番外編 今度こそ、大丈夫
陸家へ来て、まだ日が浅い頃。
凌華には、自分がこの屋敷で何をすればいいのか分からなかった。
朝になれば、誰かが食事を用意してくれる。
着るものにも困らない。
眠る場所もある。
剣の扱いを覚えたいと言えば、呂蒙や陸議が時間を割いて教えてくれる。
何も持たず、どこから来たのかさえまともに説明できない自分を受け入れてもらっているのだから、ありがたいと思っている。
それでも、何もせず世話になり続けることには、どうしても落ち着かなかった。
「…………」
朝の廊下から庭を眺める。
空が白み始めた頃から、陸家ではもう一日が始まっていた。
庭を掃く箒の音が響き、井戸からは桶を引き上げる滑車の軋みが聞こえる。廊下を行き交う人々の足音に、少し離れた厩から届く馬の嘶きまで重なっていた。
皆、それぞれ自分の仕事をしている。
その中で、自分だけが何もしていない。
「……何か手伝おうかな」
『やめとけ』
「…………」
腰に提げた長剣から間髪入れず声が返ってきた。
凌華は反射的に周囲を見回した。
幸い、近くに人はいない。
「なんでよ」
声を潜めて返す。
『お前が手伝うと仕事増えそうだから』
「失礼なんだけど」
『事実だろ』
「私だって家事くらいできるから」
『へえ』
明らかに信用していない声だった。
凌華の眉間に皺が寄る。
「何、その言い方」
『じゃあ何ができんだ?』
「料理」
『…………』
「洗濯」
『…………』
「掃除」
『…………』
「なんか言ってよ」
『いや。どこまで本当かなと思って』
「全部できる!」
思わず声が大きくなり、凌華は慌てて口を塞いだ。
誰かに聞かれたら、誰もいない廊下で一人喋っているようにしか見えない。
「……急に喋らないでよ」
『お前から話しかけたんだろ』
「そうだけど」
『で、料理できんのか?』
「普通にできるよ」
『なら作ってみろよ』
「いいよ」
凌華は胸を張った。
「朝ご飯くらい余裕」
『言ったな?』
「余裕だって」
この時の凌華は、まだ分かっていなかった。
現代で料理ができることと、この時代で料理ができることは、似ているようで随分違うということを。
◇
食事を作っている場所は、煙と匂いを辿ればすぐに見つかった。
屋敷の一角へ近づくにつれて、薪の燃える匂いと穀物を炊く湯気が混ざった香りが強くなっていく。
中を覗けば、すでに何人もの人が忙しそうに働いていた。
大きな甕から水を汲む者。
野菜を刻む者。
穀物を扱う者。
竈の前では、女性が薪を動かしながら火を調整している。
「……おお」
『何だよ』
「台所」
『見りゃ分かる』
「ほんとにこうやって作るんだ……」
土で造られた竈。
積まれた薪。
煤のついた大きな鍋。
見たことのない木製の調理道具。
現代なら、ボタン一つで火がついた。
蛇口を捻れば水が出た。
冷蔵庫を開ければ、食材が冷えた状態で並んでいた。
ここには、そのどれもない。
凌華が物珍しそうに眺めていると、働いていた女性がこちらに気づいた。
「凌華様?」
「わっ」
慌てて身体を起こす。
「お、おはようございます」
「このようなところで、どうなさいました?」
「あの……何か手伝えませんか?」
女性が目を丸くした。
「いえ、そのようなことをしていただくわけには」
「でも私、ずっと何もしてないし」
「凌華様は客人ですから」
「客人って言われても……」
凌華は台所を見回した。
何か、自分にもできそうなこと。
やがて竈で視線が止まる。
「あ」
指を差した。
「あれならできます」
「え?」
「火」
『おい』
剣から声がする。
無視した。
「薪、足せばいいんですよね?」
『おい、待て』
「これくらいなら失敗しませんから」
『凌華』
