番外編 見つけたら、安心した
孫策の娘になったからといって、凌華自身が急に別人になったわけではない。
朝になればいつもと同じように目を覚まし、庭へ出れば剣を握る。呂蒙との鍛錬では容赦なく叩きのめされるし、読めない文字や難しい言い回しがあれば、書簡を抱えて陸議のもとへ行く。
鈴と他愛もない話をしながら食事をすることもあれば、孫策と言い合いになり、周瑜から呆れたような目を向けられることもある。
少なくとも凌華自身は、何も変わっていないつもりだった。
けれど周囲から見れば、そういうわけにはいかないらしい。
孫策の養女となったその日から、凌華はただの「素性の分からない娘」ではなく、孫家に連なる者として見られるようになった。
孫策の娘。
その立場には、凌華が考えていた以上に多くのものがついてくる。
そして、そのことを嫌というほど実感させられたのが――今夜だった。
「凌華様、もう少し顎を引いてくださいませ」
「……こう?」
「はい。そのままでお願いいたします」
「首、痛い……」
「凌華様」
「はい……」
鏡の前に座らされた凌華は、すっかり諦めたように肩を落とした。
背後では数人の侍女が忙しなく動き回り、長い黒髪を整えたり、簪の位置を確かめたりしている。普段なら邪魔にならないよう簡単にまとめるだけの髪も、今日は随分と手の込んだ形に結い上げられていた。
今夜は孫家の屋敷で宴が開かれる。
ただの宴ではない。
孫策の養女となった凌華を、家臣や孫家に連なる者たちへ正式に披露する意味も兼ねているのだと、周瑜から聞かされていた。
つまり本人が欠席するという選択肢は、最初から存在しない。
「……鈴」
助けを求めるように名前を呼ぶと、部屋の隅で衣を整えていた鈴が顔を上げた。
「何ですか?」
「逃げたい」
「駄目です」
間髪入れずに返ってきた。
凌華は不満そうに鏡越しの鈴を見る。
「まだ何も言ってないじゃん」
「逃げたいって言いましたよね?」
「その後に何か続くかもしれないでしょ」
「では、続きをどうぞ」
「……宴から逃げたい」
「駄目です」
「結局同じじゃん!」
鈴がくすくすと笑う。
凌華は再び鏡へ向き直り、そこに映っている自分をまじまじと見つめた。
淡い色を幾重にも重ねた衣には細かな刺繍が施され、腰には飾り紐まで結ばれている。普段の動きやすい衣とはまるで違い、鏡の中にいる女が本当に自分なのか疑いたくなるほどだった。
「……これ、本当に私?」
「凌華様ですよ」
「なんか違う人みたい」
「とてもお綺麗です」
「そういう問題じゃなくてさ」
凌華は袖を持ち上げ、困ったように眉を寄せた。
「動きにくい」
「宴ですから」
「裾踏みそう」
「お気をつけください」
「転んだら?」
「お起きになればよろしいかと」
「鈴、今日ちょっと冷たくない?」
「凌華様が無茶ばかり仰るからです」
凌華はむっとしながら立ち上がると、部屋の隅へ視線を向けた。
そこには、いつもの長剣が置かれている。
迷うことなく歩み寄り、鞘ごと手に取った。
「凌華様、その剣もお持ちになるのですか?」
侍女の一人が驚いたように尋ねる。
「うん」
「ですが、本日は宴でございますし……」
凌華の手が止まった。
「男の人たちは持ってるよね?」
「え?」
「武官の人たち。宴でも帯剣してるんでしょ?」
侍女が言葉に詰まる。
「それは……はい。ですが――」
「じゃあ私も持っていく」
凌華は当然のように答えた。
「私も武人だから」
その声音には、先ほどまで衣装について文句を言っていた時とは違う、はっきりとした意志があった。
呂蒙から教えを受け、実際に戦場へ立ち、剣を振るってきた。
孫策の娘になったからといって、その事実まで消えるわけではない。
「今日は孫策の娘として出るんだっていうのは分かってるよ。でも、それで私が武人じゃなくなるわけじゃないでしょ?」
鈴はそんな凌華を見て、止めても無駄だと悟ったらしい。
