↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
第二章 運命への抵抗編 〜知っている歴史〜
26/78

第二十話 名指しされた未来


「誰が俺の娘を、曹操なんぞに渡すかよ」


孫策の低い声が軍議の場に響き、そのまま重い沈黙が残った。


先ほどまで話し合っていたのは、長江を埋め尽くす曹操軍をどう迎え撃つかという戦の話だった。それが一通の書状によって、まるで違う方向へ引きずられている。


周瑜の手にある書状には、確かに凌華の名が記されていた。


孫凌華――そして、曹操が彼女を指す言葉として記したのは「未来を知る娘」。


凌華はその文字を見つめながら、何度考えても理解できなかった。


曹操とは会ったことがない。もちろん言葉を交わしたこともなければ、曹操軍の人間に自分の素性を話した覚えもない。


未来から来たことを知る者はいる。けれど、それを明かしたのはごく限られた相手だけであり、まして長江の向こうにいる曹操本人へ伝わっているとは考えにくかった。


「……意味分かんない」


思わず漏れた声に、背中の長剣から低い声が返ってきた。


『俺もだ』


いつもの軽さがない。


凌華が僅かに肩越しへ意識を向けると、その仕草を隣にいた陸議が静かに見ていた。


今この場で、凌華が長剣から聞こえる何者かの声と会話していることを知っているのは陸議だけだった。もっとも、その声の主が誰なのかまでは明かしていない。


周瑜は書状へもう一度目を通してから、使者へ顔を上げた。


「一つ、確認してもよろしいでしょうか。曹丞相は、なぜ孫凌華の身柄を求めているのです?」


「存じません」


使者の返答は短かった。


「私は書状を届け、その返答を持ち帰るよう命じられたのみでございます」


敵陣のただ中に一人で立っているというのに、男の表情にはほとんど変化がない。


周瑜も、それ以上問い詰めようとはしなかった。本当に知らないのか、あるいは余計なことを話さぬよう命じられているのか。それすら今は判断できない。


凌華も黙って使者を見ていたが、不意に男と視線が重なった。


その瞬間、妙な違和感を覚えた。


男は迷わず凌華を見ている。


この場には何人もの人間がいる。それなのに、誰が孫凌華なのか一度も尋ねていない。


「……私が誰か、知ってるんですか?」


凌華が尋ねると、使者は僅かに頭を下げた。


「伺っております」


「誰から?」


「曹丞相より」


胸の奥へ、冷たいものが落ちた。


孫策の眉が寄り、周瑜も使者を見る目を僅かに鋭くする。


「曹操は……私の顔まで知ってるの?」


「特徴は伺っております」


それだけなら、まだ説明はつくかもしれない。


孫策が突然養女にした素性不明の女が軍議に出入りしているとなれば、敵側が間者を使って調べていても不思議ではない。


凌華がそう考えようとした時、使者が静かに続けた。


「もう一つ、曹丞相よりお預かりしているものがございます」


周囲の空気が一瞬で張り詰めた。


使者が懐へ手を伸ばそうとすると、控えていた兵たちが一斉に身構える。男はすぐに動きを止め、武器ではないと告げた。


周瑜が目配せすると、一人の兵が使者へ近づき、懐から細長く巻かれた紙を受け取った。危険がないことを確かめたうえで、それが周瑜へ渡される。


ただの紙のはずだった。


それなのに凌華は、なぜか目を離せなかった。


理由もなく胸がざわつき、見てはいけないものがその中にあるような感覚だけが強くなっていく。


周瑜が紐を解き、巻かれていた紙をゆっくりと広げた。


そこに描かれていたものを目にした途端、彼の手が止まった。


「……これは」


隣から覗き込んだ孫策も、それまで浮かべていた怒りを消した。呂蒙は眉を寄せ、孫権も黙ったまま紙を見つめている。諸葛亮もまた何かに気づいたらしく、僅かに目を細めた。


皆の表情が変わったことで、凌華の鼓動が速くなる。


「……何?」


誰もすぐには答えない。


「何なの?」


凌華が一歩近づくと、周瑜はしばらく紙を見つめたあと、それを凌華へ向けた。


「……ご自身で見た方がよいでしょう」


凌華は紙へ視線を落とした。


「…………え?」


そこには、一人の女が描かれていた。


墨で描かれた、この時代の姿絵だった。現代の写真ほど正確なものではないはずなのに、黒い髪や目元、鼻筋から輪郭に至るまで、見れば見るほど他人とは思えない。


「……私?」


自分の声が、ひどく遠く聞こえた。


似ているという言葉では足りなかった。


纏っている衣も髪の結い方も違ううえ、絵の中の女は今の凌華よりいくらか大人びている。それでも、あと何年かこの時代で生きた自分を描けばこうなるのではないかと思えるほど、その面差しはよく似ていた。


