第十九話 赤壁開戦
凌華は船縁に片手を添えたまま、目の前に広がる光景から目を離せずにいた。
長江の広い水面を埋め尽くすように、大小さまざまな軍船が並んでいる。風を受けた帆が大きく膨らみ、その間から何本もの帆柱が空へ伸びていた。ひとつの船の向こうにまた別の船があり、そのさらに奥にも軍旗が見える。どこまでが曹操軍なのか、ここからでは見当もつかないほどだった。
船上を行き交う兵たちの声に、太鼓や銅鑼の重い音が混じる。それらは水面を渡るうちに幾重にも重なり、遠くから聞こえているはずなのに、まるで巨大な軍そのものが低く唸っているように凌華の耳へ届いた。
「……多い」
しばらく呆然と眺めた末、ようやく口から出たのはそんな言葉だった。
背中には、いつもの長剣が斜めに固定されている。肩越しに伸びた柄の向こうから、すっかり聞き慣れた男の声が返ってきた。
『そりゃ大軍だからな』
「分かってるよ。でも、数字で見るのと実際に見るのは全然違う」
曹操軍の兵力について、後世に残された記録にはさまざまな説がある。卒業論文の資料を集めていた凌華も、それくらいは知っていた。
けれど今、正確な数字が何人なのかはどうでもよかった。
視界の先に広がる軍船の一隻一隻に兵が乗っている。甲板を走る者がいて、槍を抱えて立つ者がいて、遠くからでは顔すら見えないほど小さな人影が、数え切れないほど並んでいる。
資料に書かれた「兵力」という二文字の向こう側に、これほど多くの人間がいたのだと、凌華は初めて実感した。
「……これが、赤壁なんだ」
何度も本で読んだ。
映像でも見た。
卒業論文のために、さまざまな資料も調べた。
曹操の大軍と孫氏・劉備勢力が長江を舞台に激突した、三国志を代表する戦いの一つ。
現代にいた頃の凌華にとって、それは遥か昔に起きた歴史上の出来事だった。
けれど今、目の前にあるものは「歴史」という言葉では片づけられない。
船の上を走っている兵も、仲間と何かを話している若者も、槍を握って敵陣を睨んでいる男も、全員が今この瞬間を生きている。
そして、これから始まる戦いの中で、そのうちの何人か――いや、おそらく大勢が死ぬ。
そう思った途端、胃の奥が冷たく縮むような感覚がした。
「怖いですか?」
すぐ隣から聞こえた声に、凌華はゆっくり振り向いた。
いつの間にか陸議が傍へ来ていた。彼もまた船縁の向こうへ視線を向け、遠くに連なる曹操軍の船を見つめている。
「……怖いよ」
強がっても仕方がないと思い、凌華は素直に答えた。
「そうですか」
「否定しないんだ」
「何をです?」
「大丈夫ですよ、とか。怖くありませんよ、とか」
陸議は一度凌華へ視線を向けると、不思議そうに僅かに首を傾けた。
「私が怖くないと言えば、凌華も怖くなくなるのですか?」
「……ならない」
「では、言っても仕方ありません」
あまりにも陸議らしい返答だった。
先ほどまで胸の奥を締めつけていた緊張がほんの少しだけ緩み、凌華の口元から小さな笑いが漏れる。
「陸議さんって、そういうところあるよね」
「褒められているのでしょうか」
「たぶん」
背中から、呆れたような声が割り込んだ。
『こいつと話してると緊張感なくなるな』
「それはちょっと分かる」
思わず返事をした直後、隣から視線を感じた。
「何がです?」
陸議だった。
凌華の笑顔が固まる。
またやってしまった。
「……独り言」
「そうですか」
「そうです」
何事もなかったように言い切ったものの、陸議の目には明らかに疑いが残っている。
『もう無理あるぞ、それ』
「うるさい」
「誰がです?」
「…………」
凌華はしばらく黙ったあと、何事もなかったように長江へ視線を戻した。
「今のも独り言」
「随分と会話形式の独り言ですね」
「そういう日もあるの」
『ねえよ』
