番外編 湯治は静養のはずでした【後編】
翌朝。
まだ空が白み始めるより、少し前。
山間の宿所は静まり返っていた。
夜の冷気が残り、外から聞こえるのは風に揺れる木々の音と、遠くで絶え間なく流れる湯の音だけ。
そんな中。
凌華は目を覚ました。
「…………」
ぼんやりと天井を見つめる。
いつもなら、もう一度目を閉じるところだった。
身体はまだ眠りを求めている。
昨日は山道を進み、念願の温泉に入り、案の定長湯をしてのぼせ、陸議に散々叱られた。
今日はゆっくり起きればいい。
そう思って、凌華は布を肩まで引き上げた。
「…………」
目を閉じる。
そして。
「…………あ」
目を開けた。
何かを思い出した。
温泉。
早朝。
まだ誰も起きていない。
山。
冷たい空気。
この条件が揃った時、現代人である凌華の頭に浮かぶものは一つしかない。
「……朝風呂」
がばっ。
凌華は起き上がった。
「朝風呂じゃん」
昨日あれだけ入った。
長湯してのぼせた。
陸議には、今日はもう無理をするなと言われた。
それは覚えている。
覚えているけれど。
朝の温泉は別物である。
凌華の中では、完全に別枠だった。
「行こ」
迷いはなかった。
***
部屋を出て。
凌華は数歩歩いた。
そして止まった。
「…………」
振り返る。
廊下の先。
陸議の部屋がある。
一人で行けばいい。
昨日あれだけ「休め」と言ったのだから、陸議は寝かせておくべきだ。
むしろ起こす理由がない。
「…………」
凌華は陸議の部屋へ向かった。
理由などない。
ただ。
朝風呂というものは、誰かと「朝風呂最高だったね」と共有するところまで含めて朝風呂なのだ。
少なくとも凌華の中では。
部屋の前まで来る。
「陸議さん」
小声で呼ぶ。
返事はない。
「……陸議さん」
やはり返事はない。
当然だった。
まだ夜明け前である。
凌華は少し考えた。
帰ろうか。
そう思った瞬間。
昨日の陸議の言葉が蘇った。
――私も疲れていましたから。
「…………」
凌華はもう一度、戸の向こうへ声をかけた。
「陸議さん」
少しだけ大きく。
「朝だよ」
しばらくして。
中から、物音がした。
「…………凌華?」
いつもより低い声だった。
明らかに寝起きである。
「起きた?」
「……今、起こされました」
「おはよう」
「…………おはようございます」
戸が開く。
現れた陸議を見て、凌華は一瞬黙った。
髪がいつもより少し乱れている。
当然ながら衣もまだきちんとは整っていない。
普段の陸議は、凌華が顔を合わせる頃にはすでに身支度を終えている。
だから。
こんな姿を見るのは珍しい。
「…………」
凌華はじっと見る。
「何です?」
「いや」
「何ですか」
「陸議さんも寝起きは普通なんだなと思って」
「私を何だと思っているのです?」
「起きた瞬間から陸議さんなのかと」
「意味が分かりません」
凌華は少し笑った。
それから本題を思い出す。
「朝風呂行こう」
「…………」
陸議が無言になった。
「朝風呂」
もう一度言う。
「聞こえています」
「行こう」
「昨日、あれほど入ったでしょう」
「昨日は昨日」
「のぼせたでしょう」
「昨日は昨日」
「私が何度呼んでも出てこなかったでしょう」
「……昨日は昨日」
「便利な言葉ですね」
陸議は目元を押さえた。
まだ眠そうだ。
「凌華」
「はい」
「今はまだ夜明け前です」
「だからいいんじゃん」
「何がです?」
「誰もいない。静か。空気が冷たい。そこから温かい湯に入る」
凌華は両手を広げた。
「最高」
「……そうですか」
「最高なんだよ」
「あなたが行けばよいのでは?」
もっともな意見だった。
凌華は口を閉じる。
「…………」
「…………」
「一緒に行こうよ」
「何故です?」
凌華は少し考えた。
「せっかく一緒に来たから」
それだけだった。
何の含みもない。
凌華にとっては本当に、それだけ。
しかし陸議は一瞬黙った。
「……あなたは」
「ん?」
「いえ」
小さく息を吐く。
「少し待っていてください」
凌華の顔が明るくなる。
「行く?」
「ここまで起こされて、今からもう一度眠れると思いますか?」
「やった」
「喜ばないでください」
そう言いながら戸を閉める陸議の耳が、ほんの少し赤かったことには。
凌華は当然、気づかなかった。
***
山の向こうが、少しずつ明るくなり始めていた。
空はまだ青黒い。
けれど、その端だけが淡い紫色に変わっている。
「……いいねぇ」
凌華はご機嫌だった。
隣を歩く陸議は、まだ若干眠そうである。
「寒くないですか?」
「寒い」
「戻りますか?」
「戻らない」
