第十三話 許貢と言う男
「孫凌華!」
朝から聞き慣れない名前を呼ばれ、凌華は思わず足を止めた。
「……まだ慣れない」
振り返ると、孫策がこちらへ向かって歩いてくる。
「何だ、その顔」
「いや……本当に私?」
凌華が自分を指差すと、孫策は何を言っているのか分からないとでも言いたげに眉を上げた。
「他に孫凌華がいるのか?」
「いないけど」
「じゃあお前だ」
「それはそうなんだけど……」
数日前まで、凌華はただの凌華だった。
この時代では身元も分からず、家もなければ行く場所もない。突然放り込まれた世界で、陸家に置いてもらいながら、どうにか毎日を過ごしていた。
それが今では、孫策の養女になり、「孫凌華」という名前まで与えられている。
あまりにも急に環境が変わったせいで、呼ばれれば自分のことだと分かるのに、まだ自分の名前だという実感が追いついてこなかった。
『そのうち慣れるって言っただろ』
腰に提げた長剣から声が聞こえ、凌華は小さく眉を寄せた。
「あなたまで言わないで」
「ん?」
生きている孫策が首を傾げる。
「……独り言」
「またか」
「癖です」
「陸議から聞いたぞ。その言い訳、禁止になったんじゃねえのか?」
「なんでそこ共有されてるの!?」
孫策が豪快に笑う。
「ハハハ! お前ほんと面白えな!」
「娘を面白枠にしないで!」
「娘って認めたな」
「あ……」
凌華が口を押さえるより先に、孫策が嬉しそうに笑った。
「よし!」
「今のなし!」
「もう遅え!」
『……くだらねえ』
呆れた声が腰から聞こえ、凌華はちらりと長剣を見る。
「あなた、ちょっと嬉しそうじゃない?」
『気のせいだ』
「ふふ」
凌華は小さく笑った。
こんなやり取りをすることさえ、少しずつ当たり前になりつつある。
この時代へ来たばかりの頃には、想像もできなかったことだった。
***
孫策の近くで過ごすようになってから、凌華の生活は少し変わった。
剣術の稽古をつけてくれるのは、これまでと変わらず陸議で、時折そこへ呂蒙も加わる。
そして最近では、頼んでもいないのに孫策まで乱入してくるようになった。
「凌華、右!」
「分かってる!」
「遅え!」
孫策の木剣が勢いよく振り下ろされ、凌華は右手の短剣で受けようとした。
しかし一瞬遅い。
木剣が短剣を強く弾き、凌華の手から一本が飛んで地面へ落ちた。
「あっ!」
「はい、死んだ!」
「縁起悪い言い方しないで!」
「戦なら死んでるぞ」
「……それ言われたら何も返せない」
孫策が楽しそうに笑う。
少し離れたところでは、陸議が腕を組んだまま二人の稽古を見ていたが、やがて黙っていられなくなったらしい。
「孫将軍、勝手に型を変えないでください」
「実戦じゃ型通りにいかねえだろ」
「凌華はまだ型を覚えている途中です」
「じゃあ実戦覚えりゃ早え」
「基礎が先です」
「実戦だ!」
「基礎です」
二人が互いに譲る気配もなく睨み合い始めた。
その間に挟まれた凌華は、巻き込まれないうちに逃げようと、気配を消してそっと後ずさる。
『逃げんな』
「だって面倒くさい」
「凌華」
すぐに陸議から呼ばれた。
「……はい」
「もう一度」
「逃げられなかった……」
凌華が肩を落とすと、孫策が声を上げて笑った。
「陸議の方が怖えな!」
「あなたが余計なことをするからです」
「じゃあ俺が教える!」
「結構です」
「娘だぞ! 俺の娘だ!」
「だから何です? 剣術の技量とは関係ありません」
「固えなあ!」
「師弟ごっこに巻き込まないでください!」
たまらず凌華が叫ぶと、今度は腰から不満そうな声が飛んできた。
『ごっこって言うな』
「あなたまで参加しないで!」
「だから誰と話してんだ、お前は!」
生きている孫策と剣の孫策。
そのうえ陸議まで加わると、本当にややこしい。
けれど、凌華はそんな時間を嫌いではなかった。
***
むしろ、自分でも驚くほど楽しかった。
孫策がいて、周瑜がいて、呂蒙がいて、陸議がいる。
