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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
第二章 運命への抵抗編 〜知っている歴史〜
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第十七話 諸葛孔明


劉表が死去し、その後を継いだ劉琮が曹操へ降る。


その報せが江東へ届いてから、凌華が知っている歴史と、すでに変わり始めた歴史は、再び大きく動き始めた。


***


「劉備軍が敗走?」


凌華が思わず聞き返すと、周瑜は地図の上を指でなぞりながら頷いた。


「ええ。曹操軍は荊州へ入り、そのまま南へ兵を進めています」


「じゃあ……」


その言葉を聞いた瞬間、凌華の頭には現代で学んだ歴史が浮かんだ。


曹操の荊州侵攻によって追われる劉備。その逃走の途中で起こる長坂の戦い。


そして、その先に待っているもの。


「劉備は?」


「生きています」


周瑜の答えを聞き、凌華は無意識に詰めていた息を吐いた。


腰の長剣から、孫策の声が聞こえる。


『安心すんのか』


今は軍議の最中だ。


凌華は返事をせず、長剣へ一瞬だけ視線を落とした。


『会ったこともねえのにな』


それでも何も答えない。


けれど孫策の言いたいことは分かった。


凌華にとって劉備は、まだ会ったことのない人間だ。


それなのに、生きていると聞いただけで安心してしまう。


考えてみれば、この時代にいる有名な人物の多くは、凌華にとって最初からその最期まで知っている人たちだった。


以前は史書に書かれた「誰がいつ死んだ」という記述を、歴史上の出来事として読んでいただけだった。


けれど、この時代へ来てからは違う。


孫策も、周瑜も、呂蒙も、陸議も、今は目の前で笑い、怒り、自分の意思で生きている。


そんな彼らを知ってしまった今、誰かを見るたびにその死に方まで思い出してしまう自分が、凌華は少し嫌になっていた。


「凌華」


周瑜に呼ばれ、凌華は顔を上げた。


「はい」


「劉備について、何か知っていますか?」


「えっと……私の知っている歴史通りなら、このあと劉備は江夏の方へ逃れて、こちらと手を組もうとするはずです」


孫策が眉を上げる。


「俺たちと?」


「うん。曹操と戦うために」


呂蒙が腕を組んだ。


「敵の敵は味方ってやつか」


「たぶん」


「たぶんが多いな、お前」


「もう未来が変わってるんだから仕方ないでしょ!」


凌華が言い返すと、孫策は声を上げて笑った。


まだ脇腹の傷は完治していないものの、こうして軍議へ参加できる程度には回復している。


それでも孫策が大きく笑うたび、凌華の視線は無意識にその脇腹へ向かってしまった。


「……何だよ」


「別に」


「また傷見てただろ」


「見てない」


「見た」


「見てません」


すると、それまで黙っていた陸議が口を挟んだ。


「見ていましたよ」


「陸議さん、そこは味方して!」


「事実を申し上げただけです」


「もう!」


凌華が不満そうに頬を膨らませると、孫策はさらに楽しそうに笑った。


***


そのとき、慌ただしい足音とともに兵が部屋へ駆け込んできた。


「申し上げます! 劉備殿のもとより、使者が参っております!」


その報告を聞いた瞬間、凌華の身体に緊張が走った。


劉備からの使者。


もし自分の知っている歴史と大きく変わっていないのなら、ここへ来る人物は――。


「使者の名は?」


周瑜が尋ねる。


「諸葛亮。字は孔明と」


凌華は完全に動きを止めた。


「……孔明」


隣にいた陸議が、その反応を見逃さなかった。


「知っているのですか?」


「知ってるも何も……ものすごく有名な人」


「それほどですか?」


呂蒙が興味を示す。


「めちゃくちゃ有名」


「俺より?」


「うん」


「即答かよ!」


「あ、ごめん」


すると孫策まで身を乗り出した。


「俺より?」


「……たぶん」


「何で俺には気ぃ遣うんだよ!」


凌華が困っている横で、周瑜は小さく笑った。


「そこまで有名な方なのであれば、私も興味がありますね。お通ししましょう」


***


諸葛亮、字は孔明。


凌華の時代では、三国志に詳しくない人でも名前くらいは聞いたことがあるかもしれないほど有名な人物だった。


天才軍師、神算鬼謀――後世では、まるであらゆることを見通していたかのように描かれることさえある。


けれど、大学で史料を読むようになった凌華は、物語の中で描かれる諸葛亮と、史実に残された諸葛亮が必ずしも同じではないことも知っていた。


だからこそ、実際の本人がどんな人物なのか気になって仕方がない。


「凌華」


陸議に呼ばれ、凌華は我に返った。


「何?」


「顔に出ていますよ」


「何が?」


「楽しみにしていることが、です」