これ以上喋るなという意味を込めて、凌華は背中へ手を回し、長剣の鞘を軽く叩いた。
その一連の動きを、陸議が何も言わずに見ていたことには気づかなかった。
***
ほどなくして、物見から曹操軍の一部が動き始めたとの報告が入った。
凌華たちが急いで軍議の場へ戻ると、中央には長江周辺を簡略化した図が広げられ、周瑜が次々と届く報告を聞きながら盤上の駒を動かしていた。
孫策、孫権、呂蒙、陸議がその周囲を囲み、凌華も空いている場所へ入る。
「中央に大型船を集め、左右には比較的小型の船を配置しています」
兵からの報告を聞きながら、凌華は盤上に並べられていく駒を目で追った。
ふと、以前から気になっていたことを思い出す。
「船は?」
周瑜が顔を上げる。
「船?」
「繋いでる?」
問い返された兵が少し考えてから答えた。
「一部では、船同士を固定する動きが確認されています。ただし、全体ではありません」
その言葉を聞いた瞬間、凌華は盤面を見つめたまま眉を寄せた。
「……違う」
「何がだ?」
孫策がすぐに反応する。
「私が知ってる赤壁と」
凌華は記憶を探りながら言葉を続けた。
「私が知ってる話では、曹操軍には水上戦に慣れてない兵が多くて、船の揺れとか船酔いを抑えるために、船同士を繋いだって話が有名なの」
「すべての船をですか?」
周瑜に尋ねられ、凌華はすぐに首を横に振った。
「そこまでは分からない。私が知ってる赤壁って、当時の記録だけじゃなくて、ずっと後の時代に作られた物語の内容も混ざってるから。どこまでが本当にあったことなのか、私にも判断できないところがある」
「ですが、少なくとも船を繋いだという話は残っている」
「うん」
周瑜は凌華の答えを聞くと、もう一度盤面へ視線を落とした。
「現時点では一部だけですね」
「やっぱり……変わってる」
自分が知っている赤壁と、今ここで起きている赤壁。
少しずつ違いが現れ始めている。
そのことに不安を覚えていると、隣にいた陸議が静かに口を開いた。
「こちらも違います」
「え?」
「凌華の知る赤壁には、孫策殿はいなかったのでしょう?」
凌華は反射的に孫策を見る。
「……うん」
本来なら。
その言葉だけは、胸の中へ押し込めた。
本来の歴史では、孫策は赤壁を迎えるよりずっと前に亡くなっている。
けれど今は、生きている。
しかも孫策自身が軍を率い、この戦いに加わっている。
「ならば、曹操側の動きが凌華の知るものと変化していても不思議ではありません」
陸議に言われ、凌華はもう一度盤面を見た。
自分はこれまで、歴史が変わったと言いながらも、どこかで「この先に起きること」を知っているつもりでいたのかもしれない。
けれど、変わったのはこちら側だけではない。
孫策が生きていることを曹操も知っている。
その事実を踏まえて相手が行動を変えるのなら、凌華の知る赤壁がそのまま再現されるはずがなかった。
「……そっか」
ようやく腑に落ちたように呟くと、周瑜が凌華へ顔を向けた。
「以前も話した通りです。あなたの知識は重要です。しかし、それを答えにはしない」
「うん」
「違いに気づいたら教えてください。そこから何を読み、どう動くかはこちらで考えます」
「分かった」
凌華が頷くと、腕を組んでいた孫策が口を挟んだ。
「要するに、凌華は知ってることを全部吐け。使えるかどうかは俺らで決める」
「言い方!」
「分かりやすいだろ?」
「もうちょっとあるでしょ!」
二人のやり取りを聞いていた呂蒙が豪快に笑い、張り詰めていた軍議の空気が僅かに緩む。
けれど、その笑いが消えるより早く、外から切迫した声が響いた。
「敵船、接近!」
全員の表情が変わった。
周瑜は即座に盤面から顔を上げる。
「来ます」
その一言を聞いた瞬間、凌華の心臓が強く鳴った。
ついに。
自分の知っている「赤壁」ではなく、今ここにいる人たちが戦う赤壁が始まる。
