番外編 呂蒙さんと城下へ
その日の朝、凌華は孫策から一つの頼み事をされた。
「凌華、今日暇か?」
朝食を終えたばかりの凌華は、茶器を置きながら顔を上げた。
向かいでは孫策が何枚かの竹簡を眺めている。その隣では周瑜が朝から書簡に目を通しており、時折筆を走らせていた。
嫌な予感がする。
孫策がこういう聞き方をする時は、大抵もう頼み事の内容まで決まっている。
「暇って言ったら何かさせる?」
「よく分かってんじゃねえか」
「じゃあ忙しい」
「もう遅い」
「聞いた意味ないじゃん」
孫策は笑いながら、竹簡を一つ凌華へ差し出した。
「城下まで行って、これ届けてきてくれ」
凌華は受け取ったものの、そこに書かれている文字を見た瞬間、眉を寄せた。
こちらへ来た当初に比べれば、読める文字は随分と増えた。
陸議に教えてもらうことも多いし、周瑜からは孫策の娘として最低限必要になる礼儀作法や言葉遣いと一緒に、覚えておくべき文字まで叩き込まれている。
――とはいえ。
まだ、知らない文字の方が圧倒的に多い。
「……どこ?」
「南の市の近くだ」
「南の市」
「分かるか?」
「…………」
凌華は黙った。
分からない。
しかし、すぐに認めるのも何となく悔しい。
「たぶん」
「その返事をする時のお前は、絶対分かってねえ」
「失礼な」
「この前もそれで道間違えただろ」
「一回だけじゃん」
「三回です」
横から静かな声が飛んできた。
凌華の肩がぴくりと動く。
周瑜だった。
書簡から目すら上げていない。
「……数えてたんですか」
「あなたが孫策の娘を名乗る以上、城下で迷子になった挙げ句、家臣に探し回らせるようなことは避けていただきたいので」
「迷子じゃないです。ちょっと道を間違えただけです」
「同じです」
「違います」
「凌華」
「はい」
反射的に背筋が伸びた。
その様子を見ていた孫策が吹き出す。
「お前、周瑜には素直だよな」
「だって先生みたいなんだもん……」
「聞こえていますよ」
「ほら!」
「俺に言うな」
凌華が孫策を睨んだところで、部屋の外から足音が近づいてきた。
「孫策様」
現れたのは呂蒙だった。
「おう、ちょうどいい」
孫策の顔が明るくなる。
対して呂蒙は、その一言だけで何となく嫌な予感を察したらしい。
「……何でしょう」
「お前、今日城下行くだろ」
「行きますが」
「凌華も連れてけ」
「え?」
凌華と呂蒙の声が重なった。
「ちょっと待って。私、一人で行けるよ」
「場所分かってねえだろ」
「今から聞けば分かる」
「誰に?」
「陸議さん」
即答だった。
孫策の眉がぴくりと動く。
「……また陸議か」
「だって聞いたら分かるもん」
「今日は陸議なしだ」
「なんで!?」
「呂蒙がいる」
突然巻き込まれた呂蒙が眉を寄せる。
「俺は案内役ですか?」
「ついでだ、ついで」
「俺にも用がありますが」
「だからついでだって」
孫策は全く聞く気がない。
凌華は少し考えてから呂蒙を見た。
「……迷わない?」
「お前、俺を何だと思ってんだ」
「よかった」
「質問に答えろ」
その時、周瑜がようやく書簡から顔を上げた。
「凌華」
「はい」
「城下では、以前教えたことを忘れないように」
嫌な予感がした。
「……何をですか?」
「往来の中央で立ち止まらない。店の品へ不用意に触れない。相手によって言葉遣いを変える。孫家の娘として――」
「分かりました!」
「まだ途中ですが」
「全部覚えてます!」
「本当に?」
「…………たぶん」
「呂蒙」
「はい」
「見ておいてください」
