番外編 文字に残るもの
陸家で暮らし始めて、しばらく経った頃。
凌華には、一つ困っていることがあった。
剣の扱いでもなければ、戦への恐怖でもない。
この時代の食事や衣服にも、少しずつ慣れてきた。朝になれば人々が動き始め、日が暮れれば屋敷全体が静けさに包まれる生活も、最初ほど不思議には感じなくなっている。
それでも、どうしても慣れないものがあった。
その日の昼下がり。
凌華は人気のない一室で、机の上に広げた竹簡と向き合っていた。
開け放たれた戸から柔らかな風が入り込み、庭の木々がさらさらと葉を鳴らしている。遠くからは訓練場で木剣がぶつかる乾いた音が、時折響いてきた。
けれど凌華の耳には、ほとんど入っていなかった。
「…………」
竹簡の最初の文字を見る。
次へ視線を移す。
分からない。
仕方なく最初へ戻る。
それを何度か繰り返しているうちに、眉間の皺だけが深くなっていった。
「……何これ」
思わず漏れた声に、答える者はいない。
凌華は頬杖をつき、目の前に並ぶ文字を睨んだ。
自分は大学生だった。
卒業論文のために三国志の資料を集め、本だって何冊も読んだ。漢字そのものに馴染みがないわけでもない。
だから最初は、少しくらいなら読めると思っていたのだ。
漢字なんだし、何となく分かるでしょ。
そんな考えは、竹簡を開いてすぐに消えた。
見覚えのある字はある。
形から意味を想像できるものもある。
ところが、それらが文章として並んだ途端、何を伝えようとしているのか分からなくなる。
「これが……たぶん……」
凌華は指先で一文字をなぞった。
「……民?」
そこだけは読める気がする。
問題は、その隣だ。
「…………木?」
首を傾げる。
もう一度、じっと見る。
「いや……山?」
見れば見るほど分からなくなった。
ついに凌華は両腕を机に投げ出し、その上へ額を押しつけた。
「無理……」
黒い髪が竹簡の端へ垂れ、風に揺れる。
しばらくそのまま動かなかったせいで、廊下から近づいてくる足音にも気づかなかった。
「何をしているのです?」
「わあっ!?」
凌華が勢いよく身体を起こした。
振り返ると、戸口に陸議が立っていた。
片手に数枚の書簡を抱えたまま、驚いている凌華を不思議そうに見ている。
「……陸議さん!」
「はい」
「びっくりした!」
「こちらの方が驚きました。突然叫ばないでください」
「急に後ろから声かけるからでしょ!」
「私は普通に廊下を歩いてきましたが」
「全然聞こえなかった」
「随分集中していたようですね」
陸議の視線が、凌華の肩越しに机へ向かった。
その瞬間。
凌華は反射的に竹簡を伏せた。
「…………」
陸議の視線が止まる。
凌華も止まる。
しばらく二人で見つめ合った。
「……なぜ隠すのです?」
「別に」
「では、見せてください」
「やだ」
「なぜ?」
「やだから」
「理由になっていません」
陸議が部屋へ入ってくる。
凌華は伏せた竹簡を胸元へ引き寄せた。
「これは私の問題だから!」
「その竹簡は陸家のものですが」
「…………」
凌華は腕の中を見下ろした。
確かにそうだった。
自分のものではない。
暇つぶしに何か読んでみようと思って、勝手に借りてきたものだ。
「……はい」
観念して差し出すと、陸議は受け取った竹簡を広げた。
内容を確認してから、凌華を見る。
「これを読んでいたのですか?」
「……うん」
「どこまで読みました?」
「…………」
凌華は黙った。
「凌華?」
「……最初の」
「はい」
「……二文字」
陸議が止まった。
凌華は俯いたまま、ちらりと彼の顔を見る。
その口元が、ほんの僅かに動いた。
「笑うなよ」
「笑っていません」
「今、絶対笑いそうになった!」
「なっていません」
そう言いながら陸議が顔を逸らす。
凌華は見逃さなかった。
「笑ってるじゃん!」
「……申し訳ありません」
ついに陸議が片手で口元を覆った。
「最低!」
「ですが……随分長い間ここにいましたよね?」