凌華は周瑜から姿絵を受け取った。


紙が僅かに揺れたことで風かと思ったが、すぐに自分の指が震えているのだと気づく。


「何……これ」


戸惑いながら姿絵を見ていた凌華の視線が、やがて女の傍らで止まった。


一振りの長剣がある。


腰に二振りの短剣を差しているわけではない。ただ一本の長剣を携えているその姿を見た途端、凌華は反射的に背中へ手を伸ばした。


指先が、自分の長剣の鞘へ触れる。


姿絵に描かれた剣へ目を戻した。


「……同じ?」


古い姿絵である以上、細部まで完全に見分けられるわけではない。それでも鍔や柄、全体の形は、凌華がこの時代へ来た時から持っている長剣と酷似していた。


「ねえ」


背中へ呼びかける。


『…………』


返事がない。


凌華は僅かに眉を寄せた。


「これ……あなたでしょ?」


それでも返事はなかった。


「ねえってば」


いつもなら、頼んでもいないのに口を挟んでくる。


凌華が何かを間違えれば笑い、危険なことをすれば怒鳴り、陸議と話していれば余計なことまで言ってくる。


そんな男が今だけ黙り込んでいる。


その沈黙が、姿絵そのものよりも凌華を不安にさせた。


「……何で黙ってるの?」


陸議がその横顔を見た。


「返事がないのですか?」


「……うん」


凌華が小さく頷くと、陸議の視線が背中の長剣へ移った。


もう一度姿絵へ目を戻した凌華は、そこで新たな違和感に気づいた。


「……あれ?」


剣そのものは同じに見える。


けれど、それを収めている鞘が違う。


凌華は自分の背中にある鞘へ触れながら、姿絵へ顔を近づけた。


色までは分からない。細かな意匠も墨の濃淡から読み取るしかないが、少なくとも現在使っている鞘とは形や装飾が異なっていた。


「剣は同じなのに……鞘が違う?」


なぜなのか。


答えはどこにもない。


凌華は姿絵を持ったまま使者へ顔を向けた。


「この人……誰なんですか?」


「孫凌華、と伺っております」


その名前を聞いた瞬間、凌華の指が止まった。


自分と同じ名を持ち、自分とよく似た顔で、同じ長剣を携えた女。それなのに、姿絵の中の彼女は今の凌華よりも明らかに年上に見える。


「……私、こんなの描かれたことない」


この時代へ来てからの記憶を辿ってみても、姿絵を描かせた覚えなどなかった。


村で目を覚まし、賊に襲われ、陸議に保護された。陸家で暮らしながら剣を学び、やがて孫策たちと出会い、孫家の娘になった。


そこまでの記憶は、すべて自分の中にある。


この姿絵だけが、そのどこにも存在しない。


「凌華殿には、まったく覚えがないのですね」


諸葛亮の問いに、凌華はすぐに頷いた。


「ない。絶対ない」


諸葛亮は姿絵と凌華を見比べたものの、それ以上の結論には踏み込まなかった。


「ならば今確かに言えるのは、この女性が凌華殿と酷似していること、そして曹丞相がこの女性を孫凌華だと認識していることだけでしょう。それ以上については、まだ推測の域を出ません」


