番外編 凌華様って呼ばないで
孫策の娘になってから、凌華にはひとつ、大きな悩みができていた。
立派な衣を着ることでもなければ、食事の席で作法を気にしなければならないことでもない。周瑜から礼儀作法を教わる時間は確かに大変だったが、それだって分からなければ聞けばいい。難しい文字なら陸議が教えてくれるし、この土地の決まりなら周瑜に尋ねれば、少なくとも間違ったままにはならない。
けれど、こればかりは何日経っても慣れなかった。
朝、部屋から出て廊下を歩いていると、向こうから侍女がやって来た。凌華が気づくより少し早く、相手がこちらに気づいたらしい。侍女はすぐに足を止めると廊下の端へ寄り、両手を揃えて丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、凌華様」
「あっ……お、おはようございます」
ほとんど反射だった。
凌華も同じように頭を下げる。
顔を上げると、侍女が困ったような表情をしていた。
「凌華様、私どもにそのようになさらなくてもよろしいのですよ」
「でも、そっちが頭下げてくれたのに、私だけ何もしないのって変じゃない?」
「いえ、ですが……」
恐縮した侍女が、もう一度頭を下げる。そうされると、凌華もまた頭を下げたくなる。
「いやいや、だから……」
「凌華様こそ、お顔をお上げくださいませ」
「そっちが先に上げてよ」
「ですが――」
「ほら、また終わらなくなる!」
朝の静かな廊下で、奇妙なお辞儀の応酬が続いた。
ようやく侍女が立ち去った頃には、凌華はすっかり疲れていた。遠ざかっていく背中を見送りながら、その場でぐったりと肩を落とす。
「……無理」
「何がです?」
不意に横から聞き慣れた声がして、凌華は顔を上げた。
庭へ続く廊下の向こうから、書簡を手にした陸議が歩いてくるところだった。
「あ、陸議さん」
見慣れた顔を見つけただけで、凌華の表情が少し明るくなる。
陸議は先ほど侍女が去っていった方角を一度見てから、凌華へ視線を戻した。
「また頭を下げ返したのですか?」
「……見てた?」
「途中からですが。お互いにいつまで続けるのかと思って見ていました」
「見てたなら助けてよ」
「どう助けろというのです?」
「陸議さんが『もういいですよ』って止めてくれたらよかったじゃん」
「それでは、私がいない時はどうするのです」
「陸議さんを探す」
「そうならないように申し上げているのですが」
あっさり返され、凌華は唇を尖らせた。
「だって向こうが頭下げるんだもん。私だけ突っ立ってるの、感じ悪くない?」
「感じが悪いかどうかではなく、今はあなたが頭を下げられる側なのです」
「それが嫌なの」
「嫌と言われましても」
陸議は困ったように息をついた。
「あなたが孫策様の娘になった以上、周囲が礼を取るのは当然でしょう」
「昨日まで違ったじゃん」
「昨日までとは立場が変わったのです」
「私は変わってないよ?」
その言葉だけは、少し小さかった。
陸議の表情が僅かに変わる。
凌華は自分の袖を指先で摘まみながら、廊下の向こうへ視線を逃がした。
「服が変わって、部屋が変わって、みんな急に頭下げるようになって……『凌華様』って呼ばれるたびに、なんか私じゃない人を呼ばれてるみたい」
孫策の娘になれたことが嫌なわけではない。むしろ嬉しかった。
突然この土地へ放り出され、どこにも自分の居場所がないように感じていた凌華に、孫策は家族という形を与えてくれた。
ここにいていい。帰る場所がある。
そう思えるようになったことは、凌華にとって何より大きかった。
だからこそ、その瞬間から周囲との距離まで変わってしまったことに、気持ちが追いつかなかった。
陸議はしばらく何も言わなかった。
やがて凌華の隣まで来ると、静かに口を開いた。
「そのうち慣れます」
「慣れるかなぁ」
「慣れていただかなければ困ります。今後、人に会うたびに逃げ回るつもりですか?」
「……それ、ちょっと考えてた」
「考えないでください」
あまりにも早く返され、凌華は小さく笑った。
それから、ふと思いついたように陸議を見上げる。
「ねえ、陸議さんまで、そのうち私のこと『凌華様』って呼び始めたりしないよね?」