「いたけど」
「最初の二文字に、それほど時間を?」
「うるさい!」
凌華は再び机へ突っ伏した。
背後から、小さな笑い声が聞こえてくる。
「もう絶対教えてもらわない」
「私はまだ、教えるとは言っていませんよ」
「…………」
凌華がゆっくり顔を上げた。
「教えてくれないの?」
今度は陸議が黙った。
◇
結局。
少しして、二人は机の前に並んで座っていた。
陸議が竹簡を広げ、その隣から凌華が覗き込んでいる。
「では、ここからです」
陸議の指が一文字を示した。
「これは?」
凌華は文字を睨んだ。
「…………民」
「そうです」
ぱっと顔が明るくなる。
「合ってた!」
「先ほども読めていたのでしょう?」
「でも自信なかったんだもん」
「では次」
「待って。今ちょっと嬉しいから」
「一文字読めただけですよ」
「一文字でも進歩!」
陸議は呆れたように息を吐いたものの、急かすことはしなかった。
やがて凌華が満足すると、指を隣の文字へ移す。
「これは?」
「…………木?」
「違います」
「じゃあ山?」
「さらに離れました」
「川?」
「適当に答えていませんか?」
「だって分かんない!」
陸議は文字の一部を指した。
「先ほど似た形を説明したでしょう」
「教わったっけ?」
「教えました」
「いつ?」
「つい先ほどです」
「…………覚えてない」
「凌華」
低く名前を呼ばれ、凌華は思わず背筋を伸ばした。
怒っているわけではない。
ただ、訓練中にもよく聞く声だった。
「はい」
「覚える気はありますか?」
「あります!」
「本当に?」
「あるって!」
陸議がもう一度文字を示す。
「では、これは?」
「…………木」
「違います」
「…………」
凌華の肩が落ちた。
「陸議さん」
「何です?」
「剣の方が簡単かもしれない」
陸議の眉が上がる。
「昨日まで剣が難しいと言っていたのは誰です?」
「私」
「では訓練場へ戻りますか?」
「それも嫌」
「…………」
陸議が額へ手を当てた。
「あなたは一体、何がしたいのです?」
「楽して全部覚えたい」
「無理です」
迷いのない即答に、凌華は口を尖らせた。
それでも陸議は席を立たなかった。
一文字ずつ。
知らない字が出てくれば形と意味を説明し、単独では分かっても文章になると意味を掴めなくなる時には、前後を指で追いながら繋がりを教えていく。
最初こそ不満ばかり口にしていた凌華も、少しずつ静かになった。
庭から差し込む陽の角度が変わる頃には、机へ身を乗り出し、陸議の指先を真剣に追っている。
「……あ」
凌華の指が止まった。
「これ、分かる」
「どれです?」
「これ」
示した文字を見て、陸議が頷く。
「読んでみてください」
「……戦」
「そうです」
「これは知ってる」
「では、その次は?」
凌華の目が隣へ移る。
「……国?」
「ええ」
「じゃあ……」
先ほど教わった文字を探しながら、ゆっくり前後を繋いでいく。
「戦が……続けば……」
一度止まる。
陸議は答えを言わなかった。
凌華が自分で辿り着くのを待っている。
「国の……民が……疲れる?」
その言葉が出た瞬間、陸議の表情が変わった。
「そうです」
凌華が顔を上げる。
「……合ってる?」
「ええ」
「本当に?」
「読めましたよ」
数秒。
凌華は動かなかった。
やがて、その顔いっぱいに笑みが広がった。
「陸議さん!」
「はい」
「読めた!」
「そうですね」
「私、読めた!」
「聞こえています」
「すごくない!?」
「一文ですが」
「一文でもすごい!」
先ほどまで文字を睨みつけていたのが嘘のように、嬉しそうに笑っている。
陸議はそんな凌華を見て、つられるように小さく笑った。
◇
それからというもの。
凌華が竹簡を抱えて陸議のもとへ現れることが増えた。
廊下を歩いていれば、
「陸議さん!」
と後ろから呼び止められる。
振り返れば、案の定、竹簡を抱えた凌華が立っている。
「これ何?」
「私は今から出掛けるのですが」
「一個だけ!」
