番外編 剣より難しいもの
陸家へ来て、ひと月ほどが過ぎた。
朝の訓練場には、今日も木剣のぶつかる乾いた音が響いていた。
日が高くなる前の空気にはまだ夜の涼しさが残っている。それでも、土の上ではすでに何人もの兵が二人一組になり、師範の声に合わせて打ち合っていた。
その端で、凌華も木剣を構えていた。
「……っ!」
地面を蹴り、勢いよく振り下ろす。
けれど、木剣の先に手応えはない。
目の前にいた陸議は、ほんの半歩だけ身体をずらしただけだった。
凌華の木剣が虚しく空を切る。
「違います」
すぐに声が飛んできた。
「えぇ……」
凌華は木剣を下ろし、恨めしそうに陸議を見る。
「今のも?」
「今の『も』です」
「結構速かったと思うんだけど」
「速ければよいというものではありません」
陸議は、こういう時に容赦がない。
しかも声を荒らげるわけでもなく、いつもの穏やかな顔で淡々と言うものだから余計に腹が立つ。
凌華は頬を膨らませた。
「じゃあ、何が駄目だったの?」
「全部です」
「全部!?」
思わず声が裏返り、近くで訓練していた兵が何事かとこちらを振り返った。
陸議が軽く咳払いする。
「声が大きいです」
「だって全部って言った!」
「では、一つずつ説明します」
陸議は凌華の前まで歩いてくると、まず足元を指した。
「足幅が狭すぎます。もう少し開いてください」
「こう?」
言われた通りに開く。
「開きすぎです」
「細かいなぁ」
「戦場で転びたいのなら、そのままで構いません」
「直します」
即答すると、陸議の口元がほんのわずかに緩んだ。
「次は腰です。もう少し落として」
「こう?」
「もう少し」
凌華は膝を曲げ、腰を落とす。
ところが、今度は上体まで前へ傾いたらしい。
陸議が横へ回り、背中へ手を添えた。
「身体が前へ逃げています。ここを起こして――」
姿勢を直された途端、重心がずれた。
「わっ」
ぐらりと身体が傾き、陸議が咄嗟に腕を掴む。
「だから足元を――」
「分かってるって」
「分かっている人は転びません」
「転んでないよ」
「私が支えたからでしょう」
「…………」
正論だった。
言い返す言葉を失った凌華から手を離し、陸議は少し距離を取った。
「もう一度」
「はいはい」
「返事は一度」
「……はい」
木剣を握り直す。
足を開く。腰を落とす。肩から余計な力を抜き、手の位置を確かめる。
ひとつ意識すれば、さっき注意された別の何かが抜けていく。
剣を振るだけなら簡単だと思っていた。
けれど実際には、立つことからして難しい。
「力を入れすぎない」
「入れてないよ」
「入っています」
「どこに?」
「全部に」
「また全部!」
「凌華」
「あ、はい」
陸議は小さく息を吐くと、自分も木剣を構えた。
「私を打ってみてください」
「え?」
凌華は瞬きをした。
「本気で?」
「もちろん」
「痛いよ?」
「当たれば、ですが」
「…………」
凌華の眉がぴくりと動いた。
「今、馬鹿にした?」
「事実を申し上げただけです」
「よーし……」
分かりやすく火がついた凌華を見て、陸議の口元が微かに緩む。
「いくよ!」
地面を蹴った。
正面から木剣を振り下ろす。
陸議が半歩動く。
それだけで、また空を切った。
「えっ」
今度は横薙ぎ。
それも避けられる。
「ちょっと!」
続けて振った三撃目を、ようやく陸議の木剣が受け止めた。
乾いた音が響き、衝撃が腕を伝って肩まで走る。
「っ!」
思わず木剣を引く凌華に、陸議が言った。
「力任せです」
「だって剣って力いるじゃん!」
「必要です。しかし、力だけでは当たりません」
「じゃあどうするの」
「相手を見る」
「見てるよ」
「剣を見ています」
凌華は動きを止めた。
「……違うの?」
陸議は自分の肩を指した。
「肩」
次に腰へ手をやり、最後に足元を示す。
「腰、足。人は剣を振るう前に身体が動きます。剣だけを追えば、その時点でもう遅い」
さっきまで不満そうだった凌華の顔が変わった。
陸議の肩、腰、足へ順番に目を向ける。
「……先に身体を見るんだ」
「そうです」
「じゃあ、陸議さんがどこを狙うかも分かる?」
「ある程度は」
「すご……」
