番外編 知らないものばかり
陸家へ身を寄せるようになって、まだそれほど日は経っていなかった。
朝になると庭へ出て、短剣を握る。
足の置き方。
身体の向き。
刃を振る角度。
相手との間合い。
覚えることは山ほどあった。
凌華にとって剣術の稽古は、何もかもが初めてだった。
現代で刃物を握るといえば、せいぜい台所の包丁くらいだ。
それが今では、朝から短剣を両手に持たされ、陸議には「腰が高い」やら「腕だけで振らないでください」と何度も同じところを直される。
おかげで、身体のあちこちが痛い。
今日も朝から続いた稽古を終えた頃には、凌華の腕はすっかり重くなっていた。
「……もう無理」
庭の端に置かれた木箱へ腰を下ろし、凌華は力なく項垂れた。
額から落ちた汗が、土の上に小さな染みを作る。
少し離れたところでは、陸議が稽古に使った木剣を片付けていた。
「昨日も同じことを言っていましたね」
「昨日より今日の方が痛いんだもん」
「身体が慣れるまでは仕方ありません」
「陸議さんは簡単に言うけどさぁ……」
凌華は両腕を持ち上げてみた。
重い。
「腕、取れそう」
『取れねぇよ』
腰の傍らに置いていた長剣から、呆れた男の声が響いた。
「分かってるよ」
答えてから。
凌華は、はっとした。
顔を上げる。
陸議がこちらを見ている。
「……何がです?」
「…………」
『またやったな』
「うるさい」
「私は何も言っていませんが」
「あっ、違う!」
陸議の眉がわずかに寄る。
凌華は慌てて立ち上がった。
「その、独り言!」
「……最近、多いですね」
「癖なの!」
『随分便利な癖だな』
「だから黙ってて!」
「…………」
陸議が完全に動きを止めた。
凌華も止まった。
ーーしまった。
「……誰に言っているのです?」
「…………自分?」
「なぜ疑問形なのですか」
「気にしないで!」
凌華は勢いよく長剣を持ち上げた。
そのまま逃げるように歩き出そうとしたところで、背後から声が飛んでくる。
「凌華」
「はい」
反射的に振り返る。
陸議は小さく息を吐いた。
「どこへ行くつもりです?」
「……部屋?」
「反対です」
「あ」
陸家の造りには、まだ慣れていなかった。
『お前、よくそれで元いた場所では生きていけたな』
「生きてたよ」
「凌華」
「はい!」
また陸議が見ている。
凌華は何事もなかったように口を閉じた。
どうやら。
この剣を持ち歩きながら秘密を守るというのは、思っていたより難しいらしい。
◇
昼を少し過ぎた頃。
凌華は陸議とともに町へ向かっていた。
理由は単純だった。
稽古に必要なものを揃えるためだ。
凌華が陸家へ来た時に持っていたのは、現代から身につけてきたものと、あの長剣だけ。
この時代で暮らしていくためのものなど、当然何ひとつ持っていなかった。
衣服は借り物。
履物も借り物。
短剣は陸議から渡されたもの。
その短剣を納めるための帯や、稽古で傷めた手を保護する布、それ以外にも日々の生活で必要になる細々としたものを買い揃える必要があった。
「勝手に離れないでくださいね」
町へ入る前に陸議が言った。
「子供じゃないんだから」
「昨日、屋敷の中で迷いましたよね」
「あれはまだ慣れてないだけ」
「一昨日は井戸を見つけて、半刻近く戻ってきませんでした」
「珍しかったんだもん」
「井戸が?」
「だって実際に使ってる井戸なんて初めて見たし」
陸議は何か言おうとして。
やめた。
「とにかく。今日は買い物を済ませます」
「はーい」
「返事だけはいいですね」
『こいつが寄り道しねぇわけねぇだろ』
「するって決めつけないでよ」
陸議の足が止まった。
凌華も止まる。
「…………」
「…………」
しまった。
まただ。
陸議がゆっくりこちらを見る。
「私はまだ何も言っていませんが」
