番外編 彼女の中にあるもの【陸議視点】
陸議が最初に抱いた凌華への印象は、ひどく単純なものだった。
何も知らない娘。
それに尽きる。
この土地のことを知らない。
人の名も知らない。
文字も満足に読めず、銭の扱いすら怪しい。
道を教えれば迷い、書簡を届けるよう頼まれれば目的地へ辿り着く前に立ち往生し、馬に乗せれば最初は身体を強張らせた。
食事の作法や衣服の扱いにも、時折ひどく戸惑う。
それなのに、妙なところでは驚くほど物怖じしない。
知らないものを見つければ、すぐに聞く。
「陸議さん、これ何?」
「陸議さん、これは?」
「なんでこうするの?」
一日に何度名前を呼ばれているのか、数える気にもならない。
だから陸議は、いつの間にかそう思うようになっていた。
凌華は、この世界について何も知らない。
教えなければならない。
放っておけば、また何かしでかす。
少なくとも――その日までは。
◇
午後。
陸議は自室で、一枚の地図と向き合っていた。
開けた戸から穏やかな風が入り込み、机の端に置かれた書簡を僅かに揺らしている。
地図の上には、兵の配置を示す木片がいくつも並んでいた。
こちらが味方。
その向こうが敵。
両軍の間には川が流れ、さらに敵陣の後方には高地がある。
正面から進めば、川を渡るこちらが不利になる。
ならば山沿いを迂回するか。
だが、道幅が狭い。
大勢の兵を動かすには時間がかかり、途中で察知されれば身動きが取れなくなる可能性がある。
反対側にも道はある。
こちらは比較的平坦だが、遠い。
敵が動くより先に回り込めるとは考えにくかった。
陸議は一つの木片を動かした。
また戻す。
別の木片を動かす。
それも戻した。
どの道にも利点はある。
同時に、それ以上の危険もあった。
「…………」
陸議は地図を見つめたまま、眉間へ指を当てた。
何かを見落としている。
そんな感覚だけが、先ほどから消えなかった。
正面。
山道。
迂回路。
敵陣。
川。
もう一度、最初から条件を洗い直そうとした時だった。
「陸議さん」
戸口から聞き慣れた声がした。
顔を上げると、凌華が竹簡を抱えて立っている。
最近では、その姿を見ただけで用件の見当がつく。
「今度はどこです?」
凌華が目を丸くした。
「まだ何も言ってないよ?」
「その竹簡を持って来たのでしょう」
「あ、分かる?」
「毎日のように来ていますから」
「今日は一つだけ」
「昨日もそう言っていましたね」
「昨日は途中で分からないところが増えただけ」
「それを世間では一つとは言いません」
凌華は少し不満そうな顔をしながらも、当然のように部屋へ入ってきた。
陸議の向かいへ腰を下ろし、竹簡を広げる。
「ここ」
指差した箇所を見て、陸議は意味を説明した。
「ああ……」
凌華は自分の竹簡へ視線を戻す。
「じゃあ、前に教えてもらったこっちと意味は近い?」
「そうですね。ただ、こちらは――」
以前教えた文字と並べながら違いを説明すると、凌華は何度か頷いた。
「なるほど」
「分かりましたか?」
「たぶん」
「『たぶん』では困るのですが」
「使ってたら覚えるって」
「そう言って、先日も――」
言いかけた陸議は、凌華がこちらを見ていないことに気づいた。
「凌華?」
「…………」
視線の先には、机いっぱいに広げた地図がある。
「これ、戦の地図?」
「ええ」
凌華が少し身を乗り出した。
「この印が兵?」
「そうです」
「こっちとこっちで違うのは?」
「味方と敵を分けています」
「じゃあ……こっちが陸議さんたち?」
「ええ」
「ふうん」
凌華は竹簡を膝の上へ置いた。
そのまま地図を眺め始める。
陸議は特に止めなかった。
軍の内情を知られて困る相手でもない。
それに、凌華が見たところで詳しいことまでは分からないだろうと思っていた。
文字は以前より随分読めるようになった。
簡単な書簡なら、時間をかければ大意を掴めることも増えている。
だが、兵法を教えたことは一度もない。
地図を使った軍の配置など、なおさらだった。
陸議は再び手元の書簡へ視線を戻した。
しばらくして。
「ここ、川?」
凌華が尋ねた。
「そうです」
「こっちから、こっちに流れてる?」
「ええ」
指で示された方向を確認して答える。
凌華はまた地図へ戻った。
しばらく静かになる。
「……ここは高い?」