素直に感心すると、陸議が少し困ったように笑った。
「感心している場合ではありません。あなたも覚えるのですよ」
「……できるかな」
「できるようになるまで訓練するのです」
「厳しい」
「死なれるよりはいいでしょう」
その言葉が落ちた瞬間、凌華の表情から笑みが消えた。
陸議も、自分が何を口にしたのか気づいたらしい。
二人の間を風が抜け、乾いた土を薄く巻き上げていく。少し離れた場所では相変わらず木剣の音が続いているのに、凌華にはそこだけが妙に静かになったように感じられた。
「……陸議さん」
「はい」
「私、死ぬと思う?」
陸議はすぐには答えなかった。
「戦場へ出れば、誰にでもその可能性はあります」
木剣を握る指に、無意識に力が入った。
そんなことは分かっている。
ここへ来てから、嫌というほど思い知らされた。
現代にいた頃、戦争も人の死も、凌華にとっては画面や本の向こう側にあるものだった。
けれど、この時代では違う。
刃物は本当に人の身体を裂く。
戦になれば、昨日まで話していた人間が明日にはいなくなることだってある。
そして自分自身も、その中に立つことになるかもしれない。
「……怖いな」
口から出た声は、自分で思っていたより小さかった。
「剣を持つのも、まだ怖い」
今握っているのは木剣なのに、あの日、初めて長剣を振るった時の感触が手のひらに蘇る。
刃の重さも、ぶつかった時の衝撃も、自分が誰かを傷つけたという事実も、忘れようとして忘れられるものではなかった。
「訓練してても、たまに思うんだよね。なんで私、こんなことしてるんだろうって」
「……嫌ですか?」
「ううん」
凌華は首を横に振った。
「怖いのと、嫌なのは違う」
あの日の自分を思い出す。
何が起きているのかも分からないまま、ただ震えていた。誰かに守ってもらわなければ何もできず、逃げることさえ満足にできなかった。
もう、あんなふうにはなりたくない。
「怖いけど、何もできない方がもっと嫌」
凌華は顔を上げた。
「だから覚えたい。ちゃんと」
戦場で見せるような鋭い眼差しではない。
いつもの柔らかな目のまま、それでもそこには揺らがない意志があった。
陸議はしばらく彼女を見つめていたが、やがて何も大げさなことは言わず、再び木剣を構えた。
「分かりました。では続けましょう」
「……もうちょっと励ましてくれてもよくない?」
「今、十分励ましたつもりですが」
「どこが!?」
「続きを教えるということは、あなたなら覚えられると思っているということです」
「…………」
凌華は瞬きをした。
陸議はすでに構えている。
「来ないのですか?」
「……そういうの、先に言ってよ」
「今言いました」
「そうじゃなくて」
思わず笑ってしまった。
凌華も木剣を構え直す。
「今度こそ当てる」
「どうぞ」
「絶対避けないでね」
「それでは訓練になりません」
「じゃあ、ちょっとだけ遅く動いて」
「嫌です」
「けち」
「始めますよ」
「はい!」
今度は木剣を見ない。
陸議の肩を見る。
腰を見る。
足を見る。
踏み込む直前、わずかに重心が動いた。
――今。
凌華は地面を蹴った。
木剣が走り、陸議が身をかわす。
けれど今度は完全な空振りではなかった。
木剣の先が、ほんの僅かに袖を掠める。
二人の動きが止まった。
「……あ」
凌華はゆっくり陸議を見る。
「……当たった?」
「掠っただけです」
「当たったよね?」
「掠りました」
「当たった!」
「掠ったと言っています」
「やったー!」
嬉しさのあまり、木剣を持ったまま両腕を上げた。
「凌華、危ない!」
「わっ」
ぽこん、と間の抜けた音がした。
木剣の先が陸議の肩に当たり、きちんと整えられていたそれが僅かにずれる。
「…………」
「…………」
凌華の顔から血の気が引いた。
「……ごめんなさい」
陸議は無言のままずれた衣服を直す。
「陸議さん?」
返事がない。
「怒った?」
それでも返事がない。
「ごめんって」
ようやく陸議が口を開いた。
「あなたは、敵より先に味方を倒すかもしれませんね」
「そんなことない!」
「今、私が倒されかけました」
「肩に当たっただけじゃん!」
「十分です」
「ごめんってば!」
陸議は背を向けた。
