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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
第一章 異世界・江東編 〜凌華と陸議の出会い〜
14/74

番外編 文字に残るもの


陸家で暮らし始めて、しばらく経った頃。


凌華には、一つ困っていることがあった。


剣の扱いでもなければ、戦への恐怖でもない。


この時代の食事や衣服にも、少しずつ慣れてきた。朝になれば人々が動き始め、日が暮れれば屋敷全体が静けさに包まれる生活も、最初ほど不思議には感じなくなっている。


それでも、どうしても慣れないものがあった。


その日の昼下がり。


凌華は人気のない一室で、机の上に広げた竹簡と向き合っていた。


開け放たれた戸から柔らかな風が入り込み、庭の木々がさらさらと葉を鳴らしている。遠くからは訓練場で木剣がぶつかる乾いた音が、時折響いてきた。


けれど凌華の耳には、ほとんど入っていなかった。


「…………」


竹簡の最初の文字を見る。


次へ視線を移す。


分からない。


仕方なく最初へ戻る。


それを何度か繰り返しているうちに、眉間の皺だけが深くなっていった。


「……何これ」


思わず漏れた声に、答える者はいない。


凌華は頬杖をつき、目の前に並ぶ文字を睨んだ。


自分は大学生だった。


卒業論文のために三国志の資料を集め、本だって何冊も読んだ。漢字そのものに馴染みがないわけでもない。


だから最初は、少しくらいなら読めると思っていたのだ。


漢字なんだし、何となく分かるでしょ。


そんな考えは、竹簡を開いてすぐに消えた。


見覚えのある字はある。


形から意味を想像できるものもある。


ところが、それらが文章として並んだ途端、何を伝えようとしているのか分からなくなる。


「これが……たぶん……」


凌華は指先で一文字をなぞった。


「……民?」


そこだけは読める気がする。


問題は、その隣だ。


「…………木?」


首を傾げる。


もう一度、じっと見る。


「いや……山?」


見れば見るほど分からなくなった。


ついに凌華は両腕を机に投げ出し、その上へ額を押しつけた。


「無理……」


黒い髪が竹簡の端へ垂れ、風に揺れる。


しばらくそのまま動かなかったせいで、廊下から近づいてくる足音にも気づかなかった。


「何をしているのです?」


「わあっ!?」


凌華が勢いよく身体を起こした。


振り返ると、戸口に陸議が立っていた。


片手に数枚の書簡を抱えたまま、驚いている凌華を不思議そうに見ている。


「……陸議さん!」


「はい」


「びっくりした!」


「こちらの方が驚きました。突然叫ばないでください」


「急に後ろから声かけるからでしょ!」


「私は普通に廊下を歩いてきましたが」


「全然聞こえなかった」


「随分集中していたようですね」


陸議の視線が、凌華の肩越しに机へ向かった。


その瞬間。


凌華は反射的に竹簡を伏せた。


「…………」


陸議の視線が止まる。


凌華も止まる。


しばらく二人で見つめ合った。


「……なぜ隠すのです?」


「別に」


「では、見せてください」


「やだ」


「なぜ?」


「やだから」


「理由になっていません」


陸議が部屋へ入ってくる。


凌華は伏せた竹簡を胸元へ引き寄せた。


「これは私の問題だから!」


「その竹簡は陸家のものですが」


「…………」


凌華は腕の中を見下ろした。


確かにそうだった。


自分のものではない。


暇つぶしに何か読んでみようと思って、勝手に借りてきたものだ。


「……はい」


観念して差し出すと、陸議は受け取った竹簡を広げた。


内容を確認してから、凌華を見る。


「これを読んでいたのですか?」


「……うん」


「どこまで読みました?」


「…………」


凌華は黙った。


「凌華?」


「……最初の」


「はい」


「……二文字」


陸議が止まった。


凌華は俯いたまま、ちらりと彼の顔を見る。


その口元が、ほんの僅かに動いた。


「笑うなよ」


「笑っていません」


「今、絶対笑いそうになった!」


「なっていません」


そう言いながら陸議が顔を逸らす。


凌華は見逃さなかった。


「笑ってるじゃん!」


「……申し訳ありません」


ついに陸議が片手で口元を覆った。


「最低!」


「ですが……随分長い間ここにいましたよね?」


「いたけど」


「最初の二文字に、それほど時間を?」


「うるさい!」


凌華は再び机へ突っ伏した。


背後から、小さな笑い声が聞こえてくる。


「もう絶対教えてもらわない」


「私はまだ、教えるとは言っていませんよ」


「…………」


凌華がゆっくり顔を上げた。


「教えてくれないの?」


今度は陸議が黙った。


◇