「高地です」
「じゃあ、こっちが低いんだ」
「そうなりますね」
「最近、この辺って雨降ってる?」
陸議の視線が上がった。
「降っていますが」
「どれくらい?」
「数日、降ったり止んだりしています」
「ふうん……」
凌華は地図を見つめたまま、指先で川の流れを追っている。
そこで陸議は、ふと違和感を覚えた。
いつもの凌華なら、知らないものを見つければすぐに尋ねる。
これは何。
どういう意味。
どうしてこうなるの。
ところが今は違う。
必要なことだけを尋ねて、その答えを聞くと黙る。
川。
高低差。
雨。
道。
敵の位置。
味方の位置。
凌華の視線が、それらを順番に拾っていた。
「…………」
陸議は書簡を置いた。
凌華の指が、今度は味方の木片の近くへ移る。
「陸議さんたちは、ここから向こうに行きたいの?」
「正確には、敵を退ける必要があります」
「でも川を渡らないと行けない?」
「正面からならば」
「こっちは?」
凌華が山側を指す。
「道が狭すぎます。兵を分ければ通せなくはありませんが、察知された場合の危険が大きい」
「じゃあ反対は?」
「遠すぎる」
凌華が黙った。
陸議も何も言わず、その横顔を見ていた。
やがて。
凌華の眉が僅かに寄った。
「……それ、逆じゃない?」
「何がです?」
「行くことばっかり考えてない?」
陸議の目が細くなる。
凌華は敵側の木片を指した。
「こっちの方が場所がいいんでしょ?」
「ええ」
「だったら、なんでこっちから行くの?」
「退ける必要があるからです」
「だから」
凌華が今度は敵と味方の間を指した。
「向こうから来てもらえばいいじゃん」
陸議は一瞬、答えなかった。
「……どうやって?」
「それは私、戦のこと分かんないから知らないけど」
そう前置きしてから、凌華は味方の木片へ手を伸ばした。
触れる直前で陸議を見る。
「動かしていい?」
「どうぞ」
凌華は木片を少しだけ後ろへずらした。
「例えば、こうするとか」
「兵を退かせる?」
「うん。逃げたと思わせる」
「敵が追ってくるとは限りません」
「全部逃げたら怪しいけど」
凌華は別の木片を指先で動かした。
「ここだけ崩れたみたいにしたら?」
「…………」
「向こうからしたら、今ならいけるって思わない?」
陸議の視線が、凌華の動かした木片へ落ちる。
わざと陣形の一部を崩す。
退却と見せる。
あるいは、混乱しているように見せる。
敵がそれを好機と判断すれば――前へ出る。
高地を離れる。
川へ近づく。
陸議の目が地図を走った。
「…………」
そして、凌華が先ほど尋ねたことを思い出した。
川の流れ。
土地の高低。
雨。
陸議は傍らの書簡を取り上げた。
上流から届いていた報告を探す。
数日前から断続的に雨。
水量も平時より増えている。
「凌華」
「なに?」
「先ほど、なぜ雨のことを?」
「え?」
凌華はきょとんとした。
「川があるから」
「それだけですか?」
「うん」
「…………」
凌華は陸議が何を気にしているのか分からないらしく、逆に首を傾げた。
「雨降ったら川の水増えるでしょ?」
「それは分かります」
「低いところなら、水も溜まりやすいし」
凌華の指が川沿いへ動く。
「ここ、土の道?」
「そうです」
「だったら雨続いたらぐちゃぐちゃにならない?」
「…………」
陸議は地図へ目を落とした。
低地。
川。
増水。
ぬかるんだ地面。
敵を誘い出すことができれば、高所の利を失わせるだけではない。
足場も悪くなる。
特に騎兵は動きにくい。
追撃に勢いがつけば、退く時にはそれ以上に動きが乱れる可能性がある。
自分はこれまで、どうやって敵のいる場所まで兵を運ぶかを考えていた。
凌華は。
そこへ行かなければいいと言った。
「…………なるほど」
小さく漏れた声に、凌華が顔を上げた。
「何か分かった?」
陸議は答える代わりに、彼女を見た。
「凌華」
「うん」
「今の考えは、誰かに教わったのですか?」
「どれ?」
「敵をこちらへ動かすことです」
「いや」
「兵法を学んだことは?」
「ないよ」
「では、なぜそう考えたのです?」
凌華は困ったように眉を下げた。
「なんでって……」
もう一度地図を見る。
「こっちが不利なんでしょ?」
「ええ」
「だったら、わざわざ不利なところに行かない方がいいかなって」