――うるさい。
凌華の勢いに押されたのか、女性は戸惑いながらも場所を譲ってくれた。
「では、こちらを」
「はい!」
凌華は袖を捲り、竈の前へしゃがみ込んだ。
◇
数分後。
「…………」
凌華は小さくなった炎を見つめていた。
今にも消えそうだ。
『なあ』
「黙って」
『まだ何も言ってねえぞ』
「絶対笑うじゃん」
『もう笑ってる』
「最低」
細い薪を一本入れる。
炎が僅かに揺れた。
「よし」
もう一本。
顔を近づけた瞬間、煙が一気に凌華の方へ流れてきた。
「うわっ! けほっ、けほっ!」
『馬鹿! 顔近づけんな!』
「だって火が!」
『だからって煙に突っ込む奴があるか!』
「うるさい!」
「……凌華様?」
背後から女性の声がした。
凌華の身体が固まる。
ゆっくり振り返った。
「はい?」
「今、誰かとお話を?」
「…………」
『ほら見ろ』
「誰とも話してません!」
勢いよく答える。
女性は不思議そうに首を傾げたものの、やがて別の作業へ戻っていった。
凌華は前へ向き直り、ほとんど唇を動かさず囁く。
「……もう喋らないで」
『俺のせいかよ』
「孫策のせい」
『お前が返事するからだろ』
正論なのが腹立たしい。
凌華は薪を一本手に取った。
「……火くらい」
竈へ入れる。
「絶対」
さらに一本。
「起こせるから」
『それ以上入れんな』
「なんで?」
『入れすぎ――』
もう一本押し込んだ。
次の瞬間。
ぼっと炎が勢いよく立ち上がった。
「きゃっ!」
驚いて立ち上がった拍子に、踵が背後の籠へぶつかった。
「あ」
籠が傾く。
中に入っていた野菜が床へ落ち、ころころと台所のあちこちへ転がっていった。
凌華は固まった。
「……孫策」
『何だ』
「今笑ったら怒るよ」
『…………』
「笑ってるでしょ」
『ぶっ』
「笑った!!」
◇
「何をしているのです?」
聞き覚えのある声が入口から飛んできた。
――最悪だ。
恐る恐る振り返る。
そこには陸議が立っていた。
まだその若い顔に、分かりやすいほどの疑問が浮かんでいる。
その視線が、床に散らばった野菜へ落ちる。
次に、勢いよく燃えている竈。
最後に、煙を浴びて頬を煤で汚した凌華。
「…………」
「…………」
「何を――」
「待って」
凌華が手を上げた。
「言いたいことは分かる」
「まだ何も言っていませんが」
「顔に書いてある」
「何と?」
「何してるんだ、この女って」
陸議は否定しなかった。
「ほら!」
「声が大きいです」
凌華は慌てて床へしゃがみ、野菜を拾い始めた。
「手伝おうと思っただけなの。火を起こそうとして、ちょっと失敗して……」
転がった野菜を籠へ戻す。
「こうなった」
「なるほど」
陸議もしゃがみ込んだ。
「え?」
「見れば分かるでしょう」
彼も散らばった野菜を拾い始める。
「手伝ってくれるの?」
「このままでは朝餉の支度が遅れるでしょう」
最後の一つへ、同時に手を伸ばした。
指先が触れる。
「あ」
凌華が先に手を引いた。
「ごめん」
「いえ」
陸議は野菜を拾い上げ、籠へ戻した。
それだけだった。
◇
「火はこうです」
陸議が竈の前へしゃがむ。
「陸議さんできるの?」
「これくらいは」
「何でもできるじゃん」
「何でもではありません」
細い薪を置き、その間に空気が通る隙間を作る。
そこから少しずつ太い薪へ。
ただ押し込むのではなく、炎が燃え続けられるように形を整えていく。
「空気が必要なの?」
「そうです」
「なるほど」
そう言えば小学校の授業で習ったなと思い出す。
凌華は横から覗き込んだ。
「近いですよ」
「見えないんだもん」
「見えます」
「陸議さんの手で隠れてる」
陸議が少し身体をずらす。