「俺がですか!?」
「頼みましたよ」
呂蒙が何とも言えない顔で孫策を見る。
孫策は楽しそうに笑っていた。
こうして。
凌華は初めて、呂蒙と二人で城下へ出ることになった。
◇
城下へ入ると、空気が一気に変わった。
大通りには朝から多くの人が行き交い、荷を積んだ車が軋んだ音を立てながら進んでいる。
軒先には野菜や穀物、布、器、干した魚などが並び、店先からは威勢のいい呼び声が飛ぶ。炊いた穀物の匂いに焼いた肉の香りが混ざり、少し離れた場所からは金属を打つ乾いた音まで聞こえてきた。
凌華はこういう場所が好きだった。
こちらの暮らしには未だに慣れないことも多い。
文字も、貨幣も、身分による振る舞いも、現代とは何もかも違う。
それでも城下を歩いていると、この時代の人間が本当にここで笑って、働いて、食べて、生きているのだという実感が湧いてくる。
そして何より。
気になるものが多い。
「呂蒙さん」
「何だ」
「あれ何?」
始まった。
凌華が指したのは、店先に吊るされている細長い物だった。
呂蒙は一瞥する。
「知らん」
「え」
まだ城下へ入って、それほど経っていない。
「知らないの?」
「知らん」
「陸議さんなら多分知ってる」
「だったら帰って陸議に聞け」
「冷たい」
「俺はお前の物知り係じゃねえ」
そのまま歩く。
凌華も慌てて追いかけた。
数十歩。
「呂蒙さん」
「今度は何だ」
「あの赤いやつ何?」
「知らん」
「また!?」
「食いもんじゃねえのか」
「それは見れば分かるよ。何ていう食べ物?」
「知らん」
「…………」
凌華はじっと呂蒙を見た。
「何だよ」
「呂蒙さん」
「おう」
「何なら知ってるの?」
「お前な」
呂蒙が足を止めた。
「俺に喧嘩売ってんのか?」
「だって二回聞いて二回とも知らないんだもん」
「城下の物全部知ってる奴がいるか!」
「陸議さんなら一個くらいは知ってそう」
「陸議と比べんな!」
少し前を歩いていた男が、何事かと振り返る。
凌華は思わず笑った。
呂蒙と二人でいると、陸議と一緒にいる時とはまるで違う。
陸議なら質問すれば、一度立ち止まって考えてくれる。
知っていれば説明する。
知らなければ「分かりません」で終わらせず、何が分からないのかまで整理し始めることさえある。
周瑜なら、質問そのものに答えたあとで「それを知るなら、こちらも覚えておきなさい」と二つくらい課題が増える。
呂蒙は。
知らないものは知らない。
以上。
実に潔い。
「……ふふっ」
「何笑ってんだ」
「別に」
「気になるだろ」
「陸議さんとも周瑜さんとも全然違うなって」
「当たり前だ。俺はどっちでもねえ」
「そうなんだけど」
凌華は笑いながら呂蒙の隣を歩いた。
◇
孫策から頼まれた用事そのものは、あっさり終わった。
指定された店へ竹簡を届け、受け取った相手から返事を預かる。
それだけだった。
「じゃあ帰るか」
呂蒙が言った。
「え」
凌華が止まる。
「何だ」
「もう?」
「用は済んだだろ」
「せっかく城下まで来たのに?」
「俺にはまだ用がある」
「じゃあついていく」
「何でだよ」
「暇だから」
「屋敷帰れ」
「道分かんない」
「…………」
呂蒙が黙った。
凌華がにこっと笑う。
「呂蒙さんが連れてきたんだから、ちゃんと連れて帰って」
「お前……」
何か言いかけたものの、確かに孫策から預かった以上、一人で帰してまた迷われても面倒である。
何より。
周瑜に「見ておいてください」とまで言われてしまった。
呂蒙は大きく息を吐いた。
