番外編 知らない夜、同じ空
陸家の夜は、早い。
日が沈めば、人々は仕事を終え、屋敷のあちこちに灯されていた明かりも、一つ、また一つと少なくなっていく。
現代なら、夜になったところで街が完全な闇に沈むことなどなかった。
道路には街灯が並び、家々の窓からは照明が漏れ、店の看板や行き交う車のライトが夜道を照らしている。
少し大きな街へ出れば、夜中でさえ空がうっすらと明るい。
けれど、ここにはそれがない。
「…………暗っ」
部屋の戸を少しだけ開けた凌華は、隙間から外を覗き込んだ。
廊下の端に置かれた灯火が、ぼんやりと柱を照らしている。その頼りない光が届かなくなる少し先からは、もう何があるのかよく分からない。
昼間なら見慣れてきた庭木も、その向こうにある塀も、夜の中へ輪郭を溶かしている。
「……すご」
思わず声が漏れた。
こんな夜は初めてだった。
何があるのか分からない暗闇には、少し怖さもある。
それなのに、部屋へ戻ろうという気にはならなかった。
むしろ、自分が今まで知っていた夜とはまるで違う景色を、もう少し近くで見てみたいという好奇心の方が勝っていた。
凌華は履物を引っかけ、そっと廊下へ出た。
庭へ下りてみると、昼間なら何度も歩いたはずの場所なのに、まるで知らない場所へ来たように感じる。
足元さえよく見えない。
「……ほんとに何も見えないんだ」
『おい』
腰に下げた長剣から声がした。
「なに?」
『どこ行く気だ』
「ちょっと外」
『外ってどこだよ』
「その辺」
『その辺ってどの辺だ』
「門の外とか」
『…………は?』
あまりにも低い声が返ってきて、凌華は足を止めた。
「何?」
『お前、今から外出る気か?』
「うん」
『一人で?』
「うん」
『馬鹿か』
「なんで!?」
思わず声が大きくなり、凌華は慌てて両手で口を押さえた。
辺りを見回してみたものの、幸い誰かが出てくる気配はない。
「……急に馬鹿って言わないでよ」
声を潜めて文句を言うと、孫策は呆れたように息を吐いた。
『こんな時間に女一人で外歩く奴があるか』
「ちょっとだけだよ」
『ちょっとだろうが何だろうが駄目だ』
「なんで?」
『なんでって……』
孫策が言葉に詰まった。
凌華は本当に分かっていない。
夜道が暗いことは理解している。けれど、だからといって外へ出てはいけないという発想には結びつかなかった。
足元に気をつければいい。
せいぜい、その程度にしか考えていない。
『……お前のいたところじゃ、女が夜に一人で歩いても平気だったのか?』
「夜中ってほどじゃないし。コンビニくらい普通に行ってたけど」
『こんびに?』
「あ」
またやった。
「……なんでもない」
『また訳分かんねぇこと言いやがって』
「とにかく、ちょっと見てくるだけ」
『待てって!』
剣の中から止める声が響いたが、凌華はそのまま門へ向かって歩き出した。
『凌華』
「大丈夫だって」
『お前の大丈夫は信用ならねぇんだよ!』
「失礼な」
門へ手を伸ばす。
その時だった。
「何をしているのです?」
「ひゃっ!?」
突然背後から聞こえた声に、凌華の肩が大きく跳ねた。
勢いよく振り返ると、少し離れた廊下に陸議が立っていた。
「……陸議さん!」
「はい」
「びっくりした!」
「こちらの台詞です」
手には書簡を持っている。どうやら自室へ戻る途中だったらしい。
陸議の視線が凌華から門へ移り、もう一度凌華へ戻ってくる。
その表情が、見る間に怪訝なものへ変わった。
「……まさか、外へ出るつもりですか?」
「うん」
「…………」
「何、その顔」
「一人で?」
「うん」
今度こそ陸議は言葉を失った。
しばらく凌華の顔を見つめ、本気で言っているのだと理解すると、深く息を吐く。
「戻りなさい」
「え?」
「屋敷へ戻ってください」
「なんで?」
「なぜ分からないのです?」
「庭の外をちょっと歩くだけだよ?」
「夜です」
「夜だけど」
「暗いでしょう」
「それを見たいの」
「そういう意味ではありません」
孫策にも似たようなことを言われた気がする。
それでも凌華が首を傾げたままでいると、陸議はようやく、本当に彼女が危険性を理解していないのだと気づいたらしい。
「凌華」
先ほどまでとは違う、少し低い声だった。
「夜道には何がいるか分かりません。賊もいれば盗人もいます。酒に酔った者もいる。場所によっては野犬に出くわすことだってあります」