凌華もそれに合わせて移動すると、腰の長剣が陸議の腕へ軽く当たった。
『……何だこいつ。随分世話焼くじゃねえか』
凌華は聞こえないふりをした。
『凌華』
無視。
『聞こえてんだろ』
「凌華?」
「はい!?」
陸議が振り返る。
「聞いていますか?」
「聞いてる!」
「では、今説明したことを」
「空気!」
「……それだけですか?」
凌華はそっと視線を逸らした。
「……もう一回お願いします」
『聞いてねえじゃねえか』
凌華は剣の柄をぎゅっと握った。
『痛くねえぞ』
――今に見てろ。
剣を睨んでいると、陸議が不思議そうに尋ねた。
「その剣がどうかしたのですか?」
凌華の動きが止まる。
「別に」
「ですが」
凌華は長剣を抱え直した。
「大事なの」
「この剣が?」
「うん」
「なぜ?」
説明できなかった。
資料展で展示されていた剣。
目を覚ました時には手の中にあった剣。
そして、孫策を名乗る男の声が聞こえる剣。
「……私にも、よく分かんない」
結局、それだけを正直に答えた。
陸議はしばらく凌華を見ていた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「そうですか」
再び竈へ向き直る。
「では、続きを」
「……うん」
◇
しばらくして。
竈には穏やかな火が灯っていた。
「できた……」
凌華は炎を見つめ、それから嬉しそうに振り返った。
「陸議さん!」
「見ています」
「私できた!」
「半分以上、私が直しましたが」
「最後は私!」
「そうですね」
「じゃあ成功!」
陸議が少しだけ笑う。
「そういうことにしておきましょう」
「何その言い方」
頬を膨らませた凌華を見て、陸議の視線が止まった。
「凌華」
「なに?」
「顔」
「え?」
「ここです」
自分の頬を指す。
凌華も同じところを擦った。
「取れた?」
「逆です」
反対側を擦る。
煤がさらに広がった。
「……何?」
「いえ」
「笑った?」
「笑っていません」
「絶対笑った」
「その前に洗ってきてください」
凌華が頬へ触れる。
指先が黒い。
「うわ」
『ひでえ顔だぞ』
「うるさ――」
途中で止めた。
陸議が振り返る。
「?」
「……何でもない!」
凌華は逃げるように台所を出ていった。
◇
井戸の冷たい水で顔を洗う。
「つめたっ……!」
『さっき危なかったぞ』
「分かってる」
『俺に普通に返事しようとしただろ』
「だって孫策が余計なこと言うから」
『だから返事すんなって』
「難しいんだって」
顔を拭いながら、凌華は朝の陸家を眺めた。
台所から煙が上がっている。
人々が忙しそうに行き交っている。
昨日までは知らなかった場所。
けれど今日。
台所の場所を知った。
井戸までの道も覚えた。
火の起こし方も、少しだけ分かった。
「……今日、楽しかった」
『野菜ぶちまけたのが?』
「違う」
凌華は笑った。
「ちょっとだけ、ここにいてもいいのかなって思った」
帰りたい気持ちは変わらない。
それでも。
何も分からないだけだった場所に、自分が知っているものが一つ増えた。
『まあ、追い出されるまではいりゃいいんじゃねえか』
「何それ」
『深く考えんなってことだよ』
凌華は少し笑った。
「孫策にしてはいいこと言うじゃん」
『“にしては”は余計だ』
朝餉の支度が整ったことを知らせる声が聞こえてきた。
「行こ」
『俺は食えねえけどな』
「じゃあ見てて」
『嫌がらせかよ』
凌華は笑いながら歩き出した。
◇
それから数日後。
凌華は少しずつ、陸家の中を歩けるようになっていた。
自室から食事をする場所までは迷わない。
台所へも行ける。
井戸も分かる。
訓練場への道も、おそらく大丈夫だ。
そんなある日のことだった。
「凌華様」
