第十四話 追いつく運命
許貢を殺さない。
その決定が下されてから、凌華はようやく少しだけ安心することができていた。
本当に、ほんの少しだけだった。
***
「で? これで俺は死なねえんだな?」
腕を組んだ孫策に尋ねられ、凌華はすぐには頷けなかった。
「……たぶん」
「たぶん?」
「だって私が知ってる歴史では、許貢を殺した後、その食客に襲われるんだもん」
「なら殺してねえんだから大丈夫だろ!」
「そう簡単かなあ……」
「何だよ」
凌華は眉を寄せた。
自分で未来を変えようと決めたはずなのに、いざ本当に歴史とは違う選択をすると、今度は別の不安が生まれてくる。
「歴史って、そんな単純なのかなって」
『やっと気づいたか』
腰の長剣から聞こえた声に、凌華は視線を落とした。
「どういう意味?」
『一個変えたからって、全部思い通りになるとは限らねえ』
「縁起悪いこと言わないで」
『事実だ』
目の前にいる孫策が、不思議そうに凌華を見る。
「また独り言か?」
「うん」
「最近もう隠す気ねえな」
「疲れた」
「ハハハ!」
いつものように豪快な笑い声が響く。
その姿を見ているだけで、凌華は少し安心できた。
目の前の孫策は笑っている。
そして、ちゃんと生きている。
許貢は拘束されたものの、処刑はされないことになった。周瑜たちは彼の周辺を改めて調べ、孫策に敵意を持つ者たちへの警戒も強めている。護衛の数も以前より増えた。
少なくとも、凌華が知っている歴史と同じ形では進まない。
自分は未来を変えられた。
今は、そう信じたかった。
***
数日後、凌華はいつものように陸議と稽古をしていた。
「集中してください」
「してる!」
「していません」
「してるって!」
次の瞬間、乾いた音とともに右手の短剣が弾かれた。
凌華の手を離れた短剣が地面へ落ちる。
「ほら」
「……くっ」
『考え事してる奴の動きだな』
「あなたまで!」
陸議は木剣を下ろすと、呆れたように凌華を見た。
「孫将軍のことですか?」
凌華は一瞬動きを止めた。
「……分かる?」
「分かります」
「顔に出てる?」
「かなり」
「そんなに?」
「かなり」
わざわざ二回言われ、凌華は諦めたようにその場へ座り込んだ。
「だって……」
陸議も少し間を空けて隣へ腰を下ろす。
「許貢を処刑しないことにはなりましたし、警戒も強めています。それでも不安ですか?」
「……うん」
「未来を知っているというのも、大変ですね」
「嫌味?」
「半分ほど」
「半分もあるの!?」
思わず笑ってしまった。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
凌華は膝を抱えながら、ぽつりと口を開く。
「私ね、未来を知ってれば、もっと簡単だと思ってた」
「何がです?」
「人を助けること」
陸議は何も言わず、凌華の続きを待った。
「だって答えを知ってるんだよ? ここでこうなる、この人が死ぬ、この戦は勝つって。それなら、悪いことだけ避ければいいんだって思ってた」
口にしてみれば、あまりにも単純な考えだった。
未来を知っているのだから、失敗する場所を避ければいい。
死ぬ人がいるのなら、その原因を取り除けばいい。
それだけで未来を変えられると思っていた。
「でも、実際は何も分かんない」
許貢を殺さなければ、本当に孫策は生きるのか。
もし孫策が生き続けたら、その先の孫権はどうなるのか。
周瑜は。
赤壁は。
そして、陸議は。
一つ変えただけで、その先に知っているはずの歴史がいくつも枝分かれしていく。
「私の知ってる歴史って、もう少しずつ役に立たなくなるんだね」
凌華が寂しそうに笑うと、陸議は静かに答えた。
「それが望みだったのでは?」
「……うん」
「なら、喜ぶべきでしょう」
「簡単に言うなあ」
「簡単ではありません。ただ、知らない未来を生きるのは、本来は普通のことです」
その言葉に、凌華は少し黙った。
