第十八話 炎を知る者
地図の上に記された「赤壁」という二文字から、凌華はしばらく目を離すことができなかった。
大学にいた頃なら、それはただの地名だった。
試験に出るかもしれない場所であり、卒業論文の資料として調べる場所であり、三国志を題材にした物語の舞台でもあった。
けれど、今は違う。
これから実際にこの場所で大勢の人間が戦い、命を落とすかもしれない。
そして何より、今、自分の目の前にいる人たちが、その戦場へ向かおうとしている。
「凌華」
周瑜に呼ばれ、凌華は地図から顔を上げた。
「はい」
「火攻めについて、あなたが知っていることを全て話してください」
「……分かった」
軍議の場には、孫策、孫権、周瑜、呂蒙、陸議、そして諸葛亮が揃っている。
凌華が現代で知っていた歴史では、決して同じ軍議の席につくことのなかった顔ぶれだ。
それだけでも、すでに自分が知る赤壁とは違う。
凌華は一度深く息を吸ってから、皆を見渡した。
「最初に言っておくね。私が知ってる赤壁には、史実として残ってるものと、後世に作られた物語の内容が混ざってる」
諸葛亮がわずかに首を傾げた。
「物語?」
「うん。あなたたち、千年以上先でもめちゃくちゃ人気になるから」
一瞬、部屋が静まり返った。
「……我々が?」
孫権が確認するように尋ねる。
「うん」
すると孫策が身を乗り出した。
「俺も?」
「人気だと思う」
「よし!」
「そこ重要?」
「重要だろ!」
腰の長剣からも、嬉しそうな声が聞こえてくる。
『俺、人気あんのか』
「……あなたも同じ人でしょ」
思わず小さく返してから、凌華ははっとした。
生きている孫策が怪訝そうな顔をしている。
「ん? 俺?」
「…………」
まずい。
「いや、何でもない!」
「今、俺に言ったんじゃねえのか?」
「独り言!」
「俺の話してる時に?」
「そういう独り言もあるの!」
強引に押し切ると、孫策はよく分からないという顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。
一方、陸議だけは凌華を見たあと、その視線を腰の長剣へ移している。
気づいた凌華は、何も見なかったことにした。
「……話、戻すね」
周瑜は何かを察したような、それでいて追及するつもりもないような顔で苦笑した。
「お願いします」
***
凌華は、自分が知っている赤壁の戦いについて、記憶を一つずつ確かめながら説明していった。
曹操軍には北方出身の兵が多く、水上での戦いに慣れていなかったとされていること。
長い遠征による疲労や疫病も、軍の状態に影響していた可能性があること。
そして、後世に伝わる赤壁の戦いでは、火攻めが勝敗を左右する大きな要因として語られていること。
「それで……黄蓋さん」
その名を出した瞬間、周瑜の目つきが変わった。
「黄蓋殿?」
「うん。私が知ってる話だと、黄蓋さんが曹操に降伏するふりをするの」
呂蒙が眉を上げる。
「偽りの降伏か」
「そう。それで曹操軍に近づいて、火をつけた船を敵の船団へ突っ込ませる」
凌華は地図の上へ指を置き、船が進む様子を示すように動かした。
話し終わると、誰もすぐには口を開かなかった。
周瑜も諸葛亮も、そして陸議も、地図を見ながら考えている。
「……なるほど」
最初に口を開いたのは陸議だった。
「船上で火が回れば、陸上よりも逃げ場が限られます。ただし――」
「敵船が散開していれば、一部を焼いて終わるでしょうね」
諸葛亮がその続きを引き取った。
「そう」
凌華は頷いた。
「そこで、船を鎖で繋ぐ話が出てくるの」
周瑜の眉が動く。
「なぜ敵が自ら船を繋ぐのです?」
「船酔い対策だったはず。曹操軍には北方の兵が多いから、水上に慣れてなくて」
「誰がそれを提案するのです?」
問われた凌華は、一瞬言葉に詰まった。
「……龐統」
「龐統?」
孫策たちにはまだ馴染みの薄い名だったのだろう。
けれど、諸葛亮だけがわずかに反応した。
「士元が?」
「知ってる?」
「ええ。友人です」
「うわ……」
凌華が思わず声を漏らすと、諸葛亮が不思議そうに見る。
「何でしょう?」