「そうですね」


周瑜も静かに同意した。


彼らが慎重になるのは当然だった。


けれど凌華には、彼らとは決定的に違う経験がある。


自分は未来から来た。


現代の資料展で命を落とし、次に目を開けた時には千八百年以上も昔の世界にいた。


普通ならあり得ないことを、凌華自身がすでに経験している。


だからこそ、姿絵の女を単なる他人だと片づけることができなかった。


それ以上に気になるのは、背中の男の沈黙だった。


「……ねえ」


凌華はもう一度、長剣へ意識を向けた。


「あなた、何か知ってるよね?」


『…………』


「前から時々、変なこと言ってた」


これまで聞き流してきた言葉が、今になって頭の中へ戻ってくる。


剣の男は、自分が知らない出来事を知っているような話し方をすることがあった。今起きていることと、別の何かを比べているような口ぶりもあった。


問い詰めても、まだ言えないと濁されてきた。


『……凌華』


ようやく返ってきた声は、いつものものとは違っていた。


低く、どこか躊躇している。


「何?」


『今は、それ以上考えんな』


凌華の眉が寄った。


「何で?」


『いいから』


「よくないよ。私のことだよ?」


『…………』


凌華は手にした姿絵を見つめた。


「この人……私なんでしょ?」


『凌華』


「違うなら、違うって言ってよ」


返事がない。


その沈黙に押されるようにして、凌華の中に一つの可能性が浮かび上がった。


普通なら、馬鹿げていると笑ったかもしれない。


けれど。


未来からこの時代へ来ることができたのなら。


「……もしかして」


自分でも信じられないまま、凌華は口にした。


「私……前にもここにいたの?」


周囲の者たちには、凌華が何を根拠にそんなことを言い出したのか分からなかったのだろう。孫策は訝しげに眉を寄せ、周瑜も黙って彼女を見ている。諸葛亮もすぐには口を挟まず、陸議だけが凌華と長剣を交互に見つめていた。