結局。


少しして、二人は机の前に並んで座っていた。


陸議が竹簡を広げ、その隣から凌華が覗き込んでいる。


「では、ここからです」


陸議の指が一文字を示した。


「これは?」


凌華は文字を睨んだ。


「…………民」


「そうです」


ぱっと顔が明るくなる。


「合ってた!」


「先ほども読めていたのでしょう?」


「でも自信なかったんだもん」


「では次」


「待って。今ちょっと嬉しいから」


「一文字読めただけですよ」


「一文字でも進歩!」


陸議は呆れたように息を吐いたものの、急かすことはしなかった。


やがて凌華が満足すると、指を隣の文字へ移す。


「これは?」


「…………木?」


「違います」


「じゃあ山?」


「さらに離れました」


「川?」


「適当に答えていませんか?」


「だって分かんない!」


陸議は文字の一部を指した。


「先ほど似た形を説明したでしょう」


「教わったっけ?」


「教えました」


「いつ?」


「つい先ほどです」


「…………覚えてない」


「凌華」


低く名前を呼ばれ、凌華は思わず背筋を伸ばした。


怒っているわけではない。


ただ、訓練中にもよく聞く声だった。


「はい」


「覚える気はありますか?」


「あります!」


「本当に?」


「あるって!」


陸議がもう一度文字を示す。


「では、これは?」


「…………木」


「違います」


「…………」


凌華の肩が落ちた。


「陸議さん」


「何です?」


「剣の方が簡単かもしれない」


陸議の眉が上がる。


「昨日まで剣が難しいと言っていたのは誰です?」


「私」


「では訓練場へ戻りますか?」


「それも嫌」


「…………」


陸議が額へ手を当てた。


「あなたは一体、何がしたいのです?」


「楽して全部覚えたい」


「無理です」


迷いのない即答に、凌華は口を尖らせた。


それでも陸議は席を立たなかった。


一文字ずつ。


知らない字が出てくれば形と意味を説明し、単独では分かっても文章になると意味を掴めなくなる時には、前後を指で追いながら繋がりを教えていく。


最初こそ不満ばかり口にしていた凌華も、少しずつ静かになった。


庭から差し込む陽の角度が変わる頃には、机へ身を乗り出し、陸議の指先を真剣に追っている。


「……あ」


凌華の指が止まった。


「これ、分かる」


「どれです?」


「これ」


示した文字を見て、陸議が頷く。


「読んでみてください」


「……戦」


「そうです」


「これは知ってる」


「では、その次は?」


凌華の目が隣へ移る。


「……国?」


「ええ」


「じゃあ……」


先ほど教わった文字を探しながら、ゆっくり前後を繋いでいく。


「戦が……続けば……」


一度止まる。


陸議は答えを言わなかった。


凌華が自分で辿り着くのを待っている。


「国の……民が……疲れる?」


その言葉が出た瞬間、陸議の表情が変わった。


「そうです」


凌華が顔を上げる。


「……合ってる?」


「ええ」


「本当に?」


「読めましたよ」


数秒。


凌華は動かなかった。


やがて、その顔いっぱいに笑みが広がった。


「陸議さん!」


「はい」


「読めた!」


「そうですね」


「私、読めた!」


「聞こえています」


「すごくない!?」


「一文ですが」


「一文でもすごい!」


先ほどまで文字を睨みつけていたのが嘘のように、嬉しそうに笑っている。


陸議はそんな凌華を見て、つられるように小さく笑った。


◇


それからというもの。


凌華が竹簡を抱えて陸議のもとへ現れることが増えた。


廊下を歩いていれば、


「陸議さん!」


と後ろから呼び止められる。


振り返れば、案の定、竹簡を抱えた凌華が立っている。


「これ何?」


「私は今から出掛けるのですが」


「一個だけ!」


「昨日もそう言いましたね」


「今日は本当に一個!」


そう言われて、結局立ち止まってしまう。


別の日には、陸議が書簡を整理している部屋の戸から、凌華が顔だけを覗かせた。


「陸議さん」


「…………」


「これ――」


「昨日教えました」


「まだ何も見せてない!」


「顔を見れば分かります」


「ひどい!」


また別の日。


「陸議さん」


「今日は駄目です」


「まだ何も言ってない!」


「文字でしょう?」


「……なんで分かるの」


「毎日来れば分かります」


「じゃあいい。自分で考える」


少し不満そうに言って、凌華は部屋の端へ座った。


陸議は机へ向き直り、書簡に筆を走らせる。


さらさらと筆が紙を擦る音だけが部屋に響いた。


しばらくして、陸議の筆が止まる。


視線だけを横へ向けると、凌華はまだ同じ竹簡を睨んでいた。


眉間には深い皺が寄り、口元も少し尖っている。