陸議が目を瞬いた。
「なぜ私まで?」
「だって立場が変わったからって、みんな急に変わったじゃん」
冗談めかした言い方だった。
けれど、凌華の瞳には僅かな不安が残っている。
陸議はそれを見て、ほんの少し声を柔らげた。
「呼びませんよ」
「ほんと?」
「少なくとも、二人でいる時にそのように呼ぶ理由はありません」
その瞬間、凌華の肩から目に見えて力が抜けた。
「……よかった」
あまりにも素直に安心した顔をするので、今度は陸議の方が僅かに言葉を失った。
「そんなに嫌なのですか」
「嫌っていうか……陸議さんまで変わったら寂しい」
陸議は一度だけ視線を逸らした。
「私は昨日までと同じです」
「うん。私も同じ」
「それは存じています。昨日と今日で、急に大人しくなるような方ではないでしょう」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
「絶対悪口入ってる!」
凌華の声が廊下に響き、陸議は僅かに笑いながら歩き出した。凌華もその隣へ並ぶ。
しばらく二人で歩いていると、前方から別の侍女が現れた。
「あ」
凌華が止まる。
向こうも凌華に気づき、足を止めて頭を下げようとする。
その瞬間、凌華はさっと陸議の背後へ隠れた。
「……何をしているのです?」
「いないことにする」
「見えています」
「陸議さん、もうちょっとこっち来て。もう少しで隠れられる」
「嫌です」
「お願い!」
「あなたは私とあまり変わらないでしょう。隠れられるわけがありません」
「横幅ならいけるかもしれないじゃん」
「人を衝立にしないでください」
「凌華様……?」
侍女が困惑した声を上げる。
陸議は額へ手を当てた。
「……やはり、早急に慣れていただかなければ困りますね」
「だから無理だって!」
その日のうちに、この一件を知った周瑜は一つの判断を下した。
凌華には、身の回りを任せられる女性が一人必要だ、と。
◇
翌朝。
孫策に呼ばれて部屋へ入った凌華は、そこに見知らぬ若い女性がいることに気づいた。
孫策がいて、周瑜もいる。なぜか陸議までいる。
どう考えても自分に関係のある話である。
「……何?」
凌華が警戒するように三人を見る。
「何だ、その顔は」
孫策が笑った。
「別に叱るために呼んだんじゃねえよ」
「じゃあ何で全員いるの?」
「話があるからだ」
「やっぱり嫌なやつじゃん」
「まだ何も言ってねえだろ!」
二人のやり取りを横で聞いていた周瑜が、静かに息を吐いた。
「凌華。お前に世話役をつけることにした」
「いらない」
返事は一瞬だった。
「最後まで聞け」
「だって自分のことくらい自分でできるよ」
すると、それまで黙っていた陸議が静かに口を開いた。
「昨日、衣の合わせを逆にしていませんでしたか?」
凌華が止まる。
「……途中で直した」
「一昨日は食事の席を間違えていましたね」
「それも途中で気づいた」
「三日前は――」
「陸議さん」
「はい」
「今、そっち側なの?」
「どちら側かは存じませんが、事実を申し上げているだけです」
その口元が、ほんの僅かに笑っている。
「絶対楽しんでるでしょ」
「気のせいです」
「最近その言葉、便利に使ってない?」
陸議は答えなかった。
周瑜は二人のやり取りを遮るように続ける。
「お前を監視するためではない。この家での暮らしにまだ慣れていない以上、困った時にすぐ頼れる者がいた方がいい。それに、我々には相談しづらいこともあるだろう」
「……それは、まあ」
そこを言われると弱い。
凌華が少し考えていると、周瑜が女性へ目を向けた。
女性は静かに前へ進むと、凌華の前で丁寧に頭を下げた。
「本日よりお側に仕えさせていただきます、鈴と申します。凌華様、どうぞよろしくお願いいたします」
凌華の顔が固まった。
孫策が「あ」と呟く。
陸議はもう結果が分かったらしく、僅かに目を伏せる。
そして案の定、凌華も勢いよく頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします!」
「凌華様!?」
鈴が慌てて顔を上げる。
凌華も顔を上げると、すぐに周瑜を見た。
「ほら!」
「何がだ」
「一人増えた!」