「どうせ何を申し上げても、お持ちになるのでしょう?」
「うん」
「即答ですね」
「だって、これだけは置いていけないもん」
凌華はそう言いながら、長剣を腰へ佩いた。
鞘が腰に収まり、いつもの重みを感じた瞬間、それまでどこか落ち着かなかった気持ちが少しだけ静まる。
華やかな衣には少し不釣り合いかもしれない。
けれど鏡の中の自分を見た凌華は、ようやく納得したように頷いた。
「……うん。こっちの方が私っぽい」
「凌華様らしいと言えば、らしいですが」
鈴が苦笑する。
凌華が長剣を持っていきたい理由は、武人だからというだけではなかった。
腰の柄へそっと手を添える。
この剣には、孫策がいる。
今、この時代で生きている孫策とは別の、凌華にしか声を聞くことのできない孫策。
何も分からないままこの時代へ放り出され、恐怖に震えていた時から、この剣だけはずっと凌華の傍にあった。
だから、知らない人間が大勢集まる今夜のような場所へ行くのに、この剣を置いていくという選択肢は凌華にはなかった。
『ったく。宴くらいで何びびってんだ』
聞き慣れた声が頭の中へ響く。
凌華は僅かに眉を寄せた。
「びびってない」
『嘘つけ』
「うるさい」
『俺がいるだろ』
その一言に、凌華の指が柄の上で止まった。
少しだけ黙ってから、小さく呟く。
「……だから持っていくんでしょ」
『ははっ。そりゃそうか』
楽しそうな笑い声が聞こえる。
それだけで、ほんの少し安心した。
「凌華様?」
鈴に呼ばれ、凌華は我に返る。
「何でもない」
凌華は柄から手を離すと、改めて鏡の中の自分を見た。
「よし。行こう」
「先ほどまで逃げたいと仰っていた方とは思えませんね」
「今も逃げたいよ」
「では、そのまま宴へ参りましょう」
「やっぱり鈴、今日冷たい」
笑いながら振り返った、その時だった。
部屋の外から足音が近づいてくる。
「ここ?」
聞き慣れない女の声がした。
侍女が慌てて入口へ向かう。
「尚香様」
その名前を聞いた瞬間、凌華の動きが止まった。
扉が開く。
そこに立っていた少女を見た瞬間、凌華の頭の中に一つの名前が浮かんだ。
孫尚香。
三国志を知っていた凌華にとって、知らないはずのない名前だった。
けれど当然、会うのは初めてだ。
華やかな衣をまとっているものの、その立ち姿にはどこか活発な印象があり、何よりこちらを真っ直ぐに見る目が孫策と少し似ている。
孫尚香は凌華を見るなり、遠慮なく上から下まで眺めた。
そして最初に目を留めたのは、綺麗に整えられた髪でも華やかな衣でもなく、腰に佩いた長剣だった。
「……剣?」
「うん」
「宴なのに?」
「男の人だって持ってるでしょ」
あまりにも当然のように返されたからか、孫尚香が一瞬黙る。
「私も武人だから」
そう付け加えると、孫尚香の目に僅かな興味が宿った。
「あなたが凌華?」
「そうだけど……」
「兄上が娘にしたっていう?」
「……うん」
凌華も孫尚香を見返した。
「孫尚香?」
今度は相手が驚く番だった。
「私を知ってるの?」
「あ」
しまった。
「えっと……孫策から聞いて」
どうにか誤魔化す。
ところが孫尚香は、別のところに引っかかったらしい。
「今、兄上のこと孫策って呼んだ?」
「……呼んだ」
「父上じゃなくて?」
「まだ慣れなくて」
「へえ……」
孫尚香が面白そうに凌華を見る。
「何?」
「本当に変わってる」
「会ったばっかりなのに!?」
「だって、兄上を普通に呼び捨てにする娘なんて初めて見たもの」
「私だって慣れようとはしてるんだけど……」
「してるだけ?」
「……してるだけ」
孫尚香が吹き出した。
その笑い方まで、どことなく孫策に似ている。
「兄上から聞いてたのと少し違う」
「孫策、何て言ってたの?」
「剣を握らせると怖いって」
「ちょっと待って」
「頑固で、すぐ無茶するとも言ってた」
「それ孫策にだけは言われたくない!」
今度は鈴まで笑い始めた。
