第十六話 赤壁の前
北で曹操が大きく動いたという知らせが届いてから、江東を取り巻く空気は明らかに変わり始めていた。
***
「……曹操」
凌華はその名前を小さく口にした。
もちろん知っている。
三国志を少しでも学べば、避けて通ることのできない人物だ。
そして曹操が北方を平定した今、凌華の頭には、この先に続く歴史が次々と浮かんでいた。
曹操はやがて荊州へ目を向ける。
そこには劉表がいて、さらに曹操から逃れるように身を寄せている劉備もいる。
そして劉表の死後、荊州を巡る情勢が大きく動けば、その先には三国志の中でも特に有名な戦いが待っている。
「……赤壁」
自分の口から出たその名前に、凌華はわずかに緊張した。
『来たな』
腰に提げた長剣から、低い声が聞こえる。
「うん」
『この先の流れは分かるか?』
「たぶん。曹操は次に荊州へ向かう」
凌華は記憶を辿るようにゆっくりと続けた。
「その頃には劉表がいて、でも……」
言葉が止まる。
劉表が死に、その後を継いだ劉琮が曹操へ降伏する。
荊州を手に入れた曹操はさらに南下し、劉備は追われることになる。
そして、その先に待っているのが赤壁の戦いだ。
けれど凌華は、そこまで考えたところで眉を寄せた。
「でも、もう同じじゃないんだよね」
『ああ』
孫策が生きている。
それだけで、この先の歴史が凌華の知っている通りに進む保証はなくなっていた。
「赤壁って……起きるのかな」
『さあな』
「勝てる?」
『俺に聞くな』
「でも、あなた色々知ってるじゃん」
『知ってることと、これから起きることが同じとは限らねえだろ』
「……そうだった」
分かっているつもりなのに、どうしても知っている答えを探してしまう。
未来を変えると決めた以上、その答えがもう正解ではない可能性を受け入れなければならないのに、長年知識として覚えてきた歴史を完全に切り離すことは難しかった。
***
その後、凌華は軍議へ呼ばれた。
本来なら自分のような人間が参加する場ではない。
孫策の養女になったとはいえ、軍を率いる立場でもなければ、政治に関わってきたわけでもない。
けれど、未来について一定の知識を持っているという事情から、周瑜に参加を求められたのだ。
「凌華も来てください」
「私が?」
「ええ」
「軍議に?」
「そうです」
「絶対場違いだと思うんだけど」
周瑜は平然と答えた。
「今さらでしょう」
「周瑜さん、最近ちょっと厳しくない?」
「陸議の影響かもしれません」
すぐ近くにいた陸議が即座に反応する。
「私のせいにしないでください」
そのやり取りを聞いていた呂蒙が笑った。
「お前ら、少し似てきたんじゃねえか?」
「似ていません」
陸議が間髪入れず否定したため、凌華は思わず吹き出した。
「今の言い方、ちょっと周瑜さんっぽかった」
「凌華まで何を言っているのです」
「まあいい! 全員座れ!」
孫策の声が飛び、話は強引に打ち切られた。
凌華は苦笑しながら席につく。
以前なら、こんな場所に自分がいるだけで緊張していただろう。
けれど今では、この人たちと同じ場所で話をすることにも少しずつ慣れ始めていた。
***
卓上には大きな地図が広げられていた。
曹操の勢力圏。
荊州。
江東。
川や山々の位置。
現代では史書や地図の上でしか見たことのなかった地名が、今はこれから人が戦い、命を落とすかもしれない場所として目の前に存在している。
「報告では、曹操は北方をほぼ制しました」
周瑜の言葉を受け、陸議が地図へ視線を落とした。
「次に動くとすれば、荊州でしょうね」
「俺もそう思う」
孫策が頷く。
呂蒙が尋ねた。
「劉表は?」
「病が重いとの情報があります」
周瑜の答えを聞いた瞬間、凌華の胸が大きく鳴った。
まだ大きな流れは残っている。
孫策の運命を変えても、曹操や劉表を取り巻く情勢まで完全に別物になったわけではない。
「凌華」
周瑜に呼ばれ、凌華は顔を上げた。
「何か知っていますか?」
全員の視線が集まる。
この瞬間だけは、何度経験しても慣れそうになかった。
「……少しだけ」
「話せる範囲で構いません」
凌華は地図を見つめながら、自分の知っている歴史を頭の中で整理した。
「私が知っている歴史では、曹操は荊州を手に入れます。劉表が亡くなったあと、後を継いだ人が曹操に降伏して、劉備はそこから逃げることになる」