「剣の訓練はここまでです」
「えっ!? 今ちょっと上手くなったところなのに!」
「その直後に教える側を攻撃する人を、どう評価すればよいのです?」
「事故だって!」
「知っています」
「じゃあいいじゃん!」
「よくありません」
「陸議さーん!」
歩き出した陸議の後ろを、凌華は木剣を抱えたまま慌てて追いかけた。
てっきり屋敷へ戻るのかと思ったが、向かう方向が違う。
「……あれ?」
陸議の背中を追って角を曲がったところで、少し離れた場所から馬の嘶きが聞こえた。
続いて、地面を打つ蹄の重い音。
凌華の足が止まった。
「…………馬?」
『馬だな』
腰に下げた長剣から孫策の声がした。
幸い、周囲には誰もいない。
凌華は音のする方へ顔を向けた。
「近い!」
『おい、勝手に行くなよ』
「ちょっと見るだけ!」
『お前の“ちょっと見るだけ”は信用ならねえ』
「失礼な」
言いながらも、足はもう馬屋へ向かっている。
前を歩いていた陸議が振り返った。
「凌華?」
「あ」
「どこへ行くのです?」
「……馬」
「はい?」
凌華は馬屋の方を指差した。
「見たい」
「…………」
「ちょっとだけ」
陸議は凌華と馬屋を交互に見ると、軽く息を吐いた。
「ちょうど、この後は馬を扱う訓練をする予定でした」
「えっ」
凌華の目が一気に輝いた。
「乗れるの!?」
「まずは触るところからです」
「乗れないの?」
「順序があります」
「えー」
「嫌なら剣の基礎訓練へ戻りますが」
「馬!」
即答だった。
陸議の口元が僅かに緩んだ。
「では行きましょう」
馬屋へ近づくにつれて、訓練場とは違う匂いが濃くなっていった。
乾いた藁と土、獣の体温を含んだ独特の匂い。何頭もの馬が身体を動かすたび、蹄が床を打つ重い音が腹の底まで響いてくる。
入口まで来た凌華は、中を覗き込んだ。
「……わ」
黒や栗色の馬が何頭も並んでいた。
朝の光を受けた毛並みには艶があり、大きな胸が呼吸に合わせてゆっくりと上下している。
現代でも馬を見たことはある。
動物園や牧場、観光地でだって見た。
けれど、ここにいる馬は何かが違う。
展示される動物でも、特別な日に触れ合うための動物でもない。
人を運び、荷を運び、時には戦場へ共に向かう。
この時代を生きる人々にとって、馬は生活そのものの一部なのだ。
「……かっこいい」
『そうか?』
「かっこいいよ」
一頭の栗毛がこちらへ顔を向けた。
大きな黒い瞳に見つめられ、凌華もじっと見返す。
耳がぴくりとこちらへ向いた。
「かわいい……」
一歩近づこうとしたところで、陸議の声が飛んできた。
「勝手に近づかない」
「まだ何もしてないよ」
「今からする顔をしていました」
「どんな顔、それ」
「あなたの場合、分かりやすいので」
凌華は不満そうに唇を尖らせたが、馬の大きさを間近で見ると、さすがに少し足が止まった。
馬が大きく首を動かす。
「わっ!」
思わず後ろへ飛び退く。
『だから言っただろ』
「びっくりした……」
胸へ手を当てながら、もう一度馬を見上げる。
「馬って、こんなに大きかったっけ」
「今さらですか?」
「見るのと近くにいるの、全然違うよ」
「怖いのですか?」
「かっこいいのと怖いのは両立するの!」
陸議が一瞬黙った。
「剣の時にも似たようなことを言っていましたね」
「だって本当だもん」
凌華は少し距離を取りながらも、馬から目を離せない。
「……でも触りたい」
「では、近づき方から覚えてください」
陸議は馬の横へ立った。
「いきなり後ろへ回らない。大きな声を出さない。急に触らない。まず馬の様子を見る」
「うん」
「本当に聞いていますか?」
「聞いてるよ!」
「では、やってみてください」
凌華は一度息を整えた。
先ほどの栗毛へ、今度はゆっくりと近づいていく。
「……こんにちは」
「なぜ挨拶を?」
「いいじゃん」
「まあ……構いませんが」
馬の横へ立ち、教えられた通りに手を見せる。
すると、大きな鼻先がゆっくり近づいてきた。
柔らかな感触が手のひらに触れる。
「…………!」
凌華の身体が固まった。
「陸議さん」
「はい」
「触ってる」
「そうですね」
「馬が私触ってる」
「匂いを確かめているのでしょう」
