番外編 周瑜先生の礼儀作法
孫策の娘になってからというもの、凌華には覚えなければならないことが一気に増えた。
剣の稽古なら、まだいい。
長剣を振るう時の重心の置き方も、双短剣へ持ち替える際の手順も、最初は何ひとつ分からなかった。それでも何度も身体を動かしていれば、少しずつ感覚として掴めるようになる。
失敗すれば、もう一度やればいい。呂蒙に容赦なく転がされても、翌日にはまた立ち上がって剣を握ればいい。昨日できなかったことが今日は少しできるようになっている。それが分かるから、厳しい稽古でも凌華は嫌いではなかった。
問題は――礼儀作法だった。
誰に対して、どの程度まで頭を下げるのか。
どの位置に座るのか。
目上の者から声を掛けられた時、どこまで言葉を返していいのか。
宴席ではいつ杯へ手を伸ばし、どんな時には黙っていなければならないのか。
しかも厄介なことに、それらのほとんどに、
『相手と状況による』
という、凌華にとって最も困る条件がついていた。
陸家へ身を寄せていた頃なら、多少おかしなことをしても大きな問題にはならなかった。
陸議は凌華がこの土地の作法に疎いことを知っていたし、使用人たちも事情の分からない娘として接してくれていた。間違えれば陸議がさりげなく教えてくれるし、分からないことがあれば、その都度聞けば済んだ。
けれど、今は違う。
凌華は孫策の養女になった。
本人には未だにその自覚が薄かったが、周囲から見れば、もはや単なる素性の知れない娘ではない。
孫策の名を背負って、人前へ出る立場になったのである。
そして、その事実を凌華本人よりもはるかに深刻に受け止めていた人物がいた。
◇
「――というわけで、今日から礼儀作法を覚えてもらう」
朝餉の席で孫策が唐突にそう告げた瞬間、凌華の箸が止まった。
口へ運ぼうとしていた菜をそっと器へ戻し、向かいに座る孫策を見る。
「……今日から?」
「ああ」
嫌な言葉だった。
『今日』ではなく、『今日から』。
つまり、一日で終わらない可能性が高い。
「誰に教えてもらうの?」
「公瑾」
「待て」
間髪入れず、孫策の隣から声が飛んだ。
静かに茶を飲んでいた周瑜が、ゆっくりと茶器を置く。
「私は何も聞いていないぞ」
「今言った」
「そういう意味ではない。なぜ本人の了承を得る前に決定している」
「だってお前が一番向いてるだろ」
孫策は悪びれる様子もなく答え、そのまま食事を続けた。
「俺が教えるより、お前の方がいい」
周瑜が黙った。
凌華も黙った。
少し離れた席にいた陸議まで、何とも言えない表情で視線を伏せている。
やがて周瑜は眉間へ指を当て、深い溜息を吐いた。
「……それについてだけは否定できんな」
「公瑾!?」
「お前は正式な場での作法そのものは理解している。だが、普段のお前を見て覚えさせたら余計な癖までつく」
「俺だって締めるところは締めてるぞ」
「なら、その『締めるところ』とやらを凌華へ説明できるのか」
「できる」
「では説明してみろ」
「…………」
沈黙が落ちる。
どうやら勝負はついたらしい。
その間に凌華はそっと腰を浮かせた。
二人が言い争っている今なら逃げられるのではないか。そう考え、音を立てないよう少しずつ後ろへ下がる。
あと一歩で廊下へ出られる。
「凌華」
「はい」
反射的に返事をしてしまった。
しまった、と思った時にはもう遅い。
ゆっくり振り返ると、周瑜がこちらを見ていた。
「どこへ行く」
「……ちょっと」
「どこへ」
凌華は一瞬だけ考えた。
「厠」
「先ほど行っただろう」
「…………」
どうして知っているのか。
凌華が孫策を見ると、孫策は笑いを堪えながら肩を竦めた。
「俺を見るな」
「では戻れ」
有無を言わせぬ声音だった。
凌華はしばらくその場に立っていたが、逃走は不可能だと悟り、渋々元の場所へ戻る。
「……周瑜さん」
「何だ」
「優しくお願いします」
「お前次第だ」
凌華は数秒、周瑜の顔を見つめた。
その返答だけで分かる。
「……それ、絶対優しくないやつじゃん」
少し離れたところで、陸議がそっと口元を隠した。
「陸議さん、今笑った?」