廊下を歩いていると、陸家に仕える女性から呼び止められた。
その手には、一通の書簡がある。
「あの、お願いがあるのですが」
「お願い?」
凌華の目が僅かに大きくなった。
「こちらの書簡を届けていただけませんか?」
「……私が?」
「はい」
「ほんとに?」
「ええ」
胸の奥が、ぱっと明るくなる。
初めて。
自分にもできることを頼んでもらえた。
「やる!」
思った以上に大きな声が出た。
「私、届ける!」
行き先は、同じ陸家の敷地内にある別の建物だった。
説明を聞きながら、凌華は何度も頷く。
「分かった」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫!」
『……その言葉、信用できねえんだよな』
聞こえなかったふりをする。
今度こそ失敗しない。
火を扱うわけではない。
ただ書簡を届けるだけだ。
「任せて!」
大切そうに書簡を持ち、凌華は意気揚々と歩き出した。
◇
しばらくして。
「…………」
凌華は廊下の途中で立ち止まっていた。
右にも。
左にも。
似たような廊下が続いている。
「…………」
『なあ』
「黙って」
『まだ何も言ってねえ』
「絶対言うじゃん」
『迷っただろ』
「言った!」
凌華は書簡を胸元へ抱え直した。
「おかしいなぁ……」
教えてもらった道を思い出そうとする。
最初の角を右。
その次を左。
庭が見えたら――。
「……その先、何だっけ」
『知らねえよ』
「聞いてなかったの?」
『何で俺が覚える前提なんだ』
「一緒にいたんだから覚えといてよ」
『人任せにすんな』
それでも。
書簡を持って戻る気にはなれなかった。
せっかく頼んでもらったのだ。
「……こっち」
『根拠は?』
「勘」
『やめとけ』
凌華は孫策を無視して歩き出した。
◇
いくつ目かも分からない角を曲がった時だった。
「凌華?」
聞き慣れた声に足が止まる。
振り返ると、少し先の太い柱のそばに陸議が立っていた。
手には数通の書簡を持っている。
「……陸議さん」
「何をしているのです?」
「…………散歩」
『嘘つけ』
陸議の視線が、凌華が身体の後ろへ隠そうとした書簡へ落ちる。
「それは?」
「…………届け物」
「どちらへ?」
行き先を答える。
陸議は少し黙った。
「……何?」
「逆です」
「え?」
「そちらへ行くのであれば、ここまで来る必要はありません」
凌華の顔から表情が消えた。
『ぶっ』
「笑わないで!」
反射的に声を上げてから、凌華は固まった。
陸議が瞬きをする。
「私は笑っていませんが」
「…………何でもない!」
明らかに納得していない顔をされたが、陸議は追及しなかった。
「一度、あちらへ戻ってください」
「うん」
「二つ目の角を左です。そのまま進むと小さな庭がありますから、庭の手前を右へ」
「二つ目を左。庭の手前を右」
「その先に、他より少し低い建物があります」
「低い建物」
凌華は頭の中で道順を繰り返した。
「……よし」
「分かりましたか?」
「分かった!」
『本当かよ』
「今度は行ける」
陸議はそれ以上何も言わなかった。
「じゃあ行ってくる」
「ええ」
数歩進んでから、凌華は振り返った。
陸議はまだ柱のそばに立っている。
「陸議さんは?」
「私には私の用があります」
「あ、そっか」
なら。
わざわざついてきてもらう必要はない。
これは自分が頼まれたことなのだから。
「今度こそ届けてくる!」
凌華は手を上げ、再び歩き出した。
◇
二つ目の角を左。
そこまでは覚えていた。
真っ直ぐ進む。
庭が見えてくる。
「庭」
『おう』
「手前を右」
曲がる。
その先には建物があった。
一つ。
二つ。
「…………」
『どれだ?』