***
最初に動いた曹操軍の船団は、全軍のごく一部だった。
互いに相手の出方を探るための小規模な衝突だと、事前には説明されていた。
けれど、実際に甲板へ立った凌華には「小規模」という言葉がまるで別世界のものに思えた。
距離を縮めてくる敵船の上で兵が動き始め、太鼓の音が次第に大きくなる。味方の兵たちも弓を構え、怒号のような命令が船上を飛び交った。
次の瞬間、無数の矢が空へ放たれた。
弧を描いて飛んでくる矢の群れを見た凌華は、一瞬、身体を動かすことさえ忘れた。
「凌華!」
陸議の声が耳を打ち、反射的に身体を低くする。
ほとんど同時に、一本の矢が頭上を鋭く通り過ぎ、背後の甲板へ突き刺さった。
「ひっ……!」
振り返ると、木に食い込んだ矢の柄がまだ細かく震えている。
ほんの少し反応が遅れていたら。
そう考えた瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
「下ばかり見ないでください!」
「分かってる!」
「分かっている人は今の声を出しません!」
「怖いものは怖いの!」
『喧嘩してる場合か! 前見ろ!』
背中から飛んできた怒鳴り声に、凌華は反射的に返した。
「分かってるって!」
「凌華!」
陸議に呼ばれ、ようやく自分がまた声に出していたことに気づく。
けれど今は、誤魔化している場合ではなかった。
鈍い衝撃音とともに敵船が接触し、足元の甲板が大きく傾いた。
凌華は咄嗟に足を開いて踏ん張る。
次々と曹操軍の兵がこちらの船へ乗り移ってくるのが見えた。
凌華は背中の長剣には手を伸ばさず、腰に差していた二本の短剣を抜いた。
目の前へ飛び込んできた敵兵が、勢いのまま剣を振り下ろしてくる。
短剣で受けた瞬間、腕から肩まで強い衝撃が突き抜けた。
「っ……!」
力で押し返そうとしても勝てない。
そう判断すると同時に、これまで呂蒙や陸議から何度も叩き込まれてきた動きを思い出す。
正面から力をぶつけるのではなく、相手の勢いを流す。
凌華は短剣の角度を変え、押し込んでくる刃を横へ滑らせた。
支えを失った敵兵の身体が前へ傾く。
その瞬間を逃さず、凌華は相手の腕へ短剣の柄を叩き込んだ。
男の手から剣が落ち、甲板の上で乾いた音を立てる。
できた。
そう思った瞬間だった。
『後ろ!』
背中から響いた声に身体が反応する。
振り向いた視界いっぱいに、別の敵兵の刃が迫っていた。
避けきれない。
そう思った次の瞬間、凌華の目の前へ陸議の剣が滑り込み、激しい金属音とともに敵の刃を弾いた。
「一人に集中しすぎです!」
「ごめん!」
「謝るより周囲を見てください!」
「はい!」
凌華は必死に顔を上げた。
その時、船が波を受けて大きく傾いた。
足元が横へ流れる感覚に合わせて重心を落とした凌華とは対照的に、目の前の敵兵が大きくよろめく。
凌華は一瞬、相手の足元を見た。
もう一人。
その向こうでも、曹操軍の兵が船の揺れに足を取られている。
それに対して、こちらの兵たちは揺れを予測するように膝を使い、身体の軸を保っていた。
「陸議さん!」
敵の刃を避けながら凌華が叫ぶ。
「何です!」
「やっぱり向こう、水の上に慣れてない!」
陸議もすぐに周囲へ目を走らせた。
「……確かに」
「これ、使える?」
「ええ」
返事をすると同時に、陸議は近くの兵へ指示を飛ばした。
無理に力で押し返すのではなく、相手が踏み込んでくる瞬間に船の揺れを利用する。
その意図を理解した兵たちが動きを変える。
凌華も短剣を構え直し、低く重心を落とした。
陸上とは違う。
足元は止まってくれない。
それならば、揺れに逆らうのではなく利用すればいい。
次の敵兵が剣を振り上げながら踏み込んできた。
凌華はぎりぎりまで待って身体を半歩ずらす。