「勝手にどっか行くなよ」
「行かないよ」
「店見つけても急に止まるな」
「分かった」
「知らねえ道に入るな」
「分かったって」
「店の物勝手に触るな」
「周瑜さんみたいなこと言わないで」
「俺だって言いたくねえよ!」
「あと――」
「お父さんみたい」
「誰がだ!」
凌華が笑いながら数歩逃げる。
「おい! 走るな! 今言ったばっかだろ!」
「道の真ん中じゃないから大丈夫!」
「そういう問題じゃねえ!」
周囲の人々が何事かと二人を見る。
凌華はますます楽しくなった。
◇
呂蒙の用事は、兵たちが使う道具を扱う店へ立ち寄ることだった。
店の奥には革や金属の匂いが漂い、壁には様々な武具が掛けられている。
凌華は最初こそ邪魔にならないよう黙っていた。
だが。
無理だった。
「呂蒙さん」
「何だ」
「あれ何?」
またか、という顔をされた。
凌華が指したのは、腕へ装着するらしい革製の防具だった。
「籠手だ」
「へえ」
答えた。
凌華の目が少し輝く。
「じゃあ、これは?」
「革甲の補強具」
「こっちは?」
「矢尻だ」
「これ、形違わない?」
「ああ。用途が違う。そっちは――」
呂蒙が説明を始める。
凌華は黙って聞いていた。
そして。
数呼吸ほどして。
「……呂蒙さん」
「何だ」
「めちゃくちゃ知ってるじゃん」
「は?」
「さっきまで何聞いても『知らん』だったのに」
「俺を何だと思ってんだ!」
「何なら知ってるのって聞いたじゃん!」
「こういうのだよ!」
「最初から言ってよ!」
「聞かれてねえ!」
凌華は笑いながら、今度は壁に掛けられた武具を見る。
武器や防具の話になると、呂蒙の説明は意外なほど細かかった。
兵がどこを傷めやすいのか。
何が壊れやすいのか。
どの道具は値が張っても丈夫なものを使うべきなのか。
陸議の説明とは違う。
書物から得た知識ではなく、実際に戦場へ出て、人を率いてきた者の言葉だった。
「これ、重い?」
凌華が一つの防具へ手を伸ばしかける。
「おい」
ぴたり。
手が止まる。
「……何?」
「勝手に触るな」
「…………」
「周瑜に言われただろ」
「……言われた」
「俺も聞いてた」
「分かってるよ」
凌華は手を引っ込めた。
それから小さく呟く。
「呂蒙さんが周瑜さん化してる……」
「誰のせいだ!」
店主が堪えきれず笑った。
◇
店を出てしばらく歩いた頃だった。
凌華が突然、足を止めた。
「呂蒙さん」
「今度は何だ」
返事がない。
振り返ると。
凌華は一軒の露店を凝視していた。
焼いた何かが並んでいる。
香ばしい匂いが漂っていた。
「……食いたいのか?」
「見てるだけ」
「腹減ったんだろ」
「減ってない」
ぐう。
絶妙なタイミングで腹が鳴った。
「…………」
「…………」
凌華がゆっくり呂蒙を見る。
呂蒙も見ている。
「今のなし」
「無理だろ」
「聞かなかったことにして」
「腹の音まで無かったことにできるか」
凌華は恥ずかしくなって顔を逸らした。
呂蒙はため息をつくと、その店へ向かった。
「ほら」
しばらくして戻ってきた呂蒙が、包まれた食べ物を差し出す。
「え?」
「食え」
「いいの?」
「腹鳴らしながら歩かれる方が恥ずかしい」
「一言余計!」
それでも受け取る。
まだ温かい。
一口食べると、凌華の目が大きくなった。
「美味しい」
「そうか」
「呂蒙さんも食べる?」
「俺はいい」
「一口」
「いらん」
「美味しいよ?」
「分かったからお前が食え」
凌華は笑いながらもう一口食べた。
少し歩いて。