現代では史書や資料の中でしか知ることのできなかった人たちが、今は凌華のすぐそばにいる。
くだらないことで笑い、意見が合わなければ言い合い、食事をし、疲れれば休み、明日のことを話している。
彼らは「歴史上の人物」ではない。
一人一人が感情を持ち、今この瞬間を生きている人間なのだ。
それを知れば知るほど、凌華の中では別の感情も大きくなっていった。
怖かった。
この時間が、いつか終わることを知っているからだ。
特に孫策を見るたび、その恐怖は強くなる。
今はこんなにも元気に笑い、周囲を振り回しながら生きている。
けれど凌華は知っている。
自分が学んだ歴史の中で、孫策は長く生きない。
いつか、その時が来る。
分かっているからこそ、今が楽しくなればなるほど、その先に待つものを考えるのが怖くなっていた。
***
ある日の夕方、凌華は周瑜に呼び止められた。
「凌華」
「はい?」
「孫策を見ませんでしたか?」
「さっきまで兵の人たちと話してたけど……」
「そうですか」
答えた周瑜の表情が、いつもよりわずかに険しい。
それに気づいた凌華は、自然と彼の顔を見つめた。
「何かあったんですか?」
「……少し」
たったそれだけの返事だった。
けれど、その言い方が妙に引っかかった。
「何?」
周瑜はすぐには答えず、少し考えてから凌華を見た。
「凌華。孫策から聞いたのですが、あなたは時々、まだ起きていない出来事を知っているようなことを言うそうですね」
心臓を掴まれたような感覚がした。
「…………」
孫策から聞いた。
つまり、あの人が周瑜に話したのだ。
『若い俺、口軽いな』
「あなたも人のこと言えないでしょ」
反射的に長剣へ返してしまってから、凌華は周瑜が怪訝そうにこちらを見ていることに気づいた。
「……何でもないです」
慌てて誤魔化したものの、周瑜の表情は変わらない。
以前なら適当な言い訳で流せたかもしれないが、今はもう難しいのだろう。
「少し尋ねたいことがあります」
「……はい」
周瑜は凌華の表情を確かめるように見つめた。
「許貢という男を知っていますか?」
その名前を聞いた瞬間、凌華の呼吸が止まった。
「…………え」
身体が動かない。
周囲の音が急に遠ざかったように感じた。
許貢。
その名前を、凌華は知っている。
そして、それが孫策にとって何を意味する名前なのかも。
凌華の反応を見た周瑜の目がわずかに変わった。
「知っているのですね」
しまったと思ったときには、もう遅かった。
「……どうして」
喉が乾き、声が掠れる。
「どうして、その名前を?」
周瑜は答えず、逆に凌華へ問い返した。
「あなたこそ、なぜ知っているのです?」
凌華の頭の中に、卒業論文のために調べた歴史が一気に蘇った。
許貢は孫策と対立し、やがて孫策によって殺される。
そして許貢の死後、その食客たちが孫策を襲う。
それが、凌華の知る孫策の最期へとつながっていく。
そこまで思い出した瞬間、指先から急速に体温が失われていくような感覚に襲われた。
「……今、何年……?」
「凌華?」
「お願い」
凌華は縋るように周瑜を見た。
「許貢は……まだ生きてる?」
周瑜は一瞬黙ったあと、静かに答えた。
「ええ」
その一言で、凌華の顔から血の気が引いた。
***
「孫策は!?」
凌華は走り出した。
「凌華!」
背後から周瑜に呼ばれたが、止まることができなかった。
声は聞こえている。
けれど、それ以上に許貢という名前が頭から離れなかった。
「孫策!」
どこにいる。
今すぐ会わなければならない。
『落ち着け!』
剣の孫策が叫ぶ。
「無理!」
『まだ何も起きてねえ!』
「でも、許貢の名前が出た!」
その名前が周瑜の口から出たということは、凌華が知る歴史が、もうそこまで近づいているのかもしれない。
昨日まで、まだ時間はあると思っていた。
孫策の最期は知っていても、それが今すぐ迫っているとは思っていなかった。
