第十二話 未来の名前
「目を見てください」
「無理です」
「なぜです?」
「無理なものは無理!」
凌華は両手で顔を覆ったまま、陸議から逃げるようにじりじりと後退した。
よりによって、つい先ほど最も聞かれたくなかった部分を本人にしっかり聞かれてしまったのだ。
――陸遜の妻。
思い出しただけで顔が熱くなる。
「凌華」
「はい……」
「私は怒っているわけではありません」
「それは分かってます」
「では顔を上げてください」
「それとこれは別です」
『往生際悪いぞ』
腰の長剣から呆れた声が飛んできて、凌華は顔を覆ったまま反射的に言い返した。
「誰のせいだと思ってんの!」
「……またですか」
「あ」
陸議の眉間に皺が寄るのを見て、凌華はしまったと思った。
最近、本当に誤魔化せなくなってきている。
剣の孫策と話すことに慣れすぎたせいで、周囲に人がいることを忘れて普通に返事をしてしまうのだ。
「と、とにかく! さっきのは忘れてください!」
無理やり話題を戻すと、陸議は間髪入れずに答えた。
「無理です」
「なんで!?」
「あなたは以前から私を『陸遜』と呼ぶことがある。それに今日、その陸遜という人物に妻がいるという話をしていた。そして私が現れた瞬間、ひどく動揺した」
「…………」
一つずつ並べられると、言い逃れできる余地がまるでない。
凌華が何も言えずにいると、陸議は静かに続けた。
「以上から考えれば、その陸遜という人物は、私と無関係ではないのでしょう」
鋭い。
本当に、この人は妙なところで鋭い。
『だからこいつ嫌なんだよ』
「そこはちょっと分かる……」
「何がです?」
「何でもないです!」
慌てて否定した凌華は、一度大きく息を吸った。
どうするべきなのだろう。
すべて話してしまえばいいのかもしれない。
自分が未来から来たことも、目の前の陸議が将来「陸遜」と呼ばれるようになることも、孫策の娘がその陸遜の妻になることも。
そして、その先に待っている彼の最期まで。
けれど、そこまで考えたところで、凌華は心の中で首を振った。
まだ言えない。
少なくとも、今は。
「……一つだけ」
凌華が覚悟を決めて口を開くと、陸議は何も急かさず、続きを待っていた。
「陸遜って名前は、あなたにとても関係があります」
その瞬間、陸議の表情がわずかに変わった。
「どのように?」
「それ以上は……今は言えません」
「理由は?」
凌華は答えようとして、少し俯いた。
「言ったら、あなたの選ぶものを変えてしまうかもしれないから」
陸議は黙っている。
凌華は自分の考えを確かめるように、ゆっくりと言葉を続けた。
「何も知らなかったら選んだはずのものを、私が未来みたいなことを言ったせいで違う方へ変えてしまうかもしれない。私は、それが怖いんです」
言ってから、自分でもかなり危ない言い方をしたと思った。
けれど、陸議は笑わなかった。
「未来……ですか」
「たとえばの話!」
「随分具体的なたとえですね」
「……ですよね」
やはり、この人相手に誤魔化し続けるのは無理がある。
陸議はそんな凌華をしばらく見つめてから、静かに名前を呼んだ。
「凌華」
「はい」
「あなたが何者なのか、私はまだ知りません」
その言葉に胸が跳ねた。
けれど、陸議の声に疑いや敵意はなかった。
「ですが、あなたが私に害意を持っていないことくらいは分かります」
凌華は思わず顔を上げた。
「陸議さん……」
「話したくないことを無理に聞くつもりもありません。ただし、嘘はなるべく減らしてください」
「……努力します」
「それから、“気合いです”も禁止です」
「そこ!?」
思わぬところを指摘され、凌華は目を見開いた。
『ハハハ!』
「便利だったのに……」
「便利に使いすぎです」
凌華が不満そうに口を尖らせると、陸議の口元がほんの少し緩んだ。
これで話は終わったのだと思った。
ところが。
「それと」
「まだあるの?」
「先ほどの話ですが」
凌華の心臓が嫌な音を立てた。
