番外編 湯治に行きたい【前編】
戦から戻って数日が過ぎた頃だった。
大きな戦ではなかったとはいえ、兵たちの疲労はまだ抜けきっていない。城内では負傷者の手当てが続き、軍議でもしばらく兵を休ませるべきだという話が出ていた。
凌華もまた、その日は珍しく何の役目も与えられず、陸議の部屋の片隅で大人しくしていた。
――正確には、大人しくしているつもりだった。
陸議は机に向かい、戻ってきた兵たちの報告を一つずつ確認している。
凌華はその傍らで頬杖をつきながら、特に意味もなく書簡の山を眺めていた。
「……負傷した者のうち、何人かは南の温泉へ向かわせます」
筆を動かしながら陸議が言った。
「傷にも良いと聞きますし、しばらく身体を休めさせた方がいいでしょう」
凌華の目が動いた。
「……今、なんて?」
「負傷した兵を――」
「その後」
陸議が顔を上げる。
「温泉へ、と」
凌華の身体が、ゆっくりと起き上がった。
「温泉?」
「ええ」
「……温かい?」
「温泉ですから」
「入る?」
「……入るでしょうね」
凌華の瞳が輝いた。
陸議は嫌な予感がした。
「陸議さん」
「駄目です」
「まだ何も言ってない!」
「顔に書いてあります」
「私の顔に何が書いてあるの」
「『私も行きたい』と」
凌華は口を閉じた。
そして数秒後。
「…………行きたい」
「やはり」
陸議は何事もなかったように書簡へ視線を戻した。
しかし凌華はもう止まらない。
「温泉だよ?」
「そうですね」
「温かいお湯に浸かれるんだよ?」
「そうですね」
「疲れも取れるんだよ?」
「そのために負傷兵を向かわせるのです」
「私も疲れてる」
筆が止まった。
陸議がゆっくり顔を上げる。
「どこがです?」
「全部」
「昨日、庭で孫尚香殿と走り回っていたでしょう」
「それで疲れた」
「自業自得では?」
「疲れてることに変わりはない」
妙に堂々と言われ、陸議はしばらく凌華を見つめた。
どうやら本気らしい。
凌華の頭の中では、すでに別の光景が広がっていた。
山間の静かな温泉宿。
湯気の立つ露天風呂。
風呂上がりに冷たい飲み物。
豪華な夕食。
ふかふかの布団。
そして翌朝、もう一度温泉。
――最高じゃん。
「……行きたい」
思わず漏れた。
「先ほどから聞いています」
「湯治……」
「とうじ?」
「あ」
凌華は瞬きをした。
そうだった。
こちらでは通じない。
「えっと……私のいたところでは、そういうのを湯治って言うの。温かい湯に入って、何日かゆっくりして、身体を休めるの」
「なるほど」
「そう。だから私も――」
「あなたは怪我をしていません」
「心が疲れてる」
「先ほどまで元気でした」
「今、急に疲れた」
「便利な身体ですね」
冷静に返され、凌華は机へ身を乗り出した。
「陸議さんは温泉入りたくないの?」
「特には」
「嘘でしょ!?」
あまりにも大きな声に、陸議が眉を寄せる。
「温かいお湯だよ!? 肩まで入れるんだよ!?」
「それほど驚くことですか?」
「驚くよ!」
凌華にとっては大問題だった。
こちらへ来てからというもの、身体を清めることはできても、現代にいた頃のように好きな時にたっぷりの湯へ浸かれるわけではない。
まして温泉など、夢のまた夢だと思っていた。
それが存在する。
しかも行こうと思えば行ける距離に。
「……陸議さん」
凌華は真剣な顔で向き直った。
「これは行くべきだと思う」
「何故です?」
「健康のため」
「先ほど心が疲れていると言っていましたが」
「心身ともに」
「増えましたね」
「陸議さんだって疲れてるでしょ」
そこで陸議は黙った。
凌華は見逃さなかった。
「ほら」
「何がです」
「疲れてる」
「多少は」
「じゃあ行こう」
「何故そうなるんです?」
「二人とも疲れてる。温泉がある。行く。完璧」
「途中が随分省略されています」
凌華はもう聞いていなかった。
「温泉かぁ……」
嬉しそうに呟きながら、遠くを見る。
「久しぶりだなぁ……」
その声だけは、先ほどまでとは少し違っていた。
陸議が凌華を見る。
時折、彼女はこういう顔をする。
ここにはない何かを懐かしむ顔。