「鈴!」
「申し訳ありません。でも……」
「全然申し訳なさそうじゃない!」
孫尚香は笑いながらも、もう一度凌華の腰へ目を向けた。
「本当に剣を使うの?」
「使うよ」
「飾りじゃなくて?」
「戦にも出てる」
孫尚香の目が変わった。
「私も武芸は好き」
「そうなの?」
凌華の声が自然と明るくなる。
「じゃあ今度、一緒にやる?」
「いいの?」
「もちろん」
「手加減しないよ?」
「私も」
初対面だったはずなのに、その瞬間だけ二人の間にあった距離が少し縮まった。
「……あ。勝手に尚香って呼んじゃった」
「別にいいけど」
「いいの?」
「その方がいい」
「じゃあ、尚香」
「うん」
ただ名前を呼んだだけなのに、不思議とそれで十分な気がした。
血の繋がりはないし、今日初めて顔を合わせたばかりで、互いのことだってほとんど知らない。
それでも孫策という一人の男を間に挟んだだけで、不思議と他人とは思えない距離が生まれ始めていた。
*
宴の席へ足を踏み入れた瞬間、凌華は先ほどまで少し軽くなっていたはずの緊張が、一気に戻ってくるのを感じた。
想像していたより、ずっと人が多い。
広間にはいくつもの灯りがともされ、料理と酒が並び、あちらこちらから談笑する声が聞こえている。
無意識に長剣の柄へ手を伸ばしかけたところで、頭の中に周瑜の声が蘇った。
――入った途端にきょろきょろしない。
凌華の視線が止まる。
――背筋を伸ばす。顎を上げすぎない。
さりげなく姿勢を直す。
――歩幅。
踏み出しかけた足まで小さくなった。
「……いる」
「何が?」
隣の孫尚香が首を傾げる。
「頭の中に周瑜先生がいる」
「先生?」
「何でもない」
その直後、人の間から孫策が現れた。
「お、いたいた」
「孫策」
凌華は思わず安堵しかけたが、その姿を見た孫策は開口一番、にやりと笑った。
「馬子にも衣装だな」
「帰る」
「待て待て待て!」
踵を返しかけた凌華の腕を孫策が慌てて掴む。
「今来たばっかりだろ!」
「今の一言で帰る理由ができた」
「褒めただろ!」
「どこが!?」
「似合ってるって意味だ!」
「だったら最初からそう言って!」
孫尚香が声を上げて笑う。
「兄上、本当に聞いてた通り」
「何がだ?」
「凌華とずっとこんな感じなんでしょう?」
「まあな」
「勝手に納得しないで」
凌華が睨むと、孫策は気にも留めず、改めて娘の姿を眺めた。
そして腰の長剣で視線を止める。
「結局持ってきたのか」
「うん」
「まあ、お前ならそうするか」
「何その言い方」
「褒めてんだよ」
「今日の孫策の褒め言葉、全部分かりにくい」
「難しい奴だな」
「孫策が雑なの!」
その時だった。
「凌華殿」
背後から聞こえた静かな声に、凌華の背筋が反射的に伸びた。
振り向く。
周瑜がいた。
「……はい」
「先日、お話ししたことは?」
「覚えてます」
「本当に?」
「たぶん」
「凌華殿」
「覚えてます!」
孫策が吹き出す。
「お前、公瑾の前だと本当に素直だな」
「この前どれだけやらされたと思ってるの!」
「先生は厳しかったか?」
「厳しかった!」
「先生?」
孫尚香が反応する。
凌華はしまったという顔をした。
「………」
「公瑾兄様が先生……」
「笑わないでよ!」
孫尚香が肩を震わせる横で、孫策まで笑い始める。
周瑜だけが額に手を当てた。
「似た者親子ですね」
やがて周瑜が静かに告げる。
凌華と孫策は同時に振り向いた。
「どこが!?」
声まで重なった。
一瞬の沈黙の後、孫尚香が堪えきれず笑い出した。
「ほら!」
「今のは孫策が合わせたの!」
「何で俺が!」
そんなやり取りをしているうちに、凌華の肩から少しずつ力が抜けていった。
けれど、孫策が手を差し出した瞬間、再び身体が強張る。
「じゃ、行くぞ」
「……どこへ?」
「お披露目」
「帰る」
「駄目だ」
「やっぱり具合が」
「凌華」
今度の孫策の声には笑いがなかった。
