第十五話 知らない明日
孫策が目を覚ましてから、五日が経った。
あの夜を越えてからというもの、凌華は孫策が死ななかったという事実を、毎朝自分の目で確認するようになっていた。
***
「……いる」
寝台のそばに立った凌華が、今日も孫策をじっと見つめる。
「いるぞ」
「今日もいる」
「昨日もいたぞ」
「ちゃんと生きてる」
何度確かめても足りないらしい凌華に、孫策は寝台の上から呆れた顔を向けた。
「お前さ、毎朝それやんの?」
「やる」
「いつまで?」
「安心するまで」
「じゃあ一生じゃねえか」
「そうかも」
「重い娘だな!」
「誰のせい!」
孫策は声を上げて笑ったが、すぐに脇腹を押さえて顔をしかめた。
「いてて……」
「ほら! 笑わない!」
凌華がすぐさま睨むと、孫策は困ったように眉を寄せる。
「無茶言うな」
「傷が開いたらどうするの!」
「もうだいぶ塞がってるって」
「医者じゃないくせに!」
「自分の身体だぞ?」
「そういう人が一番信用できない」
『それは正しい』
寝台のそばに立てかけていた長剣から聞こえた声に、凌華は思わず頷いた。
「でしょ?」
「ん?」
生きている孫策が怪訝そうに凌華を見る。
「あ」
「またか」
「……独り言」
「その言い訳、陸議に禁止されてなかったか?」
「みんなそれ言う!」
孫策がまた笑おうとしたので、凌華はすぐに目を細めた。
その視線に気づいた孫策は、口を開きかけたまま動きを止める。
「…………」
「よろしい」
「お前、最近俺にだけ偉そうじゃねえ?」
「父親なんでしょ」
「お」
孫策の目がぱっと輝いた。
しまったと思ったときには遅かった。
「今また言ったな。もう一回言え」
「嫌」
「親父って」
「もっと嫌」
「何でだよ!」
『俺も嫌だ』
「あなたは黙って」
『なんでだよ!』
今度は生きている孫策が首を傾げた。
「今のは俺に言った?」
「あーもう!ややこしい!」
凌華は思わず頭を抱えた。
それでも、こんなふうに孫策と言い合えることが嬉しかった。
目の前にいる孫策も、剣の中にいる孫策も、いつもと変わらず凌華へ言葉を返してくれる。
あの夜、血を流して倒れた姿を思い出せば、こんな何気ない会話さえ、今は当たり前のものだとは思えなかった。
***
けれど、孫策が生きていることによって変わったのは、凌華の気持ちだけではなかった。
当然ながら、軍全体にも影響が出始めている。
凌華が知っている歴史では、孫策はこの頃に命を落とし、その後を弟の孫権が継ぐことになる。周瑜や張昭たちが若い孫権を支え、その先に凌華の知る呉の歴史が続いていく。
けれど今、孫策は生きている。
まだ療養中ではあるものの、命を落とすはずだった時を越え、少しずつ回復している。
そうなれば当然、孫権が兄の後を継ぐこともない。
「……本当に変わっちゃった」
凌華は廊下から庭を眺めながら、小さく呟いた。
『変えたかったんだろ』
「うん」
『じゃあいいじゃねえか』
「そうなんだけど……」
凌華は自分の手に視線を落とした。
「この後が分かんない」
『怖えか?』
「……うん」
自分が知っている歴史では、ここからいくつもの出来事がつながっていく。
赤壁は起きるのだろうか。
曹操はどう動くのか。
劉備は。
孫権は。
周瑜や呂蒙は。
そして――陸議は。
「私が知ってる流れだと、孫権が江東を継ぐことって、ものすごく大きいんだよね」
『ああ』
「それが起きなかったら、陸議さんは……」
その先を考えると、胸の奥がざわついた。
自分が知っている「陸遜」は、同じように生まれるのだろうか。
同じ場所へ辿り着くのだろうか。
『またあいつか』
「何」
『何でもねえよ』
「言い方が嫌」
『父親として心配してんだ』
「誰が父親よ」
『お前さっき若い俺には言ってただろ!』
「あなたは別!」
『同一人物だ!』
「もう分かんない!」
「何がです?」
突然背後から声をかけられ、凌華は肩を跳ねさせた。