凌華の表情から、少しずつ笑みが消えていった。
「……そんなに?」
「そんなに、です」
「でもここ、陸家の近くだよ?」
「だから安全だと誰が保証するのです」
そう言われて、凌華は初めて門の向こうへ視線を向けた。
つい先ほどまで、そこにあるのはただの暗い道だと思っていた。
けれど陸議の言葉を聞いたあとでは、同じ景色がまるで違って見える。
街灯はない。
人通りもほとんどない。
何かあったとしても、すぐ誰かに助けを求められるとは限らない。
もちろん携帯電話など存在しない。
警察へ電話することも、家族や友人へ連絡することもできないのだ。
「…………あ」
ようやく理解した凌華の顔が、わずかに引きつった。
『だから言っただろ』
剣から呆れた声が聞こえる。
凌華は小声で返した。
「……最初からそう言ってよ」
『言ったわ!』
「何か言いましたか?」
陸議が怪訝そうにこちらを見る。
「な、何でもない」
凌華は誤魔化すように長剣の柄を押さえた。
陸議の視線が、その動きを追う。
凌華は時々、こうして剣へ話しかける。
誰かの声を聞いて、それに返事をしているようにしか見えない時もある。
最初に見た頃は、いったい何をしているのかと警戒したものだが、最近ではまた始まったのかと思う程度には見慣れてしまった。
それでも、何と話しているのかまでは分からない。
「とにかく、戻りますよ」
「……はい」
珍しく凌華が素直に返事をした。
ところが数歩歩いたところで、また足を止める。
「陸議さん」
「何です?」
「庭は?」
「…………」
「庭ならいい?」
「何をするのです」
「夜を見る」
陸議はしばらく黙って凌華を見た。
「何、その顔」
「いえ」
「絶対変な人だと思ったでしょ」
「少し」
「思ったんじゃん!」
「静かに。皆休んでいます」
「あ」
凌華は慌てて口を押さえた。
「……ごめん」
陸議は小さく息を吐く。
「それで、夜を見るとは?」
凌華は少し考えてから、暗闇に沈む庭を指差した。
「だって、こんなに暗い夜って見たことないから」
「…………?」
当然、陸議にはその意味が分からない。
「夜は暗いものでしょう」
「私がいたところは違ったの」
「夜が明るい?」
「うん。道にもずっと灯りがあって、お店も明るくて。夜でも普通に歩けた」
「先ほどの話も、それですか」
「え?」
「夜道を一人で歩くことに、まるで警戒していなかったでしょう」
「あー……」
言われてみて、凌華の中でもようやく二つが繋がった。
自分にとって当たり前だったことが、この場所ではまったく当たり前ではない。
これまでにも何度か経験してきたはずなのに、こういうところで現代の感覚が顔を出す。
「……そうかも」
陸議が少し眉を寄せた。
「随分と変わった土地なのですね」
「まあ……」
凌華は曖昧に笑った。
未来から来た。
そんなことを言えるはずもない。
そもそも、話したところで信じてもらえるとも思えなかった。
自分自身でさえ、未だにどうしてここへ来たのか分かっていないのだから。
「とにかく、庭ならいいでしょ?」
「…………」
陸議は手にしていた書簡へ一度目を落とした。
おそらく、まだやることがあったのだろう。
それでも凌華と門を交互に見ると、諦めたように小さく息を吐いた。
「行きましょう」
「え?」
「庭へ行くのでしょう」
「陸議さんも来るの?」
「あなたを一人にすると、そのまま門の外へ出そうなので」
「もう行かないよ!」
「信用できません」
「ひどい!」
『俺も同意見だ』
「孫策まで!」
口にしてから、凌華は固まった。
「…………孫策?」
陸議が足を止める。
「今、孫策と……言いましたか?」
「言ってない」
「言いました」
「気のせい」
「はっきり聞こえましたが」
「気のせいです」
『下手くそか』
凌華は腹立ち紛れに剣の柄を軽く叩いた。
「黙ってて」
「……やはり誰かと話していませんか?」
「話してません!」
陸議は疑わしそうに凌華を見る。
凌華も負けじと見返した。
しばらく無言の攻防が続いた末、先に諦めたのは陸議だった。
「……まあ、いいでしょう」
「いいんだ」
「聞いても答えないでしょう」
「…………」
何も返せなかった。
まさにその通りだった。
◇
庭へ出た途端、凌華の足が止まった。
「…………わ」
