第十一話 孫策の娘
戦が終わってから、三日が経った。
陸家には、少しずついつもの時間が戻り始めていた。
朝になれば屋敷のあちこちから人の動く気配が聞こえ、庭へ出れば、風に揺れる木々の音に混じって稽古をする者たちの掛け声が届く。食事の時間になれば温かな湯気が立ち、日が落ちれば昼間の喧騒が嘘のように静かになる。
そんな穏やかな日常の中にいても、凌華の心だけは、まだ完全には戦場から戻ってきていなかった。
ふとした瞬間に、あの兵の最期を思い出す。
名前さえ、きちんと覚えていなかった男。
どこで生まれ、どんな人生を送ってきたのかも知らない。
それでも、最期に聞いた言葉だけは耳の奥に残っていた。
――帰りたい。
その声を思い出すたび、胸の奥が締めつけられる。
どこへ帰りたかったのだろう。
誰かが待っていたのだろうか。
凌華には何も分からない。
ただ、死を目前にして最後に望んだものが「帰ること」だったという事実だけが、どうしても心から離れなかった。
自分にも、帰りたい場所があるからなのかもしれない。ほんの少し前まで自分がいた世界なのに、今ではひどく遠い。
帰る方法さえ分からない場所になってしまった。
それでも凌華は、少しずつ前へ進もうとしていた。
朝になれば起きて、食事をとり、身支度を整える。時間になれば二振りの短剣を手に庭へ向かい、陸議から教えられたことを何度も繰り返す。
身体を動かしている間は、目の前のことだけを考えていられた。
足をどこへ置くのか。
相手のどこを見るのか。
どの瞬間に踏み込み、いつ退くのか。
一つ一つの動作へ意識を向けているうちに、戦場の記憶に飲み込まれずにいられる時間が少しずつ長くなっていた。
忘れたわけではない。
きっと、忘れてはいけないのだと思う。
それでも、あの出来事を抱えたまま生きていくことはできるのかもしれない。
今はようやく、そう思い始めていた。
***
「右が遅いです」
陸議の木剣を短剣で受けながら、凌華は顔をしかめた。
「分かってます!」
「分かっていて直さないなら意味がありません」
「直そうとしてるの!」
「ではもう一度」
「鬼……」
小さく呟いても、陸議は聞かなかったことにしたらしい。
すでに木剣を構え直している。
凌華は一度大きく息を吐くと、両手の短剣を握り直した。
何度繰り返しても、右手の動きがわずかに遅れる。
自分ではほとんど同時に動かしているつもりなのに、陸議には全部見えているらしい。
足の位置を確かめ、腰を落とす。
相手の武器だけを見るな。
肩、腕、腰、足。
身体全体を見て、次の動きを読む。
陸議から何度も言われてきたことを頭の中で確認していると、彼の重心がわずかに変わった。
来る。
そう思った直後、陸議が地面を蹴った。
凌華も動く。
迫ってきた木剣を右手の短剣で受け止め、その勢いを外へ流す。すぐに左手を動かしたが、陸議は身体を引いてかわし、そのまま角度を変えて木剣を返してきた。
凌華は一歩退き、身体を捻る。
乾いた音が庭に響いた。
以前なら、武器がぶつかる音を聞くだけで身体が強張っていた。
戦場で聞いた金属音や叫び声が蘇り、息が浅くなった。
けれど今は違う。
目の前にいるのは陸議だと分かっている。
ここは戦場ではない。
命を奪い合っているわけではない。
その違いを、少しずつ身体が理解し始めていた。
数度打ち合ったところで、陸議が木剣を止めた。
凌華も短剣を下ろし、弾んだ呼吸を整えながら彼を見る。
「今のはどう?」
少しだけ期待を込めて尋ねると、陸議は凌華の構えを確認するように視線を動かした。
「悪くありません」
「!」
凌華の表情が一気に明るくなる。
「今褒めた!」
「悪くないと言っただけです」
「褒めたよね?」
「褒めてはいません」
「絶対褒めた!」
『めんどくせえ女だな』
腰に提げた長剣から、呆れた声が聞こえた。
凌華は反射的に言い返す。