ふと思う。
「呂蒙さん」
「今度は何だ」
「孫策とは長いの?」
唐突な質問だった。
呂蒙が横目で凌華を見る。
「まあな」
「戦もずっと一緒?」
「全部じゃねえがな」
「……怖くない?」
今度は。
呂蒙が少しだけ黙った。
凌華は食べ物を持ったまま前を見る。
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
ただ。
この時代へ来て。
剣を握って。
人を斬って。
何度経験しても。
慣れたと思ったことはなかった。
呂蒙はしばらく歩いてから口を開いた。
「怖くねえ奴なんか、そういねえだろ」
凌華が顔を上げる。
「呂蒙さんも?」
「当たり前だ」
あまりにも普通に言う。
「怖くてもやらなきゃならねえ時がある。それだけだ」
「…………」
「怖くなくなる必要なんかねえだろ」
凌華は何も言わなかった。
けれど。
その言葉だけは。
胸のどこかへ残った。
「……そっか」
「ああ」
「ありがとう」
「何がだ」
「何でもない」
呂蒙は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
そういうところも。
陸議や周瑜とは違った。
◇
その後、兵たちへ渡す品をいくつか受け取り、二人は再び大通りへ出た。
そこで。
子どもの泣き声が聞こえてきた。
見ると、五、六歳ほどの男の子が道端に立っている。
周囲に親らしい姿はいない。
凌華は少し迷ったあと、子どものところへ歩いていった。
「どうしたの?」
しゃがんで目線を合わせる。
男の子は泣きながら何かを言った。
けれど。
早口で。
よく聞き取れない。
「えっと……」
凌華は困った。
こういう時。
つい。
いつもの癖が出る。
「陸議さん――」
呼びかけて。
止まった。
いない。
「…………」
そうだった。
今日は陸議はいない。
「どうすれば……」
その時。
頭の上から声がした。
「迷子か?」
振り返る。
呂蒙が立っていた。
「たぶん。でもこの子が言ってること、よく分かんなくて」
「どけ」
「どけって」
呂蒙は凌華の隣へしゃがむと、泣いている男の子へ声をかけた。
「おい。泣いてたら分からん。母親と来たのか?」
男の子が頷く。
「どこではぐれた?」
小さな指が、大通りの向こうを指した。
「何売ってる店だ?」
子どもが途切れ途切れに答える。
呂蒙は何度か聞き返したあと、すぐに立ち上がった。
「分かった。行くぞ」
「分かったの?」
「大体な」
呂蒙は男の子を軽々と抱き上げた。
さっきまで泣いていた子どもが驚いて目を丸くする。
「ほら、母ちゃん探すぞ」
凌華はその背中を少し驚いて見ていた。
◇
母親はすぐに見つかった。
呂蒙は子どもの話から場所を推測し、人通りの多い場所を避けながら迷いなく歩いた。
しばらくすると、血相を変えて子どもの名を呼んでいる女性が見つかった。
母親は子どもを抱きしめ、何度も呂蒙と凌華へ頭を下げた。
「いや、いい。今度から手ぇ離すなよ」
それだけ言うと、呂蒙はさっさと歩き始めた。
凌華は慌てて追いかける。
「呂蒙さん」
「何だ」
「すごいね」
「何が」
「すぐ分かったじゃん」
「何がだ」
「どこではぐれたか」
「話聞きゃ大体分かるだろ」
「私は分かんなかった」
「お前はまだこっちの言葉に慣れてねえだけだ」
凌華は少し驚いた。
てっきり。
「それくらい分かれ」
とでも言われると思っていた。
「……呂蒙さんって」
「あ?」
「意外と優しいね」
呂蒙の足が止まった。
「…………」