「ひゃっ!」
勢いよく振り返ると、そこには陸議が立っていた。
「急に出てこないで!」
「普通に歩いてきました」
「気配消してたでしょ」
「消していません。あなたが一人で騒いでいただけです」
「う……」
何も言い返せない。
陸議はそんな凌華を見たあと、視線を彼女の腕へ移した。
「それより、傷は?」
「私?」
「腕です」
襲撃の際、矢が掠めた傷のことだ。
「あ、もう大丈夫」
凌華が袖を少し上げると、その下にはまだ布が巻かれている。
「痛みは?」
「ほとんどない」
「なら良いですが」
陸議は確かめるように包帯へ目を向けた。
ただそれだけの仕草なのに、なぜかいつもより距離が近く感じられ、凌華は無意識に息を止める。
『ほー』
「黙れ」
「何です?」
「あ……いや、何でもない」
最近、本当にこんなやり取りばかりしている気がした。
***
「ところで、少し歩きませんか」
陸議から突然そう言われ、凌華は目を瞬いた。
「え?」
「あなた、五日間ほとんど孫将軍の側を離れていないでしょう」
「……そう?」
「そうです」
「心配だから」
「分かります」
「じゃあいいじゃん」
「良くありません。あなたまで病人のようになっています」
「そこまで?」
「食事も減っていますし、寝不足でもあるでしょう」
図星だった。
「……ばれてる」
「顔を見れば分かります」
「また顔。私、そんなに分かりやすい?」
「かなり」
「また言った」
陸議の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「行きましょう」
「どこに?」
「外です」
凌華はすぐに孫策のいる部屋へ視線を向けた。
「孫策は?」
「周瑜殿がいます」
「でも……」
「凌華」
陸議の声が少し低くなった。
「あなたが見張っていなくても、孫将軍は突然消えません」
その言葉は、思っていた以上に深く胸へ刺さった。
「……そうだね」
頭では分かっている。
孫策はもう危険な状態を脱している。
自分が四六時中そばにいる必要などない。
それでも、目を離した瞬間にまた何かが起き、今度こそ死んでしまうような気がしていた。
あの日、目の前で血を流して崩れ落ちた姿が、まだ凌華の中から消えていない。
「……少しだけね」
「ええ」
凌華はようやく頷いた。
***
二人で外へ出ると、久しぶりに兵たちの声が遠くなる場所まで歩いた。
室内に籠もっている間には意識していなかった風が頬を撫で、凌華は思わず空を見上げる。
「……あ」
「何です?」
「空が広い」
陸議が怪訝そうに凌華を見る。
「今さら?」
「違うって。最近ずっと室内だったから」
「自分から籠もっていたのでしょう」
「正論やめて」
「事実です」
相変わらず容赦がない。
けれど、そんな陸議の変わらなさに、凌華は少しだけ安心した。
しばらく隣を歩いてから、凌華は彼の横顔を見る。
「ねえ、怖くない?」
「何がです?」
「未来が変わったこと」
陸議は少し考えてから答えた。
「変わったと判断できるほど、私は未来を知りません」
「あ……」
言われてみれば、その通りだった。
凌華にとっては「本来起きるはずだったこと」が起きなかったという大事件でも、陸議たちにとっては、今起きていることこそが唯一の現実なのだ。
「凌華にとっては大きな変化なのでしょうが、私たちにとって、明日が分からないのは昨日までと同じです」
凌華は黙ってその言葉を聞いた。
以前にも似たことを言われた。
未来を知っている自分だけが、明日を知っている状態に慣れすぎていたのだ。
「でも、私が知ってる歴史だと、孫策はもう……」
どうしても「死んでいる」と続けることができなかった。
すると陸議が、凌華の代わりに静かに言った。
「孫将軍は生きています」
「……うん」
「なら、まずそれを喜んでもいいのでは?」
凌華は足を止めた。
「……いいのかな」