「いや、本当に繋がってるんだなって思って」
現代では、どちらも史書や物語の中に並んでいた名前だ。
けれど今、諸葛亮の口から「友人」という言葉が出ただけで、龐統という人物まで急に血の通った人間になったように感じられた。
「ですが」
周瑜の声で、凌華の意識が軍議へ戻る。
「その龐統なる者が、今回も同じ動きをする保証はない」
「うん」
「曹操が船を繋ぐとも限らず、黄蓋殿が偽りの降伏を行うとも限らない」
「そう」
周瑜はしばらく地図を見つめたあと、凌華へ視線を戻した。
「ならば、あなたが知る作戦そのものを再現しようとするのは危険ですね」
その言葉を聞いて、凌華はほっと息を吐いた。
「……良かった」
「何がです?」
「周瑜さんなら、歴史でそれをやって勝ったなら同じ作戦で行こうって言うかもしれないと思って」
周瑜がにこりと微笑む。
「私はそれほど愚かに見えますか?」
笑顔なのに怖い。
「見えません!」
凌華は即答した。
腰の長剣から、呆れた声が聞こえる。
『公瑾を怒らすなよ』
「……分かってる」
また小さく返してしまった。
「何がです?」
今度は周瑜が聞き返す。
「何でもないです!」
凌華が慌てて首を振ると、陸議がまた長剣をちらりと見る。
二度目だ。
さすがに自分でも、これは怪しいと思う。
凌華はそれ以上何も言わず、何事もなかったように地図へ視線を戻した。
***
「でも、一つだけ」
凌華は気を取り直して続けた。
「作戦そのものじゃなくて、考え方としてなら使えることがあると思う」
全員の視線が集まる。
「曹操軍は大軍だから強い。でも、大軍だからこそ弱くなるところもあると思う」
周瑜の目が細くなった。
「続けて」
「食料をたくさん運ばなきゃいけないし、船も必要になる。病気が広がれば人数が多い分だけ大変だし、知らない土地で、慣れない水上戦もしなきゃいけない。それに曹操の軍には、元々曹操に従っていた兵だけじゃなくて、いろんなところから集められた兵もいるんでしょ?」
現代で読んだ資料を思い出しながら、凌華は慎重に言葉を選んだ。
自分の知識が完全に正しいとは限らない。
だからこそ、答えとして断言するのではなく、自分なりの考えとして話す。
「真正面から人数だけでぶつかったら、たぶんこっちが不利。でも曹操軍の人数そのものを、逆に弱点にできるかもしれない」
しばらく沈黙が続いた。
やがて孫策が、にっと笑う。
「いいじゃねえか」
「え?」
「未来の答えじゃなく、お前の意見になってきた」
凌華は少し驚いて孫策を見た。
「……私の?」
「ああ。前のお前は『歴史ではこうだった』『歴史ではこうなる』って、そればっかだっただろ」
言われてみれば、その通りだった。
未来を知っている自分が間違えてはいけないと思うほど、凌華は史書の記述に答えを求めていた。
「今は自分で考えてんじゃねえか」
「……そうかな」
「そうだ」
その直後、長剣からも同じような声が聞こえた。
『そうだな』
二人の孫策からほとんど同時に肯定され、凌華は妙な感覚に襲われる。
「……二人に言われると、変な感じ」
口にしてから、しまったと思った。
孫権が眉を寄せる。
「二人?」
「あ……」
周囲の視線が集まった。
「いや、その……」
何か言わなければ。
凌華は必死に考え、無理やり笑った。
「頭の中でも同じこと考えてたから! 孫策と自分の二人!」
「自分を一人として数えたのですか?」
孫権がますます不思議そうな顔をする。
「そう! そういうこと!」
苦しい。
自分でも分かるくらい苦しい。
けれど孫策は「変な奴だな」と笑っただけで、周瑜もそれ以上は追及しなかった。
ただ一人、陸議だけが何も言わず凌華を見ている。
やがて、その視線がゆっくりと長剣へ落ちた。
――絶対、怪しまれてる。
凌華はそう思ったが、気づかないふりをして地図へ向き直った。
***
軍議はその後も長く続いた。
曹操軍がどこを通り、どのように進んでくるのか。
水軍をどう動かすのか。
兵糧をどう確保するのか。
劉備軍とどこまで連携するのか。
話し合わなければならないことはいくらでもある。
そして、その全てに影響する最大の違いが、孫策の存在だった。