「いいえ」
「絶対笑った!」
◇
午前。
開け放たれた戸から穏やかな風が入り、庭の木々を揺らしていた。
鳥の声まで聞こえるほど長閑な昼前だというのに、凌華は朝から一度も心穏やかになれていない。
周瑜と向かい合って座り、背筋を伸ばしているだけで、既に肩が痛くなってきた。
「凌華」
「はい」
「力を抜け」
「抜いてる」
「抜けていない。肩が上がっている」
言われて、凌華は意識して肩を下げる。
すると今度は周瑜が眉を寄せた。
「抜きすぎだ」
「……これ?」
「今度は背が丸まっている」
「じゃあ、これ」
「固い」
「どうしろっていうの!?」
思わず声が大きくなった。
まだ始まってからそれほど経っていない。それなのに剣の稽古とはまったく違う種類の疲労が、じわじわと全身へ溜まり始めている。
周瑜はそんな凌華を見ながら、呆れたように息を吐いた。
「なぜお前は両極端なんだ。背筋は伸ばす。だが肩まで固める必要はない。普段通り座ればいい」
「普段通りでいいなら、これやる意味なくない?」
「普段のお前は、気を抜くとこうなっている」
そう言って周瑜が片側へ身体を傾け、頬杖をつくような格好をしてみせた。
凌華は目を見開いた。
「……私、そんな?」
「なる」
「嘘」
「陸議に聞いてみろ」
「なんで陸議さん基準なの」
「お前を最も長く見ているからだ」
それを言われると反論しにくい。
凌華はぶつぶつ言いながら座り直し、今度はできるだけ自然に背筋を伸ばした。
周瑜が少しだけ顎を引く。
「そうだ。その程度でいい」
「これ?」
「ああ」
「……最初からそう言ってよ」
「最初から言っている」
十数秒もすると、また肩へ力が入ってくる。
「凌華」
「分かってる!」
「まだ何も言っていない」
「肩でしょ?」
「分かっているなら直せ」
「周瑜さん細かい!」
「お前が雑なんだ」
どうやら今日一日で、このやり取りを何度もすることになりそうだった。
◇
座り方の次は礼だった。
これなら簡単だろう、と凌華は思った。
要するに頭を下げればいい。
ところが一度やってみれば、
「深すぎる」
と言われた。
もう一度やれば、
「浅い」
三度目は、
「早い」
四度目は、
「今度は遅い」
とうとう凌華は勢いよく顔を上げた。
「周瑜さん!」
「何だ」
「頭下げるだけなのに難しすぎない!?」
「だから教えている」
「みんな普通にやってるじゃん!」
「皆、幼い頃から教えられているからな」
「ずるい!」
「何がだ」
周瑜は呆れたように言ったものの、凌華がなぜこの程度の作法すら知らないのか、それ以上問い質そうとはしなかった。
凌華がどこから来たのか。
なぜ、この土地では当たり前とされていることを何ひとつ知らないのか。
周瑜がそれを不審に思っていないはずはない。
陸議もそうだ。孫策だって、おそらく同じだろう。
それでも三人とも、凌華が自分から話そうとしないことを無理に聞き出そうとはしなかった。
それがありがたいからこそ、凌華も気をつけていた。
ここへ来る前のことは、できる限り口にしない。
つい出てしまう妙な言葉については、遠い土地の言葉だと思ってもらうしかない。
「凌華」
「……はい?」
「今、別のことを考えていただろう」
「考えてない」
「顔に出ている」
「それも直すの?」
「いずれな」
まだ増えるらしい。
凌華はげんなりしながらも、もう一度姿勢を正した。
◇
昼を過ぎる頃には、座り方や礼だけではなく、言葉遣いと名乗り方の稽古まで始まっていた。
周瑜は凌華の前へ座ると、改めて姿勢を正した。
「では次だ。初めて会う相手に、孫策の娘として名乗ってみろ」
「名乗る?」
「ああ」
それなら簡単だ。
凌華も姿勢を正し、周瑜を客人だと思って軽く頭を下げた。
「凌華です。よろしくお願いします」
「やり直し」
「早くない!?」
ほとんど最後の言葉へ到達すると同時だった。
「お前が何者なのか分からん」
「凌華だよ」
「それは名前だ」
「……じゃあ」
凌華は少し考えた。
「孫策の娘の凌華です。よろしくお願いします」
「もう少し整えろ」
「どうやって?」