『…………』


「答えて」


長い沈黙のあと、孫策の声が返ってきた。


『……ああ』


凌華の目が僅かに見開かれる。


「……いたの?」


『いた』


「私が?」


『ああ』


手元の姿絵へ、ゆっくり視線が落ちた。


「じゃあ……この人、本当に私なんだ」


『……そうだ』


頭が追いつかなかった。


驚いているはずなのに、それ以上に混乱の方が大きい。


凌華は姿絵の女を見つめながら、次々に浮かんでくる疑問をそのまま口にした。


「何で私、覚えてないの?」


孫策は答えない。


「その時も、あなたはいた?」


『いた』


「私と一緒に?」


『ああ』


凌華の指が、姿絵の端で止まった。


「……ずっと?」


一瞬。


孫策が答えるのを躊躇した。


『……最後までな』


凌華の表情が止まった。


「…………え?」


ほんの一言だった。


それなのに、その言葉だけが妙に耳の奥へ残った。


最後まで。


凌華は姿絵から目を上げることができなかった。


「……最後までって、何?」


『…………』


「どういう意味?」


答えがない。


さっきまでとは違う沈黙だった。


何かを知られたくないというより、何を言えばいいのか分からず黙っているように感じた。


「ねえ」


『凌華』


「前の私は、そのあとどうしたの?」


『…………』


「今は?」


その問いを口にした瞬間、自分の中で何かが引っかかった。


今は。


以前の自分が、この時代にいた。


今より少し年上になるまで生きていた。


剣の男も傍にいて、彼はその自分と「最後まで」一緒にいた。


なら。


その凌華は今、どこにいるのだろう。


「…………」


息が止まった。


頭の中に浮かびかけた答えを、凌華は反射的に押し戻そうとした。


違う。


まだ何も分かっていない。


けれど、一度浮かんだ疑問は消えてくれなかった。


「……その人」


声が掠れた。


「今は、いないの?」


『…………』


返事がない。


凌華の指先から、少しずつ感覚が消えていった。


姿絵の中には、自分より年上の女がいる。


剣の孫策は、その女を知っている。


最後まで一緒にいた。


そして今、自分にはその記憶がない。


「……最後って」


凌華はようやく顔を上げた。


「もしかして……」


言いたくなかった。


その先を口にした瞬間、考えただけの可能性が現実になってしまう気がした。


それでも、孫策の沈黙が答えを求めさせた。


「私……その時も、死んだの?」


『…………』


答えはなかった。


凌華は待った。


違う、と言ってほしかった。


そんな意味で言ったんじゃないと、いつもの調子で笑ってほしかった。


けれど何も聞こえない。


「……違うよね?」


姿絵を持つ指が震え始める。


『凌華』


「違うって言って」


返事がない。


「ねえ……」


声が震えた。


「違うって言ってよ」


長い沈黙のあと、孫策の声が届いた。


『…………悪い』


その瞬間。


身体が凍りついた。


「…………」


何も考えられなかった。


長江を叩く水音も、船体が軋む音も、すぐ傍にいる人たちの気配さえ遠ざかっていく。


目の前にある姿絵だけが、異様なほど鮮明に見えた。


この女は、自分だ。


ここで生きていた。


自分の知らない時間を過ごしていた。


そして。


死んだ。


「……私」


息を吸おうとしたのに、胸がうまく動かなかった。


「ここでも……死んだんだ」


自分の口から出た言葉なのに、他人の声のように聞こえた。


現代で一度死んだ。


資料展で爆発に巻き込まれ、何が起きたのか理解する間もなく、この世界で目を覚ました。


それで終わりだと思っていた。


けれど、そのあとにも自分の知らない人生があった。


この時代で生きて。


この剣と共にいて。


そして、その人生も終わった。


姿絵が指の間から滑り落ちた。


床へ落ちる寸前、すぐ隣にいた陸議が手を伸ばして受け止める。


けれど凌華は、その動きを目で追うことすらできなかった。


「……二回……?」


ようやく漏れた声は、ほとんど息だった。


「私……二回、死んでる……?」


言葉として理解した途端、それまで止まっていた身体の感覚が一気に戻った。


指先が震え、膝から力が抜ける。


陸議が咄嗟に腕を支えた。


「凌華」


呼ばれても返事ができなかった。


凌華はただ、自分の手を見つめた。


今は動いている。


触れれば温かい。


確かに生きている。


けれど、姿絵の中の自分だって、生きていた時は同じだったはずだ。


「……怖い」


やっと、それだけが声になった。


「自分が死んだこと……私だけ覚えてない」


剣の孫策は何も言わなかった。


「どうやって死んだのかも……何も」


そこまで口にすると、別の恐怖が込み上げてきた。


「あなたは知ってるんでしょ?」


『…………』


「私がどうやって死んだのか」


『凌華』


「知ってるんだよね?」


返事はなかった。


その沈黙に、凌華はそれ以上聞くことができなかった。


