第一話 その剣に呼ばれて
本作は三国時代を題材とした歴史IF作品です。史実を参考にしていますが、人物の生没年・出来事の時期や順序・人間関係など、史実とは異なる設定・展開があります。
「……孫策、か」
ガラスケースの前で、凌華は小さく呟いた。
平日の午後。
大学の講義が休講になったことをいいことに、凌華は一人で博物館へ足を運んでいた。
目的は、現在開催されている『三国志特別資料展』。
遊びに来たわけではない。
一応、これでも卒業論文のための資料集めだ。
「写真撮影不可……だよねぇ」
スマートフォンを片手に、展示ケースの横に置かれた説明書きを覗き込む。
凌華は文学部の大学四年生。
卒業論文の題材に選んだのは、中国の三国時代――その中でも孫氏が治めた呉だった。
三国志といえば、世間一般では劉備や曹操の方が人気なのかもしれない。
けれど凌華は、昔からなぜか呉が好きだった。
豪快な孫策。
若くして兄の跡を継いだ孫権。
周瑜、魯粛、呂蒙。
そして――
「陸遜……」
展示されていた人物相関図の中にその名を見つけ、凌華の目が少しだけ柔らかくなる。
陸遜伯言。
夷陵の戦いで劉備の大軍を破った、呉を代表する名将。
派手さという意味では、他の英雄に一歩譲るかもしれない。
それでも凌華は昔から陸遜が好きだった。
理知的で、冷静で。
それでいて、最後まで呉のために尽くした人物。
「……まぁ卒論に、推しだから選びましたなんて書けないけど」
自分で言って、少しだけ笑う。
友人たちからは、
『また三国志?』
『凌華って意外と歴史オタクだよね』
なんて言われている。
別にそこまで詳しいつもりはない。
戦の年号を全部言えるわけでもないし、武将の系譜を暗唱できるわけでもない。
ただ、人並みよりは少し知っている。
それだけだ。
凌華はノートへ簡単なメモを書き込んでから、次の展示室へ進んだ。
そして。
足が止まった。
部屋の中央。
照明を落とした展示スペースの中で、一振りの長剣だけが静かに照らされている。
「……綺麗」
思わず口から漏れた。
他の展示品より、特別豪華なわけではない。
むしろ装飾は少ない。
黒ずんだ鞘。
長い年月を経た金属。
柄にはわずかに赤い装飾が残っている。
それなのに、凌華は目を離せなかった。
吸い寄せられるようにガラスケースへ近づく。
説明文を読む。
――後漢末期から三国時代初期のものと推定。
――江東地方より出土。
――所有者不明。
「江東……」
呉の土地。
凌華はもう一度、剣を見る。
妙だった。
胸の奥がざわつく。
初めて見たはずなのに、どこか懐かしい。
まるで。
ずっと昔から知っているものを、ようやく見つけたような。
「何これ……」
思わず自分の胸元へ手を当てた。
鼓動が少し速い。
疲れているのだろうか。
最近は卒論も進まない。
就職のことも考えなければならない。
周りの友人はどんどん進路を決めているのに、自分だけが置いていかれているような気さえする。
凌華は昔からそうだった。
大きな失敗をしたことはない。
でも何かを成し遂げたという自信もない。
何かを選ぶたび、
――本当にこれでいいのかな。
そう考えてしまう。
大学を選んだときも。
学部を選んだときも。
卒論を三国志に決めたときでさえ。
「……私、何してるんだろ」
卒業して。
就職して。
その後は?
自分がどんな大人になりたいのかも、よく分からない。
ガラス越しに長剣を見る。
その刃だけが、まるで迷いなど知らないように真っ直ぐだった。
「羨ましいな」
剣に話しかけてどうするんだ、と自分で少し可笑しくなる。
その時だった。
――ドンッ!!