「…………先回りした」
「何を?」
「陸議さんが言いそうなこと」
「私はあなたが寄り道するなどとは一言も――」
「あっ!」
凌華の視線が陸議の肩越しへ飛んだ。
「何です?」
「川!」
そして走り出す。
「凌華!」
『ほらな』
長剣の中で孫策が笑った。
◇
町の外れを流れる川は、陽を受けてきらきらと光っていた。
水は凌華が想像していたより澄んでいて、浅瀬では丸い小石の一つ一つまで見える。
その岸辺に、数人の男たちがいた。
裾を膝まで捲り上げ、水の中へ入り込んでいる。
手にしているのは、木で作られた浅い皿のようなものだった。
川底から砂を掬う。
水へ沈める。
ゆっくり揺らす。
傾ける。
すると細かな砂が水と一緒に縁から流れ落ちていく。
また揺らす。
また流す。
同じ動作を、男たちは黙々と繰り返していた。
凌華は足を止めた。
「…………」
目だけが男たちの手元を追う。
隣へ追いついた陸議が、その横顔を見た。
何かを見つけた時の凌華は分かりやすい。
先ほどまで疲れた、腕が痛いと騒いでいたのが嘘のようだった。
「陸議さん」
「はい」
「あれ何?」
「……どれです?」
「あの人たち。川で何してるの?」
陸議もそちらへ視線を向けた。
「ああ」
男の皿の中で、濡れた砂が陽を反射する。
「砂金を採っているのでしょう」
「砂金!?」
声が川辺へ響いた。
作業をしていた男の一人が顔を上げる。
道を歩いていた人まで振り返った。
凌華は慌てて両手で口を押さえた。
「……凌華」
「ごめん」
声を潜める。
けれど目は輝いたままだ。
「砂金って、本当に川から採れるの?」
「採れますよ」
「ほんとに?」
「ええ」
「どうやって?」
「ですから、ああして川底の砂を――」
凌華はすでに歩き出していた。
「…………」
陸議の説明が途中で止まる。
三歩。
四歩。
五歩。
凌華は完全に川しか見ていない。
陸議は静かに息を吐いた。
「……説明を聞く前に行かないでください」
「だって見たい!」
振り返った凌華は、先ほどまでの疲労などどこへ消えたのかというほどの笑顔だった。
『いいじゃねぇか。見せてやれよ』
「孫――」
そこまで口に出しかけて。
凌華は慌てて唇を噛んだ。
陸議が首を傾げる。
「今、何か?」
「何でもない!」
長剣から笑い声が聞こえた。
『危ねぇな、お前』
凌華は剣の鞘を軽く叩いた。
「……あとで覚えてて」
「何をです?」
「独り言!」
「…………」
陸議の中で、凌華という人間への疑問がまた一つ増えた。
◇
「おお……」
川辺へしゃがみ込んだ凌華は、男の手元を食い入るように見つめた。
木皿の中には砂と小石。
男が皿を水中で小刻みに揺らすたび、濁った水が縁から流れ出す。
砂が減る。
また水を入れる。
揺らす。
流す。
それを何度も繰り返していく。
「全部流れちゃわないの?」
「金は砂や石より重いですから」
いつの間にか隣へ来ていた陸議が答えた。
凌華が顔を上げる。
「重い?」
「ええ。こうして水の力を使って軽いものを流していけば、重いものは皿の底に残りやすい」
凌華はもう一度、皿を見る。
男の手が円を描くように動く。
確かに、砂の量はどんどん減っている。
「へえ……」
思わず身体が前へ出る。
「そうか、そうだよね。金は物質的に重いんだった…。」
確か金より重たい物質もあったと思う。
けど思い出せない。
「じゃあ実質この時代で一番重いのは金って事になるのかな…。」
「何をブツブツ言っているのですか?」
尋ねてきた陸議の質問には答えず、凌華は自分の中だけで自問自答する。
そして勢いよく陸議に振り返った。
「じゃあ最後に金だけ残るんだ」
「必ず見つかるわけではありませんよ」
「でも、見つかる時もあるんでしょ?」
「もちろん」