ちょうどその瞬間、船が傾いた。
敵兵の足が滑る。
凌華は伸びてきた腕を取り、その勢いを殺さず横へ流した。
男の身体が甲板へ転がる。
「できた……!」
嬉しさが込み上げたのも束の間、背中から容赦のない声が飛んできた。
『喜ぶのは後だ! 次!』
「分かってる!」
また口に出していた。
凌華はすぐに次の敵へ視線を向けたが、その横で陸議が一瞬だけこちらを見たことには気づいていた。
戦いの最中だから何も言われなかった。
けれど、その視線には明らかに何かを確かめようとする色があった。
***
やがて、曹操軍の船が少しずつ距離を取り始めた。
敵が退いたと見るや、味方の兵の一部が追撃へ移ろうとする。
その瞬間、周瑜の鋭い声が船上を走った。
「追うな!」
兵たちが足を止める。
直後だった。
距離を取った敵船から一斉に矢が放たれ、黒い影となって空を横切った。
無数の矢が降り注いだのは、もし追撃していれば味方の船が進んでいたはずの場所だった。
水面に次々と矢が突き刺さり、細かな飛沫が上がる。
凌華はその光景を見たまま息を呑んだ。
「……罠だったんだ」
「ええ」
傍へ来た陸議が、遠ざかる敵船を見つめながら答える。
「こちらが追うかどうかを見ていたのでしょう」
凌華もその先へ目を向けた。
曹操。
後世にまで名を残した人物を相手にしているのだ。
未来を知っているからといって、自分たちだけが相手より先を見通せるわけではない。
まして歴史が変わり始めた今、凌華の知識に頼り切ることの方が危険なのかもしれない。
『初っ端から簡単にはいかねえな』
背中から聞こえた声に、凌華は敵船を見たまま答えた。
「そりゃそうでしょ。曹操だよ?」
言い終えたところで、隣から視線を感じた。
ゆっくり顔を向けると、陸議と目が合う。
何も言わない。
けれど、明らかにこちらを見ている。
凌華は数秒耐えたあと、そっと目を逸らした。
「……独り言」
「凌華」
「はい」
返ってきた声がいつもより静かだったため、凌華は観念したように陸議へ向き直った。
陸議の視線は凌華の顔ではなく、その背中へ向けられている。
「以前から、気になっていました」
その言葉だけで何を指しているのか分かり、凌華の肩に僅かに力が入った。
『……来たな』
背中から聞こえた声に、凌華は反射的に小さく返す。
「黙ってて」
「今のも、独り言ですか?」
「…………」
自分から証明してしまった。
凌華が言葉を失っている間にも、陸議はこれまでの出来事を思い返すように続けた。
「あなたは時々、突然誰かに返事をします。最初は本当に独り言なのだと思っていました」
「……うん」
「ですが、返事をする前後に、背中の剣へ意識を向けることが多い。先ほどの戦いでも、誰かに注意されたように動きを変え、その直後に返事をしていました」
凌華は背中の長剣を意識した。
思い返せば、隠していたつもりになっていただけなのかもしれない。
孫策の声が聞こえるたびに返事をし、時には鞘を叩き、時には肩越しに長剣を見ようとしていた。
観察力の鋭い陸議が、それをいつまでも見逃してくれるはずがなかった。
『やっぱ疑ってたじゃねえか』
危うく「だよね」と答えそうになり、凌華は慌てて唇を閉じた。
しかし、その僅かな表情の変化すら陸議は見逃さなかった。
「……今も、何か言われたのですか?」
凌華はしばらく黙っていた。
もう「独り言」で押し通す方が不自然だ。
そう諦めると、小さく息を吐いた。
「……うん」
陸議の表情が僅かに変わる。
凌華は背中へ腕を回し、固定していた長剣を鞘ごと外した。
両手で抱えるように持つと、今までより急に重く感じられる。
「陸議さん」
「はい」
「もし、この剣から……私にだけ声が聞こえてるって言ったら」
そこまで言ったところで、不安になった。
現代なら、剣から声が聞こえるなどと言えば心配されるか、冗談だと思われるだろう。