自分には見ることのできない、彼女が生きていた遠い場所を思い出している時の顔だった。
「……好きだったのですか?」
凌華が振り向く。
「温泉?」
「ええ」
「好きだったよ。友達と行ったり……家族と行ったり」
そこまで言ってから、凌華は少しだけ目を伏せた。
もう戻れない場所。
もう会えない人たち。
楽しかった記憶ほど、不意に胸を締めつけることがある。
けれど、それを悟られたくなくて、凌華はすぐ笑った。
「お風呂上がりにね、冷たい牛乳を飲むの」
「牛乳?」
「そう。腰に手を当てて」
「何故?」
「知らない。でもやるの」
陸議が怪訝そうな顔をする。
「それから美味しいもの食べて、部屋でだらだらして、またお風呂入って――」
「待ってください」
「なに?」
「それは療養なのですか?」
「現代では立派な旅行です」
「旅行になりましたね」
しまった。
凌華が口を押さえる。
陸議は小さく息を吐いた。
「つまりあなたは、療養を口実に遊びに行きたいだけでは?」
「違う」
「では?」
「……八割くらい温泉に入りたい」
「残り二割は?」
凌華は少し考えた。
そして陸議を見る。
「陸議さんと行ったら楽しそう」
今度は陸議が黙る番だった。
凌華には深い意味などない。
本当に、ただそう思っただけなのだろう。
それが分かるからこそ、余計に困る。
「……そういうことを」
「ん?」
「いえ」
陸議は視線を書簡へ戻した。
凌華は首を傾げたものの、すぐに再び温泉のことで頭がいっぱいになった。
「ねえ、行こうよ」
「考えておきます」
「それ絶対行かない人の言い方じゃん」
「では、仕事が片付けば」
「本当!?」
凌華が勢いよく身を乗り出した。
陸議は思わず身体を引く。
「近いです」
「いつ!? 明日!?」
「何故そうなるのです」
「明後日?」
「凌華」
「三日後?」
「仕事が片付けば、と言いました」
「じゃあ手伝う」
「あなたに任せると余計に時間がかかります」
「ひどい!」
部屋の外まで響く声に、通りかかった呂蒙が足を止めた。
何事かと中を覗けば、凌華が陸議の机の前で必死に何かを訴えている。
「何やってんだ、お前ら」
凌華が振り向いた。
「呂蒙さん!」
「おう」
「温泉行こう!」
「……は?」
事情を聞いた呂蒙はしばらく黙り込み、やがて陸議を見る。
「行ってくりゃいいじゃねえか」
凌華の顔がぱっと明るくなる。
「ほら!」
「呂蒙殿まで……」
「最近働き詰めだろ、お前も」
「しかし――」
「こいつも連れてけ」
呂蒙が親指で凌華を指す。
「うるせえから」
「誰がうるさい!」
「お前だ」
「私は純粋に健康を――」
「温泉入りてえだけだろ」
「八割ね」
「ほぼ全部じゃねえか」
呂蒙が呆れた顔をする。
その横で陸議は額を押さえていた。
しかし数日後。
凌華は馬上で、これ以上ないほど上機嫌だった。
「温泉!」
前を行く陸議の肩が僅かに落ちる。
「まだ着いていません」
「分かってる!」
「先ほどから何度目ですか」
「だって温泉だよ!?」
「分かりましたから、前を見てください。落ちますよ」
「はーい」
返事だけは素直だった。
山道を進むにつれ、空気が少しずつ変わっていく。
やがて風の中に、微かに独特の匂いが混じった。
凌華が鼻を動かす。
「……する」
「何がです?」
「温泉の匂い!」
次の瞬間、凌華の顔が輝いた。
「陸議さん! 温泉だ!」
その姿を見て、陸議は思わず笑った。
戦場では誰より鋭い目をして剣を振るい、時には自分たちですら理解できない未来を背負っているというのに。
今はただ、湯に入れるというだけで子どものようにはしゃいでいる。
「そんなに嬉しいですか」
「嬉しいよ!」
凌華は即答した。
そして少しだけ速度を落とし、陸議の隣へ馬を並べる。
「……ありがとう、陸議さん」
「まだ何もしていません」
「連れてきてくれた」
陸議は前を向いたまま答えた。
「私も疲れていましたから」
「え」
「あなたが言ったのでしょう」
凌華は一瞬きょとんとして――やがて笑った。
「じゃあ今日はいっぱい休もう」
「そうですね」
「仕事禁止ね」
「それは困ります」
「書簡持ってきた?」
沈黙。