「孫策は黙って!」
言ってから気づいた。
目の前の陸議が動きを止めている。
「……」
「……」
視線が合った。
「またですか」
「気合いです」
「最近その説明しか聞いていません」
「便利なので」
「便利な言葉ではありません」
陸議の目には、明らかな疑いが浮かんでいる。
凌華は何食わぬ顔で視線を逸らした。
さすがに「気合い」で全部押し切るのも、そろそろ無理があるかもしれない。
そう思ったところで、庭の向こうから豪快な笑い声が響いてきた。
「ハハハハハ!」
二人が同時に振り向く。
「朝から面白えな、お前ら!」
こちらへ歩いてくる姿を見て、凌華は小さく呟いた。
「……孫策」
――生きている方。
最近では、心の中でそう区別するのが癖になっていた。
『俺も孫策だ』
案の定、腰から不満そうな声が聞こえる。
「分かってる!」
「何が?」
人間の孫策が首を傾げた。
「何でもないです!」
凌華は即座に誤魔化した。
孫策は怪訝そうな顔をしたものの、それ以上追及することなく二人の前まで来ると、何かを決めたように大きく頷いた。
「よし!」
「何がですか」
「今日からお前、俺のところ来い」
「……はい?」
あまりに唐突な言葉に、凌華は意味を掴めないまま瞬きをした。
隣にいた陸議も眉を寄せる。
「孫将軍」
「お前んとこに置いとくのも悪くねえけどな」
孫策はそう言ってから、改めて凌華へ向き直った。
「気が変わった」
「何の?」
「お前のことだ」
「……私?」
「ああ」
当然のように頷かれても、何の話なのか分からない。
凌華は警戒するように孫策を見る。
「まあ聞け」
「その言い方、嫌な予感しかしないんですけど」
「凌華」
「はい」
「お前、帰るところないんだろ?」
一瞬、答えに詰まった。
「……まあ」
「家族は?」
その問いを聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
家族はいる。
本当なら、ちゃんといる。
けれど、この時代にはいない。
会いたくても会えず、声を聞きたくても聞けない。今どこにいるのかと聞かれても、まだ生まれてすらいない未来にいるのだとは言えなかった。
「……いません」
結局、凌華はそう答えた。
孫策はしばらく凌華を見ていた。
「そうか」
「はい」
そして、ごく自然に言った。
「なら」
一拍置いて。
「俺の娘になれ」
凌華は瞬きをした。
聞こえた言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
庭を抜ける風が髪を揺らし、その向こうでは木の葉が擦れ合っている。
それなのに、凌華の耳には今の言葉だけが妙にはっきり残っていた。
「……はい?」
「ん?」
「今、何て言いました?」
「俺の娘になれ」
やっぱり聞き間違いではない。
「……なんで!?」
思わず声が大きくなった。
「なんでって」
「お前、帰るところねえんだろ?」
「だからって娘!?」
「嫌か?」
「そういう問題じゃなくて!」
「じゃあ何だ」
「話が飛びすぎてるの!」
孫策は本気で分かっていないらしい。
「俺はいいと思うぞ?」
「あなたが良くても!」
「将軍」
さすがに陸議が割って入った。
「さすがに突然すぎます」
「そうか?」
「そうです」
「でもこいつ放っとけねえだろ」
「それは……」
陸議が言葉に詰まる。
「それに」
孫策が凌華を見る。
「面白い」
「理由それ!?」
「半分な」
「残り半分は!?」
孫策はそこで少し黙った。
先ほどまでの勢いとは違い、何かを確かめるように凌華を見る。
「……なんか気になる」
「気になる?」
「ああ」
「何が?」
「分からん」
「分からないのに養子!?」
「だから面白えんだろ」
「やっぱり理由それじゃん!」
陸議が困ったように息を吐いた。
「孫将軍……」
***
その夜。