「劉備?」
孫策が反応する。
「うん」
「その後は?」
凌華は一度息を吸った。
「曹操の軍が、さらに南へ来る。最終的には江東も無関係ではいられなくなる」
部屋の空気が一段重くなった。
周瑜が尋ねる。
「兵数は?」
「……かなり多い。ただ、そこは私にも正確には分からない」
「なぜです?」
「私の時代に残っている記録でも、数字にかなり違いがあるから。ものすごく大きな数で書かれているものもあるけど、それが実際の兵数だったのかは別の話なの」
凌華は曖昧な記憶だけで断定しないよう、慎重に言葉を選んだ。
「だから正確な数は言えない。でも、こちらよりずっと大きな軍になる可能性は高いと思う」
呂蒙が面白そうに口元を上げる。
「それだけ多いなら、倒し甲斐があるな」
「なんでそうなるの!?」
「多い方が燃えるだろ」
「燃えないよ普通!」
すると孫策まで楽しそうに笑った。
「俺は分かるぞ!」
「呂蒙さんまで乗らないで!」
「何でだよ!」
緊張していたはずなのに、この人たちはどうしてこうなるのだろう。
呆れながらも、凌華の肩から少しだけ力が抜けた。
そんな中、周瑜だけは静かに凌華を見ていた。
「凌華。その戦いに、我々は勝つのですか?」
凌華の表情から笑みが消えた。
最も答えやすいはずなのに、今では最も答えにくい質問だった。
「……私の知っている歴史なら、勝つ」
呂蒙の目が輝き、孫策の口元にも笑みが浮かぶ。
けれど凌華は、すぐに続けた。
「ただ、今は分からない」
二人の表情が変わった。
「私が知っている歴史では、その戦いが起きる頃には……孫策はもういないから」
最後まで言い切ることができなかったが、孫策には意味が伝わった。
「俺は死んでるってことか」
「……うん」
短い沈黙が落ちた。
陸議が地図へ目を向けたまま口を開く。
「つまり、孫将軍が生存していることで曹操の判断もこちらの動きも変化し、凌華が知る戦と同じ状況になるとは限らないということですね」
「そう。だから赤壁も――」
口にしてから、凌華は止まった。
周瑜が反応する。
「赤壁?」
「あ……」
「地名ですか?」
もう隠す意味はほとんどない。
凌華は諦めて頷いた。
「私の知っている歴史では、赤壁という場所で曹操軍と、孫権・劉備の連合軍が戦うの」
孫策の表情が止まった。
「……権?」
「うん」
「俺じゃなく?」
「……うん」
今度は先ほどとは違う沈黙が落ちた。
***
孫策はしばらく何も言わず、地図を見つめていた。
凌華はその横顔を見ながら、言わない方がよかったのではないかと思い始める。
「孫策」
「ん?」
「……ごめん」
「何で謝る?」
「だって、本来なら孫権が……」
「権がやるんだろ?」
「うん」
孫策は少し考えたあと、あっさりと言った。
「なら、俺が生きてても権にやらせりゃいい」
「……え?」
予想していなかった答えだった。
「任せられるなら、任せればいい。俺が生きてるからって、全部俺がやらなきゃならねえ理由はねえだろ」
孫策は地図を指しながら続ける。
「俺が前に出て、権に後ろを任せることもできる。公瑾に指揮を任せる手もあるし、呂蒙や陸議だっている。お前の知ってる歴史と違うなら、その時の俺たちで一番いいやり方を考えりゃいい」
そして、いつものように不敵に笑った。
「歴史通りじゃねえなら、歴史より強い形にすりゃいい」
凌華は思わず孫策を見つめた。
未来が変わったことを恐れていた自分とは、まるで考え方が違う。
史書に書かれていた正解が使えないのなら、その時いる人間で新しい答えを作ればいい。
孫策にとっては、それだけのことなのだ。
腰の長剣から、小さな笑い声が聞こえた。
『……若い俺らしいな』
凌華は返事をしそうになったが、周囲に人がいることを思い出して口を閉じた。
代わりに、生きている孫策を見て小さく笑う。
「……なんか、いいね」
「何が?」
「その考え方。歴史が違うなら、今いる人たちで一番いい方法を考えればいいって」
「当たり前だろ」
簡単に言ってしまうところまで、いかにも孫策らしかった。
***
「一つ確認したいことがあります」
周瑜が再び口を開いた。
「その赤壁の戦いでは、なぜこちらが勝てたのです?」
凌華は固まった。
これは難しい。
「……火」