「……そんなに?」


「かなり」


凌華は少し恥ずかしくなって声を落とした。


「だって、諸葛孔明だよ」


「私に言われても分かりません」


「……そうだった」


今の陸議にとって、諸葛亮はまだ後世に名を残した大軍師ではない。


考えてみれば当然だ。


陸議自身だって、凌華の時代では歴史に名を残す人物なのに、今はまだその未来を知らない。


諸葛亮も同じなのだ。


今この瞬間はまだ、後世から与えられた評価を背負う前の、一人の人間なのだ。


***


やがて使者が部屋へ通された。


凌華が最初に驚いたのは、その若さだった。


自分が漠然と思い描いていた「大軍師・諸葛孔明」の姿よりも、ずっと若い。


穏やかな表情をしており、立ち居振る舞いにも派手さはない。


けれど部屋へ足を踏み入れた直後、その静かな目が周囲を見渡す速度は非常に速かった。


孫策、周瑜、孫権、呂蒙、陸議。


そして凌華。


一人ずつを確認するように動いた視線が、ほんの一瞬だけ凌華の腰にある長剣で止まった。


『……こいつ』


孫策の声が聞こえた。


凌華は反射的に返事をしかけたが、すぐに口を閉ざした。


諸葛亮は何事もなかったように礼を取る。


「劉玄徳が臣、諸葛亮。字は孔明と申します」


その声も、凌華が想像していたより穏やかだった。


孫策が笑う。


「孫伯符だ」


「存じております」


「俺が生きてて驚いたか?」


「兄上」


孫権がすぐに制した。


凌華も思わず声を上げる。


「いきなり何言ってるの!」


「だって凌華の知ってる歴史なら、俺はもう死んでんだろ?」


「それを初対面の人に言わなくていい!」


諸葛亮の目がわずかに動いた。


「……興味深いお話ですね」


「ほら! 食いついた!」


「いいじゃねえか」


「良くない!」


周瑜が額を押さえながらため息をついた。


「孫策」


「ん?」


「少し黙っていてください」


「俺が主なのに!?」


「だからこそです」


呂蒙が堪えきれず吹き出す。


陸議も平静な顔を保っているものの、口元がほんの少し緩んでいた。


「陸議さん」


「何です?」


「笑ってる」


「笑っていません」


「絶対笑ってる」


二人のやり取りを見ていた諸葛亮の口元にも、わずかな笑みが浮かんだ。


***


挨拶が済むと、話はすぐに本題へ移った。


曹操の南下、劉備軍の状況、そして江東との同盟。


「曹操の兵は多い。ですが、その全てが曹操に心服している兵ではありません」


諸葛亮の説明に、周瑜が頷く。


「荊州から降った兵も含まれている」


「ええ。それに北方の兵は、水上での戦に慣れておりません」


凌華は二人の話を黙って聞いていた。


後世では何度も語られる赤壁前夜の情勢だ。


けれど、今目の前で交わされているのは、すでに決まった歴史の答え合わせではない。


彼らは今ある情報を一つずつ確かめ、自分たちでこれからの選択を決めようとしている。


「凌華」


突然孫策に呼ばれ、凌華は顔を上げた。


「え?」


「お前はどう思う?」


「私!?」


「お前の知ってる未来じゃ、どうだったんだ?」


その瞬間、諸葛亮の視線が凌華へ向いた。


「未来?」


凌華が何とか誤魔化す言葉を探すより早く、孫策があっさり答えてしまう。


「こいつ、未来から来たんだ」


「孫策!!」


部屋の空気が一瞬で止まった。


周瑜が静かに目を閉じる。


「……本当にあなたは、隠し事に向いていませんね」


「権にも言われた!」


「誇るところではありません」


諸葛亮は笑うことも、否定することもなく凌華を見た。


「未来から来られたのですか?」


「……そう、みたいです」


「事実でしょう」


陸議にまで追い打ちをかけられ、凌華は恨めしそうに彼を見る。


「陸議さん……」


「孫将軍が話してしまった以上、今さら隠すのは難しいかと」


「それはそうだけど……」


諸葛亮はしばらく凌華を観察したあと、静かに尋ねた。


「では、一つ伺ってもよろしいでしょうか」


嫌な予感しかしなかったが、ここまで来て断ることもできない。


「……どうぞ」


「我々は、曹操に勝ちますか?」


以前、周瑜にも同じことを聞かれた。


けれど今の凌華には、以前よりもその問いの難しさが分かっている。


「私の知っている歴史では、勝ちます」


諸葛亮の目がわずかに細くなる。


「それならば、安心ということでしょうか」


「違います」


凌華はすぐに首を横に振った。


「もう歴史が変わってるから」


「何が変わったのです?」


凌華は孫策を見る。


「私が知っている歴史では、孫策はもう亡くなっています」


諸葛亮が初めてはっきりと孫策へ視線を向けた。


「……なるほど」


「だから、私が知っている赤壁では、孫権と劉備が手を組んで、周瑜さんたちが曹操と戦う。でも今は孫策が生きてる。こっちの状況も違うし、曹操が同じ判断をするとも限らない」