凌華が顔を上げる。
「大丈夫だ」
それだけ言って、孫策は前を向いた。
「お前は俺の娘としてここに立つ。それだけだ」
「……簡単に言うね」
「簡単だからな」
「私には難しいんだけど」
「なら俺の横にいろ」
孫策が笑う。
「最初くらいはな」
凌華は少しだけ黙り、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった」
孫策の隣を歩く。
広間の中央へ近づくにつれて、周囲の視線がこちらへ集まってくる。
――孫家の娘として、堂々となさい。
先日、周瑜から何度も言われた言葉を思い出す。
凌華は背筋を伸ばした。
やがて孫策が足を止める。
「紹介する」
孫策の声が広間へ響いた。
「俺の娘、凌華だ」
それだけだった。
凌華は思わず横を見る。
「……終わり?」
「何が?」
「もうちょっと何かないの?」
「いるか?」
「私に聞かないでよ!」
周囲から小さな笑いが漏れる。
凌華はもう一度、周瑜を見る。
周瑜が静かに頷いた。
――はいはい。
凌華は一歩前へ出た。
袖を整え、この間何度も練習した通りに姿勢を正す。
ゆっくりと頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
広間が静かになる。
「このたび孫家へ迎えていただきました――」
一拍置く。
「孫策が娘、凌華にございます」
言った。
言ってしまった。
周瑜の前で練習した時でさえ恥ずかしかったのに、大勢の前で実際に口にすると想像以上だった。
――仰々しい!
心の中で叫びながら、それでも顔には出さない。
「未熟な身ではございますが、今後ともよろしくお願い申し上げます」
もう一度、礼をする。
顔を上げる。
やがてあちらこちらから声が上がり、何人もの者が礼を返した。
できた。
噛まなかった。
変なことも言っていない。
凌華は表情を崩さないまま、視線だけを周瑜へ向ける。
周瑜が僅かに頷いた。
たぶん、合格。
凌華の胸の中に小さな達成感が湧いた、その直後だった。
「お前、そんな喋り方できたんだな」
隣から孫策が言った。
「…………」
凌華のこめかみが引きつる。
「孫策」
「ん?」
「今それ言う?」
「いや、立派だったぞ」
「だったらそれだけ言って!」
「普段もそのくらい――」
「父上」
凌華が笑顔のまま遮った。
孫策が固まった。
孫尚香が目を見開く。
周瑜まで僅かに眉を上げた。
凌華はにっこり笑ったまま続ける。
「皆様の前でございますので、少々お静かになさっていただけますか?」
「…………」
孫策が無言になる。
数秒後。
「公瑾」
「何でしょう」
「こいつ怖い」
「教育の成果です」
「周瑜さん!」
孫尚香がとうとう吹き出した。
孫策も堪えきれずに笑い出す。
「今、父上って言ったな」
「そこ拾わないで!」
「もう一回」
「嫌!」
「何でだよ」
「今ので今日の分は終わり!」
「一日一回なのか?」
「今決めた!」
孫策が声を上げて笑う。
凌華は顔を赤くしながら睨んだが、その笑顔を見ていると、本気で怒る気にもなれなかった。
「……そんなに嬉しい?」
思わず尋ねる。
孫策の笑いが少しだけ止まった。
「まあな」
今度の返事は、思ったより素直だった。
凌華の方が困る。
「……そっか」
「おう」
それ以上、どちらも何も言わなかった。
孫策はただ凌華の頭へ手を置こうとして――。
「髪崩れるから駄目」
手が止まった。
「まだ触ってねえだろ」
「触る顔してた」
「どんな顔だよ」
「そういう顔」
横から孫尚香が笑う。
孫策は不満そうだったが、結局手を引っ込めた。
その何でもないやり取りに、凌華も小さく笑った。
孫策がいて、尚香がいて、少し離れたところには周瑜がいる。
血は繋がっていない。
それでも今、自分は確かにこの人たちの中にいる。
それをまだ上手く言葉にはできなかったけれど、不思議と嫌ではなかった。