「なぜいけないのです?」
「だって……」
孫策が生きたことで、誰かが代わりに死ぬかもしれない。
本来なら江東を継いでいた孫権の未来を変えてしまったかもしれない。
周瑜が歩むはずだった道も、これから大きく変わる可能性がある。
そう考えると、自分だけが孫策の生存を無邪気に喜んでいいのか分からなくなってしまう。
「私が一人助けたことで、別の誰かが不幸になるかもしれない」
陸議も足を止めた。
「それは、今分かるのですか?」
「……分からない」
「では、まだ起きていない不幸のために、今、生きている人を救ったことを後悔するのですか?」
凌華は答えられなかった。
陸議の言葉は厳しかったが、否定することもできない。
少し沈黙したあと、陸議の方が先に視線を落とした。
「……すみません。言い方が強かったですね」
「ううん」
凌華は首を振った。
「そういうところ好き」
口にした直後、二人の足が同時に止まった。
「…………」
「…………」
数秒遅れて、自分が何を言ったのか理解した。
凌華の顔が一気に熱くなる。
「いや、違う!」
「何がです?」
「そういう意味じゃなくて! そういう真っ直ぐ言うところがいいって意味で、人として!」
『ほー』
「黙って!!」
思わず大声を出す。
陸議は少しだけ視線を逸らした。
「……分かりました」
「何その間!」
「何も」
「顔!」
「何です?」
「ちょっと笑ってる!」
「笑っていません」
「絶対笑ってる!」
「凌華」
「はい」
「うるさいです」
「酷い!」
そう言いながらも、凌華自身もいつの間にか笑っていた。
***
帰り道、しばらく歩いたところで陸議が口を開いた。
「一つ聞いても?」
「何?」
「あなたの時代では、私は有名なのですか?」
凌華の歩みが止まりかけた。
「……急だね」
「以前から気になっていました」
「聞かないって言ったじゃん」
「死期は聞かないと言いました」
「ずるい」
「質問を変えています」
こういうところは本当に頭が回る。
凌華は少し考えてから答えた。
「有名だよ」
「かなり?」
「かなり」
「何をした人として?」
凌華は困った。
夷陵。
石亭。
呉を代表する名将。
やがて丞相にまでなる人物。
未来の陸遜について語ろうと思えば、いくらでも話せる。
けれど、それを今ここで伝えていいのかは別の話だった。
「……頭が良くて」
「曖昧ですね」
「すごく冷静で」
「今と同じですね」
「自分で言う?」
「あなたが言ったので」
「あと、真面目」
「褒めています?」
「褒めてるよ」
「そうですか」
凌華は笑ったものの、その先を言おうとしたところで、未来の陸遜の姿が頭に浮かんだ。
呉を支え、孫権に仕え、数々の戦で功績を残した人。
そして最後には――。
「…………」
「凌華?」
呼ばれて我に返る。
「……すごい人だよ」
結局、それ以上は言えなかった。
けれど、少し考えてから凌華は続けた。
「私、大学で三国志を調べてた時、陸遜のこと結構好きだった」
陸議の足が、ほんのわずかに止まった。
「…………」
その反応を見て、凌華も自分の言い方に気づいた。
「違うから!」
「まだ何も言っていませんが」
「歴史上の人物として! 尊敬とか、推しみたいな!」
「推し?」
「そこ説明すると長い!」
「では結構です」
「とにかく恋愛とかじゃなくて!」
『今はな』
「孫策!!」
思わず長剣へ怒鳴る。
陸議の眉が寄った。
「また孫策?」
「あ……」
今度こそ、凌華の動きが止まった。
***
陸議はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「以前から気になっていたのですが、その“孫策”とは誰です?」
凌華の心臓が大きく跳ねた。
とうとう来た。
長剣から聞こえる声に返事をするたび、独り言だと誤魔化してきた。
けれど凌華が何度も「孫策」と口にしている以上、いつまでも通用するはずがない。