「かわいい……」
さっきまで感じていた怖さが、嘘のように薄れていく。
「触っていい?」
「首の辺りから。ゆっくりと」
「うん」
手のひらを毛へ乗せる。
思っていたより硬い毛の下から、確かな体温が伝わってきた。
撫でるたびに筋肉が僅かに動き、その奥では心臓が動き、血が巡っている。
「……あったかい」
凌華の声が自然と小さくなる。
「生きてるんだね」
その言葉を聞いた陸議が、ほんの少しだけ凌華へ目を向けた。
けれど彼女は気づかない。
夢中になって馬の首を撫でている。
『さっき怖いって言ってたくせに、もうデレデレじゃねえか』
孫策の声が腰元から聞こえた。
凌華の眉が僅かに動く。
「どうしました?」
「何でもない」
『ほら、返事できねえ』
今だけは長剣を叩いてやりたい。
そんな衝動を堪えながら、凌華は何食わぬ顔で馬を撫で続けた。
その後は、馬の身体を整える方法を教わった。
陸議から道具を受け取り、毛並みに沿ってゆっくりと動かしていく。
背、首、肩。
触れる場所によって毛の硬さも、その下にある筋肉の感触も違う。
「すご……」
「先ほどから、そればかりですね」
「だってすごいんだもん」
「何がです?」
「全部」
凌華は馬の背を撫でながら、ふと思ったことを口にした。
「私のところだと、こんなに馬と近くなることってほとんどなかったから」
「馬が珍しい土地なのですか?」
「珍しいっていうか……普段の生活では、ほとんど必要なかった」
陸議が不思議そうに眉を寄せた。
「では、移動は?」
「…………」
この時代に来てから、何度も困らされている質問だ。
普通に答えれば、鉄の塊が人を乗せて道を走り、さらに大きな鉄の塊が空を飛ぶことになる。
どう説明したところで怪しまれる。
『言えよ。鉄の箱が走るって』
「孫策は黙ってて」
思わず小声で返してから、凌華ははっとした。
「……今、何か?」
「何でもない!」
怪訝そうな陸議から視線を逸らし、凌華は慌てて馬の毛を整える。
「乗り物があったの。馬じゃないやつ」
「どのような?」
「説明が難しい」
「またですか」
「本当に難しいんだって」
少し考えてから、凌華は懐かしい故郷の景色を思い浮かべた。
「でも、遠くまで行くのはすごく簡単だったよ。朝に家を出て、夕方にはものすごく遠い街にいたりした」
陸議の手が止まった。
「それほど速い馬が?」
「馬じゃない」
「では何で?」
凌華は振り返り、少し得意げに笑った。
「内緒」
「…………」
「私の故郷はすごかったの」
陸議はしばらく凌華を見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「そうですか」
「うん」
『誤魔化したな』
聞こえないふりをした。
やがて馬具が整えられ、鞍を載せた馬の横へ案内される。
そこで凌華は、ようやく重大なことに気づいた。
「…………」
さっきまであれほど乗りたかったのに、いざ真横へ立つと高い。
自分の頭よりはるか上に馬の背がある。
「……陸議さん」
「はい」
「馬って、乗るところ高くない?」
「今さらですか?」
「下から見るのと違う」
「乗らないのですか?」
「乗る」
「では、ここへ足を」
示された鐙へ足を掛ける。
「それから?」
「身体を上げます」
「それは分かってる」
「ではどうぞ」
「…………」
力を入れた。
上がらない。
もう一度踏ん張ると、今度は身体だけが横へ傾いた。
「わっ」
すぐに陸議の手が腕を支える。
「慌てない」
「難しい!」
「力だけで乗ろうとするからです」
「だって上に行かない!」
「踏み込みを使ってください」
「使ってる!」
「使えていません」
「陸議さん厳しい!」
「馬に文句を言わない」
「馬には言ってない!」
『俺にはいつも言うけどな』
凌華の顔が僅かに引きつった。
「もう一度」
「はい……」
鐙へ足を掛け直す。
「一、二――」
「待って」
「え?」
「勢いで乗らない」
「じゃあどうすればいいの!」
陸議は少し考えたあと、凌華の横へ立った。
「支えます。力を抜いてください」
腰へ手を添えられ、凌華の身体が一瞬だけ強張った。誰かにこうして身体を支えられること自体に慣れていない。