「……どの?」
「妻がどうとか」
「忘れて!」
「その反応を見る限り、やはり私に――」
「忘れてください!!」
凌華の叫び声が辺りに響き渡った。
***
「何の騒ぎだ?」
最悪のタイミングで現れたのは孫策だった。
しかも一人ではない。
その後ろには周瑜と呂蒙までいる。
「何でもないです!」
凌華は考えるより早く即答した。
「いや、今『妻』って聞こえたぞ?」
「聞こえてません!」
「聞こえた」
「気のせいです!」
必死に否定する凌華とは対照的に、呂蒙はすでに面白そうににやにやしている。
「おいおい、何だ?」
「呂蒙さんは帰って!」
「なんで俺だけ!?」
その横で、周瑜が事情を尋ねるように陸議へ視線を向けた。
「何があったのです?」
「いえ」
陸議は一度凌華を見る。
その目にほんの少し意地の悪いものが浮かんだ気がして、凌華は嫌な予感を覚えた。
「凌華が、私の妻について――」
「陸議さん!!」
最後まで言わせてはいけない。
凌華は飛びつくような勢いで陸議の言葉を遮り、その袖を掴んだ。
一瞬、その場にいた全員の動きが止まる。
『お』
剣の孫策まで面白そうな声を出した。
そんなことを気にしている余裕もなく、凌華は陸議を見上げる。
「言わないで。お願いします」
小声で頼むと、陸議は自分の袖を掴んでいる凌華の手を見て、それから彼女の顔へ視線を戻した。
「……分かりました」
「ありがとう」
凌華は心の底から安堵した。
ところが顔を上げると、人間の孫策がこちらをじっと見ている。
その隣では周瑜も何やら考えるように二人を眺めており、呂蒙に至っては、もう笑いを堪えるつもりすらないらしい。
「ハハハハハ!」
「何!?」
「いや!」
「何なの!?」
「お前らおもしれえな!」
「何も面白くない!」
凌華が抗議していると、孫策がゆっくり陸議へ顔を向けた。
「陸議」
「はい」
「お前、うちの娘に何してんだ?」
「何もしていません」
「本当か?」
「本当です。あなたが勝手に怪しんでいるだけです」
『そうだそうだ』
「あなたは黙って!」
反射的に長剣へ言い返すと、人間の孫策が首を傾げた。
「誰に言ってんだ?」
凌華は一瞬言葉に詰まり、適当な答えをひねり出す。
「……自分に!」
「お前、自分に厳しいな」
ここまで来ると、もう何でもよかった。
***
昼になると、今度は周瑜に呼ばれた。
「凌華、少しよろしいですか」
「はい?」
声はいつも通り穏やかだった。
それなのに、なぜか嫌な予感がする。
『気をつけろ』
剣の孫策までそんなことを言い出した。
「何を?」
『公瑾は笑ってる時が一番怖え』
「それ本人に言っていい?」
『絶対やめろ』
そこまで言われると余計に怖くなる。
凌華は警戒しながら周瑜についていき、人の少ない場所まで来ると、促されるまま腰を下ろした。
周瑜も向かい側へ座る。
「孫策の養女になったそうですね」
「……はい」
「驚きました」
「私もです」
「彼らしいと言えば彼らしいですが」
「三歳しか違わないんですけど」
周瑜が一瞬黙った。
「……そこは考えない方が良いでしょう」
「ですよね」
二人の間に小さな笑いが生まれる。
けれど次の瞬間、周瑜の視線が凌華の腰にある長剣へ落ちた。
凌華の身体がわずかに強張る。
――来た。
「その剣について、以前、拾ったと仰っていましたね」
「はい」
「どこで拾ったか覚えていないとも」
「……はい」
「本当に?」
凌華は答えなかった。
周瑜の表情は穏やかなままだ。
けれど、その目を見る限り、曖昧な答えで逃がしてくれるつもりはなさそうだった。
「疑ってるんですか?」
「ええ。疑わない方が不自然です」
あまりにもあっさり認められ、凌華は何も言えなくなった。
確かに、周瑜の立場から考えれば当然なのかもしれない。
周瑜は凌華の表情を確かめながら、静かに続けた。
「あなたは、どこから来たのかも分からない状態で突然あの村に現れたと聞いています。それなのに孫策や私の名を聞いた時、まるで初めて知った人間のような反応をしなかった」
