第十話 初陣
「……周瑜」
口にした自分の声が、妙に遠く聞こえた。
目の前に立つ青年は、凌華がこれまで文字の中で知っていた「周瑜」という名前よりも、ずっと若かった。
穏やかな表情。
落ち着いた物腰。
けれど、その立ち姿には自然と人の目を引くものがある。
赤壁の名将。
孫策の親友。
美周郎。
現代にいた頃、何度も資料の中で目にした言葉が、次々と頭の中へ浮かんでくる。
そして最後には、どうしても…その先に待つ結末まで思い出してしまう。
――早すぎる死。
「…………」
まただ。
目の前で生きている人を見ているのに、自分だけが、その人の最期を先に見てしまう。
嫌になる。
「凌華?」
すぐそばから陸議の声が聞こえ、凌華ははっと顔を上げた。
「あ……すみません」
周瑜は気を悪くした様子もなく、穏やかに微笑んだ。
「いえ。孫策から話は聞いています」
「……私の?」
「かなり」
その言葉に、凌華の胸へ嫌な予感が走った。
ゆっくり。
孫策へ視線を向ける。
「何を話したんですか」
「賊をぶっ倒した変な女がいるって」
「最悪!」
思わず声が大きくなった。
「褒めてんだぞ?」
「どこがですか!」
隣で周瑜が小さく笑う。
「確かに、聞いていた印象とは少し違いますね」
「どういう印象だったんですか……」
「もっと豪胆な方かと」
「全然違います」
「だろ?」
孫策が即答した。
凌華が勢いよく振り返る。
「お前が言うな!」
『俺もそう思うぞ』
腰に下げた長剣からも声が飛んできた。
「孫策まで!」
「ん?」
生きている孫策が振り返る。
「あ……」
またやった。
凌華は慌てて口を閉じる。
「何でもありません」
「お前、本当に独り言多いな」
「癖なんです!」
「便利な癖だな!」
孫策が笑う。
その隣で周瑜の視線が、凌華の腰元へ向けられた。
「その剣」
凌華の心臓が跳ねる。
「……はい?」
「珍しい造りですね」
さっきまで好き勝手に喋っていた剣の孫策が、急に黙った。
『…………』
凌華はそれだけで嫌な予感がした。
周瑜は長剣をじっと見ている。
「どこで手に入れたのです?」
「それは……」
凌華は言葉に詰まった。
視線だけを動かす。
陸議が見ている。
生きている孫策も。
呂蒙も。
そして周瑜も。
――全員こっち見てる。
「……拾いました」
「拾った?」
孫策が眉を上げる。
そしてすぐ、面白そうに笑った。
「そんな立派な剣を?」
「はい」
「どこで?」
「…………」
――千八百年以上先の資料展です。
もちろん。
言えるはずがない。
「覚えてません」
「怪しいな!」
「私もそう思います!」
「自分で言うな!」
孫策が吹き出した。
呂蒙も笑っている。
周瑜も口元には笑みを浮かべていた。
けれど。
その目だけは。
まだ静かに長剣を観察している。
「…………」
凌華は何となく思った。
――この人には。
迂闊なことを言わない方がいい。
『公瑾は昔っから勘がいいからな』
腰元から、孫策が小さく呟いた。
「昔からって……」
凌華も周囲に聞こえない程度の声で返す。
『気をつけろよ』
「あなたの正体がバレるってこと?」
『それもある』
「…………」
――それも?