陸議は何も言わず、再び書簡へ戻った。


けれど、少し経ってもう一度見ると、まだ同じところを見ている。


さらに時間が経つ。


凌華はとうとう竹簡を両手で持ち上げ、困り果てたように首を傾げた。


陸議は小さく息を吐いた。


筆を置く。


「凌華」


「なに?」


「どこです?」


「え?」


「分からないところ」


一瞬で凌華の顔が明るくなった。


「ここ!」


すぐに立ち上がり、陸議の隣へやってくる。


「これ!」


「近いです」


「だって見えないでしょ」


「見えますから、まず座ってください」


凌華は隣へ腰を下ろし、二人の間へ竹簡を広げた。


「これ」


「これは――」


陸議が説明を始める。


凌華は文字を追いながら、時折その横顔を見る。


「あ、じゃあこっちと繋がる?」


「そうです」


「あ!」


理解したらしい。


「分かった!」


「声が大きいです」


「ごめん」


そう言いながら、まるで反省していない顔で笑う。


陸議も呆れたように目を細めた。


そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていった。


◇


ある午後。


「陸議さん」


いつもの声に、陸議は書簡から顔を上げた。


「今日は何です?」


「これ」


凌華が差し出したのは、竹簡ではなかった。


手のひらに収まるほどの、小さな木札だった。


「何です?」


「読んで」


「……自分で書いたのですか?」


「うん」


凌華は少し得意そうだった。


陸議は木札を受け取る。


線は不揃いで、大きさもばらばらだった。


それでも、一文字ずつ丁寧に書こうとしたことは分かる。


陸議の視線が最初の文字へ向かい――止まった。


「…………」


凌華の笑顔が少しずつ消えていく。


「……何?」


陸議はもう一度見る。


やはり間違いない。


「陸議さん?」


「これは……『陸義』になっています」


「…………え?」


「私の名は『陸議』です」


凌華が固まった。


木札を見る。


陸議を見る。


もう一度、木札を見る。


やがて意味を理解したのか、耳がみるみる赤くなった。


「返して!」


勢いよく手を伸ばす。


陸議は反射的に木札を持ち上げた。


「待ってください」


「返して!」


「何を書いたのです?」


「いいから!」


「読んでと言ったのは凌華でしょう」


「名前間違ってると思わなかったの!」


凌華が必死に手を伸ばす。


陸議が身体を引いた。


「陸議さん!」


「危ないですよ」


「返してってば!」


「分かりましたから、落ち着いて――」


その時。


陸議の目が、名前の下に書かれた文字を追った。


動きが止まる。


『陸義さん、いつもありがとう』


「…………」


凌華も、読まれたことに気づいた。


伸ばしていた手が止まる。


「……だから」


先ほどまでの勢いが消え、恥ずかしそうに俯いた。


「もういいから返して。書き直す」


陸議は木札を見る。


文字は歪んでいる。


名前まで間違っている。


よく見れば何度か書き直したらしく、木の表面には薄く擦れた跡も残っていた。


「返しません」


「え?」


凌華が顔を上げる。


「なんで?」


「私宛なのでしょう?」


「そうだけど……」


「なら、私が持っていても問題ないはずです」


「問題あるよ! 名前違うじゃん!」


「そこは問題ですね」


「でしょ!?」


「では次は、正しく書いてください」


「…………次?」


陸議が木札を袖へ入れる。


「次は間違えないように」


「ちょっと待って。本当にそれ持ってくの?」


「ええ」


「失敗作だよ?」


「私には関係ありません」


「…………」


凌華はしばらく陸議を見つめた。


どうしてそんなものを欲しがるのか、まるで理解できないという顔だった。


「陸議さんって」


「はい」


「たまに変だよね」


「あなたに言われたくありません」


「何それ!」


凌華の声に、陸議の小さな笑い声が重なった。


◇


その夜。


人々が寝静まる頃には、陸家を包む音もすっかり少なくなっていた。


自室へ戻った陸議は、机の上へ書簡を置く。


いつもなら、そのまま翌日に必要なものを選り分ける。


けれど、袖の中に残る小さな硬さが気になった。


取り出したのは、昼間の木札だった。


灯火のそばへ持っていくと、不揃いな文字が淡い明かりの中へ浮かび上がる。


『陸義さん、いつもありがとう』


「…………」


何度見ても、やはり名前が違う。


「……そこを間違えますか」


呆れた声とは裏腹に、口元には微かな笑みが浮かんだ。


少し得意そうに木札を差し出してきた顔。


間違いを指摘した途端、目を丸くしたこと。


そして意味を理解した瞬間、耳まで真っ赤になったこと。


――返して!