凌華の指先がわずかに動いた。
「呂蒙に対してもそうです。そして陸議に対しては、時折『陸遜』という別の名で呼んでいるそうですね」
「…………」
全部、見られていた。
自分ではそのたびに誤魔化してきたつもりだった。
けれど、こうして一つずつ並べられてみれば、何も知らない人間の振る舞いではない。
周瑜は凌華から視線を逸らさないまま尋ねた。
「あなたは、私たちのことを以前から知っていたのではありませんか?」
凌華は息を呑んだ。
嘘をつけばいい。
今までのように、何も知らないと言えばいい。
けれど、先ほど陸議に言われた言葉が頭をよぎった。
――嘘はなるべく減らしてください。
凌華はしばらく迷ったあと、小さく答えた。
「……知ってます」
周瑜の目がわずかに細くなった。
「どこで?」
「言えません」
「なぜです?」
「信じてもらえないから」
「信じるかどうかは、聞いてから決めます」
「……それが一番困る」
周瑜がわずかに笑った。
「では質問を変えましょう。私たちは、あなたにとって敵ですか?」
凌華はすぐに首を振った。
「違います」
「では、味方ですか?」
その問いには、少しだけ迷った。
「……そうなりたいです」
周瑜が黙る。
凌華は自分の気持ちを伝えようと、ゆっくり続けた。
「私は孫策を傷つけたいわけじゃない。陸議さんも、呂蒙さんも、周瑜さんも。むしろ――」
そこで声が詰まった。
本当は、言いたいことなど一つしかない。
死んでほしくない。
自分が知っている歴史と同じように、大切な人たちが一人ずついなくなる未来を見たくない。
「助けたい」
ようやく口にした言葉に、周瑜の表情が変わった。
「何から?」
そこまでは言えない。
凌華は俯き、しばらく黙ったあとで答えた。
「今は、言えません」
長い沈黙が流れた。
何を言われるのだろうと身構えていると、やがて周瑜が静かに息を吐いた。
「分かりました。今日はここまでにしましょう」
「え?」
予想外の言葉に、凌華は顔を上げた。
「もっと聞かれると思った」
「聞きたいですよ。山ほど」
周瑜は穏やかに笑っている。
「怖い……」
「ですが、追い詰めて逃げられる方が困ります」
「…………」
やはり、この人は怖い。
『だろ?』
「うん……」
「何がです?」
「何でも!」
周瑜の視線が再び長剣へ向きかけたので、凌華は慌てて口を閉じた。
***
その日の夕方には、今度は孫策から呼び出された。
「凌華!」
「今度は何ですか」
「今度とは何だ」
「今日は色んな人に呼ばれるから……」
孫策の前には数枚の竹簡と、一着の衣が置かれていた。
凌華が近づくと、孫策は衣を持ち上げて差し出してくる。
「これやる」
「何?」
「服」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ!」
「会話です!」
孫策が豪快に笑った。
「これから俺の娘として人前に出ることもある。だから、それらしい格好しろ」
「それらしい……」
急に現実味が増した気がした。
凌華は自分が今着ている衣へ目を落とす。
これも陸家で用意してもらったものだ。
「今のも悪くねえけどな」
「……うん」
「それと、こっちだ」
孫策が今度は竹簡を押し出した。
「こっちは?」
「お前のことを記す。どこの生まれか、親は誰か、年はいくつか」
凌華の表情が固まった。
答えられない。
生まれた場所を正確に話したところで、この時代の人間には通じない。
何より、自分が生まれるのは千八百年近く先の未来だ。
両親だって、この時代には存在していない。
黙り込んだ凌華を見て、孫策はすぐに何かを察したらしい。
「言えねえか」
「……ごめんなさい」
「別に。じゃあ書かなくていい」
凌華は思わず顔を上げた。
「そんな雑でいいの?」
「俺がいいって言ってんだからいい」
まただ。
昨日言われた言葉が蘇る。
――家族って役に立つからなるもんか?