「火?」
「火攻めが大きかったはず。曹操側の船を燃やしたの」
周瑜の目つきが変わった。
「どのように?」
「そこから先は、私の知識をそのまま信じない方がいいと思う」
「なぜです?」
凌華は少し困りながら説明する。
「私の時代には、この時代の出来事を記録した歴史書だけじゃなくて、三国時代を元にした有名な物語もあるの。赤壁は特に物語として脚色された部分も多いから、私の記憶の中でも史実と物語が混ざってるところがある」
「なるほど」
周瑜はむしろ興味を持ったようだった。
孫策も身を乗り出す。
「俺たちが物語になるのか?」
「ものすごく有名になるよ」
「俺は活躍する?」
凌華は答えに詰まった。
「…………」
「何だ、その間は」
「いや……その頃にはもう……」
「死んでるから出番が少ねえのか!?」
「ごめん!」
「お前、最近俺が死ぬ話に慣れてきてねえか!?」
横で呂蒙が笑いながら尋ねる。
「じゃあ俺は?」
「活躍するよ」
「よし!」
「ただ、あなたもその後――」
「もういい! 聞かねえ!」
「だから最終的にはみんな死ぬんだって!」
陸議が小さく息を吐いた。
「軍議が進みません」
「ごめんなさい……」
周瑜は苦笑しながらも、すぐに地図へ視線を戻した。
「いずれにしても、火攻めという情報は覚えておきましょう。ただし、同じ戦場、同じ条件になるとは限りません。実際の状況を見て判断します」
「うん。それがいいと思う」
凌華はほっとした。
自分の言葉を、そのまま未来の答えとして使うのではない。
情報の一つとして受け取り、自分たちで判断する。
今の凌華にとって、それが一番安心できる扱われ方だった。
***
軍議を終えて外へ出ると、凌華は壁にもたれながら大きく息を吐いた。
「疲れた……」
『役には立ってたじゃねえか』
「そうかな」
『火攻めの話もしてただろ』
「でも、それに引っ張られて失敗したらって考えちゃう」
『また一人で背負ってんのか』
「だって私が言わなかったら、考えなかった作戦かもしれないじゃん」
『公瑾を舐めんな』
思いがけない言い方に、凌華は目を瞬いた。
「え?」
『あいつは誰かに聞いた話を、そのまま信じて軍を動かすような奴じゃねえよ。陸議だってそうだ』
「……確かに」
『呂蒙は……』
そこで声が止まった。
「何?」
『まあ、勢いで行くことはある』
「ひどい」
『でも、あいつだって馬鹿じゃねえ』
孫策の声が少し柔らかくなる。
『お前が情報を出したからって、お前一人が全部決めるわけじゃねえ。あいつらは自分で考える』
凌華は黙ってその言葉を聞いた。
『だから、何でもお前一人で背負おうとすんな』
「……うん」
少しずつではあるが、その意味が分かるようになってきていた。
***
「凌華」
背後から呼ばれ、凌華は振り返った。
陸議がこちらへ歩いてくる。
「何?」
「孫将軍が呼んでいます」
「また?」
「またです」
「何だろう」
「さあ」
二人で並んで歩き始める。
しばらくして、凌華はふと陸議を見た。
「ねえ、陸議さん」
「はい」
「さっき赤壁の話を聞いて、どう思った?」
「どう、とは?」
「未来に大きな戦があるって聞いて」
陸議は少し考えた。
「今のところ、特には」
「そうなの?」
「あなたは、私がそこで何かをするとは言っていなかったでしょう」
「それはそうだけど」
「ならば、今の私が未来の戦における自分の功績を気にしても仕方ありません。必要になった時に、目の前の状況を見て判断します」
あまりにも陸議らしい答えに、凌華は笑った。
「やっぱり陸議さんっぽい」
「あなたの知っている陸遜も、そういう人間でしたか?」
「……どうだろう」
「違うのですか?」
「史書だけじゃ、その人の全部は分からないから」
凌華は少し考えながら続ける。
「私が知ってる陸遜は、戦で何をしたとか、どんな役職についたとか、そういう記録の中の人だった。でも今の陸議さんは、普通に怒るし、呆れるし、たまに笑うし……私がご飯食べてなかったら注意してくるし」
「当然でしょう」
「ほら、そういうところ」
「何です?」
凌華は少し笑った。
「今の陸議さんの方が、ちゃんと一人の人って感じがする」
陸議がわずかに足を緩めた。
「……史書の中の人物ではなく?」
「うん。私にとってはもう、そっちより今ここにいる陸議さんの方が身近」