陸議は凌華の腕を支えたまま、安易な慰めを口にしなかった。ただ彼女の呼吸が少し落ち着くのを待ってから、静かに言った。


「今は、それ以上聞かなくてもよいのではありませんか」


凌華はすぐには頷けなかった。


自分のことなのだから知りたい。


けれど今は、知ることの方が怖かった。


やがて、ほんの僅かに頷く。


「……うん」


軍議の場にいる者たちは、事情を完全には理解できていなかった。


当然だ。


彼らには剣の声が聞こえない。


孫策が険しい表情で凌華を見る。


「凌華。今、誰と何を話してた?」


凌華はすぐには答えられなかった。


陸議だけが、姿絵を手にしたまま黙っている。


少し時間を置いてから、凌華は震える息を吐いた。


「……この剣の人」


それ以上を説明するべきなのか迷った。


剣の声について、皆に話していいのか。


今までならそこで止まっていた。


けれど、自分自身のことまで分からなくなった今、一人で抱える余裕はなかった。


「私にだけ……この長剣から声が聞こえるの」


孫策が眉を寄せる。


周瑜も凌華の背中にある剣へ視線を移した。


「声?」


「うん」


凌華は小さく頷いた。


「この時代に来た時から、ずっと話してた」


呂蒙が驚いたように目を見開く。


「お前が時々一人で喋ってたの、あれ独り言じゃなかったのか?」


「……違う」


「ずっと独り言だと思ってたぞ」


「私もそう思われてると思ってた」


こんな時なのに、そのやり取りだけが妙にいつも通りで、張り詰めきっていた空気がほんの僅かに緩んだ。


しかし周瑜はすぐに本題へ戻した。


「その声の主は、この姿絵の女性を凌華だと?」


「……うん」


「そして、以前にもあなたがこの時代にいたと知っている」


凌華は頷いた。


「その時の私と……最後まで一緒にいたって」


最後という言葉をもう一度口にすると、胸が冷たくなる。


凌華は無意識に陸議の袖を掴みそうになり、寸前で手を止めた。


諸葛亮はその様子を見ながらも、凌華の話から必要以上の結論を引き出そうとはしなかった。


「今分かることと、分からないことを分けた方がよいでしょう」


凌華が顔を上げる。


「凌華殿が以前にもこの時代にいたらしいことは、その声の主が知っている。しかし、なぜ凌華殿自身に記憶がないのか、なぜ再びここへ来たのかは分からない」


凌華は黙って頷いた。


「そして、もう一つ」


諸葛亮の視線が、陸議の手にある姿絵へ向く。


「この姿絵を、なぜ曹丞相が持っているのか」


その言葉で、凌華もはっとした。


そうだ。


自分が以前この時代にいたことと、曹操がその姿絵を持っていることは別の問題だ。


凌華は背中へ意識を向けた。


「……これも知ってる?」


『何がだ』


「何で曹操がこの絵を持ってるの?」


短い沈黙があった。


『……知らねえ』


凌華は思わず顔を上げた。


「知らないの?」


『ああ』


声に迷いはなかった。


隠している時とは違う。


本当に分からないのだ。


『俺が知ってることと、これは別だ。何で曹操がそんなもん持ってんのか、俺にも分からねえ』


凌華の背筋に、再び冷たいものが走った。


「……この人も知らないって」


周瑜が眉を寄せる。


「姿絵の出所を?」


「うん」


諸葛亮が静かに姿絵を見る。


「ならば、なおさら今ここで結論を出すべきではありませんね」


周瑜も同意するように頷くと、使者へ視線を戻した。


「この姿絵について、曹丞相から他に何か聞いていますか?」


「いいえ」


使者は静かに首を横へ振った。


「これを孫凌華殿へお見せするよう申しつかったのみでございます」


それだけだった。


なぜ曹操が持っているのかも。


どこで手に入れたのかも。


いつ描かれたものなのかも。


使者は何一つ語らない。


だからこそ、不気味だった。


周瑜はしばらく男を見つめていたが、やがて口を開いた。


「では、返答をお伝えください。孫凌華は我らの側にいる者です。曹丞相へ引き渡すことはありません」


「承知いたしました」


孫策が腕を組む。


「二度と寄越せって言うな、も付けとけ」


「伯符」


「何だよ」


「余計な言葉を足さないでください」


「余計じゃねえだろ」


周瑜は孫策を無視して使者へ退室を促した。


兵に伴われて男が去っていく。


その背中が見えなくなったあとも、しばらく誰も口を開かなかった。


残されたのは、曹操から届いた書状と、一枚の姿絵。


凌華は陸議から姿絵を受け取ると、もう一度そこに描かれた女を見た。


自分の知らない自分。


そう考えただけで、まだ指先が冷たくなる。


けれど、今すぐすべてを知ることはできない。


諸葛亮が先に書状へ視線を戻した。


「一つ、気になることがあります」


周瑜が彼を見る。


「何でしょう」


「曹丞相は凌華殿を『未来から来た娘』とは記していない」


凌華も顔を上げた。


「……『未来を知る娘』」


「ええ」


諸葛亮は頷いた。


「似ていますが、意味は同じではありません。曹丞相が凌華殿の素性をどこまで把握しているのかは、この書状だけでは判断できないでしょう」


周瑜も書状へ目を落とした。