「昨日もそう言いましたね」
「今日は本当に一個!」
そう言われて、結局立ち止まってしまう。
別の日には、陸議が書簡を整理している部屋の戸から、凌華が顔だけを覗かせた。
「陸議さん」
「…………」
「これ――」
「昨日教えました」
「まだ何も見せてない!」
「顔を見れば分かります」
「ひどい!」
また別の日。
「陸議さん」
「今日は駄目です」
「まだ何も言ってない!」
「文字でしょう?」
「……なんで分かるの」
「毎日来れば分かります」
「じゃあいい。自分で考える」
少し不満そうに言って、凌華は部屋の端へ座った。
陸議は机へ向き直り、書簡に筆を走らせる。
さらさらと筆が紙を擦る音だけが部屋に響いた。
しばらくして、陸議の筆が止まる。
視線だけを横へ向けると、凌華はまだ同じ竹簡を睨んでいた。
眉間には深い皺が寄り、口元も少し尖っている。
陸議は何も言わず、再び書簡へ戻った。
けれど、少し経ってもう一度見ると、まだ同じところを見ている。
さらに時間が経つ。
凌華はとうとう竹簡を両手で持ち上げ、困り果てたように首を傾げた。
陸議は小さく息を吐いた。
筆を置く。
「凌華」
「なに?」
「どこです?」
「え?」
「分からないところ」
一瞬で凌華の顔が明るくなった。
「ここ!」
すぐに立ち上がり、陸議の隣へやってくる。
「これ!」
「近いです」
「だって見えないでしょ」
「見えますから、まず座ってください」
凌華は隣へ腰を下ろし、二人の間へ竹簡を広げた。
「これ」
「これは――」
陸議が説明を始める。
凌華は文字を追いながら、時折その横顔を見る。
「あ、じゃあこっちと繋がる?」
「そうです」
「あ!」
理解したらしい。
「分かった!」
「声が大きいです」
「ごめん」
そう言いながら、まるで反省していない顔で笑う。
陸議も呆れたように目を細めた。
そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていった。
◇
ある午後。
「陸議さん」
いつもの声に、陸議は書簡から顔を上げた。
「今日は何です?」
「これ」
凌華が差し出したのは、竹簡ではなかった。
手のひらに収まるほどの、小さな木札だった。
「何です?」
「読んで」
「……自分で書いたのですか?」
「うん」
凌華は少し得意そうだった。
陸議は木札を受け取る。
線は不揃いで、大きさもばらばらだった。
それでも、一文字ずつ丁寧に書こうとしたことは分かる。
陸議の視線が最初の文字へ向かい――止まった。
「…………」
凌華の笑顔が少しずつ消えていく。
「……何?」
陸議はもう一度見る。
やはり間違いない。
「陸議さん?」
「これは……『陸義』になっています」
「…………え?」
「私の名は『陸議』です」
凌華が固まった。
木札を見る。
陸議を見る。
もう一度、木札を見る。
やがて意味を理解したのか、耳がみるみる赤くなった。
「返して!」
勢いよく手を伸ばす。
陸議は反射的に木札を持ち上げた。
「待ってください」
「返して!」
「何を書いたのです?」
「いいから!」
「読んでと言ったのは凌華でしょう」
「名前間違ってると思わなかったの!」
凌華が必死に手を伸ばす。
陸議が身体を引いた。
「陸議さん!」
「危ないですよ」
「返してってば!」
「分かりましたから、落ち着いて――」
その時。
陸議の目が、名前の下に書かれた文字を追った。
動きが止まる。
『陸義さん、いつもありがとう』
「…………」
凌華も、読まれたことに気づいた。
伸ばしていた手が止まる。
「……だから」
先ほどまでの勢いが消え、恥ずかしそうに俯いた。
「もういいから返して。書き直す」
陸議は木札を見る。
文字は歪んでいる。
名前まで間違っている。
よく見れば何度か書き直したらしく、木の表面には薄く擦れた跡も残っていた。
「返しません」
「え?」
凌華が顔を上げる。
「なんで?」
「私宛なのでしょう?」
「そうだけど……」