「…………」
嫌な予感がした。
陸議が凌華を見る。
凌華も陸議を見る。
「やってみたい」
「…………」
やはり。
『やらせてやれよ』
「ね?」
「服が濡れますよ」
「ちょっとくらい平気」
「足元が滑ります」
「転ばないよ」
「先日も同じことを言って――」
「陸議さん」
期待に満ちた目で見上げてくる。
陸議は言葉を止めた。
どうしてこの人は。
こういう時だけ、子供のような顔をするのだろう。戦場で初めて見た凌華とは、あまりにも違う。
血のついた長剣を握り。
震えながら。
それでも自分の前に立っていた女と。
今、目の前で川遊びをねだっている女が。
同じ人物だとは思えないほどだった。
「……少しだけですよ」
「やった!」
『甘ぇなぁ、陸議』
「うるさ――」
凌華は慌てて口を閉じた。
「…………」
「…………」
陸議が見る。
「何でもない」
「まだ何も聞いていません」
「顔が聞いてる」
「顔は喋りません」
◇
結局。
買い物は予定より大幅に遅れた。
川から町へ戻る頃には、凌華の履物の端は濡れ、裾にも小さな水滴が飛んでいた。
しかも砂金は見つからなかった。
「一個くらい欲しかったなぁ」
「そう簡単に採れたら苦労しません」
「ちっちゃいのでいいのに」
「大きさの問題ではありません」
そんな会話をしながら通りを歩いていると。
ふわり。
風に乗って、甘い香りが鼻先を掠めた。
凌華の足が止まる。
一歩遅れて陸議も止まった。
「……何かいい匂いする」
凌華が鼻を動かす。
右を見る。
違う。
左を見る。
もう一度香りが流れてきた。
「あっち!」
「犬ですか、あなたは」
「違うよ!」
声を上げながらも、凌華はもう香りのする方へ歩き始めている。
『犬の方がまだ言うこと聞くんじゃねぇか?』
「聞こえてるからね」
「何がです?」
「……陸議さんの悪口」
「私は何も言っていません」
「…………そうだった」
「凌華」
「気にしないで」
「気になります」
◇
香りを辿った先には、小さな店があった。
軒先から白い湯気が立っている。
大きな蒸籠の蓋が開けられるたび、温かい蒸気がふわりと通りへ流れ出した。
その中に混じっているのは、穀物の香ばしい匂いと、どこか花の蜜を思わせる甘い香り。
店の奥では、女が石臼で穀物を挽いている。
別の者が粉へ水を加え、手のひらで丁寧に練っていた。
丸める。
平たくする。
砕いた木の実をのせる。
蒸籠へ並べる。
凌華は黙ってその一連の動きを見ていた。
「……お菓子?」
「そうですね」
「これ、どうやって作るの?」
「私に聞くのですか?」
凌華は当然のように頷く。
「陸議さん何でも知ってるじゃん」
「何でもは知りません」
「でも私より知ってる」
「あなたと比べれば、大抵の者が詳しいでしょう」
「それ言わないでよ」
陸議は店先へ視線を向けた。
「穀物を挽いて粉にし、それを練って蒸しているのでしょう。甘味には蜜や果実を使うこともあります」
「へえ……」
凌華は蒸籠から取り出された菓子を見る。
白っぽい生地の上に、砕いた木の実が散らされている。
「砂糖は?」
「……砂糖?」
「あ」
まただ。
凌華の口が止まる。
『砂糖? なんだそりゃ』
孫策まで反応した。
「そっか……」
「凌華?」
「何でもない」
「今のものは、あなたの故郷にあるものですか?」
少し迷って凌華は頷いた。
「うん。白くて、甘くて」
指先で小さな粒を示す。
「こういう細かい粒で。お菓子とか料理とか、いろんなものに使うの」
「随分容易に手に入るものなのですか?」
「……うん」
答えた声が、少しだけ小さくなった。
凌華は店の中を見る。
現代なら。
袋を開ければ砂糖がある。
店へ行けば、棚いっぱいに菓子が並んでいる。
ケーキ。
チョコレート。
クッキー。
飴。