*
それからは、ひたすら挨拶だった。
「凌華殿、このたびは――」
「はい。ありがとうございます」
「お噂はかねがね伺っております」
「……どんな噂でしょう?」
聞いた瞬間、失敗したと思った。
賊を斬った話だろうか。
戦場で無茶をした話だろうか。
孫策と言い合いをした話だろうか。
どれも嫌だった。
どうか答えないでほしいと願っていると、幸い別の者が声を掛けてきて、男はそちらへ行ってしまった。
凌華は小さく息を吐く。
何人かを超えた辺りから名前が怪しくなり、そのうち完全に分からなくなった。
「……鈴」
人が途切れた隙に、そっと呼ぶ。
「はい」
「今の人、誰だっけ」
「先ほどご紹介されたでしょう?」
「覚えられない……」
「あとで一緒に整理しましょう」
「お願い……」
凌華は心底疲れた顔で息を吐いた。
剣を持って敵陣へ飛び込む方が、まだ何をすればいいのか分かる。
ここでは言葉遣いはこれでいいのか、礼の仕方は間違っていないか、自分の振る舞い一つで孫策に恥をかかせることにならないかと、考えることが多すぎた。
無意識に長剣の柄へ触れる。
『大丈夫だって』
(……分かってる)
『なら堂々としてろ。お前はお前だ』
凌華は小さく息を吐いた。
(うん)
顔を上げる。
そして何気なく、広間の向こうへ視線を移した。
そこで、不意に目が止まった。
人々の間を挟んだ少し離れたところで、数人の男たちと話している青年がいる。
派手な衣を着ているわけでもなければ、大きな声で場を盛り上げているわけでもない。いつものように静かに相手の話へ耳を傾け、ときおり穏やかな表情で言葉を返していた。
凌華にとっては、見間違えようのない横顔だった。
「……陸議さん」
その名が口から零れた瞬間、自分でも不思議なくらい身体から力が抜けた。
何かをしてもらったわけではない。
陸議はこちらに気づいてすらいない。
ただ、そこにいる。
それだけで、先ほどまで胸の奥を締めつけていたものが、静かにほどけていくようだった。
「……いた」
小さく呟く。
それだけでいい。
分からないことがあれば、あとで聞けばいい。
名前を忘れてしまったら、きっと教えてくれる。
作法を間違えていたなら、笑ったりせずに次はどうすればいいのかを一緒に考えてくれるだろう。
凌華はそれだけ確認すると、もう一度小さく息を吐いた。
*
それからしばらくして人の流れがようやく途切れると、凌華はそっと宴の中心から離れた。
さすがに疲れた。
慣れない衣を着て、知らない者たちに挨拶をし続けるというのは、想像していた以上に神経を使う。
壁際まで来たところで、ようやく息を吐いた。
無意識に手が腰へ伸び、長剣の柄に触れる。
『よく頑張ったじゃねえか』
「子供扱いしないで」
『褒めてやってんだろ』
「別に褒めてもらわなくても」
『はいはい』
剣の孫策の声に、凌華は小さく笑った。
やっぱり持ってきてよかった。
もしこの剣まで部屋へ置いてきていたら、きっと今よりずっと心細かっただろう。
「凌華殿」
聞き慣れた声がして、凌華は顔を上げた。
こちらへ歩いてくる陸議がいる。
「陸議さん」
自分でも分かるくらい、声が明るくなった。
陸議は凌華の前まで来ると、少しだけ笑った。
「お疲れのようですね」
「分かる?」
「少し」
「もう駄目。何人と話したか分かんない」
「随分多くの方が挨拶に来ていましたからね」
「途中から名前も分かんなくなった」
「どなたが分からなくなりました?」
「……ほとんど」
「ほとんどですか」
「今ちょっと呆れた?」
「いいえ」
「間があった」
「気のせいでしょう」
「絶対呆れた」
陸議が僅かに笑う。
「あとで必要な方だけ、もう一度整理しましょう」
その言葉を聞いた途端、凌華は心底安心したように息を吐いた。
「よかったあ……」
「そこまで困っていたのですか?」
「困るよ。顔と名前が全然一致しないし、途中から誰に何言われたかも分かんなくなってきた」