けれど陸議の意識はあくまで凌華の姿勢と足元に向けられていた。
「凌華」
「はい」
「足を掛けて」
「はい」
「今です」
言われた通りに踏み込む。
身体が持ち上がり、次の瞬間には視界が一気に高くなった。
「…………!」
気づけば、凌華は鞍の上にいた。
恐る恐る下を見る。
いつもは自分より背の高い陸議が、今日はずっと下にいる。
「陸議さん!」
「はい」
「高い!」
「馬ですから」
「すごい! 景色違う!」
「落ちないでください」
「見て! 陸議さんが小さい!」
「降ろしますよ」
「ごめんなさい」
即座に謝ると、陸議は呆れたように息を吐いた。
最初は陸議が手綱を引いてくれた。
馬が一歩進む。
その瞬間、想像以上に身体が揺れた。
「わっ!」
慌てて鞍へしがみつく。
「力を入れすぎない」
「怖い!」
「先ほどまで乗りたいと言っていたでしょう」
「乗りたかったのと怖いのは両立する!」
「今日はそればかりですね」
一歩、また一歩と馬が進むたび、身体が上下に揺れる。
最初はそのたびに肩へ力が入っていたが、陸議の言葉を聞きながら少しずつ馬の動きに身体を合わせていくと、先ほどまでとは違う感覚が分かってきた。
高いところを風が抜けていく。
歩いている時より遠くまで見える。
人の足では感じられない速度で景色が流れていく未来を想像すると、胸の奥が少しだけ弾んだ。
「陸議さん」
「何です?」
「ちょっと速くできる?」
「まだ駄目です」
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「ほんのちょっと」
「凌華」
「はい」
「あなたは歩けるようになった子供が、すぐ走ろうとするのと同じです」
「子供じゃない!」
「なら順序を守ってください」
「…………」
凌華が不満そうに黙ると、馬がふっと鼻を鳴らした。
「今、笑った?」
「馬は笑いません」
「絶対笑ったよ」
「気のせいです」
「陸議さんと同じ顔してる」
「どのような顔です?」
「私のこと呆れてる顔」
陸議は答えなかった。
「ほら!」
「何も言っていません」
「顔が言ってる!」
凌華の声が馬屋の周りへ響き、近くにいた兵たちが何事かとこちらを見た。
それからしばらく歩く練習を続け、馬から下りる頃には、凌華はすっかりその栗毛を気に入っていた。
「ありがとね」
首を撫でると、大きな鼻先が凌華の肩へ寄ってくる。
今度は驚かなかった。
「陸議さん」
「はい」
「この子、私のこと好きなんじゃない?」
「餌を期待しているのでは?」
「夢がない!」
「事実です」
「もうちょっと言い方あるでしょ」
教えてもらった馬の名を呼ぶ。
すると耳がぴくりと凌華へ向いた。
「聞いた!」
嬉しそうに笑う凌華を、陸議は少し離れた場所から見ていた。
「明日も来ていい?」
「剣の訓練があります」
「終わってから」
「馬の世話をするのであれば」
「する!」
「乗れる?」
「それは様子を見て」
「えー」
「まず世話を覚える」
「はーい」
返事だけは妙に素直だった。
◇
夕方。
一日の訓練が終わり、屋敷のあちこちから人の気配が減り始めた頃。
凌華は一人、もう一度訓練場へ戻っていた。
木剣を握り、朝に教わった姿勢を思い出す。
足を開く。
腰を落とす。
肩から力を抜く。
「……相手を見る」
朝の陸議の動きを頭の中で思い返しながら、木剣を振る。
風を切る音がした。
けれど、自分でも違うと分かった。
「……今のじゃないな」
足を戻し、もう一度構える。
剣を振ることも、馬に乗ることも、実際にやってみれば思っていたよりずっと難しかった。
この世界に来てから、そんなことばかりだ。
文字もまともに読めない。
暮らしの常識も違う。
剣を持てば身体の使い方ひとつから教えられ、馬に乗れば乗り方以前に近づき方から覚えなければならない。
自分が何も知らない人間になってしまったようで、時々ひどく心細くなる。
それでも。
今朝、陸議の袖を木剣が掠めた。
馬の背にも乗れた。
昨日できなかったことが、今日はほんの少しできるようになっている。
なら、明日はもう少しできるかもしれない。
凌華はもう一度木剣を構えた。