小さな声を漏らしたまま動かなくなった凌華を見て、陸議も隣で足を止める。
「どうしました?」
返事はなかった。
凌華は顔を上げたまま、ただ夜空を見つめていた。
何事かと思った陸議もその視線を追い、空を見上げる。
そこに広がっているのは、いつもと変わらない夜空だった。
雲のない夜には当たり前のように見える星々が、暗い空いっぱいに瞬いている。
陸議にとっては、特別珍しいものではない。
けれど凌華は違った。
目を大きく開き、瞬きをすることさえ惜しむように空を見上げている。
「……すごい」
ようやく零れた声には、先ほど暗闇を見た時とはまるで違う感情が滲んでいた。
「星が?」
「うん」
「あなたの故郷にもあるでしょう」
「あるよ」
「では、なぜ?」
「こんなに見えない」
陸議は意味が分からず、凌華の横顔を見る。
凌華は空から目を離さないまま続けた。
「明るすぎるんだよ。街が」
「街が?」
「うん。夜になっても、ずっと明るいから」
凌華は懐かしむように少し笑った。
「だから、星が見えにくいの」
陸議には、やはり想像できなかった。
夜道を女が一人で歩くことを不思議とも思わず、星が見えにくくなるほど夜の街が明るい場所。
凌華は時折、聞いたこともない言葉を使う。
誰も知らない道具の話をする。
当たり前のように口にしたことが、この土地の常識とはまるで違うこともある。
遠い土地から来たのだろうとは思っていた。
けれど、それだけでは説明できないことが多すぎる。
この女はいったい、どんな場所で生きてきたのだろう。
疑問は増えるばかりだった。
「陸議さん」
「はい」
「天の川って分かる?」
「天河のことですか?」
「たぶんそれ」
凌華が夜空の一角を指差した。
「あれ?」
「ええ」
「……本当に見えるんだ」
その声が、ほんの少し震えた。
目の前の景色に感動しているようにも見える。
けれど、その横顔にはどこか遠いものを見ているような寂しさもあった。
陸議には、その理由までは分からなかった。
『……綺麗だろ』
不意に剣の孫策が言った。
凌華は腰の長剣へ視線を落とす。
『俺は見慣れてるけどな』
「……そっか」
『お前のところじゃ見えなかったんだろ』
「こんなにはね」
「凌華?」
陸議に呼ばれ、凌華は慌てて顔を上げた。
「何でもない」
「…………」
「独り言」
「剣を見ながら?」
「……独り言」
明らかに納得していない顔をされた。
それでも陸議は、それ以上追及してこなかった。
◇
二人は庭の端へ腰を下ろした。
しばらく空を眺めていた凌華だったが、やがて隣へ顔を向ける。
「陸議さん」
「はい」
「星詳しい?」
「多少は」
その答えを聞いた途端、凌華の目が分かりやすく輝いた。
陸議はその表情を見ただけで、何となく嫌な予感がした。
「じゃあ、あれ何?」
「どれです」
「あの明るいやつ」
「どれを指しているのか分かりません」
「ほら、あれ!」
「ですから――」
凌華が陸議の袖を掴んで引っ張った。
「こっちから見て」
「……近いです」
「だって見えないんだもん」
「分かりましたから、引っ張らないでください」
凌華の方へ身体を寄せたことで、二人の肩が触れた。
凌華は何も気にせず、相変わらず空を指差している。
けれど陸議は、一瞬だけ呼吸を止めた。
近い。
そう意識してしまった途端、先ほどまで何とも思っていなかった距離が妙に気になった。
ほんの少し身体を離せばいいだけなのに、それをすると逆に意識していることを悟られる気がして、動くこともできない。
当の凌華は、そんな陸議の内心など知るはずもなかった。
「ほら!」
「…………」
「陸議さん?」
「……見ています」
「どれ?」
「おそらく、あれでしょう」
陸議が星を指差す。
「あれ?」
「ええ」
「名前は?」
尋ねられるまま説明すると、凌華は真剣な顔で聞いていた。
一つ教えれば、それで終わるかと思った。
けれど、甘かった。
「じゃあ、あっちは?」
また説明する。
「これは?」
それにも答える。
「あの三つ並んでるのは?」
次から次へと質問が飛んでくる。
呆れながらも答えていると、凌華が突然こちらを向いた。
「陸議さん」
「今度は何です?」
「すごいね」
「何がです」
「本当に何でも知ってる」
思いがけない言葉に、陸議は一度瞬きをした。
「何でもではありません」