他に何があるのだろう。
凌華が問い返そうとした。
その時だった。
「孫策様!」
兵の声が響いた。
さっきまで笑い声があったその場の空気が、一瞬で変わった。
孫策が振り返る。
「どうした」
その声も。
先ほどまでとはまるで違う。
低く。
鋭い。
兵が駆け寄り、素早く礼を取る。
「斥候より報告です。反乱勢力、およそ二百。こちらへ向かっております」
「…………」
凌華の身体が硬直した。
――二百。
その数字だけが。
頭の中に残った。
「周瑜」
「ああ」
周瑜の顔からも笑みが消えていた。
「こちらの兵は?」
「今すぐ動かせるのは百二十ほどです」
呂蒙が小さく舌打ちする。
「向こうの方が多いな」
「数だけならな」
孫策は笑った。
けれど。
さっきまでの笑い方とは違う。
怯えている様子はない。
むしろ。
身体の内側にある何かへ火がついたような。
そんな表情だった。
「迎え撃つ」
その一言で。
周囲にいた兵たちが一斉に動き始めた。
「陣を整えろ!」
「弓兵を前へ!」
「馬を回せ!」
さっきまで凌華たちの近くで話していた兵まで、表情を変えて走り出す。
武器が運ばれる。
馬具が締め直される。
鞘と鎧が触れ合う硬い音。
兵たちが互いに指示を飛ばす声。
それらが。
一気に宿営地を満たしていく。
凌華だけが。
その場に取り残されたように立ち尽くしていた。
ほんの少し前まで。
自分は歴史上の人物たちと話していた。
笑っていた。
孫策と口喧嘩までしていた。
けれど。
ここは三国時代なのだ。
今から。
本当に戦が始まる。
「凌華」
気づけば。
陸議が目の前に立っていた。
「はい……」
「覚えていますね」
凌華は小さく息を吸った。
「約束」
「ええ」
「側を離れない」
「はい」
「勝手に戦わない」
「……はい」
「危険なら退く」
「はい」
陸議は凌華の顔をじっと見た。
「怖いですか?」
凌華は。
ほんの少し迷った。
でも。
強がっても仕方がない。
「怖い」
正直に答えた。
すると。
「それでいい」
「……え?」
「怖いと思えるうちは、無茶をしにくい」
そう言って。
陸議は自分の武器を手に取った。
「私から離れないでください」
その声を聞いた瞬間。
強張っていた胸が。
ほんの少しだけ緩んだ。
「……はい」
凌華は頷いた。
***
やがて。
軍が動き始めた。
凌華は約束通り、陸議のすぐ後ろを進んでいた。
少し離れたところには周瑜。
さらに前方には。
孫策と呂蒙の姿がある。
風を受けた旗が大きく翻る。
何十、何百という足が地面を踏むたび。
低い振動が足元から伝わってくる。
「…………」
凌華は前を見た。
最初は。
遠くに黒いものが見えるだけだった。
それが少しずつ大きくなる。
人の形になる。
武器が見える。
旗が見える。
――敵。
あそこに二百人もの人間がいる。
「……多い」
『数字見るな』
孫策の声がした。
「でも……」
『目の前だけ見ろ』
「…………」
村の時と同じ言葉だった。
でもあの時とは違う。
あの時は。
何が起きているのかさえ分からなかった。
今は分かっている。
これから人と人がぶつかる。
戦が始まる。
そして。
人が死ぬ。
「……っ」
指先が震えた。
凌華は腰に差した短剣の柄へ触れる。
「凌華」
前を向いたまま。
陸議が名前を呼んだ。
「はい」
「呼吸を」
「あ……」
気づいた。
息を止めていた。
凌華は慌てて息を吸う。
ゆっくり。
吐く。
もう一度。
吸って。
吐く。
それだけで僅かに視界が広くなった。
「ありがとう」
「まだ何もしていません」
「それでも」
凌華は陸議の背中を見た。
その時。
前方で孫策が剣を高く掲げた。
「行くぞ!」
次の瞬間。
兵たちの声が大地を震わせた。
「おおおおお!!」
空気そのものが揺れたような声に。
凌華の身体が震える。
そして。
両軍の距離が。
一気に縮まった。
***
最初に耳へ飛び込んできたのは、刃と刃がぶつかる激しい金属音だった。
そこへ。
怒号が重なる。
馬が甲高く嘶く。
誰かが叫ぶ。
頭上を弓矢が風を切って飛んでいく。
土埃が舞い上がり。
目の前の景色が、絶えず動き続けている。
凌華は必死に。
陸議の後ろを離れないようについていった。
「右から来ます!」
兵の声が飛ぶ。
陸議は即座に振り向いた。
「前列、崩すな!」
「はい!」
凌華は思わず。
陸議の横顔を見た。
いつもの彼とは。
まるで違う。
穏やかに話していた青年は、そこにはいなかった。
声は鋭く。
周囲を見渡す視線は速い。
次々と変わる状況の中でも、迷いなく兵へ指示を出していく。