「そういう意味で増やしたのではない」
「私が困ってる原因が増えてるじゃん!」
孫策がとうとう吹き出した。陸議まで顔を背けている。
「笑わないでよ!」
「悪い悪い。けどお前、鈴より深く頭下げてたぞ」
「初対面なんだから、ちゃんと挨拶しないと失礼でしょ!」
「そこだけ妙に律儀なのは何なんだ」
「普通でしょ!」
鈴は目の前で繰り広げられるやり取りについていけず、完全に固まっていた。
そんな鈴へ、凌華が向き直る。
「えっと……鈴、だよね?」
「はい」
「これからよろしくね。鈴」
「はい。精一杯お仕えいたします、凌華様」
凌華の眉が下がる。
「……やっぱり、それなんだ」
「はい?」
「ううん。何でもない」
鈴との関係は、この日まだ始まったばかりだった。
◇
数日後。
凌華は結局、人から逃げていた。
屋敷を訪れていた三人の役人が、廊下の向こうから歩いてくるのを見つけたのである。
一人と目が合った。
「凌華様――」
「ごめんなさい!」
踵を返す。
庭へ降り、衣の裾を押さえながら植え込みを回り、普段あまり人の来ない建物の裏へ逃げ込んだ。
『お前、何やってんだよ』
腰元の長剣から、呆れ果てた声がした。
「避難」
『何からだよ』
「分かってるでしょ。あれ、まだ慣れないんだって」
『だからって自分の家で逃げ回る奴があるかよ』
「簡単に言わないでよ。昨日まで普通に話してた人まで急に頭下げるようになったんだよ? 孫策にはこの気まずさ分かんないって」
『分かりたくもねえよ。お前が勝手に頭下げ返してるだけだろ』
「だって無視するのも感じ悪いじゃん」
『もう好きにしろ』
「言われなくてもそうする」
小声で言い返しながら建物の角を曲がったところで、凌華はようやく足を止めた。
「……ここなら大丈夫」
「何が大丈夫なんだ?」
すぐ近くから男の声がした。
「ひゃっ!」
凌華の肩が跳ねる。
慌てて振り向くと、壁際に一人の男が立っていた。
武人らしい体つきに、どこか荒々しい雰囲気。屋敷でよく見かける者たちとは少し違う空気を纏っている。
そして何より、知らない顔だった。
先日、城下で知らない男に道を尋ねられ、何の疑いもなく近づいて陸議に叱られたばかりである。
凌華は今度こそ、一歩だけ距離を取った。
「……誰ですか?」
男はその反応を気にした様子もなく、むしろ凌華を上から下まで眺めた。
「そりゃこっちの台詞だ。随分いい衣着てるくせに、自分の家みてえに走り回って、今度は物陰に隠れてる。何してんだ、お前」
「自分の家みたいっていうか……一応ここに住んでるけど」
「ここに?」
男の視線が、凌華の衣装から腰の長剣へ移る。
何か思い当たったらしい。
「――お前、孫策の娘か?」
凌華が目を瞬いた。
「……そうだけど」
「やっぱりな。最近、孫策が娘を迎えたって話は聞いてた」
「最近なったばっかりだけどね」
男は改めて凌華を眺めたあと、建物の角を親指で示した。
「それで? 何で孫策の娘が、自分の家で家臣から逃げ回ってんだ?」
「それは……」
説明しようとした時だった。
遠くから声が聞こえる。
「凌華様! どちらにいらっしゃいますか!」
鈴だ。
凌華の肩がびくりと跳ねた。
「まずい」
「何がだ?」
「見つかる」
「だから誰にだよ」
「鈴。私のお世話してくれる人」
男の顔が、ますます分からないというものになる。
「だったら見つかっていいだろ」
「今は駄目なの!」
「何でだよ!」
「連れ戻されるから!」
「世話係なら連れ戻すだろ!」
「だから困ってるの!」
「無茶苦茶だな、お前!」
声が大きい。
凌華は慌てて人差し指を唇へ当てた。
「ちょっと静かにして。見つかるでしょ」
「俺まで巻き込むな!」
「お願い、ちょっとだけ!」
鈴の足音が近づいてくる。
凌華は咄嗟に男の袖を掴むと、建物と塀の間へ引っ張り込んだ。
「おい、待て! 何で俺まで隠れるんだ!」
「だって絶対『凌華ならここにいる』って言うでしょ!」
「言うに決まってんだろ!」
「だから一緒に隠れて!」
「お前、本当に孫策の娘か!?」
「だからそうだってば!」
二人で声を抑えて言い合っているうちに、鈴の足音がすぐ近くまで来た。
「凌華様……?」
凌華は息を潜める。
男は完全に巻き込まれただけだった。