慌てて手を伸ばしてきた凌華を思い出し、陸議はまた笑いそうになった。


視線を木札へ戻す。


上手な文字ではない。


けれど、一文字ずつ時間をかけて書いたことは分かる。


陸議は机の端に置かれた箱へ手を伸ばした。


蓋を開く。


中には書簡や覚え書きが、きちんと揃えて収められている。


その上へ木札を置こうとして、陸議の手が止まった。


少し考えてから書簡の束を持ち上げ、木札をその下へ滑り込ませる。


蓋を閉じる。


誰かに見られて困るものではない。


ただ礼を書いただけの木札だ。


しかも、名前まで間違っている。


それなのに、なぜ捨てずに取っておこうと思ったのか。


なぜ一番上ではなく、わざわざ箱の奥へしまったのか。


陸議自身にも、まだよく分からなかった。


◇


それから、ひと月ほど経った。


昼下がりの一室には、筆が紙を擦る小さな音が続いていた。


凌華は机へ向かい、真剣な顔で筆を動かしている。


傍らには長剣。


『まだやってんのか』


「うるさい。今いいところなの」


『さっきから同じ字ばっかじゃねえか』


「難しいの!」


机の上には、同じ文字がいくつも並んでいる。


陸。


陸。


陸。


『何であいつの名前ばっか書いてんだ』


「『陸』が難しいから」


『議もだろ』


「議はもっと嫌」


『本人に言え』


「怒られる」


そう答えてから、凌華は紙の上に並んだ文字を眺めた。


以前よりは、ずっと読める字になっている。


竹簡を前にして「無理」と頭を抱えていた頃に比べれば、随分進歩した。


けれど、ただ同じ文字を書き続けるのにも飽きてきた。


「……あ」


凌華が顔を上げる。


『何だ』


「手紙書けばいいんじゃん」


『誰に』


凌華は少し考えた。


一瞬だけ、家族や友人の顔が浮かぶ。


けれど、書いても届かない。


どこへ出せばいいのかさえ分からない手紙を書くのは、今日は少し辛い気がした。


だから、ここにいる誰かへ書くことにした。


凌華の視線が机へ戻る。


そこには何度も練習した『陸』の文字が並んでいる。


「……陸議さん」


『だと思った』


「だって一番書きやすいもん」


『今、議が嫌だっつっただろ』


「そうだった」


『馬鹿だろ』


「うるさい」


凌華は新しい紙を一枚、目の前へ置いた。


まず、名前を書く。


筆先を墨へ浸し、紙の上へ慎重に下ろした。


陸。


そして――議。


「…………」


書き終えた凌華は、じっと二文字を見つめた。


少し不格好だ。


けれど。


「見て」


『見えてる』


「ちゃんと陸議」


『成長したな』


「でしょ」


以前のように、『陸義』にはなっていない。


それだけで嬉しくなり、凌華は少し得意げに笑った。


そこから、ゆっくりと言葉を綴っていく。


――いつも、ありがとうございます。


――文字を教えてくれて、ありがとうございます。


――剣の稽古は、もう少し優しくしてください。


『書いたな』


「これは大事」


さらに続ける。


――でも、前よりできるようになりました。


――馬にもまた乗りたいです。


――今度は一人で買い物に行っても迷わないようにします。


『それ無理じゃねえか』


「できる」


――書簡も、今度は迷わず届けます。


『迷う前提になってんぞ』


「うるさいな」


凌華は笑いながら、次の言葉を書こうとした。


けれど、そこで筆が止まった。


このひと月。


陸議には随分世話になった。


この時代へ来たばかりの頃は、何も分からなかった。


怖くて、誰を信じていいのかも分からなかった。


そんな自分に、陸議は無理に何かを聞こうとはしなかった。


剣を教えてくれた。


文字を教えてくれた。


街へ連れていってくれた。


馬にも乗せてくれた。


熱を出せば薬を持ってきた。


分からないことがあって呼べば、大抵は少し面倒そうな顔をするくせに、結局は答えてくれる。