凌華の目が細くなる。
「……陸議さん?」
「最低限です」
「没収」
「何故です?」
「湯治だから」
「あなたの言う湯治は随分厳しいですね」
「休むことに関しては厳しいの」
そう言って凌華は笑う。
その向こう。
山あいから、白い湯気がゆっくりと空へ昇っていた。
凌華はそれを見つめながら、ほんの少しだけ懐かしい場所を思い出した。
もう帰ることのできない世界。
けれど。
隣には陸議がいる。
これから向かう場所を思えば、胸の奥には不思議と寂しさより楽しみの方が大きかった。
「陸議さん」
「はい?」
「着いたら一番風呂ね」
「好きにしてください」
「あと風呂上がりの牛乳探そう」
「ですから、何故牛乳なのです?」
「そこは譲れない」
「ありませんよ、おそらく」
「じゃあ作る」
「どうやって?」
「…………」
凌華は考えた。
「牛から?」
「最初からですね」
山道に、陸議の呆れた声と凌華の笑い声が響いた。
こうして凌華はこの時代へ来て初めての――本人曰く、念願の「湯治」へ向かうことになったのである。
***
山道を抜けた先に、白い湯気が見えた。
岩肌の隙間から立ち昇るそれは、風に流されながら山の木々の間へ溶けている。
鼻をくすぐる、独特の匂い。
凌華は馬上で大きく息を吸った。
「……温泉だ」
「先ほどから何度目ですか」
「だって本当に温泉なんだもん」
隣を進む陸議の呆れた声など、今の凌華にはほとんど届いていない。
頭の中にあるのは、現代で何度か訪れた温泉地の記憶だった。
木造の旅館。
暖簾。
畳の部屋。
浴衣。
湯上がりの牛乳。
夕食には、その土地の料理がずらりと並んで――。
「……楽しみ」
思わず頬が緩む。
そんな凌華を横目で見ながら、陸議は何も言わなかった。
やがて馬を降り、案内された場所へ向かう。
そして。
凌華は立ち止まった。
「…………」
目の前には、簡素な建物があった。
木と石を組み合わせた造りで、確かに人が滞在できるようにはなっている。
しかし。
凌華の想像していたものとは、かなり違う。
「…………」
「凌華?」
「……暖簾は?」
「のれん?」
「浴衣は?」
「ゆかた?」
「卓球台は?」
「たっきゅう……?」
陸議の眉間に皺が寄っていく。
凌華は辺りを見回した。
「……旅館は?」
「ここで休めますが」
「お土産屋さんは?」
「何を言っているのです?」
凌華は静かに天を仰いだ。
そうだった。
ここは三国時代だった。
何を期待していたのだろう。
温泉と聞いた瞬間、脳内で勝手に現代日本の温泉旅館へ変換していた。
「……思ってたんと違う」
「何がです?」
「全部」
「あなたは一体、何を期待していたのですか」
「聞かないで」
凌華は遠い目をした。
陸議はしばらくその横顔を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「湯はあります」
凌華の顔が戻った。
「……ある?」
「それを目的に来たのでしょう」
「あるんだ」
「あります」
「ちゃんと入れる?」
「そのための場所です」
凌華の瞳に、再び光が宿った。
「じゃあいい」
「立ち直るのが早いですね」
「温泉さえあれば勝ちだから」
「何との勝負なのですか」
それについては凌華自身にも分からなかった。
***
案内された湯場を見て、凌華は再び立ち止まった。
岩に囲まれた湯溜まりから、白い湯気がゆらゆらと立ち昇っている。
当然ながら、現代の温泉施設のように整然とはしていない。
けれど。
「……おお」
これはこれで。
ものすごく温泉だった。
むしろ自然の中にそのまま湯が湧いている光景は、凌華の知っている温泉よりずっと野趣がある。
そっと手を入れてみる。
「あったか……」
ちょうどいい。
凌華の口元が緩んだ。
「これは……」
もう我慢できない。
「入ろ」
ここまで来る間の疲れも、旅館がない衝撃も、卓球台が存在しない悲しみも、一瞬で吹き飛んだ。
しばらくして。
「…………はぁぁぁぁぁ……」
山あいに、心の底から絞り出されたような声が響いた。
肩まで湯に浸かった凌華は、完全に動かなくなっていた。
岩に背中を預け、頭に布を乗せ、目を閉じる。