やがて足音が遠ざかっていく。
しばらく待ってから、凌華は壁の陰からそっと顔を出した。左右を確かめ、誰もいないことを確認してから胸を撫で下ろす。
「……行った」
「お前なぁ……」
背後から低い声がする。
振り返ると、男は呆れ果てた顔で凌華を見ていた。
「頭下げられるのが嫌だから逃げてんのか?」
「それだけじゃないよ。『凌華様』って呼ばれるのも慣れないの。昨日まで普通に話してた人まで、急に態度が変わったみたいで……」
「孫策の娘なら仕方ねえだろ」
「それ、みんな言う」
「みんな正しいんじゃねえか?」
「正しくても嫌なものは嫌なの」
男は数秒、凌華を見つめた。
そして、盛大に笑い始めた。
「ははははっ!」
「ちょっと! 何でそんなに笑うの!」
「いや、だってお前……孫策の娘になって一番困ってんのが、頭下げられることなのか?」
「私には大問題なの!」
「だったら下げさせときゃいいだろ」
「それができたら逃げてないよ!」
「面倒くせえ奴だな」
「初対面の人に言われたくない!」
凌華が頬を膨らませる。
男はまだ肩を揺らしていた。
けれど、凌華はそこでふと気づく。
「……そういえば、あなた誰?」
男が一瞬黙った。
「今さら聞くのかよ」
「だって知らないし。先に隠れないといけなかったから、聞く暇なかった」
「俺は別に隠れる必要なかったんだけどな」
「それはもういいじゃん」
「よくねえよ」
男は呆れながらも、口元にはまだ笑みを残していた。
「甘寧だ。字は興覇」
その瞬間、凌華の表情が止まった。
「…………え?」
「何だよ」
「今……何て?」
「甘寧。甘興覇だ」
庭を抜けた風が木々の枝を揺らし、頭上で葉の擦れる音がした。
凌華は目の前の男を凝視する。
甘寧、甘興覇。
その名前なら知っている。
大学で卒業論文を書くために三国志、とりわけ呉について調べていた時、何度も資料の中で目にした武将だった。すでにこの時代へ来てから、教科書や史料の向こう側にしかいなかった人間が実際に目の前で息をし、笑い、怒るという経験はしている。それでも、新しい名が現実の人間として自分の前に現れる瞬間には、未だに慣れなかった。
――この人が、甘寧。
凌華の視線が、思わず男の頭から足元まで動く。
「……何だよ、その顔」
甘寧が怪訝そうに眉を寄せた。
「いや……」
「俺を知ってんのか?」
「知らない!」
反射的に否定した。
早すぎた。
甘寧の眉が上がる。
「名前聞いた途端に固まった奴が言っても説得力ねえぞ」
「ちょっと考え事してただけ」
「俺の名前聞いて?」
「……甘いもの食べたいなって」
「は?」
「甘寧の『甘』で」
「無理があるだろ!」
凌華は目を逸らした。
自分でも無理があると思う。
けれど、「あなたのことを千八百年近く後の時代で調べました」などと言えるはずがない。
自分が未来から来たことは、まだ誰にも話していない。
『下手くそか、お前』
腰元から聞こえた笑い混じりの声にも、今は反応しない。
甘寧はしばらく怪しそうに凌華を見ていたが、やがて追及するのを諦めたように肩をすくめた。
「まあいい。それより、お前。さっきから様が嫌だって言ってるが、じゃあ何て呼ばれりゃ満足なんだ?」
「凌華」
即答した。
「そのままでいい。様いらない」
甘寧は一瞬だけ凌華を見た。
それから、本当に何でもないことのように言う。
「分かったよ、凌華」
凌華が固まった。
「……もう一回言って」
「何でだよ」
「いいから」
「嫌だよ。一回で十分だろ」
「何で!?」
「今呼んだだろ!」
凌華がむっとする。
甘寧はそんな凌華を見て、また笑った。
「変な奴だな、お前」
「よく言われる」
「孫策の娘って聞いて、どんな女かと思ってたら……随分変なの娘にしたな、あの人も」
「変なのって言わないでよ」
「じゃあ何て言やいいんだ」
「普通」
「無理があるだろ」
「ひどい!」
甘寧が声を上げて笑う。
凌華も少し遅れて笑った。
すると甘寧が、不意にもう一度呼んだ。
「凌華」
「ん?」
反射的に顔を上げる。
甘寧は口元を上げた。
「これでいいんだろ?」
凌華の顔が、ぱっと明るくなる。
「うん!」
その反応に、甘寧の方が少しだけ目を丸くした。