最初は、知らない時代に一人で放り出されたと思っていた。


けれど今は。


分からないことがあれば、とりあえず呼べる人がいる。


そのことが、凌華にとってどれほど心強いものになっているのか。


改めて考えると、少し不思議だった。


凌華はもう一度、筆を墨へ浸した。


そして。


――陸議さんがいてくれて、よかったです。


そこまで書いて、筆を止めた。


「…………」


自分で書いた文字を見つめているうちに、何となく頬が熱くなってきた。


『…………』


珍しく孫策も何も言わない。


「……これ」


『おう』


「なんか変?」


『何が』


「重くない?」


『知らねえよ』


「消したい」


『墨だぞ』


「分かってる!」


凌華は慌てて紙を裏返した。


『何で隠すんだ』


「これは渡さない」


『手紙なんだろ』


「練習!」


『陸議宛てなのに?』


「練習なの!」


『じゃあ何で照れてんだ』


「照れてない!」


その時。


廊下から足音が聞こえた。


凌華の身体が止まる。


足音は、そのままこちらへ近づいてくる。


そして。


「凌華」


「…………!」


一番来てほしくない声だった。


凌華は机の上の紙を掴んだ。


◇


戸口に陸議が現れた時、凌華は異様なほど姿勢よく座っていた。


「ここにいましたか」


「うん!」


「何をしているのです?」


「文字!」


「そうですか」


陸議が部屋へ入ってくる。


凌華の片手は机の下。


先ほどの手紙を握り締めていた。


陸議は机の上に並んだ練習の跡へ目を向ける。


「随分書きましたね」


「でしょ」


「……陸、陸、陸」


「…………」


「私の名前ですか?」


「『陸』の練習!」


「なるほど」


陸議は一枚を手に取った。


しばらく眺めてから、凌華へ視線を戻す。


「以前よりよくなっています」


「ほんと?」


凌華の顔がぱっと明るくなる。


「ええ」


「ちゃんと読める?」


「読めます」


「よかった!」


素直に喜ぶ凌華を見て、陸議も僅かに目元を緩めた。


「ただ」


「…………」


凌華の笑顔が消える。


「ここは筆を立てすぎています。それと、力が入りすぎです」


「…………」


「この線も――」


「褒めて終わってよ!」


陸議が小さく笑った。


やがて彼は凌華の前へ座った。


「では、少し書いてみてください」


「今?」


「はい」


「…………」


困った。


手紙を持ったままだ。


凌華が机の下でこっそり紙を後ろへ回そうとすると、陸議の視線がそこへ落ちた。


「凌華」


「なに」


「何を隠しているのです?」


「何も」


「紙がありますよね?」


「ない」


「見えています」


「…………」


終わった。


『諦めろ』


長剣から聞こえた孫策の声に、凌華は本気で剣を蹴りたくなった。


「練習したやつ」


「なら、見せてください」


「やだ」


「なぜ?」


「下手だから」


「そのために私が教えているのでしょう」


「これは違う」


「何が?」


「…………」


陸議が凌華を見る。


凌華も見返す。


先に折れたのは凌華だった。


「……笑わない?」


「笑いません」


「絶対?」


「ええ」


「変でも?」


「はい」


凌華は渋々、紙を差し出した。


陸議が受け取る。


そして、開いた。


「…………」


凌華は彼の顔を見ることができず、ひたすら机の木目を見つめていた。


静かな時間が妙に長く感じる。


「……何か言って」


「読んでいます」


「そんな長くないじゃん」


「あなたの文字なので」


「どういう意味!?」


「冗談です」


「陸議さん!」


陸議の口元が少し上がる。


けれど、最後の一文へ目を落としたところで、その笑みが僅かに消えた。