「私に聞く前に考えろ」
「分かんないから聞いてるんだけど」
「…………」
周瑜が一度目を閉じた。
どうやらその理屈には反論できなかったらしい。
「なら覚えろ。『孫策が娘、凌華にございます』だ」
「…………」
凌華が黙った。
周瑜が怪訝そうに眉を上げる。
「何だ」
「急に私、ちゃんとした人っぽい」
「ちゃんとした人にするために朝から教えている」
「ひどくない!?」
周瑜は取り合わなかった。
「言ってみろ」
「……孫策が娘、凌華にございます」
自分の口から出た言葉なのに、妙に落ち着かない。
けれど、周瑜は今までのように即座にやり直しとは言わなかった。
「悪くない。もう一度」
「今できたじゃん」
「考えずに言えるようになるまでやる」
「またそれ?」
「またそれだ」
凌華は小さく唸ったものの、再び姿勢を整える。
「孫策が娘、凌華にございます」
二度。
三度。
四度。
最初は妙にぎこちなかった言葉も、繰り返しているうちに少しずつ口へ馴染んでいく。
五度目を終えたところで、周瑜が頷いた。
「よし。それは覚えておけ。今後、お前が孫策の娘として人前へ出れば、名を問われる機会は増える」
「毎回これ?」
「相手や場によるが、正式な場なら使える」
「便利じゃん」
「だから教えている」
少しだけ、礼儀作法の意味が分かってきた気がした。
もっとも、次の一言でその気分は吹き飛んだ。
「それから、公の場で伯符を呼び捨てにするのもやめろ」
「…………」
凌華は露骨に嫌そうな顔をした。
「何だ」
「孫策は孫策じゃん」
「お前にとってはな」
「じゃあ孫策様?」
「それでは他人だろう」
周瑜は当然のように言った。
「お前はもう孫策の娘だ」
そこまで言われて、凌華はようやく周瑜が何を言わせようとしているのか察した。
そして察した瞬間、顔をしかめた。
「……無理」
「まだ何も言っていない」
「分かるもん。絶対無理」
「父上だ」
「ほらぁ!」
凌華は思わず机へ突っ伏しかけ、周瑜の視線に気づいて途中で踏みとどまった。
「だって急に父上って……恥ずかしいじゃん」
「親になったのだから当然だろう」
「周瑜さんは他人だからそう言えるんだよ。昨日まで孫策だった人を今日から父上って呼んでみてよ」
「なぜ私が孫策を父上と呼ばねばならん」
「そういう意味じゃない!」
さすがの周瑜も少しだけ口元を緩めた。
「二人きりの時まで変えろとは言わん。孫策本人も気にしていないだろう。だが、公の場で孫策の娘として振る舞うのであれば、覚えておけ」
凌華は納得しきれない顔のまま黙り込んだ。
周瑜はそんな彼女をしばらく見てから、少し声音を落とす。
「凌華。これは単に、言葉遣いを綺麗にしろという話ではない」
先ほどまでとは違う調子に、凌華も自然と口を閉じた。
「お前は孫策の娘になった。本人同士がどういう関係であろうと、人前へ出れば周囲はそう見る。お前の振る舞いひとつで孫策という人間を量ろうとする者もいるし、お前へ近づくことで孫策へ取り入ろうとする者も出てくるだろう」
「…………」
「逆もある。孫策に直接手を出せない者が、お前ならばと考える可能性もある」
凌華の表情から、ふざけた色が消えた。
「礼儀とは、ただ頭を下げるためのものではない。自分の立場を理解し、相手に余計な隙を与えないためのものでもある。剣と違って目には見えんが、身を守る術の一つだと思え」
その説明なら、凌華にも分かった。
「……だから覚えろってこと?」
「ああ」
「孫策のためにも?」
「それもある。だが、一番はお前自身のためだ」
周瑜は真っ直ぐ凌華を見る。
「知らないというだけで、お前が侮られる必要はない。知らないなら今から覚えればいい。それだけのことだ」
凌華は少しだけ目を見開いた。
朝からずっと細かいことを言われ、何度やり直しを命じられたか分からない。
けれど周瑜は、凌華をただ行儀のいい娘にしようとしているわけではない。
孫策も、周瑜も、陸議もいない場所で。
凌華が一人でも堂々と立てるようにしようとしている。
「……分かった」
「ああ。なら続けるぞ」
「もうちょっと余韻とかないの?」