「なら、私が持っていても問題ないはずです」
「問題あるよ! 名前違うじゃん!」
「そこは問題ですね」
「でしょ!?」
「では次は、正しく書いてください」
「…………次?」
陸議が木札を袖へ入れる。
「次は間違えないように」
「ちょっと待って。本当にそれ持ってくの?」
「ええ」
「失敗作だよ?」
「私には関係ありません」
「…………」
凌華はしばらく陸議を見つめた。
どうしてそんなものを欲しがるのか、まるで理解できないという顔だった。
「陸議さんって」
「はい」
「たまに変だよね」
「あなたに言われたくありません」
「何それ!」
凌華の声に、陸議の小さな笑い声が重なった。
◇
その夜。
人々が寝静まる頃には、陸家を包む音もすっかり少なくなっていた。
自室へ戻った陸議は、机の上へ書簡を置く。
いつもなら、そのまま翌日に必要なものを選り分ける。
けれど、袖の中に残る小さな硬さが気になった。
取り出したのは、昼間の木札だった。
灯火のそばへ持っていくと、不揃いな文字が淡い明かりの中へ浮かび上がる。
『陸義さん、いつもありがとう』
「…………」
何度見ても、やはり名前が違う。
「……そこを間違えますか」
呆れた声とは裏腹に、口元には微かな笑みが浮かんだ。
少し得意そうに木札を差し出してきた顔。
間違いを指摘した途端、目を丸くしたこと。
そして意味を理解した瞬間、耳まで真っ赤になったこと。
――返して!
慌てて手を伸ばしてきた凌華を思い出し、陸議はまた笑いそうになった。
視線を木札へ戻す。
上手な文字ではない。
けれど、一文字ずつ時間をかけて書いたことは分かる。
陸議は机の端に置かれた箱へ手を伸ばした。
蓋を開く。
中には書簡や覚え書きが、きちんと揃えて収められている。
その上へ木札を置こうとして、陸議の手が止まった。
少し考えてから書簡の束を持ち上げ、木札をその下へ滑り込ませる。
蓋を閉じる。
誰かに見られて困るものではない。
ただ礼を書いただけの木札だ。
しかも、名前まで間違っている。
それなのに、なぜ捨てずに取っておこうと思ったのか。
なぜ一番上ではなく、わざわざ箱の奥へしまったのか。
陸議自身にも、まだよく分からなかった。
◇
それから、ひと月ほど経った。
昼下がりの一室には、筆が紙を擦る小さな音が続いていた。
凌華は机へ向かい、真剣な顔で筆を動かしている。
傍らには長剣。
『まだやってんのか』
「うるさい。今いいところなの」
『さっきから同じ字ばっかじゃねえか』
「難しいの!」
机の上には、同じ文字がいくつも並んでいる。
陸。
陸。
陸。
『何であいつの名前ばっか書いてんだ』
「『陸』が難しいから」
『議もだろ』
「議はもっと嫌」
『本人に言え』
「怒られる」
そう答えてから、凌華は紙の上に並んだ文字を眺めた。
以前よりは、ずっと読める字になっている。
竹簡を前にして「無理」と頭を抱えていた頃に比べれば、随分進歩した。
けれど、ただ同じ文字を書き続けるのにも飽きてきた。
「……あ」
凌華が顔を上げる。
『何だ』
「手紙書けばいいんじゃん」
『誰に』
凌華は少し考えた。
一瞬だけ、家族や友人の顔が浮かぶ。
けれど、書いても届かない。
どこへ出せばいいのかさえ分からない手紙を書くのは、今日は少し辛い気がした。
だから、ここにいる誰かへ書くことにした。
凌華の視線が机へ戻る。
そこには何度も練習した『陸』の文字が並んでいる。
「……陸議さん」
『だと思った』
「だって一番書きやすいもん」
『今、議が嫌だっつっただろ』
「そうだった」
『馬鹿だろ』
「うるさい」
凌華は新しい紙を一枚、目の前へ置いた。
まず、名前を書く。
筆先を墨へ浸し、紙の上へ慎重に下ろした。
陸。
そして――議。
「…………」
書き終えた凌華は、じっと二文字を見つめた。
少し不格好だ。
けれど。
「見て」
『見えてる』
「ちゃんと陸議」
『成長したな』
「でしょ」
以前のように、『陸義』にはなっていない。