「赤壁」


諸葛亮がその名を小さく繰り返す。


「それが、あなたの知る戦場なのですね」


「うん。でも今も同じ場所で、同じ戦いになるかは分からない」


諸葛亮は少し考えた。


「未来を知っているにもかかわらず、その未来がすでに答えではなくなっている、と」


「そういうこと」


「それは……ずいぶん厄介ですね」


「分かってくれる!?」


凌華は思わず身を乗り出した。


「みんな、未来を知ってて便利だと思うんだもん」


「私は思っていませんが」


陸議が淡々と口を挟む。


「陸議さんは例外!」


そのやり取りを見てから、諸葛亮は静かに言った。


「未来を知るということは、答えを知ることではなく、かつて答えであったものに縛られることなのかもしれませんね」


凌華は思わず黙った。


それは、最近ずっと自分が感じていたことを、別の言葉で言い表されたような気がした。


***


軍議はそのまま、曹操に降るか、それとも抗戦するかという話へ移っていった。


孫策の答えは最初から決まっている。


「戦う」


迷いのない即答だった。


孫権が兄を見る。


「兄上。兵力差も考えてください」


「考えてる」


「本当に?」


「考えた上で戦う」


「五息も考えていませんが」


「充分だ!」


「足りません」


凌華は隣の陸議へ小声で尋ねた。


「この兄弟、いつもこうなの?」


「最近はよく」


「孫権さん、苦労しそう……」


周瑜が地図へ手を置いた。


「私も、戦うべきだと考えます」


孫策が嬉しそうに笑う。


「だろ?」


「ただし、あなたが先頭に立って敵陣へ突っ込むことは禁止します」


「何で!?」


「傷が治っていないからです」


「もう平気だ!」


「駄目です」


孫策が突然、凌華を見る。


「凌華! お前はどう思う!」


「禁止」


「娘まで!?」


「当たり前でしょ!」


「二対一!」


「私も反対です」


陸議が続く。


「三!」


「私もです」


孫権。


「四!?」


「俺も今回は止めるぞ」


呂蒙まで加わった。


「五!?」


最後に諸葛亮が穏やかに口を開く。


「私も、ご自重された方がよろしいかと」


「お前は他所の奴だろ!!」


こうして初対面の諸葛亮まで加わり、孫策の突撃禁止だけは満場一致で決まった。


***


軍議を終えて外へ出ると、凌華は大きく息を吐いた。


「疲れた……」


「私もです」


すぐ横から聞こえた声に驚き、凌華は勢いよく振り向いた。


「うわっ! いつからいたの!?」


そこに立っていたのは諸葛亮だった。


「今来たところです」


「陸議さんと同じこと言う……」


「陸議殿?」


「何でもない」


諸葛亮は凌華の隣へ立つと、少し間を置いて尋ねた。


「一つ、お聞きしたいことがあります」


「未来のこと?」


「いいえ。あなた自身についてです」


意外な言葉に、凌華は目を瞬いた。


「私?」


「未来から来たあなたが、なぜそこまで孫策殿を救おうとしたのか、少し気になりまして」


凌華はすぐには答えず、少し離れた場所へ目を向けた。


孫策と孫権が何か言い合い、その横で周瑜が二人を止めている。呂蒙は楽しそうに笑い、陸議はこちらへ歩いてくるところだった。


「最初は、歴史を知ってたから」


凌華はゆっくり答えた。


「死ぬって分かってるなら、助けられるかもしれないって思った」


「今は?」


その問いには、考えるより先に答えが出た。


「家族だから」


自分の口からあまりにも自然に出た言葉に、凌華自身が少し驚いた。


諸葛亮の目元がわずかに柔らかくなる。


「そうですか」