「…………」
――この人が。
いずれ大軍を率いる。
夷陵で劉備の大軍を破る。
凌華が史書で知っていた陸遜。
その片鱗を。
今。
初めて見た気がした。
その時。
一人の敵兵が、崩れた兵の隙間から飛び出してきた。
「――!」
凌華の身体が硬直する。
目の前に剣が見えた。
途端に。
別の光景が脳裏へ重なった。
燃える村。
血。
倒れていく男。
手に残った。
肉を斬った感触。
『凌華!』
「……っ!」
孫策の声で意識が引き戻された。
敵兵がこちらへ剣を振り上げている。
陸議は別の敵に対応していた。
――間に合わない。
「凌華!」
陸議の声が飛ぶ。
避けなきゃ。
分かっている。
なのに。
足が動かない。
『右へ!』
孫策の声が頭の中へ叩き込まれた。
その瞬間。
身体が反応した。
一歩。
右へ踏み出す。
敵の剣が。
凌華の頬すれすれを通り過ぎた。
「……!」
空気を切る音。
頬に冷たいものが触れたような感覚、敵兵が体勢を立て直す。
もう一度こちらへ来る。
『抜け!』
凌華は腰の短剣を抜いた。
長剣ではない。
村で人を斬った剣でもない。
陸議から渡された。
自分で握ると決めた。
二振りの短剣。
「……怖い」
小さく。
声が漏れた。
『知ってる』
「斬りたくない」
『なら殺さず止めろ』
「できるの?」
『やってみろ』
敵兵が踏み込んでくる。
凌華は陸議に教えられたことを必死に思い出した。
剣だけを見るな。
肩。
腰。
足。
相手の身体全体を見る。
「…………」
敵の肩が動く。
来る。
凌華も踏み込んだ。
右手の短剣で相手の刃を受け流す。
金属が擦れ。
腕へ強い衝撃が走る。
「――っ!」
痛い。
でも。
止まらない。
左。
空いた相手の手首へ。
短剣の刃ではなく。
柄を叩きつける。
「ぐっ!」
男の手から剣が落ちた。
乾いた音を立て地面を転がる。
「今……!」
凌華は。
覚えたばかりの足運びで踏み込み。
相手の足を払った。
男の身体が。
地面へ倒れる。
「…………」
凌華は。
動けなくなった男を見下ろした。
血は。
流れていない。
――殺していない。
「できた……」
胸の奥に。
僅かな安堵が広がった。
その瞬間。
『止まるな!』
「え?」
横から。
もう一人。
「――!」
今度は。
孫策に言われるより先に身体を動かした。
右へ避ける。
短剣で相手の武器を外へ逸らす。
開いた腹へ柄を叩き込む。
「ぐっ……!」
敵兵が。
苦しそうに身体を折る。
そのまま。
地面へ倒れた。
「……!」
二人。
二人とも。
殺していない。
凌華の胸が。
激しく上下している。
怖い。
手も震えている。
それでもできた。
「凌華!」
陸議が駆け寄ってくる。
「怪我は!?」
「ない!」
「本当に?」
「大丈夫!」
陸議は凌華の身体を素早く確認し。
次に。
地面へ倒れている二人の敵兵を見た。
そして。
凌華を見る。
その目に。
僅かな驚きが浮かんだ。
「……斬らなかったのですね」
「できれば……」
凌華は。
自分の手にある短剣を見た。
「殺したくない」
陸議は。
ほんの少しだけ黙った。
「分かりました」
それだけだった。
甘いとも。
無理だとも。
言わなかった。
代わりに。
「なら」
「はい」
「そのための技術を覚えてください」
「…………」
凌華は陸議を見た。
戦場の喧騒の中でも。
その言葉だけは。
不思議なほどはっきり胸へ残った。
***
戦いは凌華が想像していたよりもずっと激しかった。兵の数だけを見れば、相手の方が多い。それでも、孫策軍の陣は簡単には崩れなかった。
特に。
前線に立つ孫策は、凌華が知っていた「小覇王」という呼び名そのものだった。
「うおおおっ!」
声を上げ。
敵の中へ踏み込む。
振るわれた剣を弾き。
次の瞬間には別の敵へ向かっている。
速い。
強い。
そして。
何より。
迷いがない。
「……あれ」
凌華は思わず見入った。
『何だよ』
「あなた」
『ん?』
「あんな感じだったの?」
『……まあな』
「すご……」
『もっと褒めろ』
「調子乗るからやだ」
『おい!』
凌華はほんの少し笑った。
でもすぐに胸の奥が冷たくなる。
あれほど強い、あれほど生き生きとしている。
この人が。
死ぬ。
未来では。
史書の中のほんの数行で。
「…………」
ほんの一瞬、意識が孫策へ向いた。
それがまずかった。
「凌華!」
陸議の声。
「――!」
後ろ。
振り返った時には。
もう。
敵兵が目の前にいた。
近い。
近すぎる。
「――っ!」
剣が。
振り下ろされる。
間に合わない。
そう思った瞬間。
ガンッ!