「足……腰……肩……」
一つずつ確認し、踏み込む。
何度も繰り返しているうちに日は傾き、長く伸びた影が訓練場を横切っていった。
本人は気づいていなかった。
少し離れた廊下に、陸議が立っていたことを。
手には書簡を持っている。
通りがかっただけだったのだろう。
けれど、朝に「怖い」と言った凌華が、それでも一人で木剣を振り続ける姿を見つけると、陸議の足はそこで止まっていた。
しばらく黙って見ていたあと、書簡を脇へ置く。
木剣を一本手に取った。
「凌華」
「うわっ!?」
突然声を掛けられ、凌華が振り返る。
「陸議さん?」
「足」
「え?」
「また狭くなっています」
言われて足元を見る。
「あ……本当だ」
「それでは踏み込んだ時に崩れます」
陸議が訓練場へ下りてくる。
「もう一度」
「でも今日の訓練、終わったよね?」
「終わりました」
「じゃあこれは?」
陸議は少し考えた。
「……自主訓練です」
「陸議さんの?」
「あなたのです」
「陸議さんもいるじゃん」
「…………」
凌華がにやりと笑う。
「付き合ってくれるんだ」
「放っておけば、また変な癖をつけそうですから」
「素直じゃないなぁ」
「では帰ります」
「あっ、待って!」
踵を返した陸議の袖を慌てて掴む。
「やる!」
陸議が足を止めた。
「教えて」
掴まれた袖へ一度視線を落とし、それから凌華を見る。
やがて木剣を構えた。
「では、今度は私の肩ではなく、きちんと剣を狙ってください」
「まだ言う!?」
夕暮れの訓練場に、凌華の声が響いた。
◇
その夜。
寝台へ横になった凌華は、身体の力を抜いた途端に顔をしかめた。
「……痛い」
『何が』
「お尻」
『知らねえよ』
「馬ってあんなに揺れるんだね」
『慣れだ』
「孫策は乗れたの?」
『当たり前だろ』
「上手だった?」
『誰に聞いてんだ』
「自信満々」
『実際うめえからな』
凌華は寝返りを打ち、天井を眺めた。
身体は疲れている。
腕も重いし、普段使わないところまで痛む。
それなのに、不思議と嫌な疲れではなかった。
「……陸議さんも上手そう」
『まあな』
「今日、ずっと馬の横歩いてくれた」
『お前が落ちそうだったからだろ』
「落ちてないよ」
『あいつが見てたからな』
「…………」
言われて、今日一日のことを思い返す。
剣を振るのは怖い。
馬へ初めて近づいた時も怖かった。
鞍の上から地面を見下ろした瞬間など、本気で降りようかと思った。
けれど、分からないことを聞けば陸議が教えてくれた。
間違えれば注意される。
危なければ止められる。
できるまで何度でもやり直させられる。
「……陸議さんって、結構面倒見いいよね」
『今さら気づいたのか』
「だって最初、もっと冷たい人だと思ってた」
『どこがだよ』
「真面目だし、すぐ注意するし」
『お前が注意されることするからだろ』
「孫策、陸議さんの味方ばっかり」
『俺は正しい方の味方だ』
「むかつく」
枕へ顔を埋める。
しばらくしてから、凌華はもう一度顔を出した。
「……でも、楽しかった」
『そうか』
「馬も。また明日会いたい」
『先に訓練だろ』
「分かってる」
『寝坊すんなよ』
「分かってるって」
目を閉じる。
「おやすみ、孫策」
『おう』
部屋に静けさが戻った。
窓の外では、月明かりに照らされた陸家の屋根が淡く浮かび上がっている。
遠くの馬屋から、かすかな嘶きが聞こえた。
その音を聞きながら、凌華の口元がほんの少し緩む。
元の時代では、馬に乗ることなど特別な日の体験でしかなかった。
剣を握る必要など、一生ないはずだった。
けれど今は、そのどちらもが、この時代で生きていくために覚えなければならないことになっている。
知らないことばかりで、自分だけが取り残されたように思う夜もある。
帰りたい場所だって、今も変わらない。
それでも今日、凌華は剣の向こうにいる相手を見ることを覚えた。
馬の体温を知った。
そして、できないことを一つずつ教えてくれる人が、この知らない時代にいることも知った。
昨日よりほんの少しだけ、この世界でできることが増えた。
そう思うと。
明日が来ることを楽しみに感じる日が、いつの間にか少しずつ増え始めていた。