まして陸議には、その声が聞こえない。
「……信じる?」
陸議はすぐには答えなかった。
凌華の腕の中にある長剣を見つめ、それから凌華の顔へ視線を戻す。
「信じます」
あまりにも自然に返され、凌華は目を瞬いた。
「……え、信じるの?」
「ここまで見て、信じない方が難しいでしょう」
「いや、普通もっと驚かない?」
「驚いています」
「見えないんだけど」
「それは申し訳ありません」
『こいつ、やっぱ変な奴だな』
「あなたに言われたくないと思う」
「今、その声が?」
陸議が即座に尋ねる。
凌華は「あ」と口元を押さえたあと、もう隠す必要もないことを思い出して頷いた。
「うん」
陸議は改めて長剣へ視線を落とした。
「本当に、この中から?」
「私にはそう聞こえる。声が聞こえるのは私だけみたいだけど」
「では、その声には意思があるのですね」
「あるよ。すっごいある」
『すっごいって何だ』
「うるさいし」
『おい』
「口も悪いし」
『凌華』
堪えきれず凌華が笑うと、陸議の表情も僅かに和らいだ。
「随分と仲が良いのですね」
「仲が良い……のかな?」
『普通だろ』
「普通だって」
「そうですか」
陸議には何も聞こえていない。
それなのに凌華の表情や返事を通して、本当にそこに誰かがいるものとして受け入れようとしている。
そのことが、凌華には少し嬉しかった。
「いつから聞こえているのです?」
「最初から」
「最初?」
「私がこの時代に来た時から」
その答えに、陸議の目が僅かに見開かれた。
「では、あの村で出会った時には、既に?」
「うん」
凌華は腕の中の長剣へ視線を落とした。
「あの時、私、剣なんて使ったことなかったでしょ?」
「ええ」
「この人が教えてくれたの。どこを見ればいいとか、どう動けばいいとか。だから、あの村で賊と戦えたのも、この人がいたから」
陸議は何も言わなかった。
凌華と初めて出会ったあの日、剣を握った経験すらないと言った少女が、何人もの賊を相手に生き残っていた。
ずっと残っていた矛盾の一つが、今になってようやく彼の中で繋がったのだろう。
しばらくして、陸議が小さく息を吐いた。
「……なるほど」
その一言に、納得と同時に別の感情が混じったように聞こえた。
陸議は長剣を見つめたまま、静かに尋ねる。
「その者は、凌華を害する存在ではないのですね?」
その問いだけは、凌華も迷わなかった。
「うん」
長剣を抱く腕へ自然と力が入る。
「ずっと助けてもらってる」
『…………』
孫策から返事はなかった。
けれど、何となく照れて黙っているような気がして、凌華の口元が緩む。
「照れてる?」
『照れてねえ』
「照れてる」
『うるせえ』
思わず笑うと、陸議もそのやり取りを静かに見ていた。
やがて彼は少しだけ間を置き、慎重に尋ねた。
「誰なのかも、聞いていいですか?」
凌華の笑みが止まった。
そこだけは、自分の判断だけで答えていいことではない。
腕の中の長剣へ視線を落とす。
『まだいい』
短い返事だった。
凌華は少し残念に思いながらも頷き、陸議へ顔を向けた。
「ごめん。まだ言えない」
「その者が?」
「うん」
陸議はしばらく長剣を見つめたものの、それ以上追及することはなかった。
「分かりました」
「……いいの?」
「話せない理由があるのでしょう?」
「ある……みたい」
凌華自身、その理由をすべて知っているわけではない。
だからこそ、陸議が無理に聞き出そうとしないことに少し救われた。
「ならば、今はそれで構いません」
『物分かり良すぎて逆に怖えな』
凌華は吹き出した。
「何です?」
「物分かり良すぎて怖いって」
「そうですか」
陸議は腕の中の長剣へ向かって、真面目な顔のまま答えた。
「あなたも随分と慎重な方のようですね」
『……こいつ』