それだけで嬉しくなり、凌華は少し得意げに笑った。
そこから、ゆっくりと言葉を綴っていく。
――いつも、ありがとうございます。
――文字を教えてくれて、ありがとうございます。
――剣の稽古は、もう少し優しくしてください。
『書いたな』
「これは大事」
さらに続ける。
――でも、前よりできるようになりました。
――馬にもまた乗りたいです。
――今度は一人で買い物に行っても迷わないようにします。
『それ無理じゃねえか』
「できる」
――書簡も、今度は迷わず届けます。
『迷う前提になってんぞ』
「うるさいな」
凌華は笑いながら、次の言葉を書こうとした。
けれど、そこで筆が止まった。
このひと月。
陸議には随分世話になった。
この時代へ来たばかりの頃は、何も分からなかった。
怖くて、誰を信じていいのかも分からなかった。
そんな自分に、陸議は無理に何かを聞こうとはしなかった。
剣を教えてくれた。
文字を教えてくれた。
街へ連れていってくれた。
馬にも乗せてくれた。
熱を出せば薬を持ってきた。
分からないことがあって呼べば、大抵は少し面倒そうな顔をするくせに、結局は答えてくれる。
最初は、知らない時代に一人で放り出されたと思っていた。
けれど今は。
分からないことがあれば、とりあえず呼べる人がいる。
そのことが、凌華にとってどれほど心強いものになっているのか。
改めて考えると、少し不思議だった。
凌華はもう一度、筆を墨へ浸した。
そして。
――陸議さんがいてくれて、よかったです。
そこまで書いて、筆を止めた。
「…………」
自分で書いた文字を見つめているうちに、何となく頬が熱くなってきた。
『…………』
珍しく孫策も何も言わない。
「……これ」
『おう』
「なんか変?」
『何が』
「重くない?」
『知らねえよ』
「消したい」
『墨だぞ』
「分かってる!」
凌華は慌てて紙を裏返した。
『何で隠すんだ』
「これは渡さない」
『手紙なんだろ』
「練習!」
『陸議宛てなのに?』
「練習なの!」
『じゃあ何で照れてんだ』
「照れてない!」
その時。
廊下から足音が聞こえた。
凌華の身体が止まる。
足音は、そのままこちらへ近づいてくる。
そして。
「凌華」
「…………!」
一番来てほしくない声だった。
凌華は机の上の紙を掴んだ。
◇
戸口に陸議が現れた時、凌華は異様なほど姿勢よく座っていた。
「ここにいましたか」
「うん!」
「何をしているのです?」
「文字!」
「そうですか」
陸議が部屋へ入ってくる。
凌華の片手は机の下。
先ほどの手紙を握り締めていた。
陸議は机の上に並んだ練習の跡へ目を向ける。
「随分書きましたね」
「でしょ」
「……陸、陸、陸」
「…………」
「私の名前ですか?」
「『陸』の練習!」
「なるほど」
陸議は一枚を手に取った。
しばらく眺めてから、凌華へ視線を戻す。
「以前よりよくなっています」
「ほんと?」
凌華の顔がぱっと明るくなる。
「ええ」
「ちゃんと読める?」
「読めます」
「よかった!」
素直に喜ぶ凌華を見て、陸議も僅かに目元を緩めた。
「ただ」
「…………」
凌華の笑顔が消える。
「ここは筆を立てすぎています。それと、力が入りすぎです」
「…………」
「この線も――」
「褒めて終わってよ!」
陸議が小さく笑った。
やがて彼は凌華の前へ座った。
「では、少し書いてみてください」
「今?」
「はい」
「…………」
困った。
手紙を持ったままだ。
凌華が机の下でこっそり紙を後ろへ回そうとすると、陸議の視線がそこへ落ちた。
「凌華」
「なに」
「何を隠しているのです?」
「何も」
「紙がありますよね?」
「ない」
「見えています」
「…………」
終わった。
『諦めろ』
長剣から聞こえた孫策の声に、凌華は本気で剣を蹴りたくなった。
「練習したやつ」
「なら、見せてください」
「やだ」
「なぜ?」
「下手だから」
「そのために私が教えているのでしょう」