横から別の武器が飛び込み。
凌華へ向かっていた刃を弾き飛ばした。
「ぼさっとすんな!」
「……!」
呂蒙だった。
「呂蒙さん!」
「戦場でよそ見するな!」
呂蒙は敵を押し返しながら叫ぶ。
「ごめんなさい!」
「謝んのは後だ!」
「はい!」
呂蒙が。
にっと笑った。
「それでいい!」
次の瞬間、凌華と呂蒙は互いの背中を預ける形になった。凌華は二振りの短剣を構える。
「お前、殺さねえように戦ってんのか?」
「できるだけ!」
「難しいことするな!」
「分かってます!」
「でも嫌いじゃねえ!」
そう叫ぶと、呂蒙は目の前の敵へ踏み込んでいった。
凌華も周囲を見る、武器を落とす、足を止める、相手が動けなくなるところまで。
自分にできる方法で。
戦う。
『そうだ』
孫策の声が耳の奥へ届く。
『それでいい』
「うん」
最初は孫策の声に導かれていた動きが、少しずつ、自分自身の判断へ変わっていく。
――これが。
私の戦い方そう思い始めた。
その時だった。
***
戦場は。
凌華の決意だけで、すべてが思い通りになるほど甘くはなかった。
「――危ない!」
誰かの叫び声がした。
凌華が反射的にそちらを見る。
「…………え」
一人の若い兵がいた。
見覚えがある。
昨日。
宿営地で凌華のすぐ近くに座っていた男だった。
故郷の話をしていた。
妻の話をしていた。
そして。
嬉しそうに笑っていた。
――子どもが生まれたばかりなんだ。
その男の横から敵兵が踏み込んでくる。
槍の穂先が真っ直ぐ男へ向いていた。
「やめて!」
凌華が走り出す。
けれど。
遠い。
間に合わない。
「――!」
槍が。
男の身体を貫いた。
その瞬間。
凌華の耳から戦場の音が消えた。
「…………」
男の身体が力を失う。
地面へ。
崩れ落ちる。
「……え」
昨日笑っていた。
子どもが生まれたと。
嬉しそうに話していた。
「……嘘」
凌華は走った。
「待って!」
男のそばへ膝をつく。
傷口から。
血が溢れている。
「大丈夫……」
手で必死に押さえる。
温かい血が、指の間から溢れてくる。
――止まらない。
「大丈夫だから」
自分でも。
大丈夫なわけがないと分かっていた。
それでも。
他の言葉が出てこない。
「誰か!」
凌華が顔を上げる。
「誰か来て!」
「凌華!」
陸議が駆けてきた。
そして。
地面に倒れている兵を見た。
その表情が。
一瞬だけ変わる。
それだけで。
凌華には分かってしまった。
「……助けて」
陸議は答えない。
「陸議さん」
凌華の声が震える。
「助けてよ」
「…………」
陸議は。
何も言えなかった。
男の呼吸が。
少しずつ浅くなる。
「家に……」
掠れた声。
凌華は慌てて。
男の顔へ耳を寄せた。
「何?」
「帰り……てえな……」
「帰れるよ」
口から。
嘘が出た。
「絶対帰れるから」
「…………」
「だから」
お願い。
「だから……」
男の瞼が。
ゆっくり閉じた。
「待って」
呼吸が。
止まる。
「…………」
「待って!」
凌華は男の肩へ触れた。
「起きてよ」
動かない。
「…………」
「ねぇ……!」
その肩へ。
陸議の手が触れた。
「凌華」
「嫌」
「…………」
「嫌だ」
声が子どものように震えた。
また。
目の前で。
人が死んだ。
「私……」
何もできなかった。
未来を知っているとか。
歴史を変えるとか。
そんな大きなことを言って。
目の前にいた。
たった一人すら。
救えなかった。
「…………」
『凌華』
孫策の声がする、でも返事ができない。
「私、何しに来たんだろ」
「凌華」
今度は陸議の声だった。
「今は立ってください」