振り返る。
「お前、俺を何だと思ってた?」
「声が大きい人」
「おい」
「あとちょっと雑」
「凌華」
「細かいこと気にしない」
「喧嘩売ってんのか?」
「褒めてる途中!」
「どこがだ!」
凌華は笑いながら逃げた。
「おい、待て! だから走るな!」
その直後だった。
「危ねえ!」
突然。
凌華の腕が強く引かれた。
「え――」
身体が後ろへ引き寄せられる。
次の瞬間。
先ほどまで凌華が立っていた場所へ、大きな荷が崩れ落ちた。
荷車の片輪が溝へ落ち、大きく傾いていた。
「…………」
凌華は何が起きたのか理解するまで数秒かかった。
呂蒙は凌華を背へ庇ったまま、傾いた荷車へ駆け寄る。
「おい! そっち押さえろ!」
周囲の男たちへ声を飛ばし、自分も肩を入れる。
何人かが集まり、荷車を起こした。
荷を運んでいた老人が何度も頭を下げる。
「いい。それより車輪見てもらえ。このままじゃまた外れるぞ」
呂蒙はそれだけ言って戻ってきた。
凌華はまだ同じ場所に立っていた。
「呂蒙さん」
「何だ」
「今……私、助けた?」
「見りゃ分かるだろ」
「一瞬すぎて分かんなかった」
「お前がぼーっとしてるからだ」
「ありがとう」
その一言に。
呂蒙が少し黙った。
「……おう」
それだけだった。
でも。
凌華は。
何となく笑った。
◇
その後も、城下を歩いていると呂蒙は何度か足を止めた。
兵らしい若者に声をかけられれば、立ち止まって話を聞いた。
道端で喧嘩をしている男たちを見つければ、間へ入って一喝する。
「こんなとこでやるな! 邪魔だ!」
たったそれだけで。
男たちは散った。
凌華は、その度に少し後ろから呂蒙を見ていた。
「……何だよ」
何度目か。
とうとう気づかれた。
「何でもない」
「さっきから見てんだろ」
「見てない」
「見てる」
「…………」
凌華は少し考え、素直に言った。
「呂蒙さんって、周りよく見てるんだね」
「は?」
「困ってる人、すぐ気づく」
「…………」
呂蒙は一瞬だけ言葉を失った。
それから。
「別に普通だろ」
と。
前を向いた。
その歩調が。
少しだけ速くなった。
「照れてる?」
「照れてねえ」
「耳赤くない?」
「夕日のせいだ!」
凌華は空を見上げる。
まだ陽は高い。
「まだ夕方じゃないよ」
「うるせえ!」
凌華は声を上げて笑った。
◇
帰り道。
城下を抜ける頃には、本当に陽が西へ傾き始めていた。
朝ほど人通りは多くない。
二人の足音が土の道に重なり、遠くから鳥の声が聞こえる。
凌華は呂蒙の隣を歩きながら、ぽつりと言った。
「今日さ」
「おう」
「陸議さんいなくても、結構大丈夫だった」
「…………」
呂蒙が横を見る。
「何だ、その感想」
「いや」
凌華は笑う。
「私、分かんないことあるとすぐ陸議さんに聞くから」
「知ってる」
「みんな知ってるの?」
「多分な」
「そんなに?」
「そんなにだ」
少し恥ずかしくなる。
凌華は前を向いた。
「周瑜さんには礼儀とか、この時代でどう振る舞えばいいのか教えてもらうでしょ」
「おう」
「間違えたらすぐ直されるけど」
「お前、よく怒られてるもんな」
「怒られてない。教えてもらってるの」
「同じだろ」
「違う!」
凌華はむっとしたが。
少しして。
また笑った。
「陸議さんは、分からないことがあったら聞きたい人」
「おう」
「周瑜さんは……先生かな。あと上司」
「本人に言ってみろ」
「絶対言わない」
「何でだよ」
「明日から課題増えそうだから」
呂蒙が吹き出した。
「で」