「…………」
極楽。
もう、それ以外の言葉が浮かばない。
こちらの時代へ来てから、身体を清めることには慣れた。
けれど、こうして肩までたっぷりの湯に浸かり、何も考えずに身体を預ける感覚は久しぶりだった。
肩。
背中。
腰。
戦で酷使した脚。
温かさがじんわりと染み込んでいく。
「……生き返る……」
思わず呟いた。
剣を振るうようになってから、身体のあちこちには小さな傷が増えた。
命を落としかけたことだって、一度や二度ではない。
それでも普段は平気な顔をしている。
けれど湯に身体を預けてしまうと、自分が思っていた以上に疲れていたことに気づいた。
「……私、結構頑張ってたんだなぁ」
ぽつりと零れた声は、湯気の中へ消えていった。
そのまま目を閉じる。
湯の流れる音。
風が木々を揺らす音。
鳥の声。
誰かの怒鳴り声も、武器がぶつかる音もない。
静かだった。
凌華はゆっくり息を吐いた。
「……温泉、最高」
結局そこへ戻った。
***
一方。
陸議は困っていた。
凌華が湯場へ向かってから、随分経つ。
最初のうちは気にしていなかった。
あれだけ楽しみにしていたのだから、多少長くなるだろうと思っていた。
だが。
「……遅い」
持ってきた書簡を一通読み終え。
二通目を読み。
三通目を読み終えても。
戻ってこない。
陸議は書簡から顔を上げた。
まさか。
湯の中で倒れているのではないか。
「…………」
いや。
あの凌華に限って。
そう思ったものの、戦場で無茶をする姿が次々と脳裏をよぎった。
嫌な予感しかしない。
陸議は立ち上がった。
湯場へ続く道の手前まで来たところで足を止める。
当然、その先へ入るわけにはいかない。
「凌華」
返事がない。
陸議の表情が変わる。
「凌華?」
やはり返事がない。
「……凌華!」
少し声を張る。
すると。
ずっと向こうから。
「……なぁにぃ……」
気の抜け切った声が返ってきた。
陸議は目を閉じた。
生きていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ぅ……」
「随分長いですが」
「気持ちいい……」
「それは分かりました」
「陸議さんも入った方がいいよぉ……」
声からして完全に溶けている。
陸議は額を押さえた。
「そろそろ出た方がいいのでは?」
「やだ」
即答だった。
「のぼせますよ」
「大丈夫」
「先ほどからそれしか言っていません」
「あとちょっと……」
「その言葉を何度繰り返すつもりです?」
返事がなくなった。
陸議の眉が動く。
「凌華?」
「…………」
「凌華」
「…………」
「凌華!」
「起きてる!」
突然声が返ってきた。
「今、寝ていたでしょう」
「寝てない」
「間がありました」
「目を閉じて温泉を味わってただけ」
「それを寝ていたと言うのでは?」
「違います」
妙なところだけはきっぱりしている。
陸議は大きく息を吐いた。
「とにかく、そろそろ上がってください」
「はーい」
「本当にですよ」
「はーい」
信用できない。
それでも返事を確認し、陸議は一度その場を離れた。
ところが。
それからまたしばらく経っても、凌華は戻ってこなかった。
***
「凌華」
「…………」
「いい加減にしてください」
「…………あと五分」
「ごふん?」
しまった。
凌華は湯の中で目を開けた。
「……少し」
「先ほども聞きました」
「じゃあ本当に最後」
「それも聞きました」
凌華は湯に口元まで沈んだ。
出たくない。
ここに住みたい。
いっそ孫策に頼んで、この近くに別邸を建ててもらえないだろうか。
――いや、怒られるな。
間違いなく周瑜にも怒られる。
それでも真剣に考えていると、再び陸議の声がした。
「凌華」
「……はい」
「上がってください」
珍しく強い。
凌華は渋々立ち上がった。
「分かったよぉ……」
湯から出る。
身体を拭き、衣を整える。
しかし。
立ち上がった瞬間だった。
「……あれ」
ふわっ、と視界が揺れた。
「あ」
長く入りすぎた。
岩に手をつく。
「……やば」
その声を。
外で待っていた陸議は聞き逃さなかった。
「凌華?」