「伯符」
周瑜が地図を見ながら口を開く。
「あなたが生きていることは、曹操もすでに把握しているでしょう」
「当たり前だろ」
「ならば、向こうも凌華が知る歴史とは違う判断をするはずです」
「……そうだよね」
凌華も地図へ視線を落とした。
自分の知る赤壁の時点では、江東の主はすでに孫権だった。
けれど今は、小覇王と呼ばれた孫策が健在だ。
曹操から見れば、江東という勢力そのものの見え方が違っている可能性がある。
「孫策が生きてる世界で、曹操はどう動くんだろう……」
思わず漏らした凌華の言葉に、周瑜が穏やかに答える。
「それを考えるのが、我々の仕事です」
凌華は顔を上げた。
その言葉を聞くと、少しだけ肩の力が抜けた。
自分が全部の答えを出す必要はない。
未来の知識を渡したあとは、今を生きている彼ら自身が考えてくれる。
そのことが、以前よりもずっと心強く感じられた。
***
軍議が終わり、人が部屋から出始めた頃。
「凌華」
陸議に呼び止められた。
「何?」
「少し、いいですか」
「うん」
二人で並んで歩き始める。
最近は、こうして陸議と二人で話す時間が以前より増えた。
「疲れましたか?」
「ちょっと」
「顔に出ています」
「また?」
「ええ」
「私、そんなに顔に出る?」
「非常に」
「恥ずかしい……」
凌華が顔をしかめると、陸議がほんの少しだけ笑った。
「今、笑った」
「笑っていません」
「最近そればっかり」
「あなたもでしょう」
「何が?」
「『何でもない』ばかりではありませんか」
凌華は言葉に詰まった。
心当たりがありすぎる。
「……それ、剣のこと?」
尋ねると、陸議の足がわずかに止まった。
凌華も立ち止まる。
「それも、です」
「怒ってる?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい。ただ――」
陸議は少し迷うように視線を逸らしたあと、再び凌華を見た。
「気にはなります」
「……うん」
「あなたが誰もいないところで、誰かと話しているように見えること。時折、孫策という名を口にすること。そして今日の軍議でも、何度か誰かに返事をするような独り言を言っていました」
凌華の指が無意識に長剣の柄へ触れた。
その動きも、陸議は見ている。
「それに、この剣に関わることだけは、未来の話を明かしたあとも頑なに話そうとしない」
やっぱり鋭い。
誤魔化せているつもりだった自分が恥ずかしくなるほど、陸議は細かなことを見ていた。
「……ごめん」
「だから、謝らなくていいと言っているでしょう」
「でも」
「話せない理由があるのでしょう?」
凌華は長剣の柄に触れたまま、小さく頷いた。
「……うん」
陸議はそれ以上問い詰めなかった。
「ならば、話せる時に話してください」
その声は、責めるようなものではなかった。
「待ちます」
胸の奥が、妙に苦しくなる。
疑われてもおかしくない。
問い詰められても仕方がない。
それなのに陸議は、凌華が話すまで待つと言ってくれる。
「陸議さん」
「はい」
「そういうところ……」
言いかけて、凌華は慌てて口を閉じた。
以前、勢いで「好き」と口にしてしまったことを思い出したのだ。
「……何です?」
「何でもない」
「またですか」
「今回は本当に何でもない!」
腰の長剣から、面白がるような声が聞こえる。
『言えよ』
「うるさい」
反射的に返してしまった。
陸議が目を瞬く。
「私は何も言っていませんが」
「…………」
しまった。
「違うの! 今のは独り言!」
「またずいぶん攻撃的な独り言ですね」
「ああもう!」
凌華が頭を抱えると、陸議が今度こそはっきり笑った。
「笑った!」
「……少しだけ」
初めて素直に認められ、凌華は余計に恥ずかしくなる。
「ずるい」
「何がです?」
「私ばっかり恥ずかしい」
「それはあなたが勝手に恥ずかしがっているのでしょう」
「そうだけど!」
言い返しながらも、凌華自身もいつの間にか笑っていた。
***
その夜、凌華はなかなか眠ることができなかった。
赤壁のこと。
曹操のこと。
そして、これから始まる大きな戦のこと。