――陸議さんがいてくれて、よかったです。


「…………」


凌華は恐る恐る顔を上げた。


「……変?」


「いえ」


「じゃあ何」


陸議はもう一度、その一文を見る。


「これは……私に?」


「他に陸議さんいないでしょ」


「そうですが」


「…………」


聞かれたことで、余計に恥ずかしくなってきた。


「練習だから!」


「はい」


「深い意味ないからね」


「分かっています」


「文字の練習!」


「ええ」


「だから返して」


凌華が手を伸ばす。


けれど陸議は紙を見たまま、すぐには渡さなかった。


「これは私宛てなのでしょう?」


「…………」


嫌な予感がする。


「練習!」


「宛名があります」


「返して」


「私の名前が書いてあります」


「陸議さん」


「内容も私についてです」


「返して!」


凌華が身を乗り出すと、陸議は紙を少し遠ざけた。


「では、いただきます」


「なんで!?」


「手紙なのでしょう?」


「練習だってば!」


「ですが」


陸議は紙へ目を落とした。


「せっかくここまで書けるようになったのですから」


その声が少しだけ柔らかくなる。


「最初の一通くらい、残してもよいでしょう」


「…………」


凌華が止まる。


「……残すの?」


「ええ」


「なんで」


「記録です」


「何の?」


「凌華が文字を覚えた記録」


「…………」


それなら納得できるような、できないような。


凌華は少し考えた末、小さく息を吐いた。


「……最後のところ読まないで」


「もう読みました」


「忘れて」


「それは難しいですね」


「陸議さん!」


また笑われた。


◇


その日の夜。


凌華は自室の寝台へ倒れ込み、枕へ顔を埋めていた。


「孫策」


『何だ』


「なんで止めてくれなかったの」


『何を』


「陸議さん来た時!」


『俺がどう止めんだよ』


「何かあったでしょ」


『ねえよ』


「役に立たない」


『剣に何を求めてんだって何回言わせんだ』


凌華は枕へ顔を押しつけたまま、呻くような声を出した。


「最悪……」


『別にいいじゃねえか』


「よくない」


『本当のこと書いただけだろ』


「そうだけど」


『あいつがいてよかったんだろ?』


凌華は少しだけ顔を上げた。


それを考えることに、迷いはなかった。


「……うん」


『じゃあいいだろ』


「でも本人に読まれるのは違う」


『面倒くせえな』


「うるさい」


凌華は布を頭まで被った。


◇


同じ頃。


陸議の部屋には、まだ灯りが残っていた。


一日の仕事を終えた陸議は、机の上に積まれた書簡を一つずつ整理していく。


必要なものを箱へ収め、不要なものを別へ分ける。


やがて。


机の端に置かれた一枚の紙へ手が伸びた。


明らかに他の書簡とは違う、不揃いな文字。


凌華から渡された手紙だった。


陸議はそれを手に取り、改めて目を通す。


一か月前。


竹簡を前にして「読めない」と頭を抱えていた。


自分の名前を書くことすらできず、初めて書いた木札では『陸義』と間違えた。


それが今は。


『陸議』。


間違っていない。


――いつも、ありがとうございます。


――剣の稽古は、もう少し優しくしてください。


そこを読んだところで、陸議の口元が少し緩んだ。


そして最後。


――陸議さんがいてくれて、よかったです。


「…………」


灯火の炎が小さく揺れる。


陸議は、しばらくその一文を見ていた。


なぜこの言葉だけが妙に目に残るのか、自分でも分からない。


ただ、捨てようとは思わなかった。


紙を丁寧に折る。


そして、いつもの箱へ手を伸ばした。


蓋を開ける。


書簡の束を持ち上げたところで、その下にしまわれていたものが姿を現した。


小さな木札。


陸議の手が止まる。