「大丈夫!」
反射的に答える。
「今の声のどこが大丈夫なのです」
「ちょっと……立ちくらみ」
「だから言ったでしょう!」
珍しく陸議の声が大きくなった。
凌華は思わず笑う。
「ごめん」
「笑い事ではありません」
「でも温泉で怒られるの、なんか懐かしい」
「何故です?」
「昔も長風呂して怒られたから」
その一言に。
陸議は黙った。
昔。
つまり彼女がここへ来る前。
自分の知らない場所で生きていた頃の話だ。
少しして、落ち着いた凌華が湯場から出てくる。
頬は赤く、濡れた黒髪がまだ少し肌に張りついている。
「……大丈夫です」
「先ほどより説得力がありません」
「ほんとに」
ふらり。
身体が傾いた。
「凌華!」
陸議が咄嗟に腕を取る。
そのまま肩を支えられ、凌華は目を瞬いた。
「……ほら」
「…………」
「だから言ったでしょう」
「……すみません」
さすがに今回は素直だった。
陸議は凌華を支えながら、近くの腰掛けまで連れていく。
「座っていてください」
「はい」
「動かない」
「はい」
「本当に」
「……はい」
陸議が離れていく。
凌華はその背中を見送りながら、小さく呟いた。
「お母さんみたい」
ぴたり。
陸議の足が止まった。
振り返る。
「何か言いました?」
「何も」
凌華は即座に目を逸らした。
***
しばらくすると。
陸議が飲み物を持って戻ってきた。
「飲んでください」
「ありがとう」
受け取って口にする。
そして。
凌華は固まった。
「…………」
「どうしました?」
「……違う」
「何がです?」
凌華は器を見る。
「牛乳じゃない」
「まだ言っていたのですか」
「湯上がりなのに……」
心底残念そうな顔をする凌華を見て、陸議は呆れ果てた。
「あなたのいたところでは、湯から上がるたびに牛乳を飲まなければならない決まりでもあったのですか?」
「決まりではないけど、様式美」
「ようしきび?」
「気にしないで」
凌華は飲み物を口にする。
それでも十分美味しかった。
火照った身体に染みていく。
「……美味しい」
「なら良かった」
隣に陸議が腰を下ろす。
しばらく二人で、山の景色を眺めていた。
風が気持ちいい。
凌華は膝を抱えた。
「ねえ、陸議さん」
「何です?」
「来てよかった?」
「私はまだ湯に入っていませんが」
「あ」
凌華が振り向く。
完全に忘れていた。
「行ってきなよ!」
「そのつもりです」
「絶対肩まで入ってね」
「何故あなたに入り方まで指定されなければならないのです?」
「あと百数える」
「数えません」
「温泉ってそういうものだから」
「あなたの故郷の決まりをこちらへ持ち込まないでください」
凌華が笑った。
「じゃあ待ってる」
そう言われ、陸議は少しだけ目を細めた。
「……ええ」
立ち上がり、数歩進んだところで。
「陸議さん」
「はい?」
「書簡持っていかないでね」
陸議の動きが止まった。
凌華の目が細くなる。
「……今、持っていこうとした?」
「…………」
「没収」
「凌華」
「今日は休む日です」
「一通だけ――」
「だめ」
「急ぎのものです」
「呂蒙さんに言いつけるよ」
「何故そこで呂蒙殿が出てくるのです」
凌華はにやりと笑った。
「休むことに関しては厳しいって言ったでしょ」
陸議はしばらく凌華を見つめていた。
やがて。
諦めたように書簡を置く。
「……分かりました」
「よろしい」
満足そうに頷く凌華を見て、陸議は小さく笑った。
その日の夕方。
山あいを染める夕日を眺めながら、凌華は思った。
旅館はなかった。
浴衣もなかった。
卓球台もない。
湯上がりの牛乳もなかった。
思い描いていた温泉旅行とは、何もかも違っていた。
それでも。
身体は驚くほど軽い。
隣では陸議が珍しく書簡を持たず、静かに夕日を眺めている。
「……陸議さん」
「はい」
「また来ようね」
陸議はすぐには答えなかった。
けれど、しばらくして。
「そうですね」
小さく返ってきた。
凌華は笑った。
現代にいた頃とは違う。
同じ温泉でも、何もかも違う。
それでもまた一つ。
この時代にも。
帰ってきたいと思える場所が増えた気がした。