考えれば考えるほど頭が冴えてしまい、凌華は諦めて外へ出た。
夜空には月が浮かんでいる。
現代にいた頃も、自分は同じ月を見ていた。
当たり前のことなのに、今ではそれさえ不思議に思える。
『眠れねえのか』
長剣から聞こえた声に、凌華は縁側へ腰を下ろした。
「うん」
『戦が怖いか』
「怖い」
今度は迷わず答えた。
『そうか』
「だって、今までの戦とは違うでしょ」
『ああ』
「たくさん死ぬ」
『ああ』
凌華は膝を抱えた。
そして、しばらく迷ったあと、小さな声で続ける。
「私も……死ぬかもしれない」
孫策は何も言わなかった。
その沈黙が、かえって怖かった。
「……ねえ」
『何だ』
「私が知ってる歴史には、当然だけど私は出てこない」
『ああ』
「だから、赤壁で自分がどうなるかなんて、何も分からないんだよね」
『そうだな』
凌華は膝へ顔を埋めた。
以前なら、未来を知っているというだけで、どこかに答えがあるような気がしていた。
けれど今は違う。
史書のどこを探しても、「凌華」という人間が赤壁でどうなるかなど書かれていない。
まして歴史そのものが変わり始めている。
「怖いな……」
ぽつりと呟くと、孫策が意外なことを言った。
『逃げてもいいぞ』
凌華は顔を上げた。
「あなたがそれ言うの?」
『戦なんざ、好きで行くもんじゃねえよ』
いつもの豪快な調子とは違う、低い声だった。
『お前は兵じゃねえ。戦う義務もない』
凌華は黙り込んだ。
確かにそうだ。
自分は元々、ただの女子大生だった。
剣を握った経験すらなく、人を傷つけることなど考えたこともなかった。
初めて人を斬った日の感触は、今でも忘れていない。
それなのに今、自分は自ら戦場へ行こうとしている。
「でも……行く」
しばらくして凌華は答えた。
『……そう言うと思った』
「孫策も、陸議さんも、周瑜さんも、呂蒙さんも……みんな行くんでしょ」
『ああ』
「だったら、ここで待ってる方が怖い」
誰かが帰ってこないかもしれない。
何が起きているのかも分からないまま、ただ知らせを待ち続ける。
凌華にとっては、その方がずっと耐え難かった。
孫策はしばらく何も言わなかった。
***
翌朝、凌華は孫策に呼び出された。
「凌華。赤壁には――」
「嫌」
孫策が固まった。
「……まだ全部言ってねえ」
「残れって言うんでしょ」
「そうだ。残れ」
「嫌」
「お前な……」
「行く」
孫策の表情が険しくなる。
「遊びじゃねえぞ」
「分かってる」
「死ぬかもしれねえんだぞ」
「分かってる!」
思った以上に大きな声が出た。
孫策が黙る。
凌華も自分を落ち着かせるように息を整えた。
「……分かってるよ。怖い。すごく怖い」
声が少し震える。
それでも凌華は孫策から目を逸らさなかった。
「でも、私だけここに残って、誰かが死んだって知らせを待つ方がもっと嫌なの」
孫策は何も言わず凌華を見る。
「私、戦いたいわけじゃない。人を斬りたいわけでもないし、今だって嫌だよ」
最初の村で倒した賊の姿が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
流れた血も、自分の手に残った感触も忘れてはいない。
「でも、私がそこにいることで誰かを守れるかもしれないなら……行きたい」
凌華は腰の短剣へ手を添えた。
「守るためなら、戦う」
孫策の表情がわずかに変わった。
どこか寂しそうにも見えた。
「……変わったな」
「え?」
「最初のお前なら、絶対そんなこと言わなかった」
凌華は少しだけ笑った。
「悪い方に?」
「さあな」
孫策は凌華の頭へ手を置いた。
「強くはなった」
「……うん」
「でも、強くなったからって死んでいいわけじゃねえ」
頭を押さえる手に少し力が込められる。
「絶対戻ってこい」
凌華の目がわずかに揺れた。
「……うん」
「約束しろ」
「前に私が言ったやつ?」
「そうだ」
「難しい約束だね」
「絶対だ」
「無茶言うなあ」
「お前が先に言ったんだろ!」
顔を見合わせ、二人は少しだけ笑った。
***
その日の午後、凌華は一人で短剣を振っていた。
右で受け、左へ流し、踏み込む。