けれど、もし許貢との対立がすでに始まっているのなら。
もし自分が知らない間に、歴史があの出来事へ向かって進んでいるのなら。
考えれば考えるほど、恐怖が込み上げた。
凌華は近くにいた兵を捕まえ、息を切らしながら尋ねる。
「孫策は!?」
「そ、孫策様なら――」
教えられた場所へ向かって、再び走った。
建物の奥まで駆け込み、ようやく探していた姿を見つける。
「孫策!」
声に反応して男が振り返った。
「お?」
いた。
何事もなかったように、いつもの孫策がそこにいる。
「凌華?」
その姿を見た途端、張り詰めていたものが切れた。
凌華は勢いを止められないまま駆け寄り、そのまま孫策の胸へぶつかった。
「うおっ!? 何だ!?」
孫策が咄嗟に凌華の身体を受け止める。
「…………」
触れた身体は温かかった。
ちゃんと生きている。
「凌華?」
「……良かった」
「何が?」
「いた……」
「いるだろ」
呆れたような声だった。
けれど、孫策はすぐに凌華の手が震えていることに気づいた。
「おい、何があった」
凌華は顔を上げた。
「許貢」
その名前を聞いた瞬間、孫策の表情が変わった。
「……どこでその名を聞いた?」
「知ってた」
「は?」
「私、知ってたの」
孫策の目が細くなる。
「何を」
凌華は答えられなかった。
ここで言えば、間違いなく何かが変わる。
孫策が許貢を殺し、その食客たちに襲われること。
その傷が原因となって、孫策が死ぬこと。
それを知っていると伝えれば、目の前の孫策はこれまでと同じ選択をしなくなるかもしれない。
「凌華」
孫策の声が低くなった。
「何を知ってる」
凌華は震える手を強く握った。
怖い。
未来を変えれば、その先に何が起きるのか分からなくなる。
それでも、自分は何のためにこの時代で生きると決めたのか。
知っている未来をただ眺めるためではない。
変えられるものがあるのなら、変えたい。
凌華は一度息を吸い、孫策を見た。
「許貢を殺さないで」
孫策の動きが止まった。
『凌華』
剣の孫策が低く名前を呼ぶ。
それでも凌華は止まらなかった。
「お願い。許貢を殺したら、あなたが死ぬ」
辺りが静まり返った。
孫策の顔から、それまで浮かんでいた表情が消えた。
***
「凌華。今の、どういう意味だ」
孫策の低い声が響いた。
「……私は、あなたの未来を知ってる」
「何だと?」
「全部じゃない。でも、大きな出来事は……知ってる」
孫策は何も言わない。
そのとき、後を追ってきた周瑜と、何事かと陸議が姿を現した。
「凌華!」
「孫策!」
二人とも、その場に漂う張り詰めた空気を感じ取ったのか、すぐに足を止めた。
孫策は凌華から目を逸らさない。
「続けろ。俺が死ぬって?」
凌華の目に涙が浮かんだ。
「……うん」
その一言に、陸議と周瑜の表情も変わる。
「いつだ」
「正確な日は分からない」
「どうやって」
凌華は唇を噛んだ。
口にしたくない。
けれど、ここで黙れば何も変えられない。
「許貢の食客に襲われる。それで怪我をして……死ぬ」
誰も言葉を発しなかった。
とうとう話してしまった。
凌華が知っている、まだ起きていない未来を。
***
最初に沈黙を破ったのは孫策だった。
「……ハッ」
凌華が顔を上げる。
「孫策?」
「俺が暗殺? しかも許貢の食客に?」
孫策が笑い出したため、凌華は思わず声を荒らげた。
「笑い事じゃない!」
「だってよ。いきなり娘に『お前死ぬぞ』って言われりゃな」
「私は本気!」
「分かってる」
その瞬間、孫策の笑みが消えた。
声の調子が変わっただけで、辺りの空気まで変わったように感じられる。
「だから聞いてる。なぜお前が知ってる」
とうとう来た。
陸議も周瑜も、黙って凌華を見ている。
ここまで話してしまった以上、もう以前のように誤魔化すことはできない。
「私…」
凌華は震える手を握りしめた。
「私は、この時代の人間じゃない」
誰も動かなかった。