「何の余韻だ」
やっぱり厳しい。
◇
午後になると、教えられる内容はさらに実践的になった。
客人への挨拶、贈り物を受け取る時の作法、宴席での振る舞い、目上の者に話を振られた時の返し方。
そして凌華が最も苦手とする――何も言わず黙っていた方がいい場面。
「でも、明らかに変なこと言ってたら?」
「黙っていろ」
「なんで?」
「その場で訂正する必要がないこともある」
「でも気になる」
「気にするな」
「無理」
「耐えろ」
凌華は少し考えてから眉を寄せた。
「それ、礼儀作法っていうより忍耐訓練じゃない?」
「似たようなものだ」
「絶対違うと思う」
文句を言いながらも、凌華の手は止まっていなかった。
机の上に広げた紙には、周瑜から教わったことが次々と書き込まれている。難しい言葉の横には自分なりの意味を書き足し、特に忘れそうなところには印までつけていた。
やがて凌華の手が止まる。
「周瑜さん」
「何だ」
「宴でお酒勧められたら、絶対飲まなきゃ駄目?」
「いや。飲めない、あるいは飲みたくないのであれば断って構わん」
「じゃあ……『今日はちょっと……』」
「何だその言い方は」
間髪入れずに返ってきた。
凌華は顔を上げる。
「駄目?」
「駄目だ」
「結構便利だよ?」
「何がどう便利なんだ。理由も意思も何も伝わっていないだろう」
「でも、なんとなく察してくれるじゃん」
「相手に察することを要求するな」
「厳しい!」
「では聞くが、お前が客人に酒を勧めたとして、『今日はちょっと……』とだけ返されたらどう思う」
凌華は少し考えた。
「今日はちょっとなんだなって」
「…………」
周瑜が黙った。
凌華も周瑜を見る。
しばらくして、周瑜はゆっくり額へ手を当てた。
「お前を基準にした私が悪かった」
「何それ!」
「せめて『酒はあまり得意ではありませんので』程度には言え」
「長い」
「慣れろ」
「『今日はちょっと』の方が絶対楽なのに」
「それを客人の前で言ったら、翌日この授業を最初からやり直す」
「横暴!」
「教育だ」
「上司の権力乱用!」
「じょうし?」
しまった。
凌華の口が止まった。
周瑜が怪訝そうにこちらを見る。
「……何だ、それは」
「えーっと……上にいる人っていうか。偉くて、下の人に指示する人?」
「なら私のことか」
「そうそう。そんな感じ」
凌華は何でもない顔をして頷いた。
幸い、周瑜はどこで覚えた言葉なのかまでは追及しなかった。
「なるほど」
何やら納得したらしい。
「ならば、その『上司』として命じる。覚えろ」
「使いこなすの早くない!?」
「便利な言葉なのだろう?」
「そうだけど!」
ほんの僅かに、周瑜の口元が上がっている。
完全に面白がっていた。
◇
しばらくして、書簡を持った陸議が部屋へやって来た。
「周瑜様、こちらを」
「ああ」
周瑜が書簡を受け取り、中身へ目を通し始める。
その瞬間、凌華は机越しに陸議へ身を乗り出し、小声で訴えた。
「助けて」
陸議が目を瞬く。
「何をです?」
「朝からずっとこれ」
机の上には、凌華が書き込んだ紙が何枚も散らばっている。
それを見た陸議は事情を察したらしい。
「礼儀作法ですか」
「そう。周瑜さん、細かい」
「聞こえているぞ」
書簡を読んでいたはずの周瑜から声が飛んできた。
凌華はびくりともせず、むしろ堂々と答えた。
「聞こえるように言った」
「なら後で礼を二十回追加する」
「ごめんなさい!」
即座に謝った。
陸議が堪えきれず小さく笑う。
「陸議さんはいいよね。周瑜さんの授業受けなくていいから」
「私も幼い頃に似たようなことは習っていますよ」
「子どもの頃でしょ?」
「ええ」
「私は二十二だよ!」
「年齢は関係ない」
また周瑜から声が飛んできた。
凌華は振り返る。
「周瑜さん、書簡読んでてよ!」
「誰に向かって言っている」
「……先生」
口から出た。
一瞬、部屋が静かになった。
周瑜がゆっくり顔を上げる。
「誰が先生だ」
「だって、もう先生じゃん」
「何?」
「朝からずっと座り方教えて、礼の仕方教えて、名乗り方から喋り方まで教えてるし。完全に先生でしょ」