「でも私よりいっぱい知ってる」
「少なくとも」
陸議は先ほどの出来事を思い出し、少しだけ口元を緩めた。
「夜道を一人で歩いてはいけないことは知っています」
「まだ言う!?」
『ははっ』
剣の中から孫策の笑い声が響いた。
「孫策も笑わないでよ!」
言った直後。
凌華の表情が固まった。
隣から視線を感じる。
ゆっくり振り向くと、陸議がじっとこちらを見ていた。
「……また孫策と言いましたね」
「…………言ってない」
「言いました」
「…………」
「先ほども」
「…………」
「誰なのです?」
逃げ場を失った凌華は、思わず腰の長剣へ目を落とした。
『言うなよ』
分かってる。
心の中で返事をする。
「……秘密」
「またですか」
「うん」
「あなたは秘密が多すぎます」
「ごめん」
「謝るくらいなら話してください」
「それは無理」
「では謝らないでください」
「難しいなぁ」
陸議は呆れたように息を吐いた。
けれど、そこから先は聞かなかった。
凌華には何かがある。
それだけは、出会った頃から分かっている。
身元も、故郷も、時折見せる不可解な知識も、あの長剣も。
尋ねたいことはいくらでもある。
けれど無理に問い詰めたところで、凌華が話すとは思えなかった。
それなら今は、彼女が自分から話そうと思うまで待つしかない。
隣へ目を向ける。
凌華はもう先ほどまでの警戒した顔を忘れたように、楽しそうに星を眺めている。
その横顔を見ているうちに、陸議の中にあった疑問も、今だけは少し遠ざかっていった。
◇
それからしばらく、二人は何も話さずに夜空を眺めていた。
先ほどまで次々と質問していた凌華も、今は静かだった。
「……ねえ」
やがて凌華が小さく呟いた。
「はい」
「同じなんだね」
「何がです?」
「空」
陸議が横を見る。
凌華は変わらず夜空を見上げていた。
「私がいたところと、場所は全然違うのに」
そこに浮かぶ月も、星も、凌華が知っているものだった。
見える数も、空の暗さもまるで違う。
それでも、この空そのものは、自分がいた場所から見上げていたものと繋がっている。
そう思った途端、胸の奥に押し込めていたものが不意に浮かび上がってきた。
「変なの」
凌華は小さく笑った。
けれど、その笑みは先ほどまでより少し弱かった。
「急に帰りたくなった」
その言葉を聞いた瞬間、陸議の表情がほんのわずかに変わった。
「あ、ごめん」
凌華はその変化に気づき、慌てて笑ってみせる。
「別に今すぐ帰るって意味じゃないよ。帰り方分かんないし」
そう言ってから、凌華は膝を抱えた。
空を見上げていると、忘れようとしていた現代の景色が次々と思い浮かんでくる。
家の明かり。
いつもの道。
何気なく交わしていた会話。
もう二度と見られないのかもしれないと思うと、急に胸の奥が苦しくなった。
「お母さんとか……」
口にすると、余計に会いたくなった。
「友達とか。何してるかなって」
陸議は何も言わなかった。
何か慰める言葉をかけるべきなのかもしれない。
けれど、何と言えばいいのか分からなかった。
帰れますよ、と言うことはできる。
だが、帰る方法さえ分からないと言っている相手に、根拠もなくそんなことを口にするのは無責任に思えた。
きっと大丈夫です、と言うこともできる。
けれど凌華が離れてきた故郷がどこにあるのかさえ、自分は知らない。
だから陸議は何も言わず、ただ隣に座っていた。
剣の孫策も、この時ばかりは口を挟まなかった。
普段なら余計なことまで言う男が静かにしていることに、凌華も気づいていた。
けれど今は、それがありがたかった。
しばらくして。
凌華は隣に座る陸議を見た。
「陸議さん」
「はい」
「何か言ってよ」
困ったように言われ、陸議は少し眉を下げた。
「……何を言えばよいのか分かりません」
「そこ正直なんだ」
「分からないものは分かりません」
その答えがおかしくて、凌華は思わず笑った。
「ふふ」
無理に慰められるより、ずっと陸議らしい。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなった。
凌華は抱えていた膝から腕を解き、ほんの少しだけ陸議の方へ身体を寄せた。
肩と肩が触れる。
「じゃあ」
「?」
「このままでいい」
陸議は何も言わなかった。
「一人で見るよりいいから」