凌華は自室で膝を抱え、目の前に置いた長剣をじっと見つめていた。
昼間の話が、まだ頭の中をぐるぐる回っている。
孫策の娘になる。
言葉にしてみても、まるで現実味がない。
「……ねえ」
返事はない。
「孫策」
それでも黙っている。
凌華は少し身を乗り出した。
「聞こえてるよね?」
しばらくして、ようやく声が返ってきた。
『……聞こえてる』
「どう思う?」
『何が』
「娘」
『言わせんな』
「私、あっちの孫策の娘になるんだけど」
『…………』
「孫策の娘に」
『…………』
「ねえ、孫策」
『やめろ』
「私、孫策の娘になるんだって」
『何回言うんだよ!』
凌華は堪えきれずに吹き出した。
「嫌なの?」
『嫌とかじゃねえ!』
「じゃあ何」
『ややこしいんだよ!』
「私が一番そう思ってる!」
『俺と同じ名前の奴の娘になるんだぞ、お前』
「そうだけど」
『で、俺も孫策だ』
「うん」
『ややこしいだろうが!』
「だから私もややこしいって言ってるの!」
『しかも三つしか違わねえ奴を親父にする気か!?』
「そこは私も気になってる!」
凌華は思わず笑いながら長剣を見た。
人間の孫策は二十五歳。
凌華は二十二歳。
親子と呼ぶには、どう考えても無理のある年齢差だった。
「というか、あなたにお父さん面されたらもっと嫌かも」
『するか!』
「よかった」
『何がよかっただ!』
しばらく言い合っていた凌華だったが、やがてその笑い声が少しずつ小さくなった。
「……でも」
『何だ』
「ちょっと嬉しかった」
剣の孫策が黙る。
「娘になれって言われて」
昼間は驚きすぎて、それどころではなかった。
けれど、一人になって何度も考えているうちに、自分が本当はどう感じていたのかが分かってきた。
「ここにいていいって言われた気がした」
『…………』
「私、ずっと借り物みたいだったから」
この時代に来てから、自分一人の力で手に入れたものなどほとんどない。
陸家に置いてもらい、食事をもらい、この時代の服を用意してもらった。
短剣も陸議から与えられたものだ。
皆が優しくしてくれるほど、自分が何も返せていないことが気になった。
ここにいていいと言われても、心のどこかではずっと、自分だけが仮の場所に置いてもらっているような感覚があった。
「帰るところもないし」
『…………』
「未来にも帰れないかもしれない」
口にした途端、怖くなった。
それはずっと、考えないようにしてきたことだった。
いつか帰れる。
何か方法がある。
そう思っていなければ、不安に押し潰されそうだった。
けれど、帰れる保証などどこにもない。
このままずっと、この時代で生きていくことになる可能性だってある。
「だから」
凌華は長剣を見つめた。
「家族になれって言われたの」
少しだけ声が震えた。
「嬉しかった」
長い沈黙のあと、孫策が小さく答えた。
『……そうか』
「うん」
『ならなれ』
凌華は顔を上げた。
「いいの?」
『俺に聞くな』
「だってあなたも孫策じゃん」
『だからややこしいんだよ!』
凌華は堪えきれず、また笑った。
けれど。
剣の孫策は、笑わなかった。
『…………』
楽しそうに笑う凌華の声を聞きながら、孫策の意識に、ふいに古い記憶が掠める。
今とよく似た笑い声だった。
嬉しいくせに、どこか困ったように笑う、ある女性の姿。
孫策の娘になったと。
その女性が、笑っていた日のことを。
『……やっぱり』
「ん?」
あまりに小さな声に、凌華が聞き返した。
孫策は少し間を置いた。
『ここに来るんだな』
凌華の笑みが止まった。
「え?」
『何でもねえ』
「……何それ」
『気にすんな』
「いや、気になるでしょ」
凌華は訝しげに長剣を見つめた。
まただ。
時々、この孫策はこういうことを言う。
まるで自分の知らない何かを知っているような、妙な言い方を。
「今の、どういう意味?」
『そのまんまだ』