「何?」
『何でもねえ』
凌華はまた笑った。
これまで、自分だけにしか聞こえなかった声。
どれだけ会話をしても、周囲から見れば凌華が一人で喋っているようにしか見えなかった存在。
その声を陸議が聞けるようになったわけではない。
名前も正体も、まだ知らない。
それでも長剣の中に凌華とは別の意思を持つ「誰か」がいることを、初めて自分以外の人間が知った。
その事実が、凌華には思っていた以上に嬉しかった。
凌華は長剣を鞘ごと背中へ戻し、いつもの位置にしっかりと固定した。
***
戦闘が収まると、再び軍議が開かれた。
周瑜は最初の衝突で得られた情報を一つずつ整理し、盤上へ反映していった。
「曹操軍が水上戦に不慣れなのは、凌華の指摘通りでしょう」
呂蒙が腕を組みながら頷く。
「陸の兵が多いな。船が揺れた時、身体がついてきてねえ奴がかなりいた」
「ですが、今日の戦いで向こうもそれを理解したはずです」
陸議の言葉に、周瑜も頷いた。
「次は何らかの対策をしてくるでしょう」
凌華は盤上の船を表す駒を見つめた。
最初の軍議で話したことが頭をよぎる。
「……船を繋ぐかも」
孫策が眉を上げる。
「お前の知ってる赤壁みたいに?」
「うん。でも、そうなるとは限らない」
口にしてから、凌華自身が少し驚いた。
以前なら、「歴史ではそうなる」と言っていたかもしれない。
けれど今なら分かる。
今日の戦いで曹操軍はこちらを見た。
こちらも曹操軍を見た。
互いに相手を知り、その情報をもとに次の手を考える。
歴史の中に書かれた人々だって、決められた筋書きの上を歩いていたわけではない。
「その考え方でいいでしょう」
周瑜に言われ、凌華は小さく頷いた。
未来を知っていることは、答えを知っていることとは違う。
自分が持っている知識を材料として渡し、今ここにいる人たちが考え、選び、戦う。
そのために自分の知識を使えばいい。
ようやくそう思えるようになってきた、その時だった。
外から慌ただしい足音が近づき、軍議の場へ一人の兵が駆け込んできた。
「申し上げます! 曹操軍より、使者が参っております!」
先ほどまで話していた者たちの表情が、一斉に引き締まる。
「使者?」
孫策が眉を寄せた。
「このタイミングでか」
周瑜はすぐには答えず、何かを考えるように僅かに目を伏せた。やがて顔を上げると、報告に来た兵へ命じる。
「通してください。ただし、武器はすべて預かるように」
「はっ!」
兵が去ったあと、凌華は落ち着かない気持ちで入口を見た。
最初の衝突が終わったばかりだ。
互いに相手の力を探った程度で、まだ戦の行方など何も見えていない。
そんな段階で、曹操は何を伝えようとしているのだろう。
『降伏しろ、とかじゃねえだろうな』
背中から声が聞こえた。
「それなら気が早すぎない?」
言ってから、凌華は反射的に陸議を見た。
陸議もこちらを見ている。
数秒、互いに黙った。
それから凌華は、ようやく今までのように誤魔化す必要がないことを思い出した。
「あ、もう独り言って言わなくていいんだった」
「そうですね」
『楽になったな』
「ほんとにね」
凌華が笑うと、陸議の口元にも僅かな笑みが浮かんだ。
ほどなくして、曹操軍の使者が通された。
男は周囲へ目を向けることなく進み出ると、礼を取ったあと、一通の書状を差し出した。
周瑜がそれを受け取り、その場で封を解く。
誰も口を開かなかった。
紙を開く微かな音だけが、妙に大きく聞こえる。
凌華は特に深い意味もなく、書状へ目を落とす周瑜の横顔を眺めていた。
最初のうちは、いつもと変わらなかった。
けれど、途中まで読み進めたところで周瑜の目が止まった。
ほんの僅かな変化だった。
それでも、長く一緒にいるようになった凌華には分かった。
何かがおかしい。
周瑜は同じ箇所を確かめるように、もう一度目を走らせた。