コンビニへ行けば、夜中でも買える。
材料がどこで採れたのか。
誰が加工したのか。
どうやって運ばれてきたのか。
そんなことを一つ一つ考えたことなどなかった。
けれど。
ここでは。
穀物を育てる人がいる。
収穫する人がいる。
石臼で挽く。
水を加える。
練る。
木の実を拾う。
蜜を集める。
火を起こす。
蒸す。
目の前の小さな菓子一つが出来上がるまでに。
いくつもの手が動いている。
凌華は、その様子をしばらく黙って眺めていた。
「……すごいね」
「何がです?」
「手が込んでる」
蒸籠から上がる白い湯気の向こうで、人々が忙しく動いている。
「私のいたところって、何でもすぐ手に入ったから」
「…………」
「こうやって最初から作ってるところ、あんまり見たことなかった」
陸議は隣に立ったまま、凌華の横顔を見た。
時々。
彼女はこういう顔をする。
今ここにいるはずなのに。
自分には見えない、遥か遠い場所を見ているような目。
懐かしいような。
寂しいような。
それでいて。
帰りたいとは口にしない。
いや、ある時から帰りたいと口にする事が少なくなった。
陸議にはまだ。
凌華がどこから来たのか分からなかった。
分からないことは多い。
長剣を抱えて現れたこと。
剣を扱ったことがないと言いながら、賊を斬ったこと。
時折、誰もいない場所へ話しかけること。
知らない言葉を使うこと。
それでも。
今は問い詰める気にはならなかった。
「食べてみますか?」
凌華が振り向く。
「え?」
「それだけ見ているのですから」
ぱっと表情が明るくなる。
「いいの?」
「構いません」
「陸議さん奢ってくれるの?」
「……そこまで言っていません」
「えー」
「自分で払いなさい」
凌華が黙った。
「…………」
「どうしました?」
「私、…お金持ってない」
「…………」
そうだった。
『ははっ』
「笑うな」
「笑っていません」
「陸議さんじゃない」
「では誰です?」
「…………」
また。
やった。
「……独り言」
「便利ですね。その言葉」
結局。
陸議が代金を払った。
◇
「おいしい!」
一口食べた瞬間、凌華の目が丸くなった。
現代の菓子ほど強い甘さではない。
噛むと穀物の素朴な香りが広がり、後から蜜の柔らかな甘みが追いかけてくる。
木の実の歯触りも面白い。
「もっと固いかと思った」
「そうですか」
「うん。もちっとしてる」
『俺にも食わせろ』
「無理でしょ」
「何がです?」
「…………」
凌華は菓子を持ったまま固まった。
陸議が隣を見る。
「凌華」
「今日の私、ちょっと独り言多いね」
「ちょっと?」
「気にしたら負けだよ」
「何に負けるのです」
凌華は誤魔化すように菓子をもう一口食べた。
そして。
「あ、陸議さんも食べる?」
「私は――」
言い終わる前に。
凌華が菓子を差し出した。
「はい」
「…………」
陸議の視線が止まる。
菓子。
凌華。
もう一度、菓子。
明らかに。
食べかけだった。
「どうしたの?」
「……いえ」
「いらない?」
「…………いただきます」
陸議は少し身を屈め。
凌華が持ったままの菓子を、小さく一口齧った。
「おいしいでしょ?」
「……ええ」
凌華は嬉しそうに笑う。
「もう一口いる?」
「結構です」
「なんで?」
「結構です」
「?」
凌華は本当に分かっていないらしい。
首を傾げながら、陸議が口をつけたところなど何も気にせず、残りを自分で食べる。
陸議は前を向いた。
『おーおー』
剣の中から、面白がる声。
凌華には聞こえているが。
当然。
陸議には聞こえない。
『こりゃ面白ぇな』
「何が?」
「凌華」
「あ」
陸議がこちらを見る。
「今度は何です?」
「……菓子に話しかけた」
「…………」
「おいしいねって」
「…………」