「これは違う」
「何が?」
「…………」
陸議が凌華を見る。
凌華も見返す。
先に折れたのは凌華だった。
「……笑わない?」
「笑いません」
「絶対?」
「ええ」
「変でも?」
「はい」
凌華は渋々、紙を差し出した。
陸議が受け取る。
そして、開いた。
「…………」
凌華は彼の顔を見ることができず、ひたすら机の木目を見つめていた。
静かな時間が妙に長く感じる。
「……何か言って」
「読んでいます」
「そんな長くないじゃん」
「あなたの文字なので」
「どういう意味!?」
「冗談です」
「陸議さん!」
陸議の口元が少し上がる。
けれど、最後の一文へ目を落としたところで、その笑みが僅かに消えた。
――陸議さんがいてくれて、よかったです。
「…………」
凌華は恐る恐る顔を上げた。
「……変?」
「いえ」
「じゃあ何」
陸議はもう一度、その一文を見る。
「これは……私に?」
「他に陸議さんいないでしょ」
「そうですが」
「…………」
聞かれたことで、余計に恥ずかしくなってきた。
「練習だから!」
「はい」
「深い意味ないからね」
「分かっています」
「文字の練習!」
「ええ」
「だから返して」
凌華が手を伸ばす。
けれど陸議は紙を見たまま、すぐには渡さなかった。
「これは私宛てなのでしょう?」
「…………」
嫌な予感がする。
「練習!」
「宛名があります」
「返して」
「私の名前が書いてあります」
「陸議さん」
「内容も私についてです」
「返して!」
凌華が身を乗り出すと、陸議は紙を少し遠ざけた。
「では、いただきます」
「なんで!?」
「手紙なのでしょう?」
「練習だってば!」
「ですが」
陸議は紙へ目を落とした。
「せっかくここまで書けるようになったのですから」
その声が少しだけ柔らかくなる。
「最初の一通くらい、残してもよいでしょう」
「…………」
凌華が止まる。
「……残すの?」
「ええ」
「なんで」
「記録です」
「何の?」
「凌華が文字を覚えた記録」
「…………」
それなら納得できるような、できないような。
凌華は少し考えた末、小さく息を吐いた。
「……最後のところ読まないで」
「もう読みました」
「忘れて」
「それは難しいですね」
「陸議さん!」
また笑われた。
◇
その日の夜。
凌華は自室の寝台へ倒れ込み、枕へ顔を埋めていた。
「孫策」
『何だ』
「なんで止めてくれなかったの」
『何を』
「陸議さん来た時!」
『俺がどう止めんだよ』
「何かあったでしょ」
『ねえよ』
「役に立たない」
『剣に何を求めてんだって何回言わせんだ』
凌華は枕へ顔を押しつけたまま、呻くような声を出した。
「最悪……」
『別にいいじゃねえか』
「よくない」
『本当のこと書いただけだろ』
「そうだけど」
『あいつがいてよかったんだろ?』
凌華は少しだけ顔を上げた。
それを考えることに、迷いはなかった。
「……うん」
『じゃあいいだろ』
「でも本人に読まれるのは違う」
『面倒くせえな』
「うるさい」
凌華は布を頭まで被った。
◇
同じ頃。
陸議の部屋には、まだ灯りが残っていた。
一日の仕事を終えた陸議は、机の上に積まれた書簡を一つずつ整理していく。
必要なものを箱へ収め、不要なものを別へ分ける。
やがて。
机の端に置かれた一枚の紙へ手が伸びた。
明らかに他の書簡とは違う、不揃いな文字。
凌華から渡された手紙だった。
陸議はそれを手に取り、改めて目を通す。
一か月前。
竹簡を前にして「読めない」と頭を抱えていた。
自分の名前を書くことすらできず、初めて書いた木札では『陸義』と間違えた。
それが今は。
『陸議』。
間違っていない。
――いつも、ありがとうございます。
――剣の稽古は、もう少し優しくしてください。
そこを読んだところで、陸議の口元が少し緩んだ。
そして最後。
――陸議さんがいてくれて、よかったです。
「…………」
灯火の炎が小さく揺れる。
陸議は、しばらくその一文を見ていた。