「でも……」
「まだ戦は終わっていません」
「…………」
一瞬。
冷たい。
そう思った。
こんな時に。
どうして。
そう思いながら凌華は自分の肩に置かれた陸議の手を見た。
「…………」
僅かに。
震えていた。
凌華が顔を上げる。
陸議は。
倒れた兵を見ていた。
その表情は。
決して平然としてなどいなかった。
――この人だって。
平気じゃない。
悲しくないわけじゃない。
それでもまだ生きている人たちを守るために立っている。
凌華は強く唇を噛んだ。
「……うん」
ゆっくり立ち上がり目元を乱暴に拭う。
そして。
二振りの短剣を握り直した。
怖い。
苦しい。
今すぐ。
ここから逃げたい。
それでも。
ここで座り込んでいたら次に誰かが危険になった時、今度こそ何もできない。
「行きます」
陸議が凌華を見た。
静かに頷く。
「離れないで」
「はい」
二人は。
再び戦場へ戻った。
***
戦いが終わったのは太陽が西へ大きく傾いた頃だった。反乱勢力は退き孫策軍の兵たちから、勝利を喜ぶ声が上がっている。
けれど。
凌華はその声の中で笑うことができなかった。
地面には動かなくなった人たちがいる。
敵も。
味方も。
ついさっきまで生きていた人たちが。
「勝った」
その一言だけで、全部を終わらせることなど、できなかった。
「…………」
凌華は。
布を掛けられた一人の兵の前へしゃがみ込んだ。
さっき。
目の前で死んだ男。
名前は。
聞いたはずだった。
昨日。
確かに。
聞いたはずなのに。
思い出せない。
「…………」
それが何より苦しかった。
「……ごめんなさい」
小さく呟いた。
何に対して。
謝っているのか。
自分でも分からない。
助けられなかったことなのか。
名前すら覚えていなかったことなのか。
それとも。
歴史を変えるなんて言いながら。
何もできなかった自分自身に対してなのか。
「凌華」
背後から静かな声がした。
振り返る。
「……周瑜さん」
周瑜が立っていた。
さっきまでの穏やかに笑っていた青年とは違う。
顔にも。
衣服にも。
戦の痕跡が残っている。
「初めての戦でしたね」
「はい」
「怖かったでしょう」
凌華は少しだけ力なく笑った。
「みんな、それ聞くんですね」
周瑜も僅かに表情を緩めた。
「皆、怖いからでしょう」
「…………」
また。
同じ答えだった。
凌華は俯く。
「勝ったのに」
「はい」
「全然嬉しくない」
周瑜は。
何も言わなかった。
凌華が自分で言葉を続けるのを待っていた。
「こういうものなんですか?」
「そういう時もあります」
「……慣れますか?」
周瑜は。
少し考えた。
そして。
「慣れてはいけない部分もあります」
凌華が顔を上げる。
「ただ」
周瑜は戦いの終わった場所へ視線を向けた。
「悲しむだけでは、次を守れない」
「…………」
「何が悪かったのか」
静かな声が続く。
「なぜ死なせたのか」
「次に同じことを起こさないため、何を変えるのか」
凌華は黙って聞いていた。
「それを考える」
周瑜が再び凌華を見る。
「死を無駄にしないとは」
一度。
言葉を切る。
「忘れないことだけではありません」
その言葉が。
凌華の胸へ。
深く入っていった。
「……次を変えること」
「私はそう思います」
「…………」
――変える。
また。
そこへ戻ってきた。
未来を。
変える。
でも。
未来というのは。
孫策を救うとか。
周瑜を救うとか。
そんな遠い話だけではないのかもしれない。
今日目の前で失った一人を。
次は失わないために。
自分たちが変わる。
それも。