「そんな目で見ないで」
陸議はもう追及することを諦めた。
その代わり、歩き出す。
凌華がその横顔を覗き込んだ。
「陸議さん?」
「何です?」
「顔赤くない?」
「夕日のせいです」
凌華が空を見る。
太陽はまだ、そこまで傾いていない。
「まだそんな夕方じゃないけど」
「…………行きますよ」
歩調が速くなる。
「あ、待って!」
『若ぇなぁ』
「だから何なの?」
「凌華!」
「はい!」
◇
必要なものを買い揃えながら町を進んでいくと。
今度は、鮮やかな色が凌華の視界を捕まえた。
風に揺れる布。
赤。
藍。
黄。
茶。
店先へ何枚もの布が掛けられ、午後の光を受けている。その奥には、人の腰ほどもある大きな甕が並んでいた。職人が長い棒を使い、布を液体の中へ沈める。
しばらくして引き上げる。
液体を吸った布から、ぽたぽたと雫が落ちた。
別の職人がそれを受け取り、皺を伸ばして竿へ掛ける。
風が通る。
濡れた布が大きく膨らんだ。
凌華は完全に立ち止まった。
「…………」
数歩先へ行った陸議も止まる。
振り返る。
凌華は布しか見ていない。
陸議は何も言わず待った。
どうせ。
三。
二。
一。
「陸議さん、あれ何!?」
――やはり。
「染色です」
「染色……」
凌華は甕へ近づいていく。
「これ全部、ここで染めてるの?」
「そうです」
「何で色つけるの?」
「植物などから色を取ります」
「植物?」
「ええ。葉、根、樹皮。色によって材料も工程も異なります」
凌華は赤い布を見る。
「これも?」
「それも」
「この青いのも?」
「ええ」
「黄色も?」
「もちろん」
「すご……」
指先が伸びる。
染め上がったばかりの布へ。
触れる直前。
手首を掴まれた。
「触らない」
「まだ触ってない!」
「触ろうとしました」
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「なんで?」
「売り物でしょう」
「あ、そっか」
凌華は素直に手を引っ込めた。
それでも興味は消えない。
「一回浸けたら、この色になるの?」
「いいえ」
「何回も?」
「望む色になるまで染めたり、乾かしたり。染料によっては別の工程も必要でしょう」
「じゃあ、この色になるまで何日もかかることあるの?」
「ものによっては」
「……すごい」
また。
その顔だ。
陸議はいつの間にか。
凌華が知らないものを見つけた瞬間の顔を見ることが、少し好きになっていた。
新しい物を見つけ驚いては近づく、あれは何だとすぐに質問する。
そして…
知った瞬間、まるで自分の世界が広がったようなキラキラした瞳で嬉しそうに笑う。
戦場ではあれほど怯えていた人が。
この世界そのものを嫌っているわけではないことに、陸議は少しだけ安堵していたのかもしれない。
「陸議さん」
「はい」
「これ触っていい?」
「駄目です」
「まだ何もしてないじゃん!」
「先に言っておきました」
「お母さんみたい」
「誰がですか」
凌華が吹き出す。
「だって今日ずっと、濡れるよ、転ぶよ、触るなって」
「誰のせいだと思っているのです?」
凌華は少し考えた。
「私?」
「他に誰がいるのです」
『正解』
「うるさい!」
「……凌華」
「あ」
陸議の眉間に皺が寄る。
凌華は口元を手で覆った。
「今のも独り言?」
「…………はい」
「随分騒がしい独り言ですね」
『そろそろ怪しまれてんぞ』
凌華は長剣を睨んだ。
当然。
陸議には。
凌華が突然、自分の腰にある剣を睨み始めたようにしか見えなかった。
「…………」
「…………」
「帰ったら話を聞きます」
「えっ」
『終わったな』
「終わってない!」
「何がです?」
「何でもない!」
◇
気がつけば随分と歩いていた。
買い物の荷物は増え、日も西へ傾き始めている。