「低い建物」
『どっちが?』
凌華は見比べた。
片方が低いようにも見える。
でも、見る位置の問題かもしれない。
「……こっち?」
『俺に聞くな』
近づいてみる。
何となく違う。
戻る。
もう片方を見る。
「…………」
頭の中で、陸議の説明を思い出そうとする。
二つ目を左。
庭。
手前を右。
低い建物。
その先は――。
「…………」
『凌華』
「何」
『顔がもう迷子だぞ』
「まだ迷ってない」
『じゃあどっちだよ』
答えられなかった。
しばらく二つの建物を見比べたあと。
凌華は大きく息を吐いた。
「……戻る」
『お?』
「分かんないまま適当に入る方が駄目でしょ」
『ちょっと成長したじゃねえか』
「ちょっとって何」
それでも。
陸議のところへ戻るのは少し悔しい。
「……もういないかもしれないし」
用があると言っていた。
きっと、もう別の場所へ行っているだろう。
そうしたら誰か別の人に聞けばいい。
凌華は来た道を戻った。
◇
庭の手前を左へ。
廊下を真っ直ぐ。
角を一つ。
もう一つ。
そして。
先ほどの場所へ戻った凌華の足が止まった。
「…………え」
同じ柱。
そのそばに。
陸議がいた。
先ほどとほとんど同じ場所で、手にした書簡へ目を落としている。
「……陸議さん?」
呼ばれて、陸議が顔を上げた。
「はい」
あまりにも普通の返事だった。
「……まだいたの?」
「いましたが」
「用があるって言ってなかった?」
「ありますよ」
陸議は手にしている書簡を僅かに持ち上げた。
「ここでもできますから」
「…………」
凌華は陸議を見る。
次に柱。
もう一度、陸議。
「……もしかして」
「何です?」
「私が戻ってくると思ってた?」
陸議は一瞬だけ黙った。
「道を覚えて間もないのですから」
視線を手元へ戻す。
「念のためです」
『絶対戻ってくると思われてたな』
――うるさい。
そう思ったのに。
なぜか、さっきまでの悔しさは少し薄れていた。
「……分かんなくなった」
素直に言う。
「どこで?」
「庭までは行けた。右にも曲がった。でもその後、建物が二つあって」
「ああ」
陸議はすぐに理解したようだった。
「手前ではありません。奥です」
「え?」
「手前の建物を越えた先にあります」
「それ言ってない!」
「言いました」
「聞いてない!」
「言いました」
凌華は記憶を辿る。
低い建物、と聞いたところで「分かった!」と返事をした。
その後も何か言っていたような気がする。
「…………」
「思い出しましたか?」
「……ちょっと」
『聞いてねえじゃねえか』
凌華は剣を睨んだ。
陸議が小さく息を吐く。
「行きましょう」
「え?」
柱から離れる。
「今度は一緒に行きます」
「でも」
「またここへ戻ってこられても困りますから」
「…………」
「歩きながら覚えてください」
陸議が先へ進む。
凌華は、その背中を少しだけ見つめた。
自分が戻ってくるかもしれないから。
この人は、ずっと同じ場所にいた。
「……陸議さん」
「何です?」
「ありがとう」
陸議の足が僅かに止まった。
「次は一人で行けるようになってください」
「うん」
凌華は小走りで追いついた。
◇
今度は無事に辿り着いた。
頼まれた相手へ書簡を差し出す。
「これ、頼まれました」
「ありがとうございます」
書簡が相手の手へ渡る。
たったそれだけ。
それなのに。
凌華の顔がぱっと明るくなった。
「……届けられた」
「ええ」
「ちゃんと役に立った?」
「もちろん」
凌華は一瞬目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「そっか」
陸議はその顔を見てから、静かに言った。
「凌華」