「うん?」
「俺は?」
聞かれて。
凌華は考えた。
今日。
知らない物の名前は、ほとんど教えてくれなかった。
道具のことを聞いても。
知らん。
食べ物を聞いても。
知らん。
陸議ほど何でも答えてくれるわけではない。
周瑜のように、自分を正しい方向へ導いてくれる先生でもない。
でも。
迷子の子どもがいた時。
荷車が倒れた時。
揉め事が起きた時。
呂蒙は。
一度も迷わなかった。
「何か起きた時に」
凌華は少し笑った。
「一緒にいてほしい人かも」
呂蒙の足が僅かに遅くなった。
「…………」
「ん?」
「それ」
「何?」
「褒めてんのか?」
「めちゃくちゃ褒めてるよ」
「そうか?」
「うん」
凌華は頷いた。
「だって、頼りになるってことでしょ?」
「…………」
呂蒙はしばらく何も言わなかった。
やがて。
凌華の頭へ大きな手を置く。
ぐしゃ。
「わっ」
乱暴に撫でた。
「ちょっと!」
「じゃあ今度から何かあったら俺にも言え」
「髪ぐちゃぐちゃになる!」
「陸議ばっか頼ってんじゃねえぞ」
「孫策と同じこと言ってる!」
「何?」
呂蒙が眉を寄せる。
凌華は堪えきれず笑い出した。
「この前、孫策にも『陸議ばっかり頼るな』って言われた!」
「…………」
呂蒙が何とも言えない顔になる。
「何でお前の周り、陸議と張り合ってんだよ」
「私に聞かないでよ!」
二人の笑い声が。
夕暮れの道へ長く響いた。
◇
屋敷へ戻ると、門の近くに孫策がいた。
「おう。帰ったか」
「ただいま」
凌華が手を上げる。
「迷わなかったか?」
「迷ってない!」
「本当か、呂蒙」
「俺が一緒なんだから迷わせませんよ」
「ならいい」
孫策は安心したように頷く。
そこへ。
「お帰りなさい」
聞き覚えのある声がした。
凌華の背筋が反射的に伸びる。
回廊から周瑜が歩いてくる。
「……ただいま戻りました」
呂蒙が凌華を見る。
「急に礼儀正しくなったな」
「うるさい」
「凌華」
「はい」
周瑜が凌華を見る。
「問題は起こしませんでしたか?」
「起こしてません」
「呂蒙」
「俺に聞くんですか?」
「当然でしょう」
「何で私の証言だけ信用しないんですか」
周瑜は答えなかった。
呂蒙が腕を組む。
「まあ……勝手に店の品へ触ろうとしたくらいですね」
「呂蒙さん!」
「凌華」
「触ってないです!」
「触ろうとしただろ」
「触ってないからセーフ!」
「凌華」
「……すみません」
孫策が腹を抱えて笑っている。
「ははは! お前、周瑜の前だと本当に弱えな!」
「孫策、助けてよ!」
「無理だ。俺も怒られる」
「父親でしょ!」
「父親でも無理なもんは無理だ!」
周瑜が静かに息を吐いた。
「まったく……」
けれど。
その口元は。
ほんの僅かに笑っていた。
凌華は少し考え。
今日の成果を報告するように胸を張った。
「でも私、今日一回も陸議さんに聞かなかったよ」
「…………」
孫策が目を見開いた。
呂蒙も黙る。
周瑜まで僅かに眉を上げた。
「何」
「いや」
孫策が凌華の肩へ手を置く。
「成長したな」
「そこまで!?」
「よくやった」
「子ども扱いしないで!」
「ははは!」
呂蒙も笑う。
「でも呂蒙さんにも色々聞いた」
「答えてもらったか?」
「ほとんど『知らん』だった」
孫策が吹き出した。
「ははははっ!」
「孫策様!」
「何だよ、呂蒙! 俺と同じじゃねえか!」
「一緒にしないでください!」
「同じだよ」
凌華が即答する。
「孫策も呂蒙さんも、知らないもの聞いたら大体『陸議呼べ』になる」