攻撃を受け止めるのではなく、力の向きを逸らして次の動きへ繋げる。
以前と比べれば、身体はずっと自然に動くようになっている。
まだ強いとは言えない。
それでも、剣を握るだけで手が震えていた頃とは明らかに違っていた。
「力が入りすぎています」
突然背後から声をかけられ、凌華は肩を跳ねさせた。
「うわっ!」
振り返ると、そこには陸議がいる。
「また!」
「何です?」
「後ろから急に来ないで!」
「普通に来ました」
「それ毎回言うよね」
「事実なので」
陸議は凌華の手にある短剣へ視線を落とした。
「赤壁へ行くそうですね」
「……聞いた?」
「ええ」
「反対?」
「はい」
迷いのない即答だった。
「やっぱり」
「ですが、あなたは止めても来るのでしょう」
「……うん」
陸議は近くにあった木剣を手に取った。
「ならば、生き残れるようにします」
凌華は目を見開いた。
「陸議さん……」
「構えてください」
「はい!」
凌華が短剣を構えると、陸議の表情が変わる。
「今日は型ではなく、実戦を想定します」
「孫策みたいなこと言う」
「……それは少し不本意です」
「そこ?」
「来ます」
「え?」
次の瞬間、陸議が一気に間合いを詰めた。
「――っ!」
木剣が振り下ろされ、凌華はぎりぎりのところで短剣を合わせる。
乾いた音が響いた。
「待って!」
「敵は待ちません」
「鬼!」
「知っています」
「前も言った!」
***
何度倒されたか、途中から数えることすらやめた。
「痛い……」
地面に座り込んだ凌華へ、陸議が容赦なく声をかける。
「立って」
「休憩」
「駄目です」
「五分」
「駄目です」
「三分」
「交渉しないでください」
「一分!」
「立って」
「鬼ぃ……」
それでも凌華は立ち上がった。
短剣を握り直す。
陸議も再び木剣を構えた。
「凌華」
「はい」
「戦場では、私から離れないでください」
先ほどまでより少しだけ柔らかな声だった。
「……え?」
「あなたはまだ、戦いながら周囲全体を見る余裕が少ない。乱戦になれば、自分の正面だけに意識を取られる可能性があります」
陸議は当然のことを説明するように続ける。
「ですから、できる限り私の近くにいてください」
胸が一度、大きく鳴った。
「……それ、どういう意味?」
「どういう意味とは?」
「いや……」
自分から聞いておきながら恥ずかしくなり、凌華は目を逸らした。
「何でもない」
長剣から、いかにも面白がっている声が聞こえる。
『ほー』
「……黙って」
凌華はほとんど息だけで呟いた。
「何か言いましたか?」
「何も!」
「そうですか」
危ない。
凌華は慌てて短剣を構え直した。
ふと陸議を見ると、ほんのわずかに耳が赤く見える。
「……陸議さん」
「何です?」
「耳――」
「構えてください」
「今、誤魔化した!」
「行きます」
「待って!」
容赦なく木剣が振り下ろされた。
***
その夜、陸議は一人、自分の剣を手入れしていた。
昼間、自分が凌華へ言った言葉が何度も頭に浮かぶ。
――戦場では、私から離れないでください。
兵として考えれば、何もおかしな指示ではない。
凌華はまだ戦場での経験が浅く、周囲を見る余裕も少ない。
自分の近くに置いた方が守りやすく、同時に凌華自身も動きやすい。
合理的な判断だ。
「……それだけだ」
口にしてから、陸議は手を止めた。
誰に言い訳しているのだろう。
ふと、以前凌華が口にした言葉を思い出す。
史書の中にいる陸遜ではなく、今ここにいる自分の方が身近だと、彼女はそう言った。
陸遜。
未来の自分。
凌華が、自分よりも先に知っていた自分。
同じ人間であるはずなのに、最近その存在を考えると、どうにも妙な感覚が残る。
「……私なのに」
思わず漏れた言葉に、自分自身で呆れた。
同じ自分を相手に何を張り合っているのか。
陸議は小さく息を吐き、再び剣の手入れへ戻った。
***
数日後、いよいよ進軍の準備が本格的に始まった。
兵が集まり、船へ武器や食料が運び込まれ、馬の準備も進められていく。
周囲の空気が日に日に張り詰めていくのを、凌華も肌で感じていた。
凌華にも戦へ向かうための装備が渡された。
腰には二振りの短剣。