それだけだった。
少なくとも、凌華にとっては。
「川や地面のことは?」
「それも普通じゃない?」
また、その言葉だった。
普通。
陸議は黙って凌華を見る。
この娘は時折、こういうことを言う。
こちらが知らないことを話しておきながら、本人はそれが特別だとは思っていない。
「凌華」
「なに?」
「向こうにいた頃、地図をよく見ていたのですか?」
「地図?」
凌華は少し考えた。
「普通には見るけど」
「普通とは?」
「出掛ける時とか」
「毎回?」
「知らない場所なら」
陸議は一瞬、言葉に詰まった。
道に迷う凌華からは想像しにくい。
「……それで、迷わなかったのですか?」
「迷う時は迷うよ」
「でしょうね」
「何その言い方!」
思わず返すと、凌華が頬を膨らませた。
けれど陸議は、すぐに地図へ視線を戻した。
「では、地形について学んでいた?」
「学校では習ったよ」
「学校?」
「子どもの頃に通うところ。川がどうやってできるとか、山とか平野とか、雨とか……」
凌華は指を折りながら思い出していく。
「天気のこともやったし、歴史もやったし……」
「それらを皆が?」
「うん」
陸議の眉が僅かに動いた。
「全員が学ぶのですか?」
「だいたいは」
凌華は、なぜそんなことを聞かれるのか分からないという顔をしている。
陸議はそれ以上口を挟まず、続きを待った。
「大学に入ってからは、自分の好きなことの方が多かったけど」
「あなたは何を?」
「歴史」
「…………」
それは初めて聞いた話ではなかった。
凌華が自分たちの時代について、何かを知っている。
それは以前から感じている。
ただ、どこまで知っているのかは話そうとしない。
「資料とか本とか、いっぱい読んだよ」
「どれほど?」
「どれほどって言われても……」
凌華は困ったように天井を見た。
「一日に?」
「そうですね」
「分かんない」
「分からないほど?」
「だって、本だけじゃないし」
凌華は少し考えながら続ける。
「朝起きたら文字見るし、移動してる時も見るし、授業でも読むし、家に帰ってからも見るし。卒論やってた時は資料も何個も見比べてたし」
「なぜ同じことを何度も?」
「同じじゃないよ」
凌華はすぐに答えた。
「同じ出来事でも、書いた人によって違うことあるし。年代が違えば、その後に分かったことが増えてたりするし」
陸議は黙って聞く。
「だから、こっちにはこう書いてある。でも別の資料では違う。じゃあ、なんで違うんだろうって見比べるの」
「…………」
「あと、必要なところだけ探したり」
「大量の書物の中から?」
「うん」
「必要なものを?」
「そう」
凌華は不思議そうに陸議を見た。
「陸議さんだってやってるでしょ?」
「…………」
確かにやる。
報告を読み比べる。
異なる者から届いた情報を照合する。
矛盾があれば理由を考える。
必要な情報を選び出す。
だが。
凌華の話を聞く限り、それは一部の者だけが行う特別な作業ではないらしい。
少なくとも彼女は、それを日常の延長として行ってきた。
そこで陸議は、初めて一つの考えに至った。
凌華は。
何も知らないのではない。
自分たちと、知っているものが違うのだ。
この土地の道は知らない。
文字もまだ学んでいる途中。
こちらの作法も、軍の決まりも知らない。
だから、こちらから見れば何も知らないように映る。
だが凌華は、凌華のいた場所で当たり前とされていたことを知っている。
川と雨の関係も。
土地の高低も。
地図の見方も。
多くの情報を見比べ、その中から必要なものを拾い出すことも。
それらは凌華にとって、特別な知恵ですらない。
だからこそ。
本人は、自分が今何をしたのか理解していない。
「……陸議さん?」
呼ばれて、陸議は我に返った。
凌華が少し怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「さっきから変だよ」
「そうですか?」
「うん。ずっと考えてる」
「考えることが仕事ですから」
「そういうのじゃなくて」
凌華は少し身を乗り出した。
「私、何か変なこと言った?」
「いえ」
陸議は首を横へ振った。
「むしろ、助かりました」
「…………え?」
凌華が固まった。
「私が?」
「ええ」
「何に?」
「この地図です」
「…………」
凌華は地図を見る。