「うん」


「では、歴史を変えたことを後悔していますか?」


凌華は少しだけ黙った。


以前なら迷ったかもしれない。


自分が孫策を助けたことで別の襲撃が起きたと知ったときは、本当に正しかったのか何度も考えた。


けれど今は、生きている孫策を目の前にして答えられる。


「してない」


凌華ははっきりと言った。


「怖いし、これから何が起きるか分からなくなったけど、それでも……生きてて良かったって思ってる」


「それならば、その選択には少なくとも今、意味があったのでしょう」


凌華は少し笑った。


「諸葛亮って、思ってたより普通なんだね」


「…………」


「あっ、違う! 悪い意味じゃなくて!」


「私はどのような人間だと思われていたので?」


「何でも分かる天才軍師」


「それは困りますね」


「困るの?」


「何でも分かるのであれば、わざわざ考える必要がないでしょう」


穏やかにそう答える諸葛亮を見て、凌華は少し目を見開いた。


この人も、考える。


迷い、情報を集め、そのうえで選ぶ。


後世から見た「天才軍師」ではなく、今この時代を生きている一人の人間なのだ。


凌華の中で、また一人の歴史上の人物が、史書の中から現実へと姿を変えた。


***


「随分楽しそうですね」


背後から聞こえた声に振り返ると、陸議が立っていた。


「え?」


「孔明殿と」


「普通に話してただけだよ」


「そうですか」


「何その言い方」


「別に何も」


「絶対何かある」


「ありません」


二人を見ていた諸葛亮が、穏やかに言った。


「仲が良いのですね」


「違います」


陸議が即座に否定する。


「早っ!」


「何がです?」


「もうちょっと考えてから否定してよ!」


「何を考えるのです?」


そのやり取りがよほど面白かったのか、腰の長剣から孫策の大きな笑い声が聞こえた。


『ハハハハ!』


凌華は反射的に「うるさい」と言いかけ、慌てて唇を噛んだ。


「……どうしました?」


陸議が怪訝そうにする。


「何でもない」


そう答えながら、凌華は無意識に腰の長剣へ視線を落とした。


その小さな動きを、陸議は見逃さなかった。


「……また、その剣ですか」


凌華の身体がわずかに強張る。


諸葛亮も陸議の視線を追い、長剣を見る。


「その剣が、何か?」


「何でもないよ」


凌華はすぐに答えたが、陸議はそれ以上追及する代わりに静かに彼女を見た。


以前にも、凌華はこの剣について尋ねられたことがある。


そのとき彼女は、「私だけの秘密じゃないから」と答えた。


陸議はおそらく、それを覚えている。


「……ごめん」


凌華は長剣へそっと手を添えた。


「まだ、言えない」


陸議はしばらく凌華を見たあと、小さく頷いた。


「分かりました」


「怒ってない?」


「なぜ私が怒るのです?」


「だって、未来から来たことまで話したのに、まだ隠してることがあるから」


「それとこれとは別でしょう。あなた一人の秘密ではないと言っていたのですから、あなた一人の判断で話せない事情があるのでしょう」


凌華は少し驚いて陸議を見た。


「……うん」


「ならば、待ちます」


それだけ言って、陸議は先へ歩き始める。


凌華はその背中を見つめたあと、長剣へ触れたまま小さく息を吐いた。


自分を疑わずに待ってくれることが、ありがたい。


だからこそ、いつかはきちんと話したいと思った。


***


その夜、一人になった凌華は長剣を膝の上へ置いた。


「ねえ」


『何だ』


「いつなら話していいの?」


『俺のことか』


「うん」


少しの沈黙が落ちた。