「……お前、本当にそれが嫌だったんだな」
「ずっと言ってるじゃん」
「分かった分かった。俺は様なんかつけねえよ」
「甘寧さん、いい人だね」
「それだけで!?」
「だって話が早いもん!」
『……お前、もう懐いてんじゃねえか』
剣の孫策の声が聞こえる。
凌華は聞こえないふりをした。
◇
「――凌華」
少し離れたところから、今度は聞き慣れた声がした。
「あ、陸議さん!」
庭の向こうから陸議がこちらへ歩いてきていた。その少し後ろには、凌華を探していたらしい鈴の姿もある。
凌華は待つこともせず、陸議へ駆け寄った。
「陸議さん、聞いて!」
「まず、なぜ鈴殿から逃げていたのかを聞きたいのですが」
「それは後で!」
「後にしないでください」
「それより甘寧さん!」
陸議の視線が凌華の後ろへ向く。
「……甘寧殿なら存じています」
「知ってるの!?」
「名は聞いております」
陸議が甘寧へ軽く礼をする。
「甘寧殿」
「おう。お前が陸議か」
「はい」
そのやり取りを見た凌華は、また少しだけ不思議な気持ちになった。
本の中では別々の頁に載っていた名前が、今は自分の目の前で互いの顔を見ながら言葉を交わしている。
「……すご」
思わず漏れた。
陸議が凌華を見る。
「何がです?」
「何でもない!」
また早かった。
甘寧が怪しそうに凌華を見る。
「お前、やっぱりさっきから変だぞ」
「いつもです」
陸議が平然と答えた。
凌華が勢いよく振り向く。
「陸議さん!?」
甘寧が吹き出した。
「ははっ、お前、こいつの扱い慣れてんな」
「それなりに長く一緒におりますので」
「ちょっと待って。二人とも私を何だと思ってるの?」
「変な奴」
「甘寧さんには聞いてない!」
「私には聞いたのですか?」
「陸議さんまで乗らないでよ!」
甘寧がますます笑う。
その様子を見ていた鈴がようやく追いつき、凌華の前でほっと息を吐いた。
「凌華様。急にお姿が見えなくなったので心配いたしました。せめて、どちらへ行かれるのか一言お伝えください」
「ごめん。ちょっと避難してた」
「ご自宅で避難なさらないでくださいませ」
甘寧がまた吹き出す。
凌華は恨めしそうに甘寧を見たが、すぐに何かを思い出したように陸議へ向き直った。
「そうだ。陸議さん、甘寧さんね、私のこと凌華って呼んでくれるんだよ」
「……そうですか」
「様いらないって言ったら、すぐやめてくれた」
「それはよかったですね」
「すごく話が早い」
「何よりです」
凌華はじっと陸議を見る。
「……何か反応薄くない?」
「普通ですが」
「いつもならもうちょっと何か言うじゃん」
「何を言えばいいのです?」
「分かんないけど」
「でしたら、これでいいでしょう」
「なんか変」
甘寧の視線が、ゆっくり陸議へ向いた。
次に凌華を見る。
そして、また陸議を見る。
その口元が徐々に上がっていく。
「……へえ」
「甘寧殿」
陸議の声が僅かに低くなる。
「何だ?」
「いえ。何か言いたそうでしたので」
「別に何も?」
「でしたら、その顔をやめてください」
「顔にまで文句言うのか、お前」
凌華は二人を交互に見た。
「何の話?」
「何でもありません」
「何でもねえよ」
二人の声が重なる。
凌華は首を傾げた。
「……変なの」
その隣で、鈴だけが少し不思議そうに陸議を見ていた。
◇
屋敷へ戻る途中、凌華はすっかり甘寧の隣を歩いていた。
「甘寧さんって、やっぱり戦う人なんだよね?」
「やっぱり?」
「……見た感じ」
危ない。
「まあな」
「何使うの?」
「色々だ。何だよ、そんなに気になるのか?」
「気になる」
本当はある程度知っている。
けれど、目の前の本人から聞くのと、資料の中で読むのとではまるで違う。
「馬も乗る?」
「乗る」
「船は?」
「もちろんだ」
「泳げる?」
甘寧がそこで、少し得意げに笑った。
「泳ぎなら自信あるぞ」
「ほんと? 私も泳げるよ」
「お前が?」
「何その顔」
「いや。お前の故郷じゃ女も泳ぐのかと思ってな」
「泳ぐよ。子どもの頃から習う人も多いし、男の子も女の子も――」
学校で、と言いかけて凌華は言葉を飲み込んだ。
「……一緒に習ったりする」
「変わった土地だな」
「よく言われる」
「じゃあ今度、勝負するか?」