「私はお前の指南役になった覚えはない」
「でも孫策に押しつけられた」
「……否定はできんが」
「じゃあ、周瑜先生」
「やめろ」
「先生、質問です」
「やめろと言っている」
「今日はちょっと……」
「何だその言い方は」
「ほら先生じゃん!」
周瑜が黙った。
陸議が横を向く。
肩が揺れている。
「陸議さん笑ってるでしょ!」
「……申し訳ありません」
「ちょうどいい」
周瑜が書簡を畳んだ。
「陸議。そこへ座れ」
「私もですか?」
「凌華の実践相手になれ。教えたことが実際にできるか試す」
凌華が固まった。
「今?」
「今だ」
「心の準備が」
「実際の場で相手がお前の心の準備を待ってくれるのか?」
「…………」
正論だった。
こういう時の周瑜は、本当に逃げ道を残してくれない。
渋々立ち上がり、陸議と向かい合う。
普段なら何も考えず「陸議さん」と呼べる相手なのに、改まって向かい合った途端、妙に恥ずかしくなってきた。
「では始めろ」
凌華は一度だけ息を整えた。
そして先ほど教わった言葉を思い出し、ゆっくりと礼をする。
「孫策が娘、凌華にございます」
今度は周瑜から声が飛んでこなかった。
陸議も先ほどまでの笑みを収め、正式な場であるかのように丁寧な礼を返す。
凌華はそのまま相手の言葉を待ち、教えられた通りに受け答えを続けた。
途中、一度だけ言葉に詰まった。
思わず周瑜を見そうになる。
けれど、その直前で思いとどまった。
自分で考える。
少し時間は掛かったが、最後まで自分の言葉で返した。
やがて一通り終えると、凌華は緊張を解き、おそるおそる周瑜を見る。
「……どう?」
周瑜はすぐには答えなかった。
それが余計に緊張する。
やがて僅かに頷いた。
「悪くない」
凌華の顔が一気に明るくなる。
「合格?」
「まだだ」
「えー!」
「だが、朝よりは随分ましになった」
それだけで十分だったらしい。
凌華は嬉しそうに笑うと、そのまま気が抜けて背中を丸めた。
「姿勢」
「はい!」
反射的に背筋が伸びる。
その様子を見た陸議が、とうとう声を上げて笑った。
◇
夕刻。
長かった一日の授業がようやく終わる頃には、凌華は机へ突っ伏していた。
朝には数枚しかなかった紙には、今ではびっしりと文字が並んでいる。
周瑜はそれを一枚ずつ確認していた。
「疲れた……」
「姿勢」
反射的に身体を起こしかけた凌華だったが、途中で止まる。
「もう終わったでしょ!」
「ああ。終わったから好きにしろ」
「先に言ってよ……」
再び机へ頬をつける。
そんな凌華を横目に、周瑜は最後の一枚まで目を通した。
字は決して美しいとは言い難い。
ところどころ妙な言葉も混ざっているし、周瑜が教えた表現の横には、凌華なりの覚え方らしい不可解な書き込みまである。
それでも、朝より確実に増えていた。
口では文句ばかり言いながら、教えたことは一つ残らず書いている。分からなければ聞き、納得できなければ何度でも質問し、それでも分からなければ別の例を出して理解しようとする。
覚える気がないわけではない。
むしろ逆なのだろう。
「凌華」
「……はい」
疲れていても、今度はちゃんと返事をした。
「明日は客人への応対をやる」
凌華がゆっくり顔を上げる。
「……明日も?」
「当然だ」
「今日で終わりじゃないの?」
「朝から『今日から』と言っただろう」
「聞かなかったことにしてた」
「聞け」
「明後日は?」
「宴席だな」
「その次は?」
「軍議での振る舞い」
凌華は絶望したように再び机へ伏せた。
「終わらないじゃん……」
「終わらせたければ覚えろ」
「鬼」
「先生ではなかったのか?」
凌華の動きが止まった。
周瑜も止まった。
言ってから、自分で気づいたらしい。
ゆっくりと凌華の顔が上がる。
その口元には、はっきりと笑みが浮かんでいた。
「……今、自分で先生って言った」
「言っていない」
「言った!」
「聞き間違いだ」
「陸議さん!」
凌華は勢いよく陸議を見る。
「聞いたよね!?」
突然巻き込まれた陸議は一瞬困ったように目を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。