「陸議さん、待つって言ってくれた。未来から来たことまで話したのに、この剣のことだけずっと隠してるのも……なんか嫌だ」


『それとこれは違う』


「陸議さんにもそう言われた」


『ならいいじゃねえか』


「よくない。私が気になるの」


凌華は長剣を見つめる。


「あなたがいることって、そんなに隠さなきゃいけないことなの?」


孫策はすぐには答えなかった。


やがて、先ほどまでとは違う真剣な声が返ってくる。


『俺自身が、まだ分かってねえことがある』


「……何が?」


『それを今話したら、お前らまで巻き込むかもしれねえ』


凌華は眉を寄せた。


「もう十分巻き込まれてる気がするけど」


『そういう意味じゃねえよ』


「じゃあ、どういう意味?」


『まだ言えねえ』


「またそれ?」


『悪い』


いつものように誤魔化しているようには聞こえなかった。


だから凌華も、それ以上強く問い詰めることができない。


「……じゃあ、一つだけ約束して」


『何だ』


「話せるようになったら、ちゃんと話して」


少し間を置いて、孫策が答えた。


『分かった』


「絶対だからね」


『分かったって』


凌華はまだ納得しきれないまま、それでも長剣を抱き寄せた。


孫策が何を隠しているのかは分からない。


なぜ自分の知らない出来事を知っているような言葉を口にするのかも、なぜ自分の存在を他人へ明かしたがらないのかも分からない。


ただ、話さないことそのものに何か理由があることだけは、少しずつ分かるようになっていた。


ならば今は、孫策自身が話せると言う日を待つしかない。


***


翌日、劉備軍との同盟について大筋で話がまとまった。


曹操と戦う。


そのために劉備軍と協力する。


大きな方向だけを見れば、凌華が知っている歴史と似ている。


けれど、その内側はすでにまったく同じではなかった。


本来ならこの時点ですでに亡くなっているはずの孫策が生きている。


孫権も、周瑜も、呂蒙も、陸議もいる。


そこへ諸葛亮が加わり、さらに未来から来た凌華まで同じ軍議の場にいる。


凌華は地図へ視線を落とした。


現代で何度も目にした「赤壁」という地名が、今はまだ起きていない戦いの候補地としてそこにある。


このまま本当に赤壁で戦うことになるのか。


それすら、もう断言できない。


「凌華」


周瑜に呼ばれ、顔を上げる。


「はい」


「以前、火攻めについて話していましたね」


「……うん」


「あなたが知っている範囲で構いません。もう少し詳しく聞かせてもらえますか?」


凌華は少し緊張しながら、地図の前へ座った。


赤壁の炎については知っている。


けれど、それはあくまで自分の知っている歴史で起きたことだ。


今ここで同じことをすれば、同じように勝てるとは限らない。


「分かった。ただ、一つだけ」


凌華は周瑜を見る。


「私の話を、答えだとは思わないで」


周瑜は迷うことなく頷いた。


「もちろんです。判断するのは、今ここにいる私たちですから」


その言葉に、凌華も頷く。


同じ地図を、孫策、孫権、周瑜、呂蒙、陸議、諸葛亮が囲んでいる。


凌華が知っている歴史には存在しなかった光景だった。


それでも曹操の大軍は、確実に南へ迫っている。


歴史と同じ部分を残しながら、その中にいる人間も、それぞれの立場も、すでに変わり始めている。


凌華が知っている「赤壁の戦い」は、まだ始まってもいないうちから、彼女の知らない戦いへと姿を変えようとしていた。


――第十七話・了

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