未来から来た自分にとって、この時代の先を知っていることが、いつの間にか当たり前になっていた。
「……そっか。私、未来を知ってるのが普通になりすぎてたのかも」
「羨ましいとは思いませんが」
「なんで?」
「自分の死ぬ時期まで知られているかもしれないのでしょう?」
心臓が跳ねた。
思わず陸議を見る。
その反応だけで、彼には十分だったらしい。
「知っているのですね」
「言わない約束」
「ええ」
「だから聞かないで」
「聞いていません」
「顔が聞いてる」
「そんな顔はしていません」
「してる」
しばらく見つめ合ったあと、どちらからともなく小さく笑った。
***
その日の午後、孫策は突然、狩りへ出ると言い出した。
「は?」
凌華の表情が固まる。
「狩り?」
「おう!」
「ダメ」
「何でだよ」
「ダメ!」
「理由は?」
その問いを聞いた瞬間、凌華の頭に自分が知る歴史が浮かんだ。
孫策が襲撃を受けたのは、狩猟中だったとされている。
「……狩りはダメ」
先ほどまで軽かった孫策の表情が変わった。
「凌華」
「お願い」
孫策は凌華の顔を見つめたあと、すぐに察したらしい。
「襲われるのは、狩りの時か?」
凌華は答えられなかった。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
「そうか」
「だから行かないで」
その場にいた周瑜も孫策を見る。
「孫策」
「分かってる」
孫策は少し考えたあと、あっさりと言った。
「なら中止だ」
凌華は目を見開いた。
「……本当に?」
「お前がそこまで言うならな」
身体から力が抜けた。
孫策の大きな手が、凌華の頭を軽く叩く。
「心配性だな、娘」
「誰のせい」
「俺?」
「あなた」
「ハハハ!」
狩りも止められた。
許貢も殺さない。
これでまた一つ、自分の知る歴史から離れた。
だから大丈夫。
今度こそ、きっと大丈夫だ。
凌華はそう思おうとした。
***
夕方になり、孫策は狩りへ出る代わりに、近くにいる部隊の様子を見に行くことになった。
護衛もつく。
陸議と呂蒙も同行する。
凌華も当然のようについていくことにした。
「お前も来んのか?」
「行く」
「即答だな」
「一人にしたくない」
「俺、子どもか?」
「私の父親設定なんでしょ」
「そうだった!」
「忘れてたの!?」
『忘れんな馬鹿』
「あなたも言わないで!」
一行から笑い声が上がった。
穏やかな空気だった。
凌華も、つられて笑っていた。
少なくとも、その瞬間までは。
***
一行が進む道は、林の脇を通っていた。
日が傾き始め、木々の間から差し込む夕暮れの光が道を細長く照らしている。風が枝葉を揺らし、その音に馬の蹄が地面を叩く規則的な響きが重なっていた。
凌華は馬を進めながら、なぜか胸の奥が落ち着かないことに気づいた。
理由は分からない。
ただ、先ほどまで感じていた安心が、少しずつ消えていく。
『どうした』
剣の孫策が尋ねた。
「分かんない」
『何が』
「なんか……嫌な感じがする」
凌華は前方を見た。
少し先を進む孫策の背中が見える。
歴史とは違う。
今日は狩りではない。
許貢も生きている。
襲撃につながるはずだった道は、すでに避けた。
そう自分へ言い聞かせても、胸騒ぎは消えてくれなかった。
「孫策」
思わず名前を呼ぶ。
生きている孫策が振り返った。
「ん?」
その瞬間だった。
『伏せろ!!』
剣の孫策が叫んだ。
「――っ!」
考えるより先に身体が動いた。
「孫策!」
凌華が馬を蹴る。
ほぼ同時に、林の中から一本の矢が飛んできた。
孫策も気づき、咄嗟に身体を捻る。
矢は肩を掠め、そのまま後方へ飛んでいった。
「敵襲!!」
陸議の声が響く。
直後、林の中から次々と矢が放たれた。
「伏せろ! 盾を出せ! 林の中だ!」
先ほどまで穏やかだった道が、一瞬にして戦場へ変わった。
「何で……」
凌華の頭が真っ白になる。
「何で!?」
狩りではない。
許貢を殺してもいない。