この人は、凌華がどこから来たのかを知らなくても、家族にすると言った。
知りたいことはあるはずなのに、それを答えられないからといって突き放そうとはしない。
そのことが、凌華には嬉しかった。
孫策は不要になった竹簡を脇へ退けた。
「名前だけでいい」
「凌華」
「ああ。姓は?」
そこで凌華の口が止まった。
現代の姓を名乗っても、この時代では何の意味も持たない。
言ったところで、知っている者など誰もいない。
「……なくてもいい?」
孫策は少し考えたあと、何でもないことのように笑った。
「じゃあ、孫でいいだろ」
「…………」
「孫凌華」
その名前を聞いた瞬間、胸が大きく鳴った。
孫。
凌華。
たった一文字が加わっただけなのに、自分の名前が急にこの時代へ根を下ろしたような気がした。
「嫌か?」
「……変な感じ」
「すぐ慣れる」
『…………』
いつもはうるさい剣の孫策が、何も言わない。
凌華は人間の孫策に気づかれないよう、小さな声で尋ねた。
「どうしたの?」
『いや』
「何?」
少し間を置いて、孫策が答えた。
『……似合ってる』
凌華は思わず長剣を見た。
「珍しく素直」
『うるせえ』
「ふふ」
「何笑ってんだ?」
人間の孫策が首を傾げる。
凌華は新しい衣と竹簡を見ながら、素直に答えた。
「嬉しいだけ」
「そうか!」
孫策は満足そうに豪快な笑い声を上げた。
「じゃあ決まりだ!」
こうして凌華は、この時代へ来て初めて、自分の居場所を示す名前を手に入れた。
――孫凌華。
本来ならば、凌華が知る史書のどこにも記されていなかった名前だった。
***
夜になり、凌華は部屋で新しい衣を眺めながら、何度目か分からない名前を口にした。
「……孫凌華」
『まだ言ってんのか』
「だって変な感じするんだもん」
『そのうち慣れる』
「生きてるあなたと同じこと言うね」
『俺だからな』
「ややこしい」
『何回言うんだよ』
凌華は小さく笑った。
けれど、新しく与えられた名前について考えているうちに、ふと別の疑問が浮かんだ。
「孫策」
『ん』
「歴史って、名前が残ってない人もたくさんいるよね」
『そりゃな』
「孫策の娘も」
剣の孫策が黙った。
凌華が現代で史書や資料から知ることができたのは、孫策に娘がいたことと、その娘が陸遜の妻になったということくらいだった。
その女性自身の名前は残っていない。
「もし、本当に私だったら」
凌華は膝を抱えた。
「私の名前は消えるのかな」
『何でそう思う』
「だって、史書には“孫策の娘”しか残ってないから」
もし自分がこの時代を生きたとしても、千八百年後まで「凌華」という名前が伝わるとは限らない。
誰かの娘として。
誰かの妻として。
それだけが残り、自分自身の名前は消えてしまうのかもしれない。
そう考えると、少し不思議な気持ちになった。
「現代に戻ったら、私のこと何か残ってるのかな」
『凌華』
「ん?」
剣の孫策の声が、先ほどまでとは違って静かだった。
『名前が残ることと、生きたことが残るのは別だろ。お前を覚えてる奴がいりゃいい』
凌華は少し考えてから、現実的な問題に気づいた。
「でもみんな死ぬじゃん。千八百年後だもん」
『……夢がねえな』
「だって本当だし」
『だったら、千八百年残るくらい派手に生きろ』
「何それ」
凌華は思わず笑った。
「あなたらしい」
『だろ?』
そのとき、部屋の外から名前を呼ばれた。
「凌華」
陸議の声だ。
「……はい?」
凌華は立ち上がって戸を開けた。
そこには陸議が立っており、その手には見慣れた二振りの短剣がある。
「これを」
「私の短剣」
「手入れをしておきました。刃こぼれもありません」
凌華は差し出された短剣を受け取った。
「ありがとう」
「いえ」
一瞬、二人の間に沈黙が流れた。
陸議の視線が、凌華の部屋に置かれた新しい衣へ向かう。
「きっと似合いますよ」
「……え?」
「その衣です」
「あ」
褒められると思っていなかった凌華は、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
『ほー』
腰の長剣から、いかにも面白がっているような声が聞こえた。
「…………」
「どうしました?」
「何でもない」
孫策は後で黙らせよう。
陸議がそのまま立ち去ろうとしたので、凌華は咄嗟に呼び止めた。
「あの!」
陸議が振り返る。
「はい?」
凌華は少し迷ってから、新しい名前を口にした。
「……私、孫凌華になったみたい」
「聞きました」
「変じゃない?」
「何がです?」
「名前」
陸議は少し考えてから答えた。
「良いと思います」
「本当に?」
「ええ。居場所ができた証でしょう」
その言葉を聞いた瞬間、凌華の胸がまた温かくなった。