「それで先ほど、随分真剣な顔をされていたのですね」
「見てたの?」
「時折ですが」
「……最初から声かけてくれればよかったのに」
凌華が少し不満そうに言う。
「私がですか?」
「うん」
「孫策様の娘としてご挨拶をされている最中に、割って入るわけにはいかないでしょう」
「それはそうだけど」
「それに、きちんとお出来になっていましたよ」
「本当に?」
「はい」
「変じゃなかった?」
「いいえ」
「挨拶も?」
「立派でした」
凌華はじっと陸議を見る。
「……聞いてた?」
「何をです?」
「あの、仰々しいやつ」
陸議の口元が僅かに緩んだ。
「『孫策が娘、凌華にございます』ですか?」
「言わないで!」
凌華が慌てて遮る。
「せっかく忘れようとしてたのに!」
「なぜです? 立派なご挨拶でしたよ」
「恥ずかしいんだって!」
「そうでしょうか」
「陸議さんもあれやってみてよ」
「私が?」
「大勢の前で、ものすごく改まって名乗るの。絶対恥ずかしいから」
「必要であればいたしますが」
「……陸議さん普通にできそう」
「凌華も出来ていたではありませんか」
「私は何時間も何十回も怒られて必死だったの!」
「なるほど」
陸議が納得したように頷く。
「それで、あれほど綺麗に」
「やめて。褒められると余計恥ずかしい」
「では、何も申しません」
「それもなんか嫌」
「難しいですね」
「……今、面倒くさいって思った?」
「いいえ」
「絶対思った」
「気のせいです」
また笑う。
先ほどまで大勢を前に緊張していたのが嘘のように、いつもの調子で言葉が出てくる。
凌華自身、それが不思議だった。
陸議はふと、凌華の腰へ目を向けた。
「やはり、剣もお持ちになったのですね」
「うん」
「止められませんでしたか?」
「止められた」
「でしょうね」
「でも男の人たちは帯剣してるでしょ?」
凌華は少しだけ真面目な顔になった。
「私だって武人だよ。孫策の娘になったからって、そこまで変えるつもりない」
「凌華らしいですね」
「褒めてる?」
「もちろん」
「孫策も今日ずっとそう言うんだけど、褒め方が信用できない」
「孫策様と一緒にしないでいただきたいですね」
珍しく即座に返され、凌華が目を丸くする。
「陸議さん、今ちょっと強かったね」
「そうでしょうか」
「うん」
凌華が笑うと、陸議も少しだけ笑った。
「それに……」
凌華の指先が長剣の柄へ触れる。
「これがないと落ち着かないから」
その言葉に込められた意味を、陸議がどこまで理解したのかは分からない。
けれど陸議は否定しなかった。
「ならば、それでよろしいのではありませんか」
「いいの?」
「凌華が武人としてここに立つのであれば、剣を持つことまで否定する必要はないでしょう。ただし――」
「抜かないよ」
先回りして言うと、陸議が笑った。
「それなら結構です」
「みんな同じこと言う」
「皆、凌華が抜きかねないと思っているのでしょう」
「失礼だなあ」
「違いますか?」
「……今日は抜かない」
「今日は、ですか」
「言葉の綾!」
陸議がまた笑う。
凌華は少しむっとしたが、すぐに自分も笑った。
しばらくして、陸議が静かに尋ねる。
「それほど心配だったのですか?」
「何が?」
「今夜のことです」
凌華は少し考えてから頷いた。
「……うん」
先ほどまでとは違い、その声は素直だった。
「今までは私が失敗しても、私だけの問題だったけど、今は違うから。孫策の娘って言われるようになったし、私のことを見て孫策まで何か言われるかもしれないでしょ」
陸議は黙って聞いている。
「だから、ちゃんとしなきゃって思ったんだけど……」
凌華は自分の衣を見下ろした。
「こういうの、やっぱり難しいね。戦う方が楽」
「比較するものではないと思いますが」
「だって戦場なら何すればいいか分かるもん」
「敵を斬る?」
「そう」