しばらく返事がなかった。
凌華が不思議に思って横を見ると、陸議は前を向いたまま歩いている。
「陸議さん?」
「……何でもありません」
「今ちょっと笑った?」
「笑っていません」
「またそれ」
腰の長剣から、面白そうな声が聞こえた。
『ほー』
凌華は一瞬だけ長剣を睨んだ。
「どうしました?」
「……何でもない」
「最近、その言葉も多いですね」
「気にしないで」
「それが難しいのですが」
凌華は誤魔化すように歩く速度を少しだけ上げた。
***
孫策の部屋へ入ると、すでに周瑜も待っていた。
孫策は凌華と陸議が座ったことを確認すると、いつになく真面目な顔をする。
「凌華、お前に一つ頼みがある」
「何?」
「権に会ってくれ」
凌華の胸が大きく鳴った。
「……孫権に?」
「ああ。遠くから見たことはあるだろうが、ちゃんと話したことはねえだろ」
「うん」
「お前が未来から来たことも含めて、知ってることを権にも聞かせておきたい」
凌華は少し驚いた。
「そこまで話していいの?」
「俺だけ知ってる方が危ねえ。これから曹操が南へ来る可能性があるなら、権にも状況を分かっててもらった方がいい」
周瑜も頷く。
「凌華が知る歴史では、孫権殿が今後重要な立場になるのでしょう。孫策が生存している今、その通りになるとは限りませんが、知っておいていただく価値はあります」
「……分かった」
凌華が頷くと、孫策は急ににやりと笑った。
「それと、仲良くしろよ」
「それは普通に努力します」
「お前は俺の娘なんだから、権から見れば姪だからな」
凌華は数秒固まった。
「……待って」
「何だ」
「孫権が私の叔父?」
「そうなるな」
「年齢は?」
「お前より下だ」
「年下の叔父……」
頭の中で家系図を組み立てようとして、凌華はすぐに諦めた。
「もう考えない方がいい気がしてきた」
「細けえこと気にすんな!」
「家族関係は細かくない!」
孫策が楽しそうに笑う。
腰の長剣からも何か聞こえたが、凌華は人前なので聞こえなかったことにした。
***
その日の夕方、凌華は孫権と向かい合って座っていた。
まだ若い。
現代で知っていた「呉の皇帝」という印象から想像していたよりも、ずっと静かで落ち着いた青年だった。
孫策とは雰囲気がまるで違う。
同じ血を引く兄弟でも、これほど違うのかと思うほどだった。
「兄上から話は聞いています」
孫権が先に口を開いた。
「どこまで?」
「あなたが未来から来たということまで」
「そこまで!?」
思わず声が大きくなる。
孫権がわずかに笑った。
「兄上は、必要だと思ったことを隠しておくのが得意ではありませんから」
「……それは分かる」
「それと、あなたが兄上の娘になったことも聞いています」
「それは……なんか、すみません」
「なぜ謝るのです?」
「だって、急に姪が増えたうえに、その姪が自分より年上なんだよ?」
孫権は少し黙った。
「……確かに、妙ですね」
「でしょ?」
「ですが、兄上らしいとも思います」
凌華は思わず笑った。
孫策をよく知る人は、結局みんな似たようなことを言う。
***
しかし、話が未来のことへ移ると、空気は自然と重くなった。
「私が兄上の後を継ぐのですね」
孫権の問いに、凌華は少し迷ってから頷いた。
「私の知っている歴史では、そうなってる」
「兄上が亡くなったから?」
「……うん」
孫権はしばらく黙った。
その横顔を見ながら、凌華は尋ねる。
「怖い?」
「兄上が死ぬことは怖いです」
孫権は静かに答えた。
「ですが、今は生きているのでしょう?」
「うん」
「ならば、今ここでその未来に拘る必要はないと思います。兄上が生きている以上、私が同じ立場になるとも限らない」
その考え方を聞いて、凌華は少し驚いた。
「……そういうところは、孫策と似てるかも」
「兄上と?」
「うん。二人とも、歴史が違うなら今の状況で考えればいいって言うから」
孫権は少しだけ笑った。
「兄弟ですから」
外見や雰囲気は違っていても、根本には似たところがあるのかもしれない。
そう考えると、凌華は少しだけ嬉しくなった。
***
話の最後、孫権が一つだけ尋ねた。
「凌華殿」
「何?」
「私が兄上の後を継いだというのなら、その後の私は……どのような人物だったのでしょう」