屋根の向こうへ落ちていく陽が、町全体を柔らかな橙色へ染めていた。
店を閉めるために荷を運ぶ者。
一日の仕事を終え、肩を並べて歩く男たち。
母親に手を引かれて帰っていく子供。
荷車の車輪が土の道を軋ませる。
馬が鼻を鳴らす。
どこかの家から、夕餉を作る煙が上がっていた。
朝とは違う匂いが町を包んでいる。
凌華は、その景色を見ながら歩いていた。
「今日、楽しかった」
不意に言う。
隣を歩く陸議が顔を向ける。
「それは何よりです」
「砂金見たし」
「ええ」
「採れなかったけど」
「簡単には採れません」
「お菓子も食べた」
「私が払いましたが」
「まだ言う?」
「事実です」
「染物も見た」
「ええ」
凌華は両手を後ろで組む。
歩くたび、腰の長剣が小さく揺れた。
「知らないことばっかり」
その声は不満そうではなかった。
むしろ少し嬉しそうだった。
陸議は横目で彼女を見る。
「嫌ではないのですか」
「何が?」
「知らないことばかりの場所にいることが」
凌華の足が、ほんの少しだけ遅くなった。
町の音が聞こえる。
行き交う人の声。
木戸を閉める音。
荷車の軋み。
遠くを走る馬の蹄。
そして。
自分の足音。
ここは。
凌華の知っている世界ではない。
スマートフォンもない。
電気もない。
水道もない。
夜になれば街灯もない。
帰り方も分からない。
そもそも。
帰れるのかどうかすら分からない。
目を閉じて…次に開いたら。
大学へ行く朝に戻っているのではないか。
何度。
そう思っただろう。
「……怖いよ」
凌華は素直に答えた。
陸議は何も言わなかった。
「今でも」
少し笑う。
けれど、その笑顔は先ほどまでとは違っていた。
「朝起きた時、たまに思うもん。全部夢だったらいいのにって」
『…………』
珍しく。
孫策も何も言わなかった。
「目が覚めたら、自分の部屋で。大学行かなきゃって慌てて。昨日のこと全部、変な夢だったなって」
そこまで言って。
凌華は前を見る。
夕日に照らされた町。
土の道。
軒先の布。
家へ帰っていく人々。
そのどれも。
夢にしては。
あまりにも鮮明だった。
「でもね」
「……はい」
「知らないことって、怖いだけじゃないんだなって思って」
陸議が凌華を見る。
「面白い」
凌華は笑った。
川で砂金を採る人。
菓子を作る人。
布を染める人。
道端で野菜を売る人。
馬を引く人。
走り回る子供たち。
何百年。
何千年という時間の向こう。
教科書では、たった数行で終わる時代。
凌華にとって三国時代とは、ずっとそういうものだった。
けれど。
今。
その時代の中に立っている。
歴史書には名前すら残らない人たちが。
今日の夕飯を考え。
子供を叱り。
商売をして。
笑い合い。
明日も生きようとしている。
「ちゃんとみんな、生きてるんだね」
「…………」
陸議が少し眉を寄せた。
「不思議なことを言いますね」
「あはは。そうだね」
凌華にも分かっている。
この時代に生きている陸議からすれば。
当たり前のことだ。
「でも、私には不思議なの」
そう言って。
また歩き出す。
夕日が凌華の影を長く伸ばした。
その隣に。
陸議の影も並ぶ。
数歩進んだところで。
凌華が振り返った。
「陸議さん」
「はい」
「また教えてね」
「何をです?」
「いろいろ」
「いろいろでは分かりません」
「私が知らないこと」
陸議は一瞬黙った。
あまりにも範囲が広すぎる。
「……それでは、きりがありませんよ」
「いいじゃん」
「私は暇ではないのですが」
「じゃあ暇な時!」
「…………」
「ね?」
夕日を背に。
凌華が笑っている。
戦場で。
血のついた長剣を握っていた時とは違う。
稽古で短剣を握る時の、必死な顔とも違う。
年相応の。
柔らかな目。