腹の底まで響くような轟音。
「……え?」
床が揺れた。
直後。
遠くから悲鳴が聞こえた。
「な、何……?」
展示室にいた人々が一斉にざわめき出す。
もう一度、爆発音。
今度は先ほどより近い。
館内放送が何かを告げようとする。
しかし。
『――ただちに――』
途中で音声が途切れた。
そして廊下から、誰かが叫んだ。
「逃げろ!!」
次の瞬間。
人がなだれ込んできた。
「えっ……!」
凌華は押され、よろめく。
「テロだ!」
誰かが叫んだ。
「武器持ってるぞ!」
「警察は!?」
「出口塞がれてる!」
何が起きているのか分からない。
理解する暇もなかった。
悲鳴。
足音。
割れるガラス。
凌華の身体が人波に押される。
「痛っ……!」
肩が壁にぶつかった。
スマートフォンが手から落ちる。
拾わなければ。
一瞬そう思った。
でも周囲を見る。
誰も他人を気にかける余裕はない。
皆、必死に逃げている。
「……私も……」
逃げなきゃ。
頭では分かっている。
なのに足が震える。
怖い。
何処へ行けばいい?
出口は?
こっちで合っている?
まただ。
こんな時まで。
――これでいいのかな。
考えている。
「何してるの……!」
自分を叱るように呟いて走り出した。
その時。
乾いた破裂音。
目の前にいた男が倒れた。
凌華の身体が硬直する。
「――っ」
何が起きたのか。
理解したくなかった。
床に赤いものが広がっていく。
「いや……」
息ができない。
周囲の悲鳴が遠く聞こえる。
足が動かない。
「いや……いや……」
逃げなきゃ。
逃げなきゃ。
そう思っているのに。
身体がいうことを聞かない。
その時。
誰かが凌華の腕を掴んだ。
「こっち!」
見知らぬ女性だった。
凌華は引っ張られるまま走る。
展示室の出口へ必死に足を動かした、煙が立ち込める中で光が見えた。
非常口へ向かう人の群れ。
もう少し。
そう思った瞬間。
背後で再び爆発が起きた。
「――!!」
凄まじい衝撃。
身体が宙へ浮いた。
何かに叩きつけられる。
「……っ……!」
音が消えた。
耳鳴りだけがする。
視界がぼやける。
床に倒れたまま、凌華は指先を動かそうとした。
動かない。
身体が熱い。
でも、同時に寒い。
「……いや……」
死ぬ。
唐突にそう思った。
そんなの嫌だ。
まだ卒業もしていない。
やりたいことだって――。
そこまで考えて。
凌華は気付いた。
やりたいこと。
自分は、何がしたかったのだろう。
「……私……」
涙が滲む。
こんなところで死ぬの?
何も決められないまま?
何者にもなれないまま?
「嫌……」
消え入りそうな声。
視界が暗くなっていく。
その時。
瓦礫の向こうに、何かが見えた。
割れた展示ケース。
そして。
床へ落ちている――あの長剣。
「……剣……」
なぜか。
あの剣だけが、はっきり見えた。
赤い光が見えた気がした。
凌華は無意識に手を伸ばす。
届くはずなどない距離。
それでも。
「……たすけて……」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
神様かもしれない。
誰かかもしれない。
あるいは。
あの剣だったのかもしれない。
指先が床を擦る。
そして。
意識が消える、その寸前。
確かに聞こえた。
男の声だった。
低く。
どこか不機嫌そうで。
けれど不思議なほど力強い声。
『――やっと見つけた』
「……え……?」
それが。
凌華が現代で聞いた、最後の言葉だった。
***
風が吹いていた。
草の匂い。
鳥の声。
頬に当たる、柔らかい土。
「…………」
凌華の指が僅かに動く。
ゆっくり目を開く。
見たことない青い空が目の前に広がっている。
「…………ここ……どこ……?」
身体を起こそうとして。
凌華は固まった。
自分の右手が――何かを握っている。
見覚えのある黒い柄。
「…………」
ゆっくり視線を下げる。
そこにあったのは。
資料展のガラスケースに飾られていたはずの、
あの長剣だった。
「…………え?」
凌華の声だけが、誰もいない野原に響いた。
――第一話・了
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