「……これは」
低く漏れた声に、孫策が反応する。
「何だ?」
周瑜はすぐには答えなかった。
書状から顔を上げると、真っ直ぐ凌華を見る。
突然視線を向けられ、凌華は思わず自分の顔を指差した。
「……え? 私?」
「凌華」
周瑜の声には、先ほどまでとは違う慎重さがあった。
「あなたは、曹操と面識がありますか?」
「ないよ」
考える必要もなく答えた。
「一度も?」
「ない。会ったことも話したこともない」
そもそも、この時代へ来てから曹操軍の人間と直接関わった覚えすらない。
凌華の返事を聞くと、周瑜の眉間に僅かに皺が寄った。
「では、なぜ……」
「何?」
その表情を見ているうちに、胸の奥へ嫌な予感が広がっていく。
凌華は思わず身を乗り出した。
「何が書いてあるの?」
周瑜は少し迷ったあと、手にしていた書状を凌華へ差し出した。
「読めますか?」
「全部は無理だけど……」
受け取った凌華は、並んだ文字を一つずつ追っていった。
この時代へ来たばかりの頃に比べれば、読める文字はかなり増えている。それでも正式な書状を一人ですべて理解できるほどではない。
見覚えのある文字を拾いながら進んでいく。
その途中で、凌華の視線が止まった。
見間違えるはずがない。
何度も書く練習をした、自分の名前だった。
――孫凌華。
指先がその文字の上で止まる。
「……なんで?」
声が自然と小さくなった。
凌華は書状から顔を上げ、周瑜を見る。
「なんで曹操からの書状に、私の名前があるの?」
周瑜は凌華の目を見たまま、静かに答えた。
「曹操は、あなたの身柄を要求しています」
「…………は?」
言葉の意味は分かる。
それなのに、自分に向けられたものとして理解するまでには少し時間がかかった。
「私を?」
「ええ」
「なんで?」
周瑜は首を横に振る。
「理由までは記されていません」
凌華は書状を握ったまま、しばらく動けなかった。
曹操とは会ったことがない。
話したこともない。
孫策の養女になったことなら、間者を使えば調べられるかもしれない。軍議に参加していることも、どこかから情報を得た可能性はある。
けれど、それだけでは説明がつかなかった。
曹操ほどの人物が、敵方にいる素性不明の女一人を、わざわざ書状で名指しして身柄まで要求している。
その理由がまったく見えないことが、凌華には何より気味が悪かった。
「他には?」
凌華は書状を周瑜へ戻した。
「私について、何て書いてあるの?」
周瑜はすぐには答えなかった。
ほんの一瞬の躊躇。
それだけで、凌華の胸の奥に広がっていた不安がさらに強くなる。
「周瑜さん?」
促され、周瑜は静かに口を開いた。
「……あなたのことを、『未来を知る娘』と記しています」
凌華は瞬きすら忘れた。
「……え?」
周囲の音が急に遠ざかったように感じた。
目の前に孫策たちがいることも、曹操軍の使者がいることも分かっている。
それでも、頭の中では今聞いた言葉だけが何度も繰り返されていた。
「未来を……知る?」
孫策も孫権も、呂蒙も黙っている。
陸議の表情からも、先ほどまで僅かに残っていた穏やかさが消えていた。
凌華は書状を見つめる。
そこに書かれた文字が、急に得体の知れないもののように見えた。
「なんで……?」
喉が乾く。
「なんで曹操が、それを知ってるの?」
自分が未来から来たことを明かした相手は限られている。
もちろん、ここまで情勢が動けば、凌華という女が孫策の傍にいること自体は曹操側へ伝わっていても不思議ではない。
突然現れた素性不明の女が孫策の養女となり、軍議にまで加わっている。
それだけでも、敵から見れば調べる価値のある存在なのかもしれない。
しかし、「未来を知る」という話は別だった。
「……どこかから漏れたの?」
凌華が周瑜を見る。