孫策がわずかに眉を寄せる。
「……何?」
「私は、ここから千八百年以上先の時代から来た」
言葉にしても、自分でさえ信じられないような話だった。
それでも凌華は、一人一人の顔を見ながら続けた。
「私のいた時代では、あなたも周瑜さんも、呂蒙さんも、陸議さんも……みんな歴史上の人物なの」
***
最初に反応したのは周瑜だった。
「……なるほど」
凌華は驚いて彼を見る。
「信じるんですか?」
「まだ判断していません。ですが、これまでのあなたの言動には説明がつきます」
その言葉を聞いて、凌華は陸議へ視線を移した。
彼は何も言わず、ただ凌華を見ている。
「陸議さん……ごめんなさい」
「何がです?」
「ずっと隠してた。陸遜って呼んでたのも……」
そこで陸議が静かに尋ねた。
「未来の名前ですか?」
凌華の目が見開かれる。
「……たぶん」
「たぶん?」
「私の時代に残っている記録では、あなたは陸遜って名前だから」
陸議は少し考えるように黙ったあと、静かに頷いた。
「そうですか」
あまりに淡々とした反応に、凌華の方が戸惑った。
「怒らないの?」
「今は、他に確認すべきことがあります」
やはり冷静だ。
そのとき孫策が凌華を呼んだ。
「凌華。じゃあ俺が死んだ後、誰が継ぐ」
一瞬、胸が苦しくなる。
それでも答えた。
「……孫権」
「権が?」
「うん」
孫策はしばらく黙り込み、それから次の問いを口にした。
「公瑾は?」
凌華は答えに詰まった。
その反応だけで、周瑜には伝わってしまったらしい。
「……私も死ぬのですね」
「やめて」
「違うのですか?」
「違わないけど……でも、みんないつかは死ぬよ。そういう話をしたいんじゃない」
堪えていた涙が頬を伝った。
凌華は孫策を見る。
「私は、あなたを死なせたくないから言ったの。歴史が変わってもいい。怖いけど、それでも生きてほしい」
孫策は長い間、何も言わず凌華を見ていた。
やがて大きな手が伸び、凌華の頭に置かれる。
「分かった」
「……え?」
「許貢の件だ。お前の話を無視はしねえ」
凌華の目が揺れた。
「本当に? じゃあ殺さない?」
「そこは別だ」
「孫策!」
「聞け」
頭を軽く叩かれ、凌華は口を閉じた。
「お前の知ってる歴史では、俺が許貢を殺した。そのあと、許貢の食客に襲われるんだな?」
「……うん」
「なら、同じ道を選ばなきゃいい」
凌華は目を瞬いた。
「……変えるの?」
「お前が変えたいんだろ?」
「でも……」
孫策は、いつものように不敵に笑った。
「面白えじゃねえか。未来に喧嘩売るの」
凌華の腰にある長剣からは、何も聞こえなかった。
***
その夜、凌華はなかなか眠ることができなかった。
布団に入っても今日の出来事ばかりが頭に浮かび、結局身体を起こして長剣を見つめる。
「……言っちゃった」
『ああ』
「全部じゃないけど」
『十分だ』
凌華は少し迷ってから尋ねた。
「怒ってる?」
『俺が? 何で』
「あなた、止めたかったでしょ」
『……まあな』
「なのに私、言った。これで歴史が変わるよ」
孫策はすぐには答えなかった。
「……怖い?」
しばらく沈黙が続いたあと、低い声が返ってきた。
『怖えよ』
凌華は少し驚いた。
「あなたも?」
『当たり前だろ』
剣の孫策にも、怖いという感情がある。
当然なのかもしれないのに、凌華はどこか意外に感じていた。
『俺は、この先何が起きるか知ってる。少なくとも……一度は』
凌華の心臓が大きく鳴った。
まただ。
時々、この孫策は自分には分からない言い方をする。
「……一度?」
『忘れろ』
「無理」
『いいから』
「孫策」
『今は言えねえ』
「どうして?」
少し間を置いて、孫策が答えた。
『お前が未来を変えるなら、俺の知ってる未来も、もう当てにならなくなる』
凌華は黙った。
自分が知っている歴史も、剣の孫策が知っている何かも、これからは少しずつ役に立たなくなっていくのかもしれない。