自分が知っている原因は、全部避けたはずだった。
『凌華! 動け!』
剣の孫策の声に、凌華は我に返った。
「分かってる!」
二振りの短剣を抜く。
林の中から顔を隠した者たちが次々と飛び出してきた。
「孫策を守れ!」
呂蒙が叫ぶ。
陸議もすぐに凌華の近くまで来た。
「凌華! 孫将軍の側を離れないでください!」
「うん!」
孫策はすでに剣を抜いている。
「面白え!」
「面白くない!」
「来るぞ!」
襲ってきた人数は十数人ほどだった。
決して多くはない。
けれど、誰を狙っているのかだけは明らかだった。
「孫策を殺せ!」
その声を聞いた瞬間、凌華の背中に冷たいものが走った。
自分が避けたはずの未来が、別の姿をして目の前に現れたような気がした。
***
「右!」
凌華が叫ぶ。
孫策が即座に反応して剣を振るい、迫ってきた男を倒す。
「後ろ!」
別の敵は呂蒙が受け止めた。
「陸議さん!」
「分かっています!」
敵と味方が入り乱れ、飛んでくる矢と武器のぶつかる音が絶え間なく響く。
凌華も目の前の刃を短剣で受け、力を外へ流しながら身体を捻った。
相手の手首を狙い、体勢を崩したところで足を払う。
できるだけ殺したくない。
けれど、戦場ではそんなことを考えている余裕がほとんどなかった。
「凌華!」
孫策の声に振り返った瞬間、背後から敵が迫っていることに気づいた。
「――!」
間に合わない。
そう思ったときには、孫策が凌華との間へ割り込んでいた。
激しい音とともに剣同士がぶつかる。
「ぼさっとすんな!」
「ごめん!」
「戦場で謝んな!」
その言葉を聞いた瞬間、以前にも呂蒙から同じことを言われたのを思い出した。
凌華はすぐに体勢を立て直す。
そのとき、剣の孫策が低い声を漏らした。
『――違う』
「何?」
『こいつら、俺の知ってる奴らじゃねえ』
凌華の動きが一瞬止まった。
「え?」
『違う』
「どういうこと?」
しばらく返事がない。
やがて孫策が、言葉を選ぶように続けた。
『前は……こんな襲われ方じゃなかった』
胸の奥が大きく沈んだ。
まただ。
剣の孫策は、明らかに凌華の知らない何かを知っている。
けれど今は、それを問い詰めている場合ではない。
何より、その言葉が意味することの方が恐ろしかった。
歴史は確かに変わっている。
それなのに、孫策が襲われるという結果だけが、形を変えて再び目の前に現れている。
「……嘘」
そのとき、少し離れた場所に弓を構える男が見えた。
狙いの先には孫策がいる。
「――孫策!」
凌華は走った。
矢が放たれる。
「やめて!」
孫策が振り向く。
間に合わない。
凌華は全力で孫策の身体を突き飛ばした。
直後、左腕に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
矢が腕を掠め、皮膚を裂いている。
「凌華!」
孫策が叫ぶ。
「大丈夫……!」
傷は浅い。
自分は大丈夫だ。
そう思った直後、別の方向から二本目の矢が飛んできた。
「孫策!」
今度は孫策自身が避けた。
しかし、その動きを狙っていたかのように一人の敵が懐へ飛び込む。
振り下ろされた剣を孫策が受け止める。
さらに一人。
そして、もう一人。
それでも孫策は強かった。
複数を相手にしているとは思えないほどの動きで、次々と敵を押し返していく。
だからこそ、ほんの一瞬だけ死角が生まれた。
「後ろ!!」
凌華が叫ぶ。
孫策が振り返る。
けれど、わずかに遅かった。
敵の刃が脇腹へ入る。
鈍い音がした。
孫策の身体が大きく揺れた。
「……孫策?」
一瞬、周囲の音が遠ざかったように感じた。
孫策は反射的に相手を斬り伏せ、まだ立っている。
けれど、その脇腹から衣を染めるように赤い血が広がっていく。
「……嘘」
『凌華!』
剣の孫策の声が聞こえた。
その声は、凌華が初めて聞くほど明確に震えていた。
「孫策!」
凌華が駆け寄った直後、生きている孫策の身体が崩れ、地面に膝をついた。