「……私からは何とも」
「陸議さん!?」
「賢明だな、陸議」
「ずるい!」
そんな騒ぎを聞きつけたのか、廊下の向こうから孫策が顔を出した。
「何だ、随分楽しそうじゃねえか」
「孫策!」
反射的に凌華が呼ぶ。
その瞬間。
周瑜が凌華を見た。
凌華も気づいた。
二人の視線が合う。
「……何?」
「今日、何を教えた」
「いっぱい」
「その中の一つだ」
「…………」
凌華は黙った。
見なくても分かっている。
何を言えと言われているのか。
やがて凌華は孫策へ視線を戻した。
当の本人は、何を言われるのか察したらしく、ものすごく楽しそうに待っている。
それが余計に腹立たしい。
「……ち、父上」
「おう」
孫策の顔が、一瞬で緩んだ。
「もう一回言ってくれ」
「やだ」
「何でだよ!」
「今ので今日の分終わり!」
「一日一回なのか!?」
「孫策、うるさい!」
「戻っているぞ」
周瑜の声に、凌華が固まった。
孫策が腹を抱えて笑い始める。
「いいじゃねえか。俺はどっちでも」
「お前が甘やかすから覚えんのだ」
「別に俺と二人の時は孫策でいいだろ」
「そういう話をしているのではない。公の場で――」
再び孫策と周瑜の言い合いが始まった。
凌華はしばらく二人を眺めていたが、やがて隣の陸議へ小声で尋ねた。
「……帰っていいかな」
「ここが凌華さんの家では?」
朝と同じことを言われた。
「陸議さんまで……」
がっくりと肩を落とす。
すると、孫策と言い合っていたはずの周瑜から声が飛んできた。
「凌華、明日も同じ刻だ」
「はいはい」
「返事」
「はーい」
「凌華」
「はい、周瑜先生」
ぴたりと周瑜が止まる。
凌華は笑っていた。
周瑜は何か言おうとしたようだったが、結局諦めたらしく、小さく息を吐いた。
「……遅れるなよ」
「うん」
◇
それから、本当に授業は続いた。
翌日は客人への応対、その次は宴席での振る舞い。さらに軍議へ同席する時の立ち位置や、相手によって変えるべき言葉遣いまで、周瑜が教えることは尽きなかった。
時には陸議が実践相手として巻き込まれ、孫策が面白半分で覗きに来ては周瑜に追い出された。
凌華も相変わらず、
「今日はちょっと……」
などと言っては、
「何だその言い方は」
と直されていた。
それでも日を重ねるごとに、周瑜からやり直しを命じられる回数は少しずつ減っていった。
やがて凌華は、正式な席へ出れば自然に背筋を伸ばし、初めて会う相手にも臆することなく、
「孫策が娘、凌華にございます」
と名乗れるようになった。
公の場で孫策を「父上」と呼ぶことにも、少しずつ慣れていった。
ただし、屋敷へ戻った途端に、
「孫策、お腹すいた」
と元に戻るので、そのたびに周瑜から呆れた目を向けられた。
そしてもう一つ。
それまで凌華は、彼を「周瑜さん」と呼んでいた。
けれど、この日を境に。
何か分からないことがあれば、
「周瑜先生、これどうするの?」
困ったことが起これば、
「先生ー!」
叱られれば、
「先生厳しい!」
そう呼ぶことが、少しずつ増えていった。
初めのうちは、そのたびに周瑜も、
「誰が先生だ」
と訂正していた。
けれど何度言っても直らないので、やがて訂正することすらなくなった。
孫策まで、
「それは周瑜先生に聞け」
と言い始めた頃には、もはや手遅れだった。
周瑜にとっては、孫策に押しつけられた面倒な役目だったのかもしれない。
けれど凌華にとって周瑜は、礼の仕方や言葉遣いだけではなく、この時代で人とどう向き合い、どう立てばいいのかを教えてくれた人になった。
剣では守れないものがあること。
知らないことは恥ではないが、知らないままでいることが自分の隙になること。
誰かがいつも隣にいてくれるとは限らないからこそ、自分自身で立てるようにならなければならないこと。
それを凌華へ教えたのは、周瑜だった。
だから後になって、凌華が当たり前のように彼を、
「周瑜先生」
と呼ぶようになったのは。
案外、間違った呼び方ではなかったのかもしれない。