未来を変えるということなのかもしれない。
***
夜。
戦いを終えた宿営地は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
凌華は、寝台の上で身体を横たえていた。
けれど。
目を閉じても。
眠ることができない。
瞼の裏に。
何度もあの兵の顔が浮かぶ。
――帰りてえな。
最後の声まで耳に残っている。
凌華は身体を起こすと、枕元に置いていた長剣を抱えた。
「孫策」
『ん』
「今日」
声が掠れていた。
「一人死んだ」
『ああ』
「知ってる?」
『見てた』
凌華は目を閉じた。
「私」
言葉が喉につかえる。
「何もできなかった」
『そうだな』
「…………」
優しい嘘は。
返ってこなかった。
「……慰めてよ」
『慰めてほしいのか?』
「少し」
しばらく返事はなかった。
やがて。
『じゃあ言うぞ』
「うん」
『お前は悪くねえ』
凌華は黙った。
でも。
それで終わりではなかった。
『でも』
「…………」
『何もできなかったのも事実だ』
胸が痛んだ。
分かっていた。
分かっていたからこそ。
痛かった。
それでも凌華は逃げなかった。
『だったら次だ』
「次?」
『次はできること増やせ』
凌華がゆっくり長剣を見る。
『全部救えるなんて思うな』
「嫌」
即答だった。
『凌華』
「それでも思いたい」
『…………』
「全部は無理でも」
凌華の声が震える。
「最初から諦めたくない」
孫策は何も言わない。
「孫策も」
目の前で豪快に笑い、誰よりも先に戦場を駆けていた、生きている孫策。
「周瑜さんも」
今日初めて出会ったばかりなのに、戦いを終えた凌華の言葉を静かに聞いてくれた周瑜も。
「呂蒙さんも」
いつも豪快に笑いながら、戦場では凌華を助けてくれた呂蒙も。
そして――。
「陸議さんも」
怖くて動けなくなった時には待ってくれて、危険な時には守ってくれる。けれど、ただ甘やかすのではなく、自分の足で立てるように導いてくれる陸議も。
そして。
今日。
名前すら。
ちゃんと覚えていられなかった兵も。
誰一人。
史書に書かれた結末だけで。
見たくない。
「死ぬのが決まってる人みたいに見たくない」
未来を知っているからといって、目の前で生きている彼らを、その最期だけで見たくなかった。
長い沈黙のあと。
『……そうか』
「うん」
『なら覚悟しろ』
凌華は少しだけ顔を上げた。
「何を?」
『救えねえ時もある』
「…………」
目が伏せられる。
それが。
一番怖かった。
今日みたいに手を伸ばしても、届かない時がある。
『それでも立つ覚悟だ』
「…………」
凌華は長剣を抱く腕に少し力を込めた。
「できるかな」
『知らねえ』
「そこはできるって言ってよ」
『自分で決めろ』
「……意地悪」
『お前の人生だろ』
「…………」
その言葉に。
凌華はほんの少しだけ笑った。
「……そうだね」
***
翌朝。
凌華はほとんど眠れないまま外へ出た。
身体は重い。
目元も。
きっと酷い。
「凌華」
聞き覚えのある声に。
顔を上げる。
「はい」
孫策が腕を組んで立っていた。
凌華の顔をじっと見る。
「昨日の戦い」
「…………」
凌華は。
僅かに身構えた。
――怒られる。
そう思った。
約束では。
勝手に戦わないことになっていた。
でも。
実際には。
戦った。
「お前」
孫策が。
一拍置く。
「思ったよりやるな!」
「……え?」
予想していなかった言葉に。
凌華の目が丸くなる。
「殺さず止めようとしてたろ」
「見てたんですか?」
「そりゃ見る」
孫策は。
楽しそうに笑った。
「面白え戦い方だ」