取り出してみれば、そこには今よりずっと拙い文字が残っている。


『陸義さん、いつもありがとう』


「…………」


名前を間違えた木札と。


正しく名前を書けるようになった手紙。


陸議は二つを並べた。


木札の文字は不揃いで、何度も書き直した跡が残っている。


手紙の文字も決して上手ではない。


それでも見比べれば、このひと月で凌華がどれだけ文字を覚えたのかがよく分かった。


初めて『民』を読めただけで嬉しそうに笑った顔が、不意に頭へ浮かぶ。


分からない字があれば竹簡を抱えてやってきて。


一つ教えれば、また次を尋ねて。


できるようになれば、自分のことのように――いや、自分のことなのだから当然なのだろうが――本当に嬉しそうに笑う。


陸議は木札を箱へ戻した。


その隣へ。


今度は手紙を置く。


少し迷ってから、二つが離れないよう同じ場所へ収めた。


木札も。


手紙も。


誰かに見せるためのものではない。


歴史に残るような書簡でもなければ、重要な記録でもない。


一つは名前さえ間違っている。


もう一つも、文字を覚え始めたばかりの者が書いた練習の手紙にすぎない。


それでも。


陸議はどちらも捨てなかった。


箱の奥へしまい、静かに蓋を閉じる。


その時だった。


廊下の向こうから、ぱたぱたと聞き慣れた足音が近づいてくる。


「陸議さん!」


「…………」


もう。


声だけで誰なのか分かる。


陸議は箱から手を離した。


ほどなくして戸口から凌華が顔を覗かせる。


手には、竹簡が抱えられていた。


「この字分かんない!」


「……今ですか?」


「一個だけ!」


「あなたの『一個だけ』は信用できません」


「ほんとに一個!」


陸議は小さく息を吐いた。


けれど追い返すことはせず、机の横に置かれていた座具を少しだけ自分の方へ引き寄せる。


「持ってきてください」


「うん!」


凌華が嬉しそうに隣へ座った。


二人の間へ竹簡を広げる。


「ここ」


「これは――」


陸議が文字を指す。


凌華の顔が近づいた。


「じゃあこれは?」


「先ほど説明しました」


「忘れた」


「早すぎます」


「もう一回!」


「……ここを見てください」


「ここ?」


「違います。こちらです」


「あ、そっちか」


灯火の下で、二人の影が同じ竹簡の上へ重なる。


凌華の指が文字を追い、その隣で陸議が一つずつ意味を説明していく。


少し前まで静かだった部屋に、二人の声が続いていた。


箱の奥には。


名前を間違えた、小さな木札。


その隣には。


初めて正しく『陸議』と書かれた、一通の手紙。


凌華は、陸議が二つを同じ場所へしまっていることを知らない。


陸議もまた、なぜそのどちらも捨てる気になれなかったのかを、深く考えようとはしなかった。


この頃の凌華にとって陸議は、知らない時代で分からないものを見つけた時、聞けば教えてくれる人だった。


困った時には助けてくれて。


妙なことを言えば怪訝な顔をするくせに。


結局は隣にいてくれる人。


陸議もまた。


身元も分からず、秘密も多く、放っておけば何をするか分からない凌華だから、目を離せないだけなのだと思っていた。


ただ。


何かを見つけるたび。


「陸議さん!」


そう言って自分を呼ぶ声に。


いつからか、振り返るより先に口元が緩むようになったことには。


まだ。


気づいていなかった。


そして、ずっと後になって。


二人がこの頃を思い出すことがあったなら。


きっと。


名前を間違えた小さな木札も。


初めて書いた不格好な手紙も。


何でもない顔をして隣り合い、同じ竹簡を覗き込んでいた夜も。


そのどれもが。


二人の間に少しずつ積み重なっていたものの始まりだったのだと。


そう思うのかもしれなかった。

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