「何?」
「分からない時は、人に聞けばいいのです」
「…………」
「道を尋ねたからといって、頼まれたことができなかったことにはなりません」
「でも」
「書簡を届けたのはあなたでしょう?」
凌華は自分の手を見る。
もう、そこに書簡はない。
「……うん」
「なら、それでいいでしょう」
凌華は少し黙ったあと、小さく笑った。
「陸議さんって、たまにすごくいいこと言うね」
「たまに?」
「あ」
「…………」
「いつもです」
「遅いです」
「ごめんって」
帰り道。
今度は凌華も周囲をよく見ながら歩いた。
◇
それから、さらに日が過ぎた。
自室。
台所。
井戸。
訓練場。
書簡を届けた建物。
庭へ出る道。
そして、何か分からないことがあれば向かうようになった陸議の部屋。
点だった場所が少しずつ道で繋がり。
陸家へ来てひと月ほどが経った頃には、凌華は屋敷の中ならほとんど一人で歩けるようになっていた。
だからこそ。
今度は、もう少し外へ出てみたくなった。
◇
「陸議さん」
書簡へ筆を走らせていた陸議は、その声に顔を上げた。
戸口から凌華が覗いている。
「何です?」
「今日、忙しい?」
「忙しいです」
「そっか」
それだけ言うと、凌華の顔が戸口から消えた。
陸議は再び筆を持つ。
紙を擦る音が部屋へ戻る。
しばらくして。
筆が止まった。
「…………」
なぜ忙しいかどうかを聞いたのだろう。
何か用があったのではないか。
けれど本人が何も言わずに帰ったのなら、急ぎではないのだろう。
陸議は再び書簡へ視線を落とした。
◇
一方。
凌華は廊下を歩いていた。
『何だったんだ?』
「市場行ってみようかなと思って」
『一人で?』
「うん」
『やめとけ』
「何でよ」
『この前、屋敷の中で迷子になった奴が何言ってんだ』
「もう迷わないもん」
『陸議に教えてもらったからだろ』
「覚えたんだから私の実力」
『そういうことにしといてやるよ』
「何その言い方」
でも。
本当に大丈夫だと思った。
屋敷の中では一人で歩けるようになった。
書簡だって届けられた。
なら。
次は、その外。
「……行こ」
『おい』
「大丈夫」
『お前の“大丈夫”は信用できねえ』
「陸議さんみたいなこと言わないで」
『あいつが正しいんじゃねえか?』
「…………」
それが一番腹が立った。
◇
街は人で溢れていた。
道の両側には店が並び、布、野菜、穀物、器、生活道具まで、さまざまなものが所狭しと並べられている。
荷を背負った男がすぐ横を通り、子供たちが人々の隙間を縫うように走っていく。
少し離れたところでは、女性と店主が声を張り上げて値段を交渉していた。
凌華は目を輝かせた。
「……楽しい」
『お前、前も来ただろ』
「今日は一人だから違うの」
『俺いるけどな』
「孫策は数に入らない」
『何でだよ』
「お金払ってくれないじゃん」
『剣に何求めてんだ』
これまで陸議と街へ来た時は、気になるものを見つけるたびに尋ねてばかりだった。
今日は好きなところで立ち止まれる。
「あ」
早速、足が止まった。
小さな店先に、色とりどりの紐が並んでいる。
赤。
青。
淡い黄色。
凌華は柔らかな赤色の一本を手に取った。
「かわいい」
今使っている髪紐は陸家で借りたものだ。
そろそろ自分のものが欲しかった。
「これください」
値段を告げられる。
「…………」
値段は聞き取れた。
銭の種類も少しは教わった。
けれど。
それが高いのか、安いのかが分からない。
「……これ」
店の者を見る。
「普通ですか?」
相手が首を傾げた。
「値段」
『お前』
孫策が呆れた声を出した。
『店の奴に「この値段は普通ですか」って聞く奴があるか』
――だって分かんないんだもん!