なぜこの言葉だけが妙に目に残るのか、自分でも分からない。
ただ、捨てようとは思わなかった。
紙を丁寧に折る。
そして、いつもの箱へ手を伸ばした。
蓋を開ける。
書簡の束を持ち上げたところで、その下にしまわれていたものが姿を現した。
小さな木札。
陸議の手が止まる。
取り出してみれば、そこには今よりずっと拙い文字が残っている。
『陸義さん、いつもありがとう』
「…………」
名前を間違えた木札と。
正しく名前を書けるようになった手紙。
陸議は二つを並べた。
木札の文字は不揃いで、何度も書き直した跡が残っている。
手紙の文字も決して上手ではない。
それでも見比べれば、このひと月で凌華がどれだけ文字を覚えたのかがよく分かった。
初めて『民』を読めただけで嬉しそうに笑った顔が、不意に頭へ浮かぶ。
分からない字があれば竹簡を抱えてやってきて。
一つ教えれば、また次を尋ねて。
できるようになれば、自分のことのように――いや、自分のことなのだから当然なのだろうが――本当に嬉しそうに笑う。
陸議は木札を箱へ戻した。
その隣へ。
今度は手紙を置く。
少し迷ってから、二つが離れないよう同じ場所へ収めた。
木札も。
手紙も。
誰かに見せるためのものではない。
歴史に残るような書簡でもなければ、重要な記録でもない。
一つは名前さえ間違っている。
もう一つも、文字を覚え始めたばかりの者が書いた練習の手紙にすぎない。
それでも。
陸議はどちらも捨てなかった。
箱の奥へしまい、静かに蓋を閉じる。
その時だった。
廊下の向こうから、ぱたぱたと聞き慣れた足音が近づいてくる。
「陸議さん!」
「…………」
もう。
声だけで誰なのか分かる。
陸議は箱から手を離した。
ほどなくして戸口から凌華が顔を覗かせる。
手には、竹簡が抱えられていた。
「この字分かんない!」
「……今ですか?」
「一個だけ!」
「あなたの『一個だけ』は信用できません」
「ほんとに一個!」
陸議は小さく息を吐いた。
けれど追い返すことはせず、机の横に置かれていた座具を少しだけ自分の方へ引き寄せる。
「持ってきてください」
「うん!」
凌華が嬉しそうに隣へ座った。
二人の間へ竹簡を広げる。
「ここ」
「これは――」
陸議が文字を指す。
凌華の顔が近づいた。
「じゃあこれは?」
「先ほど説明しました」
「忘れた」
「早すぎます」
「もう一回!」
「……ここを見てください」
「ここ?」
「違います。こちらです」
「あ、そっちか」
灯火の下で、二人の影が同じ竹簡の上へ重なる。
凌華の指が文字を追い、その隣で陸議が一つずつ意味を説明していく。
少し前まで静かだった部屋に、二人の声が続いていた。
箱の奥には。
名前を間違えた、小さな木札。
その隣には。
初めて正しく『陸議』と書かれた、一通の手紙。
凌華は、陸議が二つを同じ場所へしまっていることを知らない。
陸議もまた、なぜそのどちらも捨てる気になれなかったのかを、深く考えようとはしなかった。
この頃の凌華にとって陸議は、知らない時代で分からないものを見つけた時、聞けば教えてくれる人だった。
困った時には助けてくれて。
妙なことを言えば怪訝な顔をするくせに。
結局は隣にいてくれる人。
陸議もまた。
身元も分からず、秘密も多く、放っておけば何をするか分からない凌華だから、目を離せないだけなのだと思っていた。
ただ。
何かを見つけるたび。
「陸議さん!」
そう言って自分を呼ぶ声に。
いつからか、振り返るより先に口元が緩むようになったことには。
まだ。
気づいていなかった。
そして、ずっと後になって。
二人がこの頃を思い出すことがあったなら。
きっと。
名前を間違えた小さな木札も。
初めて書いた不格好な手紙も。
何でもない顔をして隣り合い、同じ竹簡を覗き込んでいた夜も。
そのどれもが。
二人の間に少しずつ積み重なっていたものの始まりだったのだと。
そう思うのかもしれなかった。