そして背には、あの長剣。
生きてる方の孫策が戦乱に行くなら、普段使わない長剣は腰より背中に付けておけと言ってくれた。
『とうとうだな』
「うん」
『怖えか』
「めちゃくちゃ」
『なら正常だ』
凌華は少し笑った。
「あなたは怖くなかったの?」
『俺?』
「うん」
『怖かったぞ』
意外な答えに、凌華は目を瞬いた。
「嘘」
『何でだよ』
「孫策って、怖いものなさそうだから」
『馬鹿』
呆れたように言ったあと、孫策は少しだけ声を落とした。
『怖くねえから戦うんじゃねえよ』
「じゃあ?」
『怖くても、行かなきゃならねえ時があるだけだ』
凌華はその言葉を静かに聞いた。
「……そっか」
腰の短剣を確かめ、長剣を背負う。
鏡はない。
それでも、今の自分が博物館の資料展へ足を運んだあの日の自分とは、もう同じではないことだけは分かった。
***
出発の朝。
孫策が軍の前に立った。
傷は回復してきているとはいえ、まだ完全ではない。
そのため今回の指揮は孫策一人が担うのではなく、周瑜や孫権とも役割を分けることになっていた。
それ自体、凌華の知る歴史にはなかった形だ。
呂蒙もいる。
陸議もいる。
そして凌華もいる。
この先では劉備軍と合流し、諸葛亮たちとも連携して曹操軍へ対抗することになる。
凌華は空を見上げた。
「……行くんだ」
「今さら怖くなりましたか?」
隣から聞こえた声に目を向けると、陸議が立っていた。
「ずっと怖い」
「そうですか」
「でも、行く」
陸議は小さく頷いた。
「では、戻りましょう」
「え?」
凌華が聞き返す。
陸議は前を向いたまま続けた。
「勝つことも重要です。ですが、今は生きて戻ることの方が重要でしょう」
凌華は少しだけ笑った。
「うん」
そして、今度は自分から言った。
「戻ろう。一緒に」
陸議が凌華を見る。
ほんの一瞬だけ視線が重なったあと、彼は静かに頷いた。
「ええ」
その返事は、いつもより少しだけ優しく聞こえた。
***
やがて軍が動き始めた。
長江へ。
南下してくる曹操の大軍へ。
そして、後世の歴史が「赤壁」と呼ぶ戦いへ。
けれど、これはもう凌華が知っている赤壁ではない。
本来ならそこにいなかったはずの孫策がいる。
まだ「陸遜」と名乗っていない陸議もいる。
そして未来を知っていたはずの凌華自身も、歴史を変えたことで、この先に何が起こるのか分からなくなっている。
誰が勝つのか。
誰が生き残るのか。
そして、誰が命を落とすのか。
その答えを、凌華が知っていた史書の中に求めることはもうできなかった。
『……ここからか』
長剣から聞こえた小さな声に、凌華は眉を寄せた。
「何?」
『何でもねえ』
「またそれ」
『前だけ見ろ』
「……はいはい」
凌華は言われた通り顔を上げた。
その先に広がる長江。
水面には無数の船が浮かび、さらに遠くには、対岸を埋め尽くすのではないかと思えるほどの軍勢が見える。
曹操軍。
実際にその光景を目にした瞬間、凌華の呼吸が止まった。
大軍だということは知っていた。
文字でも読んだ。
数字としても見た。
けれど、知識として理解することと、実際に自分の目で見ることはまるで違った。
「……こんなの」
本当に勝てるのだろうか。
喉まで出かかった言葉を、凌華はどうにか飲み込んだ。
すると前方にいた孫策が振り返った。
いつものように、笑っている。
「凌華!」
「……何!」
「見とけ!」
孫策が剣を抜いた。
その切っ先を、曹操の大軍へ向ける。
「未来の歴史書に、俺たちが勝ったって書かせてやる!」
兵たちの間から、地面まで震わせるような声が上がった。
凌華は呆気に取られたあと、思わず笑った。
「……ほんと、馬鹿」
背中の長剣からも、同じ男の楽しそうな声が聞こえる。
『だろ?』
凌華は今度は返事をせず、笑ったまま二振りの短剣へ手をかけた。
もう、未来に書かれた答えを探すためにここにいるのではない。
これから先に何が残るのかは、今を生きている自分たちが決めていく。
長江を渡る風が、凌華の髪を大きく揺らした。
後世に「赤壁」と刻まれる戦いが、今まさに始まろうとしていた。
――第十八話・了