声には出せない。
凌華は悩んだ末、言われた額をそのまま払った。
◇
「買えた」
店を離れると、すぐに機嫌が直った。
赤い紐を陽に透かす。
「かわいい」
『おう』
「初めて自分で買った」
『おう』
「……何?」
『いや』
嫌な間があった。
『たぶん、高えぞそれ』
「…………え?」
『隣で似たようなの、もっと安く売ってた』
凌華は後ろを振り返る。
念のため、隣の店で似た紐の値段を聞いてみた。
「…………」
無言で歩き始める。
『おい』
「…………」
『凌華』
「私、ぼったくられた」
『たぶんな』
「何で止めてくれなかったの!?」
『人前で喋れるか!』
「先に教えてよ!」
『俺だって値段見るまで分かるか!』
「孫策の役立たず!」
『だから剣に何求めてんだよ!』
凌華は赤い紐を見下ろした。
高かった。
それでも。
やっぱり色は気に入っている。
「……まあいい」
『いいのかよ』
「初めて買った記念」
紐を大切に握る。
「大事にする」
『お前、騙されやすそうだな』
「うるさい」
◇
問題は、それだけでは終わらなかった。
「これ何?」
次の店。
「これ食べられるの?」
さらに次。
「うわ、何これ」
また次。
「かわいい!」
気になるものを見つけるたびに足を止め。
やがて凌華の両手は荷物でいっぱいになっていた。
『買いすぎだろ』
「そうかな」
『その木彫りの鳥、何に使うんだ』
「かわいい」
『必要じゃねえだろ』
「心に必要」
『何だそれ』
「娯楽が少ないんだから、こういうもの大事なの」
『じゃあその鳥眺めて暮らせ』
「それは嫌」
『面倒くせえ女だな』
荷物を抱え直す。
「帰ろ」
歩き出す。
右へ。
さらに進んで左へ。
やがて。
凌華の足が止まった。
「…………」
『どうした』
周囲を見回す。
見覚えのない建物。
知らない道。
知らない店。
「……孫策」
『何だ』
「ここどこ?」
『…………』
「…………」
『知らねえ』
長い沈黙が落ちた。
「迷った」
『だろうな』
「どうしよう」
『だから一人で行くなっつっただろ』
「今それ言う!?」
『言うだろ!』
「役に立たない!」
『俺もこの街初めてだっつうの!』
「剣なのに!」
『剣なら道分かると思ってんのか!?』
凌華は頭を抱えた。
◇
どれくらい歩いただろう。
高かった太陽は西へ傾き、街に落ちる影も長くなっていた。
凌華は荷物を抱え、疲れ切った顔で歩いていた。
「……足痛い」
『自業自得』
「お腹空いた」
『知らねえ』
「陸家どこ……」
『人に聞け』
「さっき聞いた」
『じゃあその通り行けよ』
「途中で分かんなくなった」
『何でだよ!』
とうとう道の端へしゃがみ込んだ。
「もう無理」
『子供か』
「疲れた」
『陸家の奴ら心配すんぞ』
「…………」
それは困る。
特に。
ものすごく怒りそうな人が一人いる。
「……陸議さん」
『怒るだろうな』
「やだなぁ」
『じゃあ帰れ』
「道分かんない」
『…………』
凌華が深く息を吐いた。
その時。
「――凌華!」
人混みの向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。
顔を上げる。
行き交う人々の間を抜けて、こちらへ向かってくる人がいる。
「……陸議さん?」
陸議だった。
いつもより明らかに速い足取りで近づいてくる。
凌華の前まで来ると、息を整える間もなく口を開いた。
「何をしているのです!」
第一声から。
やっぱり怒っていた。
「……買い物」
「それは見れば分かります!」
「いっぱい買った」
「そういうことを聞いているのではありません!」
凌華の肩が少し縮む。
陸議は何か言いかけたが、まず凌華の顔を見る。
次に、抱えきれないほどの荷物。
最後に足元へ視線を落とした。
「……怪我は?」
「ない」
「何かされましたか?」
「されてない」
「本当に?」
「うん」
その答えを聞いた瞬間、陸議の肩から僅かに力が抜けた。
「……探してくれたの?」
「当たり前でしょう」
「なんで?」
「あなたが戻らないからです!」
陸議は額へ手を当てた。
「屋敷の者に聞けば、一人で街へ出たと言う。日が傾いても帰ってこない」
「…………」