「可能性はあります」
周瑜は慎重に答えた。
「ですが、現時点では何も断定できません。内部から伝わったのか、別の経路で曹操が知ったのか。それすら分からない」
「……そっか」
凌華はそれ以上何も言えず、もう一度書状へ視線を落とした。
誰かを疑う材料はない。
何が起きたのかも分からない。
だからこそ、余計に気味が悪い。
自分の知らない場所で、自分について何かが動いている。
その感覚が、じわじわと背中を這い上がってくる。
「……気持ち悪い」
思わず漏れた声に、背中から低い返事があった。
『……ああ』
いつもの孫策とは違う。
からかう調子も、余裕のある笑いもなかった。
『曹操が、お前を……?』
その声に含まれた戸惑いに気づき、凌華は僅かに眉を寄せた。
孫策も知らない。
これまで凌華の知らないことを知っているような言葉を何度も口にしてきた彼が、今回のことには明らかに驚いている。
その事実が、凌華の胸にあった不安をさらに大きくした。
「……この人も知らなかったみたい」
無意識に呟く。
隣にいた陸議がすぐに反応した。
「曹操が、あなたを求めることを?」
凌華は小さく頷く。
「うん。不思議がってる」
陸議の視線が、凌華の肩越しに背中の長剣へ向けられた。
先ほどまでは、そこに誰かがいることを知っているのは凌華だけだった。
けれど今は違う。
声そのものは聞こえなくても、陸議もその存在を知っている。
「そうですか」
陸議はそれ以上尋ねなかった。
目の前にはまだ曹操の使者がいる。
軍議も終わってはいない。
「あとで聞きましょう」
「……うん」
凌華が小さく頷いた、その直後だった。
孫策が周瑜から書状を受け取った。
鋭い目で内容を追っていくうちに、いつも浮かべている豪快な笑みが完全に消えていく。
やがて紙を持つ指に力が入り、書状が僅かに歪んだ。
「ふざけんな」
押し殺された低い声が、静まり返った場に落ちる。
「誰が俺の娘を、曹操なんぞに渡すかよ」
凌華は何も言えず、孫策を見つめた。
普段は豪快に笑い、父親というには三つしか年齢が違わないと互いに文句を言い合っている。
凌華自身、未だに「父」と呼ぶには違和感がある。
それでも今の孫策は、間違いなく自分を娘として見ていた。
曹操という巨大な敵から名指しされても、一瞬たりとも差し出すという選択肢を考えていない。
そのことが胸に沁みるのと、ほとんど同時だった。
背中の長剣から、怒りを押し殺した声が響いた。
『ふざけんな』
まったく同じ言葉だった。
目の前に立つ、生きている孫策。
そして背中の長剣に宿り、凌華にしか声を届けられない男。
二人の声が奇妙なほど重なった瞬間、凌華は言葉にできない感覚を覚えた。
けれど、その理由を考える余裕はなかった。
曹操は自分を知っている。
ただ孫策の養女としてではない。
「未来を知る娘」として。
なぜその情報を持っているのかも、なぜ身柄を要求するのかも、今の凌華には何一つ分からない。
それまで凌華は、未来を知る自分が過去の戦いへ介入しているのだと思っていた。
歴史の行く先を知る側に立ち、目の前の人々を助けるために、自分の知識をどう使うべきかを考えてきた。
けれど、曹操から届いた一通の書状によって、その立場は大きく揺らいだ。
自分はもう、歴史を外側から眺めているだけの存在ではない。
この時代の人間から名を呼ばれ、求められ、その存在そのものが戦の判断材料にされ始めている。
長江の向こうでは、曹操軍の無数の旗が夕風を受けて揺れていた。
その軍勢のどこかにいる曹操が、孫凌華という名を知っている。
そう考えた瞬間、先ほどまで遠くに感じていた敵軍が、急に自分へ向かって迫ってきたような錯覚を覚えた。
赤壁の炎が上がるより先に。
未来から来た少女自身が、戦の中心へと引きずり出された。
――第十九話・了