それは怖い。
何が起きるか分からない世界へ、自分から足を踏み入れることになる。
『だから、ここから先はお前も俺も知らねえ』
凌華はしばらく考えていたが、やがてほんの少し笑った。
「……それでいいかも」
『あ?』
「だって、それが未来でしょ?」
孫策はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
『……言うようになったな』
***
同じ頃、別の場所では周瑜が孫策と向かい合っていた。
「信じるのか。凌華の話を」
「全部は分からん。でも、嘘ついてる顔じゃなかった」
「それだけで?」
「それで十分だ」
周瑜は呆れたように息を吐いた。
「相変わらずですね」
「何が」
「勘で大事なことを決める」
「当たるからな!」
「外したこともあるでしょう」
「忘れた!」
周瑜は思わず笑った。
けれど、やがてその表情を改める。
「許貢の件は、どうします?」
孫策の顔からも笑みが消えた。
「殺さない」
周瑜の目がわずかに見開かれる。
「本気ですか?」
「少なくとも、凌華が知ってる道は選ばねえ」
孫策は少し考えてから、にっと笑った。
「あいつが未来変えるって言うなら、親父が先にやってやらねえとな」
周瑜は目を細めた。
「……随分、父親らしくなりましたね」
「だろ?」
「三歳差ですが」
「そこはもういい!」
***
その頃、陸議は一人で夜空を見上げていた。
凌華から聞かされた話が、まだ頭から離れない。
彼女は千八百年以上先の時代から来たという。
自分たちは、その時代では歴史上の人物として知られている。
そして、自分には「陸遜」という名が残されている。
何より、凌華は孫策がどのように死ぬのかを知っていた。
ならば当然、自分の未来についても知っているのだろう。
その事実を考えれば、怖くないはずがない。
知りたいという気持ちもある。
けれど一度知ってしまえば、その未来を意識せずに生きることはできなくなる。
陸議が静かに目を閉じていると、背後から声が聞こえた。
「陸議さん」
振り返ると、凌華が立っていた。
「眠れないのですか?」
「そっちも?」
「ええ」
凌華は少し迷ったあと、陸議の隣へ並んだ。
しばらく二人で夜空を眺めていたが、やがて凌華が静かに尋ねる。
「……聞きたい? あなたの未来」
陸議はすぐには答えなかった。
凌華を見つめ、しばらく考えたあと、ゆっくりと首を振る。
「今は聞きません」
凌華の目が少し見開かれた。
「……いいの? 怖くない?」
「怖いです。ですが、あなたが言ったでしょう。未来を知れば、選ぶものを変えてしまうかもしれない、と」
凌華は黙った。
確かに自分が言ったことだった。
「私は、まだ自分で選びたい」
静かではあるが、迷いのない言葉だった。
凌華はその横顔を見つめたあと、小さく頷いた。
「……うん」
「だから、必要になるまでは言わないでください」
「分かった」
凌華は約束した。
けれど心の中では、一つだけ強く思っていた。
陸議が自分自身で未来を選びたいというのなら、今は何も言わない。
それでも、凌華が知っているあの結末だけは、そのまま迎えさせたくない。
いつかその時が近づいたなら、この人の未来だけは必ず変える。
その決意だけは、誰にも告げず胸の中に残した。
***
この日、凌華が未来を明かしたことで、彼女が知っている歴史は初めて大きく揺れ始めた。
許貢。
凌華の知る歴史では、その死が孫策の最期へとつながっていく。
けれど今、孫策はその未来を知り、これまでとは違う選択をしようとしている。
一つの出来事を変えれば、その先に続いていた出来事も変わるかもしれない。
これから何が起こるのかは、もう凌華にも分からない。
それでも彼女は、孫策に生きてほしいと願い、自分の知る未来とは違う道を選んだ。
その選択が何をもたらすのか。
このときの凌華は、まだ知らなかった。
――第十三話・了