昨日も陸議は同じことを言ってくれた。
自分がこの時代にいていいと思える場所。
その証が、今度は名前として形になったのかもしれない。
「……うん」
「では、おやすみなさい」
「あ」
再び立ち去ろうとした陸議が振り返った。
「何です?」
凌華は一瞬迷った。
聞くべきではないかもしれない。
けれど、どうしても聞いてみたかった。
「陸議さん」
「はい」
「もし、いつか名前が変わるとして、自分で選べるならどんな名前がいい?」
陸議の目がわずかに動いた。
我ながら、かなり不自然な質問だ。
「急にどうしたのです?」
「何となく」
「また未来の話ですか?」
「……さあ」
陸議は凌華をじっと見つめた。
けれど、それ以上追及することなく少し考える。
「名前そのものに、大した拘りはありません」
「そうなの?」
「ただ、その名を呼ばれた時に、恥じることのない人間でありたいとは思います」
静かな言葉だった。
けれど凌華の胸は、強く締めつけられた。
――陸遜。
その名を、未来から来た凌華は知っている。
名将として名を残した人。
呉に仕えた臣として。
そして最後には、凌華が知っているあの結末へ辿り着く人として。
目の前にいる若い陸議は、まだ何も知らない。
それでも、彼がこれから歩んでいく先を知っている凌華には、今の言葉が胸に深く残った。
「……きっと、そうなるよ」
思わず口から零れた。
陸議が目を細める。
「なぜ分かるのです?」
しまったと思った。
けれど今度は、適当な嘘で誤魔化したくなかった。
凌華は陸議を見て、少しだけ笑った。
「知ってるから。少しだけ」
「…………」
陸議は何も言わなかった。
凌華もそれ以上は話さず、逃げるように戸へ手をかける。
「おやすみなさい」
そのまま戸を閉めると、凌華は扉に背を預けた。
「……言っちゃった」
『馬鹿だな』
「うん」
自分でもそう思う。
それでも、不思議と後悔はしなかった。
***
廊下に残された陸議は、しばらく閉じられた戸を見つめていた。
――知っているから。
凌華は、自分の何を知っているのだろう。
以前から彼女が何度も口にしていた名前がある。
陸遜。
今日聞いた「妻」という言葉。
未来を思わせる発言。
そして、先ほどの「知っている」という言葉。
それらが一つずつ、陸議の中でつながり始めていた。
「……陸遜」
陸議は初めて、自分の口でその名を呟いた。
不思議な響きだった。
知らないはずの名前なのに、凌華が何度も自分に向かって口にしたせいだろうか。
まるで遠い未来のどこかから、自分を呼ぶために存在している名前のように感じられた。
そのときだった。
「何してんだ?」
突然背後から声をかけられ、陸議は振り返った。
「孫将軍」
そこには孫策が立っていた。
孫策は陸議と、その向こうにある凌華の部屋を交互に見ると、にやりと笑う。
「夜中に娘の部屋の前で突っ立って、怪しいな」
「違います」
「何が?」
「何もありません」
「俺まだ何も聞いてねえぞ?」
「…………」
黙り込んだ陸議を見て、孫策が楽しそうに笑った。
「ハハハ! 珍しく分かりやすいな!」
「静かにしてください」
「で?」
孫策が凌華の部屋へ視線を向ける。
「うちの娘どうだ?」
「どう、とは?」
「可愛いだろ」
「三歳下の娘を自慢しないでください」
「細けえ!」
「細かくありません」
孫策はしばらく笑っていた。
けれど、やがてその表情からふっと笑みが消えた。
「陸議」
「はい」
「凌華のこと、頼むぞ」
突然の言葉に、陸議は孫策を見る。
「……何をです?」
「さあな」
「孫将軍」
「俺にも分からん!」
そう言って孫策はまた笑ったものの、今度はすぐに声を落とした。
「あいつ、強そうに見えて結構危なっかしい」
陸議は否定しなかった。
凌華は剣を持てば驚くほどの力を見せる。
それでも普段の彼女を見ていれば、孫策が何を言いたいのかは分かった。
「……知っています」
「だろ?」
二人はしばらく、閉じられた凌華の部屋の戸を眺めていた。
その会話を、中にいる凌華は知らない。
けれど、部屋に置かれた長剣の中にいる孫策だけは、すべて聞いていた。
『…………』
――頼むぞ。
その言葉を聞いた瞬間、孫策の中を、ひどく懐かしい感覚が通り過ぎた。
『お前……』
誰にも聞こえない剣の中で、孫策は静かに笑った。
『また同じこと言うのかよ』
それが何を意味しているのか、凌華はまだ知らない。
陸議も、人間の孫策も知らない。
ただ、凌華が何度も口にしてきた「陸遜」という未来の名前は、この夜初めて陸議自身の口から発せられた。
凌華が知る未来と、今この場所で進んでいる時間。
その二つは、誰にも気づかれないまま、少しずつ重なり始めていた。
――第十二話・了




