ってきた。
「賊だ!!」
凌華の胸に冷たい空気が差し込み、思わず振り返る。
走ってきた男は血を流していた。
「賊が来るぞ!!」
村中の空気が一変する。
「女と子どもを隠せ!」
「門を閉めろ!」
「急げ!」
凌華の身体が硬直する。
「……賊?」
歴史の本には、一行で書かれる。
――各地で賊が横行した。
凌華にとって、それは文字だった。
今までは。
遠くから馬蹄の音が聞こえる。
一つ。
二つ。
いや。
もっと多い。
村人たちの顔に浮かぶ恐怖を見て、凌華は初めて理解した。
ここは三国志の時代。
英雄たちが戦う華やかな物語の中ではない。
人が簡単に死ぬ時代。
そして…
――凌華の泊まっている家の片隅。
布に包まれていた長剣が――
微かに震えた。
「…………?」
凌華が振り返る。
気のせい…そう思った。
その時。
男の声が、小さく聞こえた。
『……ったく』
凌華の目が見開かれる。
「…………?」
誰?
反射的に辺りを見回す。
けれど、すぐ近くに男の姿はない。
『しっかりしろよ』
「…………」
今度は、はっきり聞こえた。
凌華はゆっくりと視線を落とす。
その先にあるのは――
布に包まれた、あの長剣。
「…………え?」
外から悲鳴が響いた。
――第二話・了