「未来について何らかの知識を持つことは掴んでいる。しかし、その理由まで知っているとは限らない」


「はい。ですから、こちらから余計な情報を与えるべきではありません」


凌華は小さく頷いた。


曹操が何を知っているのか分からない。


その状態で、自分たちから答え合わせをする必要はない。


「姿絵についても同じですね」


陸議が言った。


「曹操が何を知っているのか分からない以上、こちらがどこまで理解したのかも知らせない方がよいでしょう」


周瑜は満足そうに頷いた。


「そうしましょう」


凌華も納得しようとした。


それでも姿絵を見るたび、胸の奥が冷たくなる。


以前にも、自分はここにいた。


そして死んだ。


その事実だけは、もう知らなかった頃には戻せない。


そんな凌華の思考を断ち切るように、外から慌ただしい足音が近づいてきた。


「申し上げます!」


兵が軍議の場へ駆け込んでくる。


「曹操軍の船団に動きあり! 一部の軍船を、次々と繋ぎ始めております!」


凌華は勢いよく顔を上げた。


周瑜はすぐに盤面へ向き直り、呂蒙と陸議も表情を引き締める。諸葛亮も配置図の傍へ歩み寄り、報告された位置を確認した。


戦は待ってくれない。


凌華が自分の知らない死を突きつけられたからといって、長江の向こうで進んでいる戦が止まるわけではなかった。


凌華は姿絵をそっと脇へ置き、盤面へ近づいた。


「……船を繋ぎ始めた」


知っている。


その言葉が頭に浮かぶ。


自分の知る赤壁では、曹操軍は慣れない船上での揺れを抑えるため、船同士を繋いだとされている。


そして。


その船団へ火が放たれる。


けれど凌華は、すぐにその記憶へ飛びつかなかった。


周瑜が問いかける。


「あなたの知る赤壁でも、同じことが?」


「……うん」


凌華は盤面を見つめながら答えた。


「船を繋いだって伝わってる。でも、今回も同じ理由とは限らない」


諸葛亮が頷いた。


「今日の戦を見る限り、水上戦に不慣れな兵が多いことは確かでしょう。船を安定させるためという可能性は十分あります」


「だが、こっちが火を使うことを警戒してねえとは思えねえな」


呂蒙が腕を組む。


周瑜も盤面に置かれた船の駒を見つめた。


「曹操も考えたうえで、この一手を選んでいる。ならば、ただ史実と同じ形になったと喜ぶのは危険ですね」


「はい」


凌華は頷いた。


以前なら、知っている歴史と同じ出来事が起これば安心していたかもしれない。


けれど今は違う。


孫策は生きている。


自分もここにいる。


曹操は、自分の知らない姿絵まで持っている。


すでにこの赤壁は、凌華が知っている歴史そのものではない。


陸議が盤面へ視線を落とす。


「船を繋いだことで安定する代わりに、個々の船は自由に動きにくくなるでしょう」


「そうだな」


呂蒙が頷く。


諸葛亮も配置を確認しながら続けた。


「問題は、その不自由さを承知したうえで曹操が何を備えているかです」


周瑜はしばらく考えたあと、凌華を見る。


「あなたの知る赤壁では、このあと火を使うのですね」


「うん。でも……」


凌華は一度言葉を止めた。


脇に置いた姿絵が視界の端に入る。


自分が知らないことは、もう十分に思い知らされた。


未来を知っているからといって、何もかも分かるわけではない。


「そのまま真似するのは違うと思う」


周瑜の目が僅かに細くなった。


凌華は盤面へ指を伸ばした。


「曹操が船を繋いだ理由と、どこまで火を警戒してるのか。それを見てから考えたい」


「ええ」


周瑜が頷く。


「私も同意見です」


孫策が口元を上げた。


「やっと未来の答えをそのまま追っかけなくなったな」


「……今日だけで、私の知らないことが増えすぎたんだけど」


凌華が少し恨めしそうに返すと、孫策は一瞬だけ黙った。


そして、先ほどまでの勢いを少し落とした声で言う。


「まあ……そっちはあとで考えりゃいい」


凌華は返事をしなかった。


けれど、その言葉には少しだけ救われた。


今すぐ全部を理解しなくてもいい。


姿絵の女がどんな人生を生きたのか。


なぜ自分はその人生を覚えていないのか。


なぜもう一度この時代へ来たのか。


そして、なぜ曹操がその女の姿絵を持っているのか。


何一つ答えは出ていない。


剣の孫策も、すべてを話してはいない。


それでも今は。


目の前にある戦を生き抜かなければ、その答えを聞く未来そのものがなくなる。


凌華は長く息を吐き、盤面を見つめた。


背中には、以前の自分も持っていたという長剣がある。


姿絵の中では、その剣を包む鞘だけが今とは違っていた。


その意味を、凌華はまだ知らない。


ただ一つ確かなのは、自分が知っていたはずの赤壁も、自分自身の人生も、すでに知らないものへ変わり始めているということだった。


長江の向こうでは、曹操軍の船が次々と繋がれていく。


凌華はその光景を見据えながら、今度は過去の答えではなく、ここにいる皆と共に次の一手を考え始めた。


――第二十話・了

すみません。

ここからしばらく番外編upの日が続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。