「する!」
即答した瞬間、前を歩いていた陸議がぴたりと足を止めた。
危うく背中へぶつかりそうになり、凌華も慌てて止まる。
「陸議さん、急に止まらないでよ」
陸議がゆっくり振り返った。
「勝負をするのは構いませんが、二人だけで勝手に川へ行かないでください」
「大丈夫だよ。甘寧さん泳げるんでしょ?」
「そういう問題ではありません。あなたはこちらの川に慣れていないでしょう。流れも深さも知らないのに、故郷で泳げたからといって同じように考えないでください。以前も、自分の故郷で安全だったからという理由で、こちらでも同じように行動して危ない目に遭いかけたでしょう」
「あ……」
知らない男に道を尋ねられて、何の疑いもなく近づいた時のことだ。
凌華は少しだけ肩を縮めた。
「……分かりました。勝手には行きません」
「本当に?」
「行かないってば」
「ならいいのですが」
陸議の表情が僅かに和らぐ。
その横から、甘寧が面白そうに口を挟んだ。
「そんなに心配なら、お前も来りゃいいだろ」
「なぜ私まで行く必要があるのです?」
「凌華が心配なんだろ?」
「危険について注意しただけです」
「へえ」
「何です?」
「いや。随分よく見てんだなと思ってな」
「以前から危なっかしいのです。放っておけば何をするか分かりません」
「ちょっと。本人いるんだけど」
「知っています」
「もっと言い方あるでしょ!」
甘寧が笑う。
「だったら三人で行きゃいいじゃねえか」
「それいい!」
凌華がすぐに乗った。
「陸議さんも行こうよ」
「私は泳ぎの勝負など――」
「しなくていいよ。見てれば」
「それでは私が行く意味がないでしょう」
「じゃあ応援して」
「なぜあなたの応援をする前提なのです?」
「私と甘寧さんだったら私でしょ?」
陸議が一瞬黙った。
甘寧がにやりと笑う。
「どうなんだ、陸議?」
「なぜ甘寧殿まで聞くのです?」
「気になってな」
「私は行くとも申し上げていません」
「じゃあ私、甘寧さん応援する」
凌華がさらりと言う。
陸議の眉が僅かに動いた。
甘寧がとうとう声を上げて笑った。
「はははっ! お前、分かりやすいな!」
「何がです?」
「いや、何でもねえ」
「甘寧殿」
「怒るなって」
凌華だけが、やはり分からない。
「何で二人ともさっきから変なの?」
後ろから鈴が静かに声を掛けた。
「凌華様、今はお気になさらなくてよろしいかと」
「鈴まで何?」
「私は何も存じません」
「絶対何かあるじゃん!」
その声に、甘寧の笑い声がまた重なった。
◇
屋敷へ戻ると、待っていた孫策が凌華を見るなり声を上げた。
「凌華! お前、また人から逃げ回ってたらしいな!」
「もう伝わってるの!?」
「三人も置いて逃げりゃ伝わるだろ!」
「だって三人もいたんだよ!」
「人数関係ねえだろ!」
「三人に頭下げられたら三回返さないといけないじゃん!」
「返すなっつってんだろ!」
「無理なの!」
「いい加減慣れろ!」
「嫌!」
「お前なぁ!」
二人の声が部屋へ響く。
少し離れたところで周瑜が額を押さえた。
「なぜこの親子は、毎回同じところを回り続けるのだ」
「親子って言わないで、周瑜さん! 今は孫策さんが悪い!」
「お前が逃げた話だろうが!」
「ほら怒鳴る!」
「お前が言うこと聞かねえからだ!」
その横で甘寧が楽しそうに笑っている。
凌華がすぐそちらを振り返った。
「甘寧さんは分かってくれたよ!」
「おう。俺は凌華でいい」
孫策の動きが止まる。
「……お前、もう呼び捨てにしてんのか?」
「本人がそうしろって言うんで」
「うん。甘寧さんは話が早い」
「そうかそうか」
甘寧が面白そうに笑った。
「お前、随分俺に懐いたな」
「懐いてないよ。話しやすいだけ」
「同じようなもんだろ」
「違うし」
「じゃあ今度、城下でも連れてってやるか」
「ほんと?」
凌華の顔が明るくなる。
「行きたい! 何か食べたい」
「お前、さっきから俺に遠慮ねえな」
「だって凌華でいいって言ったから」
「名前の話だろ!」
「じゃあ駄目?」
甘寧は一瞬言葉を詰まらせ、やがて諦めたように笑った。
「……分かったよ。何か食わせてやる」
「やった!」
凌華が嬉しそうに笑う。
陸議は何も言わなかった。