陸議は小さく息を吐いた。
「……分かりました」
「ほんと?」
「私に分かることであれば」
「やった!」
凌華が嬉しそうに駆け戻ってくる。
そのまま陸議の隣へ並んだ。
「次は何見ようかな」
「もう次の話ですか」
「だっていっぱいあるでしょ?」
「ありますが」
「紙ってどうやって作るの?」
「…………」
「墨は?」
「凌華」
「お酒作ってるところも見たい」
『酒! それは俺も見てぇな』
「孫策、お酒好きそうだもんね」
言って。
凌華の足が止まった。
陸議の足も止まった。
「…………」
「…………」
風が吹く。
通りの布が揺れる。
遠くで犬が吠えた。
陸議がゆっくり振り返る。
「……今」
凌華の顔から血の気が引く。
「何て言いました?」
『お前……』
「…………」
『馬鹿だろ』
凌華は無言で長剣の鞘をぎゅっと握った。
「…………何も」
「聞こえましたが」
「気のせい」
「はっきり聞こえました」
「気のせいだよ」
「孫策、と」
「言ってない」
「言いました」
「言ってない!」
「言いました」
「陸議さん疲れてるんじゃない?」
「誰のせいだと思っているのです?」
凌華は答えず。
すたすたと歩き出した。
「凌華」
「紙!」
「話を逸らさないでください」
「紙ってどうやって作るの!?」
「凌華」
「あと陶器!」
「聞いていますか?」
「薬草も見たい!」
「凌華」
『逃げ切れると思ってんのか?』
「孫策は黙ってて!」
ぴたり。
今度こそ。
二人とも止まった。
「…………」
「…………」
『…………』
長剣の中まで静かになった。
陸議が凌華を見る。
凌華は前を向いたまま。
動かない。
額に。
冷たい汗が一筋流れた。
「……凌華」
「走ろう」
「なぜです?」
「日が暮れるから!」
凌華は駆け出した。
「待ちなさい!」
陸議が追う。
『ははははは!』
長剣の中で。
孫策だけが腹を抱えるように笑っていた。
「笑うなー!」
「だから誰と話しているのですか!」
二人の声が、夕暮れの町へ溶けていく。
凌華にとって陸議は、この知らない時代で、分からないことを尋ねれば教えてくれる人だった。
困った時には手を貸してくれる。
妙なことを口走れば怪訝そうな顔をするくせに、結局は最後まで付き合ってくれる。
今の凌華にとっては、それで十分だった。
陸議もまた、凌華のことをよく分かってはいなかった。
身元も分からない。
どこから来たのかも分からない。
時折、聞いたことのない言葉を使い、誰もいないところへ返事をするような素振りまで見せる。
そのうえ、興味を引くものを見つければ、こちらの話も聞かずに近づいていく。
放っておけば、次は何をするか分からない。
だから目を離せない。
今は、そういうことにしておけばよかった。
少し先を歩いていた凌華が、また何かを見つけたらしい。
ふいに足を止める。
夕暮れの通りの向こうを眺めたあと、くるりと振り返った。
「陸議さん!」
そう言って自分を呼ぶ声に。
いつからか。
振り返るより先に口元が緩むようになったことには。
まだ気づいていなかった。
そして凌華も知らない。
いつの日か。
この見知らぬ時代の景色を思い出す時。
川のきらめきも。
蒸籠から立ち上った白い湯気も。
風にはためいていた染布の色も。
その記憶のすぐ隣には。
いつも同じ人がいるようになることを。
戦乱の世にも。
こんな一日がある。
剣を抜かず。
誰も傷つかず。
誰も失わず。
ただ二人で町を歩き。
知らないものを見つけて。
立ち止まって。
笑って。
また歩く。
後になって凌華が思い出すのは。
案外。
戦場で挙げた大きな勝利よりも。
歴史が大きく動いた瞬間よりも。
こういう。
何でもない日の方だった。
――番外編 知らないものばかり 了――