「そのまんまじゃ分かんないんだけど」
『なら分からなくていい』
「またそれ?」
『いいから寝ろ』
「絶対何か隠してるでしょ」
『さあな』
それきり、孫策は答えなくなった。
凌華はしばらく長剣を睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。
また、何かを誤魔化された。
そんな気がした。
***
翌朝。
凌華は孫策の前に座っていた。
それだけならいい。
問題は周囲だった。
周瑜、陸議、呂蒙まで揃っている。
凌華は三人の顔を順番に見てから、嫌そうに眉を寄せた。
「なんでこんな大人数なんですか……」
「面白そうだから!」
呂蒙が即答した。
「帰っていいですよ」
「嫌だ!」
「なんで!」
凌華は今度は周瑜を見る。
「公瑾まで……」
「私は止めに来たのですが」
「止める?」
凌華の顔が少し明るくなる。
「やっぱりそうですよね。急すぎ――」
「ですが孫策が聞かなかったので諦めました」
「諦めないでください!」
周瑜は苦笑した。
「昔から一度決めると聞きません」
「知ってる」
『知ってる』
人間の孫策と剣の孫策の声が重なった。
凌華は反射的に長剣を見る。
『見るな』
「どうした?」
「何でも」
陸議だけは、そのやり取りを眺めながら少し難しい顔をしていた。
やがて凌華へ向き直る。
「凌華」
「はい」
「本当に良いのですか?」
声には、周囲のような面白がる響きがなかった。
凌華も自然と表情を改める。
「陸議さんは反対?」
「反対というより」
陸議は少し考えてから答えた。
「あなた自身が決めるべきだと思っています」
凌華はしばらく陸議を見つめた。
いつもそうだ。
この人は、自分の代わりに答えを決めてはくれない。
けれど、決められない自分を置いていくこともしない。
選ぶのは凌華自身だと、いつもその場所だけは残してくれる。
凌華は小さく息を吐くと、孫策へ向き直った。
「一個だけ聞いていいですか?」
「おう」
「私が役に立たなくても?」
孫策が凌華を見る。
「戦えなくても」
少し迷ってから続ける。
「未来を知らなくても」
口にした瞬間、凌華の心臓が跳ねた。
――しまった。
けれど、誰もそこには反応しない。
凌華は何事もなかったように続けた。
「何もできなくても」
孫策の目をまっすぐに見る。
「娘って言ってくれる?」
孫策は一瞬黙った。
「お前」
「はい」
「家族って役に立つからなるもんか?」
凌華は言葉を失った。
「……」
「違うだろ」
孫策は当たり前のことを言うように続ける。
「お前が何できるとか知らん。
強いか弱いかもどうでもいい。
俺が娘にしたいって思った。
だからする」
胸の奥が、じわりと熱くなった。
あまりにも単純で、あまりにも孫策らしい。
だからこそ、その言葉を疑う余地がなかった。
「雑!」
結局、凌華の口から出たのはそれだった。
「ハハハ!」
孫策が豪快に笑う。
凌華もつられて笑った。
けれど、笑っているうちに少しだけ泣きそうになった。
役に立たなければならない。
何かできなければならない。
そうでなければ、この時代に自分の居場所などない。
知らないうちに、ずっとそう思っていたのかもしれない。
でも孫策は、そんなことを一つも求めていなかった。
「……じゃあ」
凌華は一度、深く息を吸った。
「お願いします」
「よし!」
孫策の表情がぱっと明るくなる。
そこで凌華は、ふと大事なことを思い出した。
「ちょっと待って!」
「何だ」
「一応言っとくけど」
「はい」
「私、二十二です」
「知ってる」
「あなた何歳?」
「二十五」
「三歳差!」
呂蒙が吹き出した。
周瑜は笑いを堪えるように顔を背け、陸議までわずかに口元を緩めている。
「無理あるでしょ!」
「細けえこと気にすんな!」
「三歳差で父娘は細かくない!」
「じゃあ妹でもいいぞ!」