凌華の表情が止まった。
呉を長く率い、やがて皇帝となった孫権。
けれど凌華の頭には、それだけではなく晩年の出来事も浮かんでいた。
そして、その中には陸遜の最期につながる出来事もある。
「…………」
今ここで、それをどこまで伝えていいのか分からない。
孫権自身がまだ経験していない未来を先に聞けば、それに縛られるかもしれない。
凌華は少し迷った末に、首を横に振った。
「ごめん。今は言わない方がいいと思う」
孫権は理由を問い詰めなかった。
「そうですか」
「ごめんね」
「いえ。あなたがそう判断するのなら、今は聞きません」
その言葉に、凌華は少しだけ救われた。
けれど同時に、未来の孫権と陸遜の間に起きることが胸の奥に残った。
今目の前にいる孫権は、まだ何もしていない。
そして陸議もまた、自分がどんな未来を歩むのか知らない。
だからこそ凌華は、まだ起きてもいない出来事を理由に、今の孫権を見る目まで変えたくはなかった。
ただ、もし自分の知っている出来事へ近づく日が来たなら、そのときは見過ごさない。
今はそれだけを胸に留めた。
***
夜になり、一人になった凌華は長剣を抱えて外へ出た。
「ねえ、孫策」
『ん?』
「孫権とちゃんと話した」
『知ってる』
「……やっぱり、史書で読むのと全然違うね」
『当たり前だろ』
「うん。分かってたつもりなんだけど」
凌華は夜空を見上げた。
現代で孫権について調べたときは、その人生を最初から最後まで一つのまとまりとして読んでいた。
何を成し遂げたのか。
どんな判断をしたのか。
晩年に何が起きたのか。
すべてを知った状態で、一人の歴史上の人物として見ていた。
けれど、今日会った孫権は違った。
まだ何も起きていない未来を知らず、兄の死を恐れながら、それでも今を見ようとしている一人の青年だった。
「私、たぶん今まで、その人の最後を知ってるだけで、その人全部を知ってる気になってた」
『そういうもんだろ』
「陸議さんのことも、そうだったのかも」
孫策からの返事が少し遅れた。
『……あいつがどうした』
「孫権の晩年のことを考えると、どうしても陸遜のことも思い出すから」
凌華は長剣を抱く腕に少し力を込めた。
「私が知ってる歴史では、最後はつらいことになる」
『…………』
「でも、それはまだずっと先の話なんだよね」
『ああ』
「今の孫権は何もしてないし、陸議さんだって何も知らない」
今日、孫権と直接話したからこそ、そう思えた。
未来の出来事だけを理由に、今目の前にいる人を決めつけたくない。
「だから、今から孫権を怖がったり、嫌ったりするのは違うと思う」
『そうだな』
「でも……」
凌華は少しだけ俯いた。
「もし本当に、私が知ってるあの出来事に近づいたら、その時は止めたい」
孫策はしばらく何も言わなかった。
『陸議をか?』
「うん。陸議さんだけじゃなくて、できるなら誰かが苦しむって分かってることは止めたい」
『欲張りだな』
「それ、前にも言われた気がする」
『そうだったか?』
「たぶん」
凌華は少し笑った。
「でも、もう未来を全部知ってるわけじゃないから、その時にならないと何ができるかも分かんない」
『それでいいんじゃねえか』
「うん」
凌華は空を見上げた。
今はまだ、それでいい。
未来の孫権も、未来の陸遜も、まだここにはいない。
いるのは、今日会った孫権と、いつも自分を叱ってばかりの陸議だ。
ならば、まずは今の彼らを見ていたい。
そう思った。
***
翌朝、新たな報が届いた。
劉表が死去した。
そして、その後継者は曹操へ降伏する意向を示しているという。
知らせを聞いた凌華は、しばらく言葉を失った。
孫策の運命を変えたことで、凌華の知る歴史から外れた出来事は確かに増えている。
それでも、すべてが消えたわけではない。
大きな時代の流れは、凌華の記憶と重なる部分を残しながら、確実に南へ向かっていた。
「……来た」
曹操が荊州を手に入れれば、その先に江東がある。
そして、凌華が知る歴史では、その途中に赤壁がある。
ただし、今度の赤壁には孫策がいる。
それだけでも、同じ戦いになるはずがない。
知っている歴史と、知らない未来。
その二つが混ざり合いながら、時代は次の大きな戦へ向かい始めていた。
――第十六話・了