そう言って再び星を見上げた凌華の横顔を、陸議はしばらく見つめていた。
戦場で剣を握る時の凌華とは、まるで違う顔だった。
戦う時には恐怖を押し殺すように目を鋭くし、必死に剣を振るう。
けれど今ここにいる凌華は、故郷を思い出して寂しくなり、それでも心配をかけまいと笑おうとする、どこにでもいる一人の女だった。
そう思った瞬間。
陸議の胸の奥で、これまでとは少し違う感情が動いた。
何なのかは分からない。
ただ、先ほどまでよりも隣にいる凌華の存在を強く意識してしまう。
肩から伝わるわずかな温もりまで、妙に気になった。
『…………なるほどな』
不意に、剣の中で孫策が小さく呟いた。
「?」
凌華が長剣を見る。
『何でもねぇよ』
「何それ」
「今度は何です?」
陸議の声に凌華は顔を上げる。
「こっちの話」
「また剣ですか」
「違います」
「今、見たでしょう」
「見てない」
「見ました」
「陸議さん細かい」
「あなたが分かりやすいのです」
「むぅ……」
凌華が頬を膨らませる。
その様子を見ていると、先ほど胸の奥に生まれた妙な感覚まで誤魔化された気がして、陸議は小さく笑った。
「陸議さん」
「はい」
「また来ようね」
「夜にですか?」
「うん」
「一人では駄目ですよ」
「もう分かったって」
「本当に?」
「……たぶん」
「やはり信用できません」
「じゃあ陸議さん連れてく」
「なぜ私が」
「星詳しいから」
「…………」
「嫌?」
陸議はすぐには答えなかった。
本当は、断る理由など特になかった。
それでもすぐに了承するのが何となく気恥ずかしくて、少しだけ考えるふりをする。
「仕方ありませんね」
「やった」
凌華が嬉しそうに笑った。
『おい』
「ん?」
『俺もいるからな』
「知ってるよ」
『忘れんなよ』
「分かってる」
自然に返事をした直後、凌華は隣から向けられる視線に気づいた。
「……やはり誰かいますね」
「いません」
「いるでしょう」
「いません」
「では、今誰に返事を?」
「独り言」
「随分会話の成立する独り言ですね」
「気のせいです」
陸議はまた何か言おうとして、結局やめた。
問い詰めても凌華は答えない。
それなら今は、それでいいのかもしれない。
いつか自分から話してくれる日が来るのなら、その時に聞けばいい。
陸議はそう考え、再び夜空へ視線を戻した。
今夜していることなど、ただ星を見ているだけだ。同じ庭に座り、凌華が指差す星の名前を教えている。
凌華は陸議の胸に生まれ始めた変化を知らず、陸議自身も、それが何なのか理解していなかった。
それでも、この夜を境に少しずつ変わっていくものがあった。
凌華は何か珍しいものを見つけると、以前よりも頻繁に陸議を呼ぶようになった。
知らないものを見つけた時。
分からないことがあった時。
面白いものを誰かに見せたくなった時。
気づけば最初に、その名前を呼んでいる。
「陸議さん」
そして陸議もまた、その声を聞けば、以前のように「また何か問題を起こしたのでは」と身構えるだけではなくなっていた。
「今度は何を見つけたのです?」
そう尋ねながら振り返ることを、いつの間にか少しだけ楽しみにするようになっていた。
凌華にとって陸議は、知らない土地で分からないことがあれば教えてくれる人。
困った時には、呆れながらも手を貸してくれる人。
それが一人で見るには少し寂しい夜空を、一緒に見てくれる人になった。
それくらいだった。
陸議もまた。
身元も分からず、常識も妙に違い、時折剣に向かって誰かと話しているような素振りまで見せる凌華を、放っておくわけにはいかない。
だから目を離せないだけなのだと。
そう思っていた。
ただ。
何かを見つけるたびに。
「陸議さん!」
そう言って自分を呼ぶ声に。
いつからか、振り返るより先に口元が緩むようになったことには。
まだ。
気づいていなかった。
そして凌華も。
あの夜のことを、ずっと後になって思い出すことになる。
真っ暗な夜道へ一人で出ようとして、本気で止められたこと。
初めて見るほどの星に夢中になって、陸議へ何度も名前を尋ねたこと。
故郷を思い出して、少しだけ帰りたくなったこと。
そして。
何も言えずにいた陸議が、それでも隣からいなくならなかったこと。
けれど。
それを思い出すのは。
まだ、ずっと先の話。