「宴では斬らないでください」
「斬らないってば!」
思わず声が大きくなり、凌華は慌てて口元を押さえた。
周囲を確認する。
誰もこちらを見ていない。
「……危なかった」
「周瑜殿に見つかれば、またご指導が入りそうですね」
「やめてよ。今日くらい解放して」
「まだ宴は終わっていませんよ」
「陸議さんまで先生みたいなこと言わないで」
「では、もう少し静かに」
「はい……」
素直に声を落とした凌華を見て、陸議が笑う。
「何?」
「いえ」
「絶対なんかある」
「本当に何もありません」
「今日そればっかり」
それでも凌華はもう追及しなかった。
少しの沈黙が落ちる。
けれど気まずくはない。
広間ではまだ大勢が話しているのに、ここだけ少し静かな場所になったような気がした。
「陸議さん」
「はい」
「さっきね」
凌華は何気なく広間の向こうを見た。
「陸議さん見つけた時、安心した」
陸議が少しだけ目を瞬いた。
「私を?」
「うん」
「孫策様も周瑜殿もいらっしゃったでしょう?」
「いたよ。鈴もいるし、呂蒙さんもいる」
「では、なぜ私を?」
「それが分かんない」
凌華はあっさり答えた。
陸議が僅かに困ったような顔をする。
「分からないのですか」
「うん。でも見つけた瞬間に、あ、陸議さんいるって思って」
凌華は胸の辺りへ手を置いた。
「そしたら、ここがふっと楽になった」
「……緊張が解けたのでは?」
「たぶん」
「それなら良かったです」
「うん」
凌華は笑った。
「だから、いてくれてよかった」
あまりにも何気なく言うものだから、陸議は一瞬返事を忘れたようだった。
「……陸議さん?」
「はい」
「どうしたの?」
「いいえ。何でもありません」
「またそれ」
凌華が少し笑う。
「でも、本当にそう思ったんだよ。別に何かしてくれなくても、陸議さんがいるって分かっただけで大丈夫って思えた」
「それは……随分と責任重大ですね」
「なんで?」
「私が宴を欠席できなくなります」
凌華は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「じゃあ次も来て」
「命令ですか?」
「お願い」
「それなら考えましょう」
「そこは来てよ」
「予定があるかもしれませんから」
「じゃあ先に聞く」
「随分先まで押さえるおつもりですか?」
「だっていた方が安心するし」
陸議は困ったように笑った。
「分かりました」
「来てくれる?」
「都合がつけば」
「やった」
凌華は満足そうに笑う。
そんな凌華を見て、陸議も穏やかに笑った。
二人の間に流れているものが何なのか、今はまだ考える必要などなかった。
凌華にとって陸議は、この時代へ来てから何度も助けてくれた人で、分からないことを聞ける人で、隣にいても無理に何かを話さなくていい人だった。
そして今夜、そこにもう一つだけ加わった。
人混みの中で見つけると、安心する人。
凌華はまだ、それ以上の意味を探そうとはしなかった。
「……ねえ陸議さん」
「今度は何です?」
「さっきの人たちの名前、あとで本当に教えてね」
「結局そこへ戻るのですね」
「だって本当に分かんないんだもん」
「分かりました。覚えている範囲で整理しましょう」
「全部覚えてる?」
「おそらくは」
「やっぱり陸議さん何でもできるじゃん」
「先ほど違うと申し上げたでしょう」
「じゃあ出来ないこと教えて」
「それは秘密です」
「まだ言う!」
凌華の声が弾む。
陸議の笑い声が重なる。
宴の喧騒は、まだ続いていた。
けれど凌華はもう、先ほどまでのように帰りたいとは思っていなかった。
知らない顔も多い。
慣れない衣も重い。
孫策の娘という立場にも、まだ少し戸惑っている。
それでも。
腰にはいつもの剣があって。
少し離れたところには、孫策たちがいて。
そして隣には、いつものように陸議がいる。
凌華はそれだけで、もう大丈夫な気がしていた。