「えっと……」
『言うな』
剣の孫策の声が低くなる。
「でも……」
『まだだ』
凌華が黙り込むと、陸議はその反応を見逃さなかった。
「やはり何かあるのですね」
「…………」
「言えませんか?」
凌華は腰の長剣へ視線を落とした。
『凌華』
「……ごめん」
その言葉を聞いた陸議の表情が、ほんの少しだけ曇った。
それが思っていた以上に苦しくて、凌華はすぐに言葉を続ける。
「陸議さん、信じてないわけじゃない。本当にそうじゃなくて……ただ、私だけの秘密じゃないから」
そう言いながら、凌華は無意識に長剣へ触れていた。
陸議の視線が、その手を追うように剣へ向かう。
「…………」
しまった。
言いすぎた。
「そうですか」
陸議はそれだけしか言わなかった。
けれど、その目が長剣から離れるまでに少し時間がかかった。
明らかに何かに気づき始めている。
『馬鹿』
「ごめん……」
『もう遅え』
***
その夜、孫策の部屋には周瑜、呂蒙、陸議、そして凌華が集められていた。
孫策はまだ寝台の上にいるものの、顔色はかなり戻っている。
「話がある」
「何?」
凌華が尋ねると、孫策は少し表情を改めた。
「襲ってきた奴らについて分かった」
その一言で、部屋の空気が変わった。
周瑜が話を引き継ぐ。
「生き残った者から話を聞きました」
凌華の手が、無意識に長剣へ触れる。
「許貢の食客じゃないんだよね?」
「違います」
やはりそうだった。
陸議が周瑜へ尋ねる。
「では、誰なのです?」
周瑜の表情がわずかに険しくなった。
「孫策に恨みを持つ、別の一派です」
「別……」
凌華は唇を噛んだ。
「許貢を生かしたことで我々の対応が変わり、その動きを見て、今なら孫策を討てると考えた者がいたようです」
その説明を聞いた瞬間、凌華の胸が冷たくなった。
「じゃあ、私が変えたせいで……」
「違う」
孫策が即座に遮った。
「でも」
「俺に恨み持ってる奴なんざ山ほどいる」
「自慢しないで!」
「自慢じゃねえ!」
呂蒙が腕を組んだまま苦笑する。
「まあ、伯符殿が派手にやってきた分な」
「お前まで!」
そんな二人を横目に、周瑜は静かに話を続けた。
「重要なのは、凌華が知っていた未来と、出来事の原因が完全にずれ始めているということです」
凌華は黙った。
分かっていたつもりだった。
けれど、改めて周瑜から言葉にされると、その意味が重くのしかかる。
「今後、あなたの知識をそのまま未来の答えとして扱うのは危険でしょう」
「……うん」
「ただし、無価値ではありません」
凌華が顔を上げる。
「人の性格や勢力の動き、大きな戦が起きる可能性など、あなたが知っていることは参考にはなる。答えではなく、情報の一つとして扱えばいい」
「参考……」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「私、ずっと未来を知ってるなら、それを正しく使わなきゃって思ってた。でも……もう正解じゃなくなったんだね」
「ええ。これからは我々と同じです。考え、選び、間違えれば修正する」
陸議にも似たことを言われた。
「……そっか」
未来から来た意味がなくなったわけではない。
ただ、自分だけが正しい答えを持っているわけではなくなったのだ。
皆と一緒に情報を集め、考え、選ぶ。
そう思うと、不思議と少しだけ肩の力が抜けた。
***
話が終わったあと、孫策は凌華だけを呼び止めた。
「凌華。お前、この先どうする?」
「どうって?」
「俺が死ななかった」
その言葉は、まだ聞くたびに胸を揺らす。
「お前が知ってる道から外れた。それでも、ここにいるか?」
凌華は少し驚いて孫策を見た。
「何それ」
「帰れるかもしれねえだろ」
「……現代に?」
「ああ」
「方法知らないよ」
「見つかるかもしれん」
孫策は珍しく真面目な顔をしていた。
「お前には元いた時代がある。家族も友達も、やることもあったんだろ」