「歴史が変わる!」
言った瞬間。
凌華の表情が固まった。
周囲も静かになる。
「……歴史?」
陸議が聞き返した。
背中に冷たい汗が流れる。
『馬鹿』
腰から容赦のない声が飛んできた。
「家の歴史です!」
「何ですかそれは」
「何でもないです!」
孫策はそんなことなど気にしていないらしい。
「じゃあ娘で決まり!」
「強引!」
「親父って呼べ!」
「絶対嫌!」
「何でだよ!」
「三歳しか違わないから!」
呂蒙がとうとう腹を抱えた。
「ハハハハハ!!」
「呂蒙さん笑いすぎ!」
「いや無理だろ、これ!」
「お前も娘になるか?」
「ならねえよ!」
周瑜まで声を立てて笑い始める。
「公瑾まで!」
「すみません」
まったく申し訳なさそうではない。
凌華が頬を膨らませていると、ふと陸議と目が合った。
彼は皆のように大笑いしてはいなかった。
ただ、少し安心したように微笑んでいる。
「……良かったですね」
「え?」
「居場所ができて」
凌華は言葉を失った。
昨夜、自分が剣の孫策へ話したことと、ほとんど同じだった。
ここにいていいと言われた気がした。
家族になれることが嬉しかった。
それを陸議にも見抜かれていたのかもしれない。
凌華の表情がゆっくりと緩んだ。
「……はい」
その言葉は、自然に出てきた。
***
正式な手続きについては、また後日。
ひとまず凌華は、孫策の養女となることになった。
まだ実感はない。
けれど、孫策の方はすでに完全にその気らしい。
「凌華!」
少し離れたところから呼ばれ、凌華が振り返る。
「はい?」
「娘!」
「その呼び方やめて!」
「娘!」
「やめてって!」
「親父って呼べ!」
「嫌!」
「一回!」
「絶対嫌!」
『やめろ!』
腰の長剣からまで怒鳴り声が響いた。
凌華は思わずそちらを見る。
「なんであなたまで怒るの!」
『気持ち悪い!』
「酷くない!?」
当然、人間の孫策には何も聞こえていない。
「お前さっきから何に怒ってんだ?」
「色々です!」
「忙しい奴だな!」
「誰のせい!」
そんな二人のやり取りを少し離れた場所から見ていた周瑜が、小さく笑った。
「孫策」
「ん?」
「随分嬉しそうだな」
「そうか?」
「そう見える」
「まあ」
孫策は少し離れた場所へ目を向けた。
そこでは凌華が陸議と何かを話している。
その姿を眺めながら、孫策の表情が少しだけ柔らかくなった。
「家族増えたからな」
凌華には聞こえていなかった。
***
その日の夕方。
凌華は一人、縁に腰を下ろしていた。
昼間の騒がしさはすっかり遠ざかり、庭には夕暮れの柔らかな光が差している。風が通り抜けるたびに木々の葉が揺れ、その音が静かな屋敷の中へ溶けていった。
凌華はぼんやりと庭を眺めながら、今日一日で何度も聞いた言葉を、自分でも口にしてみた。
「……孫策の娘」
やはり不思議な響きだった。
二十二歳の自分が、二十五歳の孫策の養女になる。
どう考えてもおかしい。
思わず小さく笑ってから、もう一度呟く。
「孫策の娘……」
その瞬間。
頭の中で、何かが引っかかった。
凌華の笑みが消える。
「…………」
孫策。
娘。
三国志。
呉。
卒業論文のために何度も見た人物関係。
その中にあった名前。
「…………待って」
『何だ』
「待って待って待って」
『だから何だよ』
凌華は記憶を辿った。
「孫策の娘って」
『ああ』
「確か……」
頭の中に、ある人物の名前が浮かんだ。
「陸遜と」
『…………』
「結婚してなかった?」
剣の中から返事がない。
凌華はさらに記憶を探る。
間違っていない。
史実の孫策の娘。
その夫。
「陸遜の妻……」
胸の鼓動が速くなった。
昼間まで、ただ家族ができたとしか考えていなかった出来事が、突然別の意味を持ち始める。
そして今、自分のすぐそばにいるのは――まだ陸遜を名乗っていない陸議。
「え?」
凌華は勢いよく立ち上がった。