「ならねえ!」
「なる!」
三人が騒いでいると。
ちょうど回廊の向こうを、一人の青年が歩いてきた。
凌華が真っ先に気づく。
「あ、陸議さん!」
陸議が足を止める。
「お帰りなさい、凌華」
「ただいま!」
そして凌華は、思い出したように指を立てた。
「そうだ。今日城下で見たんだけど、赤くて細長くて、店先にいっぱい吊るしてあった――」
「おい!」
孫策。
「待て!」
呂蒙。
二人から同時に止められ。
凌華が目を丸くした。
「何!?」
孫策と呂蒙が揃って陸議を見る。
それから凌華を見る。
「帰ってきた途端、陸議に聞くな!」
「今日は俺で済ませろ!」
「二人とも知らなかったじゃん!」
「「うるせえ!」」
陸議だけが何の話か分からず、静かに瞬きをした。
その横で。
周瑜が小さく息を吐く。
「陸議」
「はい?」
「答えるのは構いませんが、甘やかしすぎないように」
「……何の話でしょうか」
「周瑜さんまで!?」
腰元から。
剣の孫策の声がする。
『結局、最後は陸議かよ』
凌華はこっそり長剣の柄へ手を置いた。
――仕方ないじゃん。
心の中でそう返して。
小さく笑う。
陸議は。
分からないことを聞けば、一緒に考えて答えてくれる人。
周瑜は。
この時代でどう立って、どう振る舞えばいいのかを教えてくれる人。
少し厳しくて。
時々怖いけれど。
間違えた時には、きちんと正してくれる先生であり。
戦場へ出れば、背を預ける上司でもある。
孫策は。
怖くなった時。
疲れた時。
何も言わなくても帰りたくなる人。
父親と呼ぶことには、まだ少し照れが残る。
それでも。
きっと。
帰る場所なのだと思う。
そして。
呂蒙は。
何かが起きた時。
隣にいてくれたら心強い人。
何でも知っているわけじゃない。
言葉遣いだって少し乱暴で。
細かいことは気にしない。
知らないものを聞けば、平然と「知らん」と言う。
けれど。
凌華が危ない時には。
きっと。
考えるより先に手を伸ばしてくれる。
「凌華?」
陸議に呼ばれ。
凌華は我に返った。
「何でもない」
「そうですか?」
「うん」
そして。
周囲を見る。
孫策がいる。
周瑜がいる。
呂蒙がいる。
陸議がいる。
腰には。
もう一人の孫策がいる。
この時代へ来たばかりの頃には。
考えもしなかった。
知らない土地だった。
知っている人など。
誰一人いなかった。
帰りたいと思った夜もあった。
怖くて。
眠れなかった日もあった。
それなのに。
いつの間にか。
分からない時に頼る人ができて。
間違えた時に正してくれる人ができて。
怖くなった時に帰る場所ができて。
何かあった時。
隣にいてほしいと思える人までできた。
頼り方の違う人たちが。
こんなにも増えていた。
「凌華」
「ん?」
「結局、何を見たんですか?」
陸議が尋ねる。
凌華の顔がぱっと明るくなる。
「そう! 赤くて細長いやつ!」
「だから陸議に聞くなって言ってんだろ!」
「呂蒙さん知らないじゃん!」
「明日もう一回見に行きゃいいだろ!」
「じゃあ一緒に行ってくれる?」
「…………」
呂蒙が止まる。
凌華がにこにこしながら見上げる。
「私の事助けてくれるんでしょ?」
「お前、それこういう時に使う言葉じゃねえぞ!」
孫策の笑い声が響いた。
周瑜は呆れたように額へ手を当て。
陸議は相変わらず事情が分からないまま。
ただ少しだけ笑った。
凌華も。
声を上げて笑う。
知らない時代で。
知らない土地で。
それでも。
ここにはもう。
凌華の日常があった。