「何を考えているのですか」
「……一人で買い物できるかなって」
「できていないでしょう」
「買い物はできた」
「帰れていません」
「…………」
正しい。
あまりにも正しくて、何も言い返せない。
『ほらな』
孫策の声だけが妙に楽しそうだった。
◇
「貸してください」
陸議が荷物へ手を伸ばした。
「いいよ、自分で持てる」
「持てていないでしょう」
「持てるって」
「先ほど道端に座り込んでいましたよね?」
「……見てたの?」
「見つけた時には」
恥ずかしい。
凌華は渋々、荷物の半分を渡した。
「……ありがとう」
「帰りますよ」
「うん」
二人で歩き出す。
今度は陸議が隣にいる。
さっきまであれほど不安だった道が、急にただの帰り道へ変わった。
◇
しばらくして。
陸議が荷物の中から木彫りの鳥を見つけた。
「これは?」
「かわいいでしょ」
「何に使うのです?」
「…………」
凌華の足が止まった。
「孫策と同じこと言った」
「孫策?」
心臓が跳ねた。
剣の中まで静まり返る。
「……ほら!」
凌華の頭が必死に動く。
「孫策って有名な人なんでしょ?」
「ええ」
「こういうの見たら、何に使うんだって言いそうだなって!」
陸議はしばらく凌華を見た。
「孫策様とは、まだほとんど話したこともないでしょう」
「…………」
「なぜ分かるのです?」
「……勘?」
『終わったな』
凌華は心の中で孫策を思いきり蹴り飛ばした。
けれど陸議は、それ以上追及しなかった。
◇
「……陸議さん」
「何です?」
「怒ってる?」
「何についてです?」
「一人で出たこと」
「怒っています」
即答だった。
「やっぱり」
「ただ」
陸議は前を向いたまま続ける。
「一人でできるようになりたいと思うこと自体は、悪いとは思いません」
凌華が横を見る。
「本当?」
「ええ」
「じゃあ次も――」
「まず道を覚えてください」
「…………」
「それと、物の値段も」
凌華が固まった。
「なんで分かったの」
「何がです?」
凌華は赤い紐を見せた。
「これ」
「いくらでした?」
答える。
陸議の足が止まった。
「何」
「凌華」
「何」
「次から買い物をする時は、私か屋敷の者を連れて行ってください」
嫌な予感がした。
「……高い?」
「高すぎます」
「やっぱり!?」
とうとう陸議が笑った。
「笑わないでよ!」
「申し訳ありません」
「絶対思ってない!」
「ですが、なぜその値段で買ったのです?」
「相場が分かんないんだもん!」
「なら、なおさら一人で買わないでください」
「だって欲しかった!」
陸議は赤い紐を見る。
「気に入ったのですか?」
「うん」
凌華は少し照れくさそうに笑った。
「初めて自分で買ったものだから」
それを聞くと。
陸議はもう値段について何も言わなかった。
「では、なくさないようにしてください」
「うん」
◇
夕日は街の屋根を赤く染めていた。
店を畳み始める人。
家路につく人。
まだ遊び足りないのか、母親に呼ばれながら走っていく子供。
行きに一人で歩いた時とは違う景色を眺めながら、凌華は陸議の隣を歩いた。
「陸議さん」
「何です?」
「今度、買い物の仕方教えて」
陸議が横を見る。
「値段とか、お金のこととか。どれが高いとか安いとか」
「ようやく学ぶ気になりましたか」
「今日学んだの!」
「高い授業料でしたね」
「それ言わないで」
陸議が笑う。
「あと」
「まだあるのですか?」
「道も」
「それが先です」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって!」
二人の声が、夕暮れの街へ溶けていった。
◇
陸家へ来たばかりの頃。
凌華は、台所がどこにあるのかさえ知らなかった。
火の起こし方も分からず、煤だらけになった。
初めて書簡を任された時には、役に立てることが嬉しくて飛び出したものの、屋敷の中で迷った。
ようやく屋敷の道を覚えたと思えば、今度は一人で街へ出て帰れなくなった。
それでも。
知らなかったことを、一つずつ覚えていけばいい。
火の起こし方。
屋敷の道。
街の歩き方。
物の値段。
この時代で暮らすために必要なことを。
少しずつ。