「ええ!?」
『声でけえ!』
「待って!」
自分は孫策の娘になった。
史実では、孫策の娘が陸遜の妻になる。
「じゃあ」
頭の中で、知っている歴史と今の現実が重なっていく。
「私が孫策の娘になったら」
「もしかして」
「歴史の……」
心臓が大きく鳴った。
「孫策の娘って」
凌華は恐る恐る自分を指さした。
「私?」
『…………』
返事はない。
凌華はすぐに激しく首を振った。
「いやいやいやいや!」
急に顔が熱くなってくる。
「ない!」
『…………』
「絶対ない!」
『何が』
「だって陸遜の妻だよ!?」
『知ってる』
凌華の動きが止まった。
「…………」
ゆっくりと長剣を見る。
「……今」
剣の孫策も気づいたらしい。
『あ』
「知ってるって言った?」
『…………』
「知ってるの!?」
『一般常識だ』
「あなたの時代の一般常識じゃない!」
『うるせえ!』
「待って!」
凌華は長剣を抱え込んだ。
「あなた知ってるんでしょ!?」
『知らん!』
「今知ってるって言った!」
『言い間違い!』
「何を知ってるの!」
『離せ!』
「孫策!」
『やめろ!』
そのときだった。
「……何をしているのです?」
背後から聞こえた声に、凌華の身体がぴたりと固まった。
聞き間違えるはずがない。
そして今だけは、絶対に聞きたくなかった声だった。
凌華は長剣を抱えたまま、ぎこちなく振り返る。
そこには陸議が立っていた。
「…………」
一気に血の気が引いた。
「陸議さん」
「はい」
凌華は恐る恐る尋ねる。
「いつからいました?」
陸議は少し考えるように視線を動かした。
「『陸遜の妻』あたりから」
「…………」
今すぐ消えたい。
未来でも過去でもどこでもいい。
とにかく、この場から跡形もなく消えてしまいたい。
よりによって、そこから。
顔に熱が集まっていくのが自分でも分かった。
「……忘れてください」
「難しいですね」
「そこを何とか」
「先ほど、陸遜と言いましたね」
「…………」
凌華はそっと顔を逸らした。
聞かなかったことにはしてくれないらしい。
「言ってません」
「言っていました」
「気のせいです」
「はっきり聞こえました」
「……」
逃げ道がない。
陸議はそんな凌華の様子をしばらく見ていたが、やがて静かに続けた。
「以前から気になっていたのですが」
凌華の肩がわずかに強張る。
嫌な予感がした。
「その『陸遜』という人物は、誰なのです?」
「…………」
来た。
いつか聞かれるとは思っていた。
凌華はこれまでにも何度か、うっかりその名前を口にしている。
けれど、説明できるはずがない。
目の前にいる陸議が、後に陸遜と呼ばれる人物なのだと。
未来から来た自分は、それを知っているのだと。
「さあ!」
「凌華」
「知りません!」
「知らない人物の名を、何度も口にするのですか?」
「…………」
正論だった。
「たまたまです」
「何度も?」
「……たまたま何度も」
陸議の目が細くなる。
「では、もう一つ」
「まだあるの?」
「先ほど、『陸遜の妻』と言っていましたね」
凌華の顔が一気に熱くなった。
「それは忘れて!」
「なぜです?」
「いいから!」
「陸遜という人物については答えない。妻の話も聞くな、と」
「まとめないで!」
『ハハハハハ!』
長剣の中で孫策が盛大に笑い出した。
凌華は即座に長剣を睨んだ。
「孫策笑うな!」
陸議の眉がわずかに動く。
「また孫策?」
「もうやだ……」
凌華はとうとう両手で顔を覆った。
陸議はまだ何か聞きたそうにしている。
けれど凌華にとっては、「陸遜の妻」という言葉を本人の目の前で口にしていたという事実だけで十分すぎるほど恥ずかしかった。
まして、その妻が孫策の娘だったという歴史を思い出した直後なのだ。
今だけは、陸議の顔をまともに見ることなどできそうになかった。
――第十一話・了