次に陸議を見る。
また地図を見る。
「私、何かした?」
「したでしょう」
「思ったこと言っただけだけど」
「それで十分です」
「…………」
まだ納得していない。
それどころか、少し困惑している。
その表情を見て、陸議は確信した。
やはり。
凌華自身は気づいていない。
「凌華」
「なに?」
「今後も、何か気づいたことがあれば言ってください」
「戦のこと?」
「戦に限らず」
「でも私、ここのこと全然知らないよ?」
以前なら。
陸議も同じように思っていただろう。
「それで構いません」
「なんで?」
「知らないからこそ、違うものが見えることもあるでしょう」
凌華はしばらく陸議を見つめた。
やがて、少し照れたように笑う。
「……役に立った?」
「ええ」
その瞬間。
凌華の表情が明るくなった。
「ほんと?」
「本当です」
「私でも?」
陸議は僅かに眉を寄せた。
「なぜ『私でも』なのです?」
「だって」
凌華は膝の上の竹簡を見た。
「ずっと教えてもらってばっかりだし」
文字も。
道も。
この時代で暮らしていくために必要なことのほとんどを、誰かから教えてもらっている。
凌華自身は、まだ何もできていないと思っているのだろう。
「……そうですね」
陸議が言うと、凌華が少しむっとした。
「そこは否定してよ」
「ですが事実です」
「陸議さん!」
「ただし」
陸議は続けた。
「私が知らないことを、あなたが知っていることもあるようです」
凌華の表情から、少しだけ不満が消えた。
「だから」
陸議は地図へ目を落とした。
「お互い様ということでよいのでは?」
「…………」
凌華は一瞬きょとんとして。
それから、嬉しそうに笑った。
「うん」
◇
少しして。
陸議は再び地図へ向かっていた。
先ほどまで動かなかった木片を、一つずつ置き直していく。
敵をどう攻めるかではなく。
どう動かすか。
その前提から考え直せば、選べる手段は増える。
凌華の案をそのまま使えるわけではない。
敵の性格。
兵数。
斥候の位置。
天候。
誘いに乗るだけの理由も作らなければならない。
ここから先は、自分が考えることだ。
「…………」
地図の横から、凌華の顔が覗いた。
「まだ考えるの?」
「ええ」
「大変だね」
「誰のせいで考え直すことになったと思っているのです?」
「え、私のせい?」
「そうですね」
「悪い方!?」
慌てた声に、陸議は思わず笑った。
「良い方です」
「びっくりした……」
凌華が胸を撫で下ろす。
そのまま少し地図を眺めた後、膝の上に置いていた竹簡を開いた。
先ほど教えた箇所へ指を置き、前後の文章をゆっくりと追っている。
陸議はその姿を横目で見た。
一度説明すれば、すべてを覚えるわけではない。
何度か戻ることもある。
似た文字を見間違えることもある。
けれど以前とは違い、知っている文字が増えたことで、自分なりに文章の意味を拾えるようになっている。
そして分かることが増えるほど、時折こちらが予想もしなかったところへ目を向ける。
「……陸議さん」
「はい」
「これ、自分で読んでみていい?」
「どうぞ」
凌華は竹簡へ視線を落とした。
指先で文字を追いながら、途切れ途切れに意味を繋いでいく。
陸議は答えを言わずに待った。
少し前まで。
自分は凌華を、教える側からしか見ていなかった。
それはこれからも変わらないだろう。
この時代で生きていくために、彼女が覚えなければならないことはまだ山ほどある。
けれど。
それだけではない。
凌華の中にも、自分が知らないものがある。
今日初めて、そのことをはっきりと知った。
「……あ」
竹簡を見ていた凌華が顔を上げた。
「分かったかも」
「では、読んでみてください」
「間違ってても笑わない?」
「内容によります」
「そこは笑わないって言ってよ!」
いつもの声が部屋に響く。
陸議は小さく笑いながら、凌華の竹簡へ視線を向けた。
机の上には、組み直された地図。
その隣には、凌華が懸命に読もうとしている竹簡。
今日まで陸議は、彼女に多くのことを教えてきた。
おそらく、これからもそうする。
ただ。
今日からは時折。
自分の知らないものが凌華の目にはどう見えるのか。
それを聞いてみてもいいのかもしれない。
そう思いながら。
陸議は、凌華が自分で答えに辿り着くのを静かに待った。