「面白いって……」
「甘いとも思うけどな」
「…………」
凌華の表情が。
僅かに曇った。
「……はい」
自分でも。
分かっている。
戦場で。
誰も殺したくないなんて。
きっと。
甘い。
「でも」
孫策の声が続いた。
凌華が顔を上げる。
「甘さを貫けるくらい強くなりゃいい」
「…………」
凌華の目が僅かに見開かれた。
昨日、陸議にも似たことを言われた。
――そのための技術を覚えてください。
誰も。
凌華の考えを。
無理だと切り捨てなかった。
「できると思いますか?」
「知らん!」
「みんなそれ言う!」
「ハハハ!」
孫策が豪快に笑う。
「だから試せ!」
「…………」
凌華もほんの少しだけ笑った。
「……はい」
そんな二人の様子を少し離れた場所から、陸議が見ていた。その隣には周瑜もいる。
周瑜は凌華と孫策を眺めたあと、隣の青年へ視線を向けた。
「随分気にかけているのですね」
「……誰をです?」
「彼女を」
陸議は。
一度。
凌華を見る。
「保護しているだけです」
「そうですか」
「何です?」
「いえ」
周瑜は僅かに笑った。
「なら、そういうことにしておきましょう」
陸議の眉が寄る。
「何を言っているのです?」
「何でも」
その頃。
少し離れた場所では。
孫策が凌華の頭へ手を伸ばしていた。
「ちょ、髪!」
大きな手で、髪をぐしゃぐしゃと乱される。
「もっと食え! 細すぎるぞ!」
「余計なお世話です!」
凌華が孫策の手から逃れようと身体を捩った、その時。
腰の長剣から、不機嫌そうな声が聞こえた。
『……おい』
「何?」
『気安く触らせんな』
「…………は?」
凌華の動きが止まった。
『何だよ』
「いや、何であなたが怒るの?」
『別に怒ってねえ』
「怒ってるじゃん」
『気のせいだ』
凌華は怪訝そうに長剣を見下ろした。
「もしかして……嫉妬?」
『はあ!?』
「自分に?」
『するか!!』
「じゃあ何なの!」
「俺が何だ?」
生きている孫策が、凌華の頭に手を置いたまま首を傾げる。
「…………」
目の前の孫策。
腰にいる孫策。
凌華は二人を交互に見てから、とうとう頭を抱えた。
「もうややこしい!!」
その叫びが、朝の宿営地へ響き渡った。
孫策が笑う。
少し離れたところでは呂蒙まで何事かと振り返っている。
そんな。
いつもと変わらない騒がしさの中で。
凌華の初めての戦は。
ようやく終わった。
初陣で。
凌華は歴史を変えることなどできなかった。
目の前で。
救えなかった命もあった。
どれほど願っても。
手を伸ばすだけでは届かない命があることを、初めてその身で知った。
それでも何も得られなかったわけではない。
未来を変えるということは、史書に記された大きな出来事を、ただ別の結末へ塗り替えることだけではない。
今日救えなかった一人を忘れず、次に同じように手を伸ばした時には、今度こそ届く自分になること。
そのために。
昨日までの自分を変えていくこと。
それもまた未来を変えることなのだと、凌華は初めて知った。
そして。
この戦を境に孫策もまた、凌華を見る目を少しずつ変えていくことになる。
賊を倒したという。
ただそれだけの噂で知った。
正体の分からない娘ではなく。
怖がりながらも戦場へ立ち、自分の甘さを捨てるのではなく、その甘さを貫くために強くなろうとする一人の人間として。
少しずつ。
孫策は凌華を。
自分の近くへ置くようになっていく。
それがやがて。
凌華にとって。
この時代で初めて得ることになる大きな居場所へ繋がっていくことを。
この時の彼女は。
まだ知らなかった。
――第十話・了