「孫策!!」
***
そこから先のことを、凌華はほとんど覚えていなかった。
襲撃者たちは呂蒙たちによって制圧され、陸議が周囲へ次々と指示を出している。
周瑜が孫策の傷を確認すると、すぐに声を上げた。
「止血を! 馬を用意してください、急いで!」
周囲が慌ただしく動く中、凌華は孫策のそばから離れられず、その手を強く握っていた。
「ねえ……」
「……騒ぐな」
「血が……」
「見りゃ分かる」
「こんなの……知らない」
息がうまくできない。
「こんなの、私の知ってる歴史じゃない。今日、こんなことが起きるなんて知らない……」
怖かった。
知っている未来より、知らない未来の方がずっと怖い。
「凌華」
「嫌」
「まだ何も言ってねえ」
「嫌!」
孫策が苦しそうに、それでも少し笑った。
「死なねえよ」
「……ほんと?」
「たぶんな」
「たぶんって言わないで!」
「お前も言ってただろ」
「今それ言う!?」
孫策が笑おうとした瞬間、傷が痛んだのか表情が歪んだ。
「孫策!」
「大丈夫だ」
全然、大丈夫には見えない。
「傷は深いです」
周瑜の声は冷静だった。
けれど、その顔からは血の気が引いている。
「すぐ戻ります」
「うん……」
凌華は孫策の手を離せなかった。
そのとき、長剣の中から小さな声が聞こえた。
『……違う』
「何が?」
『こんなの……俺は知らねえ』
凌華の背筋が冷たくなる。
『俺の時は、こんなこと起きなかった』
凌華は長剣を見つめた。
「じゃあ……変えたから?」
返事はない。
「私が許貢のことを言って、歴史を変えたから、別の形で孫策が……」
その先を言葉にすることができなかった。
『凌華』
「私のせい?」
『違う』
即答だった。
「でも――」
『違う』
今度はさらに強い声が返ってくる。
『お前のせいじゃねえ』
「じゃあ何なの!」
思わず声を荒らげたため、周囲の人間が一瞬凌華を見る。
けれど、もう気にしていられなかった。
「何で!? ちゃんと避けたじゃん! 許貢も、狩りも、全部避けたのに、何で孫策が傷つくの!?」
剣の孫策は答えなかった。
そして、その問いに答えられる者は、どこにもいなかった。
***
夜になっても、孫策の治療は続いていた。
刃は深く入っていたものの、幸い急所からは外れていた。
「……本当に?」
凌華が何度目か分からない質問をすると、医師は静かに頷いた。
「今夜を越えれば、望みはあります」
望みがある。
けれど、絶対ではない。
その違いが怖かった。
凌華は部屋の外で膝を抱えていた。
手はすでに洗っている。
孫策の血など、もうどこにもついていない。
それなのに、指先にも手のひらにも、まだ生温かい血の感触が残っているような気がした。
「……私が」
『やめろ』
「だって……」
『やめろっつってんだろ』
剣の孫策が珍しく強い口調で遮った。
『お前が何もしなかったら、もっと早く死んでたかもしれねえ』
凌華は黙った。
『最初の矢に気づいたのはお前だ。二本目だって、お前があいつを押した。最後の傷だって、あれが急所じゃなかったのは、お前が叫んだからあいつが振り向いたせいかもしれねえ』
剣の孫策の声も、わずかに揺れていた。
『変えたんだよ、ちゃんと』
凌華の目から涙が落ちた。
「でも……」
『全部は変えられなかった。それだけだ』
少し冷たい言い方なのに、不思議と優しかった。
「歴史って、意地悪だね」
『ああ』
「どうしても孫策を殺したいみたい」
剣の孫策は答えなかった。
凌華は長剣を抱きしめる。
「もし、どうやっても死ぬなら……私、何のために来たの」
『凌華』
「未来変えるって言って、結局何も――」
「それは違います」
不意に別の声が聞こえた。
凌華が顔を上げる。
「……陸議さん」
陸議は凌華のそばまで来ると、静かに隣へ腰を下ろした。
「何も変えていないわけではありません」
「でも、孫策が……」
「まだ生きています」
凌華の言葉が止まった。