その言葉を聞いた途端、現代の光景が浮かんだ。
大学へ通い、卒業論文に追われ、家に帰れば当たり前のように家族がいる。
手を伸ばせばスマートフォンがあり、友人から連絡が来る。
何でもないと思っていた日常。
「帰りたいだろ」
「…………」
帰りたい。
この時代へ来たばかりの頃は、それしか考えていなかった。
けれど今は、すぐに頷くことができなかった。
「……分かんない」
孫策が眉を上げる。
「分からん?」
「うん。帰りたいよ。家族にも会いたいし、現代にも帰りたい。でも……ここにも家族ができた」
凌華は孫策を見る。
「あなたがいて、周瑜さんがいて、呂蒙さんがいて、陸議さんがいる」
腰の長剣へ触れた、そして目の前の人物には聞こえないくらい微かな声で呟く。
「孫策もいる」
『俺は最後かよ』
「うるさい」
「だから、今すぐ帰れるって言われても……たぶん困る」
孫策はしばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ表情を緩める。
「そうか」
「何その顔」
「別に」
「笑ってる」
「笑ってねえ」
その返しを聞いた瞬間、凌華は思わず笑った。
「陸議さんも同じこと言うんだよね」
「何が?」
「ちょっと笑ってるって言ったら、絶対『笑ってません』って言うの」
「……あいつと一緒にすんな」
「そこまで嫌がらなくてもいいじゃん」
そのとき、腰の長剣からも不満そうな声が聞こえた。
『俺もあいつと一緒にされたくねえな』
凌華は思わず返事をしそうになったものの、目の前に生きている孫策がいることを思い出し、どうにか言葉を飲み込んだ。
「……何だよ」
急に黙った凌華を見て、孫策が怪訝そうにする。
「何でもない」
『何だよ、無視すんな』
凌華は長剣をちらりと睨んだだけで、今度も返事はしなかった。
「お前、さっきから何見てんだ?」
「何も見てない!」
「変な奴だな」
「ほっといて!」
孫策は首を傾げていたが、それ以上気にすることなく笑った。
***
その夜、凌華は一人で外へ出た。
見上げた夜空には月が浮かんでいる。
千八百年以上先の現代でも、きっと同じ月が空に浮かんでいるのだろう。
少し前までなら、それを思うだけで帰りたいという気持ちが強くなっていた。
家族に会いたい。
友人にも会いたい。
大学へ戻りたいし、卒業してからも自分がどんな人になるのか将来にワクワクしていた。
元の生活に戻れるのなら、迷う理由などないと思っていた。
けれど今は、すぐにそう言い切ることができない。
凌華は胸元に抱えていた長剣へ視線を落とした。
「ねえ、孫策」
『ん?』
「もし私が、元の時代に帰れる方法を見つけたら……どうする?」
『どうするって、俺が決めることじゃねえだろ』
「それはそうなんだけど」
凌華は少し考えてから、長剣を抱き直した。
「帰った方がいいって言う?」
しばらく返事がなかった。
『……帰りてえのか?』
「分かんない」
『さっきも言ってたな』
「うん。家族には会いたいし、元の生活にも戻りたい。でも、ここにも大事な人が増えちゃったから」
孫策は何も言わない。
凌華は月を見上げたまま続けた。
「孫策もそうだよ」
『若い俺か?』
「両方」
『ついでみてえに言うな』
「ちゃんと両方です」
少しだけ笑ってから、凌華は再び黙った。
やがて、以前から胸に引っかかっていたことを思い出す。
「……でもさ」
『何だ』
「あなた、時々変なこと言うよね」
『俺が?』
「うん。『俺の時は違った』とか、『こんなの知らない』とか」
長剣から返事がなくなった。
その沈黙に、凌華はやっぱりと思う。
「前から気になってた。あなた、何を知ってるの?」
『…………』
「私が知らないこと、知ってるでしょ」
『まあな』
意外にも否定されなかった。
凌華は長剣を見下ろす。
「何を知ってるの?」
『今は言えねえ』