けれど、その横顔を甘寧がちらりと見る。
そして、完全に面白がった顔で口を開いた。
「なあ、陸議」
「何でしょう」
「俺、凌華連れて城下行ってもいいよな?」
陸議の眉が僅かに動いた。
「……なぜ私に尋ねるのです?」
「何となく」
「私に許可を求める必要はありません」
「そうか」
甘寧が笑う。
「じゃあ決まりだな、凌華」
「うん!」
陸議はそれ以上何も言わなかった。
凌華が誰と城下へ出ようと、自分が口を挟むことではない。
分かっている。
それなのに、その返事が自分でも思っていたより少しだけ面白くなかった。
◇
夕暮れ時。
甘寧が帰ったあと、凌華は自室へ戻るために廊下を歩いていた。少し後ろには鈴がいて、隣には陸議がいる。
庭には橙色の光が差し込み、柱の影が長く床板の上へ伸びていた。
「甘寧さん、面白かったね」
凌華が楽しそうに言う。
「そうですね」
「何か、すごく話しやすい。様って呼ばないし、変に気を遣わなくていいし」
「そうですか」
「今度、城下も一緒に行ってくれるって」
「聞いていました」
「泳ぎも見てみたいなぁ」
「勝手に川へ行かないのであれば、ご自由に」
凌華が横を見る。
「……陸議さん」
「何です?」
「やっぱり今日ちょっと変」
「何がです?」
「甘寧さんの話になると、返事短くなる」
「気のせいです」
「絶対違う」
凌華は歩きながら陸議の顔を覗き込んだ。
陸議が僅かに顔を逸らす。
しばらく考えていた凌華が、不意に「あ」と声を上げた。
「分かった」
陸議の肩がほんの僅かに強張る。
「……何がです?」
「私が甘寧さんに色々聞くようになったら、自分のところに質問来なくなると思ってる?」
後ろを歩いていた鈴が、思わず凌華を見た。
陸議は数秒、言葉を失っていた。
「なぜ、そうなるのです?」
「だって私、何かあると陸議さんに聞くじゃん」
「それはそうですが」
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのです?」
凌華は何でもないことのように笑った。
「甘寧さんと陸議さんは違うから」
陸議が凌華を見る。
「違う?」
「うん。甘寧さんは、一緒にいたら楽しそうな人。何か面白いこと見つけたら、一緒にやってみたい感じ」
そこまで言ってから、凌華は少し考えた。
「でも陸議さんは、分からないことがあった時に最初に探す人」
陸議の歩みが、ほんの僅かに緩んだ。
「私、まだここのこと分からないことばっかりでしょ? 文字もそうだし、道もそうだし、人の名前とか、決まりとか。陸議さんに聞いたらちゃんと教えてくれるし、私が分かってない顔してたら、言い方変えてもう一回説明してくれるから」
「……それは」
「だから甘寧さんと仲良くなっても、陸議さんのところには来るよ?」
「…………」
「安心した?」
凌華がにこりと笑う。
陸議はしばらくその顔を見ていた。
胸の奥にあった妙な引っかかりが、ほんの少しだけ消えている。
それが何より不可解だった。
「別に、心配などしていません」
「してた顔だったよ?」
「していません」
「じゃあ何でちょっと機嫌直ったの?」
「直っていません」
「ほら。やっぱりさっきまで機嫌悪かったんじゃん」
「凌華」
「はい」
「少し静かにしてください」
「やっぱり怒ってる!」
凌華の笑い声が、夕暮れの廊下に響く。
陸議は呆れたように前を向いた。
けれど、先ほどまでより歩く速さは少しだけ凌華に合わせられていた。
その後ろを歩く鈴は、二人の背中を見つめていた。
まだ凌華の世話役になったばかりで、二人が普段どんな距離で過ごしているのかもよく知らない。
ただ、先ほどまで少し硬かった陸議の横顔が、凌華と話したあとには僅かに柔らかくなっていた。
それだけは分かった。
鈴は何も言わず、静かに二人の後ろを歩いた。
◇
その夜。
凌華は自室で長剣を壁際へ立てかけると、寝台へ腰を下ろした。
窓の外では、夜風が木々の葉を揺らしている。
「甘寧さん、本当にいたんだ……」
誰もいなくなってから、ようやく口にできた。
長剣から、すぐに声が返ってくる。
『そりゃいるだろ』
「そうなんだけど」
凌華は膝を抱える。