陸議は落ち着いた声で尋ねる。
「あなたが知る歴史では、今日のような出来事はありましたか?」
「……ない」
「では、もう変わっています」
凌華は何も言えなかった。
「結果が同じになるかもしれませんし、違うかもしれません。今はまだ、誰にも分かりません」
陸議は凌華を見る。
「ですが、まだ終わっていないでしょう」
胸が痛んだ。
「……うん」
「なら、終わる前から諦めないでください」
少し厳しい。
けれど今の凌華には、その言葉が必要だった。
「……ずるい」
「何がです?」
「そういうこと言われたら、立つしかないじゃん」
「立てるなら、その方がいいでしょう」
「鬼」
「知っています」
初めて陸議が自分で認めた。
凌華は涙を拭いながら、少しだけ笑った。
***
深夜。
孫策の意識が戻った。
「……凌華」
その声を聞いた瞬間、凌華は椅子から立ち上がり、すぐにそばへ駆け寄った。
「孫策」
「うるせえ顔してんな」
「何その言い方」
「泣きすぎ」
「誰のせい!」
「俺?」
「あなた以外いない!」
孫策が弱々しく笑った。
その笑顔を見ただけで、また涙が溢れてくる。
生きている。
「……良かった」
「また泣いてんぞ」
「死なないで」
「まだ死なねえよ」
「約束して」
孫策が少し黙った。
「……難しい約束だな」
「して」
「凌華」
「してよ」
子どもみたいだと自分でも思う。
それでも、止められなかった。
孫策はしばらく凌華を見つめたあと、ゆっくりと手を伸ばして頭に触れた。
「分かった。できるだけな」
「絶対」
「無茶言うな」
「親なんでしょ」
その言葉に、孫策が少し目を見開いた。
「……今、俺のこと親って言った?」
「そこ拾わなくていい!」
「ハハ……っ、いてえ」
「笑わないで!」
苦しそうなのに、なぜか嬉しそうだった。
「いや……悪くねえな」
凌華は結局、また泣いた。
***
その夜、剣の孫策は一人、考えていた。
目の前で、若い自分が本来とは違う傷を負った。
許貢を殺さず、狩りにも出なかった。
それでも襲撃は起きた。
『……やっぱり』
何かが胸の奥に引っかかる。
まるで歴史そのものが、形を変えながら同じ場所へ向かおうとしているようだった。
けれど、一つだけ明確に違うことがある。
『生きてる』
若い自分は、まだ生きている。
少なくとも、剣の孫策が知っているものとは違う。
それだけでも、凌華が動いたことで何かが変わったのは確かだった。
そしてもう一つ。
今日の襲撃そのものを、剣の孫策は知らない。
つまりここから先は、自分の記憶を頼りにすることもできなくなる。
剣の孫策は、静かに凌華の名前を呼んだ。
『凌華』
もちろん返事はない。
凌華は生きている孫策のそばで、その手を握ったまま眠っている。
『お前、やっぱすげえよ』
未来を知っているからではない。
知っていたはずの未来を、自分にも分からないものへ変えてしまったからだ。
***
孫策は、その夜を越えた。
凌華が知る歴史では辿るはずだった死の道から、少なくとも今は外れている。
それは、未来を変えようとした凌華の行動が無駄ではなかったことを示していた。
けれど同時に、凌華は一つのことを思い知らされることになった。
未来を変えるということは、より正しい答えを知ることではない。
これまで自分が持っていた答えを、自ら手放すことでもある。
これから先、歴史がどこへ向かうのかは凌華にも分からない。
孫策がどうなるのか。
周瑜はどうなるのか。
そして陸議を含め、ここにいる人たちがどんな未来を歩むことになるのか。
知っている歴史を頼りにするだけでは、もう答えに辿り着けないかもしれない。
それでも凌華は、自分が選んだことを後悔したくなかった。
誰かが死ぬ未来を知っていながら、歴史だからと何もしないことだけは選びたくない。
孫策が今も生きている。
その事実を胸に、凌華は初めて、自分自身も答えを知らない未来へ踏み出した。
――第十四話・了