「またそれ?」
『悪い』
「いっつもそれじゃん」
不満はある。
けれど、無理に聞き出していいことではないのかもしれないとも思っていた。
孫策が話さないのには、おそらく何か理由がある。
「じゃあ……一個だけ聞いていい?」
『何だ』
「私がここに来たことって、悪いことだったと思う?」
思いがけない質問だったのか、孫策はしばらく答えなかった。
凌華は膝を抱える。
「孫策を助けたくて歴史を変えたけど、そのせいで知らない襲撃が起きた。これから先も、私が何かするたびに別のことが起きるかもしれない」
怖くないと言えば嘘になる。
自分がここへ来なければ起こらなかったことが、これからいくつも生まれるのかもしれない。
「だから時々、考えるの。私、本当にここに来てよかったのかなって」
長い沈黙のあと、孫策が答えた。
『良かったんじゃねえか』
「……本当に?」
『少なくとも、俺はそう思ってる』
凌華は少し驚いた。
『若い俺は生きてる。それだけでも、お前がここに来た意味はあっただろ』
「……うん」
『それに』
孫策はそこで言葉を止めた。
「それに?」
『…………』
「何?」
『いや。何でもねえ』
「また隠した」
『うるせえ』
「絶対何か言おうとした」
『気のせいだ』
「最近それで誤魔化すよね」
『お前にだけは言われたくねえよ』
凌華は一瞬黙ったあと、思わず吹き出した。
「確かに」
夜の静けさの中に、凌華の笑い声が小さく溶けていった。
剣の孫策が何を知っているのか、凌華にはまだ分からない。
なぜ自分の知らない出来事を知っているような言葉を口にするのかも、彼が何を隠しているのかも分からなかった。
ただ一つ分かるのは、孫策が自分を傷つけるために黙っているわけではないということだった。
だから今は、それ以上聞かないことにした。
***
同じ夜。
陸議は一人、再び凌華の短剣を手入れしていた。
凌華はいつも短剣の手入れを怠る。
と言うより手入れの習慣も無いのだろう。
刃の状態を確かめ、丁寧に汚れを落としながら柄へ手を移したところで、昼間の凌華の言葉がふと頭に蘇る。
――大学で三国志を調べてた時、陸遜のこと結構好きだった。
陸議の手が止まった。
「…………」
しばらく短剣を見つめたあと、小さく息を吐く。
「何を考えている」
自分でもよく分からなかった。
未来の自分だという「陸遜」。
凌華が自分の時代で知っていた男。
その人物を、彼女は好きだったと言った。
もちろん、すぐに歴史上の人物としてだと訂正していた。
それでも妙に引っかかる。
凌華が知っている陸遜と、今ここにいる自分は同じ人間なのだろうか。
まだ経験していない未来の自分を基準に、彼女は今の自分を見ているのだろうか。
「……馬鹿馬鹿しい」
小さく呟いてから、陸議は再び短剣へ視線を落とした。
けれど、手入れを再開するまでには、少し時間がかかった。
***
未来はもう、凌華が知っている史書の通りには進んでいない。
孫策は生きている。
許貢もまた、本来とは違う形で生きている。
それによって、その先に起きるはずだった出来事も、少しずつ凌華の知る流れから外れ始めていた。
凌華はようやく、未来を変えるということの意味を理解し始めていた。
それは、知っている結末を自分の望む形へ書き換えることではない。
一つの選択を変えれば、その先には自分さえ知らない明日が生まれる。
だからこそ、これからは史書に答えを求めるのではなく、目の前にいる人たちと考え、自分たちで選び続けなければならない。
不安が消えたわけではない。
それでも、一人で未来を背負う必要はないのだと思えるようになっていた。
そして翌朝。
凌華たちのもとへ、一つの知らせが届いた。
北で曹操が大きく動いたという。
孫策の運命を変えても、時代そのものが止まったわけではない。
歴史は形を変えながら、それでも確かに次の局面へ進み始めていた。
――第十五話・了