「今までだって知ってる名前の人に会ってきたけど……やっぱり新しく会うたびに変な感じする。私にとってはずっと本の中の人だったから」
『お前のところじゃ、俺たちのことが残ってんだもんな』
「うん」
『で? 甘寧のことも知ってたのか』
「知ってたよ。卒論で呉のこと調べてたんだから」
凌華は少し笑った。
「名前聞いた瞬間、ほんとにびっくりした。危うく『知ってる』って言いそうになったもん」
『下手くそな誤魔化し方してたな』
「甘いもの食べたいは、自分でも無理があると思った」
『あれで誤魔化せたと思ってんのか?』
「……思ってない」
剣の孫策が笑う。
少しして、その声がまた聞こえた。
『しかしお前、甘寧に懐くの早すぎねえか?』
凌華はきょとんとした。
「だっていい人だったよ?」
『名前呼び捨てにしてくれただけだろ』
「それがいいの」
凌華は寝台へ横になり、天井を見上げた。
「私が孫策さんの娘だからじゃなくて、普通に凌華として話してくれたから。何か楽だった」
『ふうん』
「また会いたいな」
『まあ、あいつならそのうち来るだろ』
「今度、色々聞いてみよ」
『お前、変なこと口滑らせんなよ』
「分かってるよ!」
『本当かぁ?』
「それくらい分かってます!」
凌華がむっとして布団を引き寄せる。
けれど少しして、ふと思い出した。
「……陸議さん、何だったんだろ」
『何が?』
「今日ちょっと変だった。甘寧さんの話すると、返事短くなるし」
『さあな』
「何か知ってる?」
『知らねえよ。本人に聞け』
「聞いたけど、気のせいって言うんだもん」
『じゃあ気のせいなんじゃねえか?』
「そうかなぁ」
凌華はしばらく考えていたが、やがて小さく欠伸をした。
『ほら、寝ろ』
「まだ眠くない」
『欠伸しながら言うな』
「ちょっと眠いだけ」
『それを眠いって言うんだよ』
凌華は小さく笑いながら布団へ潜り込んだ。
今日、また一人、本の中にしかいなかった人物と出会った。
しかも思っていたよりずっと話しやすく、自分を「孫策の娘」として遠巻きに見ることもなく、ただの凌華として扱ってくれた。
それが思いのほか嬉しかった。
「……おやすみ、孫策」
『おう。おやすみ』
窓の外で葉が揺れ、部屋の灯りが静かに消えた。
◇
同じ頃。
別の部屋では、陸議が机へ向かっていた。
灯火の下には何通かの書簡が広げられている。いつもなら一度目を通せば内容を整理できる程度のものなのに、今夜に限って同じ一文を何度も読み返していた。
筆を取る。
数文字書く。
また止まる。
脳裏へ浮かんだのは、昼間の凌華の笑顔だった。
甘寧に名を呼ばれただけで、あれほど嬉しそうにしていた。
一緒に泳ぐ約束をして、城下へ行く話までしていた。
陸議は筆先を硯へ戻した。
凌華が誰と親しくなろうと、自分には関係がない。
むしろ、この土地へ来てから頼れる者の少なかった彼女に新しい繋がりができるのなら、それは喜ぶべきことだろう。
甘寧についても、少なくとも腕の立つ武人であることは聞いている。
ならば、自分が気にする理由はない。
「…………」
それでも。
少しだけ面白くない。
理由を考えてみても、答えは出なかった。
陸議は小さく息を吐き、再び書簡へ目を落とす。
その時、夕暮れの廊下で凌華が言った言葉が蘇った。
――陸議さんは、分からないことがあった時に最初に探す人。
筆を持つ指が止まる。
彼女は、甘寧と自分は違うと言った。
甘寧と仲良くなっても、自分のところには来る、と。
なぜあの言葉を思い出しただけで、胸の奥にあった引っかかりが少し軽くなるのか。
それも、やはり分からない。
「……何を考えているのでしょうね、私は」
誰に聞かせるでもなく呟き、陸議は再び筆を取った。
今度は先ほどより少しだけ、文字が進んだ。
本人にはまだ、その理由など分かるはずもなかった。
◇
そして凌華自身は、その夜には気づかなかった。
甘寧という男と出会った時期が、自分が現代で読んだ歴史とは僅かに違っていることに。
彼女の知る記録では、甘寧が孫氏のもとへ本格的に身を寄せるのは、もう少し後のことだった。
けれどこの世界では、人の出会いも、選ぶ道も、少しずつ変わり始めている。
その小さなずれを凌華が意識するのは、まだ先のことだった。