即答だった。
「この寒さがいいの」
「先ほどから矛盾していませんか?」
「分かってないなぁ」
「何をです?」
「寒い中で入る温泉がいいんだよ」
「なら最初からそう言ってください」
湯場の近くまで来たところで、二人はそれぞれ別の方へ向かう。
「陸議さん」
「何です?」
「ちゃんと肩までね」
「まだ言うのですか」
「あと――」
「百は数えません」
先に言われた。
凌華は笑う。
「じゃ、後でね」
「長湯は禁止です」
「はーい」
「昨日のようになったら、今日はもう入りませんからね」
「分かってるって」
「本当に?」
「本当に」
陸議は疑わしそうな目を向けながら、ようやく自分の湯場へ向かった。
***
湯に身体を沈めた瞬間。
「……っはぁぁぁ……」
凌華は天を仰いだ。
これだ。
昨日とは違う。
朝の冷たい空気の中で、首から下だけが温かい。
頬に触れる風は冷たいのに、身体の芯はじんわりと熱を持っていく。
岩に背中を預ける。
「……最高」
昨日も同じことを言った気がする。
けれど最高なのだから仕方がない。
空を見上げる。
少しずつ夜が消えていく。
木々の向こうから淡い光が差し込み、湯気が薄桃色に染まっていく。
凌華は黙ってそれを見つめていた。
「…………」
不意に。
大学生だった頃のことを思い出した。
友人たちと旅行した時。
朝が苦手だと言いながら、誰かが「朝風呂行こう」と言い出して。
眠い目を擦りながら皆で起きて。
寒い寒いと文句を言いながら歩いて。
湯に入った瞬間、全員で同じような声を出して笑った。
あの頃は。
そんな時間がいつまでも続くと思っていた。
卒業して。
働いて。
たまに皆で旅行して。
いつか結婚したり。
子どもができたり。
それぞれ違う道を進んでも、時々集まって。
そんな未来が。
普通に来るのだと思っていた。
「…………」
凌華は湯の中で膝を抱えた。
もう。
あの場所へは戻れない。
分かっている。
「……元気かな」
小さく呟く。
答える者はいない。
ただ。
向こう側から、聞き慣れた声がした。
「凌華」
「うわっ!?」
凌華が飛び上がりかける。
「な、なに!?」
「……どうしました?」
「急に呼ばないでよ!」
「昨日、呼んでも返事をしなかった人に言われたくありません」
壁の向こう。
姿は見えない。
けれど陸議の声だけは聞こえる。
「もう入っていますか?」
「入ってる」
「長くなりすぎないように」
「分かってるって」
凌華は口を尖らせる。
けれど。
少しだけ笑った。
先ほどまで胸の奥にあった寂しさが、ほんの少し薄くなった気がした。
***
しばらくして。
「……陸議さん」
凌華が壁越しに呼んだ。
「はい」
「気持ちいい?」
少し間があった。
「……悪くありません」
凌華は吹き出した。
「何その感想」
「何がおかしいのです?」
「絶対気持ちいいくせに」
「普通です」
「じゃあ出れば?」
返事がない。
凌華はにやりとする。
「出ないじゃん」
「…………」
「気持ちいいんじゃん」
「静かに入りなさい」
「はいはい」
完全に図星らしい。
凌華は湯に肩まで沈んだ。
「……また来ようね」
向こう側から返事はない。
「陸議さん?」
「聞こえています」
「また来よう」
「そうですね」
昨日と同じ返事だった。
けれど今日は少しだけ早かった。
凌華は満足そうに目を閉じる。
***
それからしばらくして。
二人はほぼ同じ頃に湯から上がった。
空はすっかり明るくなっていた。
山の向こうから朝日が差し込み、濡れた葉がきらきらと光っている。
「どうだった?」
凌華が聞く。
「良かったですよ」
「ほら!」
「何故あなたが勝ち誇るのです?」
「朝風呂の良さが分かったから」
「はいはい」
「絶対また来ようね」
「仕事次第です」
「出た」
凌華が笑う。
並んで宿所へ戻る。
その途中。
凌華が突然立ち止まった。
「……あ」
陸議も足を止める。
「どうしました?」
凌華は真剣な顔をしていた。
何か重要なことを思い出したらしい。
「朝風呂の後って」
「はい」
「朝ご飯なんだよ」
「……それは普通では?」
「違う」
凌華は首を振った。
「温泉の後の朝ご飯は、めちゃくちゃ美味しいの」
「そうですか」
「白いご飯」
「ありますね」
「焼き魚」
「魚ならあるでしょう」
「卵焼き」
「……何です、それは」
凌華が止まった。
「…………」
「凌華?」
「作ろう」
「今から?」
「作れる。卵があればいける」
「あなたが?」
「失礼な」
凌華は袖を捲る。
「見せてあげようじゃないですか」
「何をです?」
「日本の温泉旅館の朝ご飯を」
「にほん?」
「あ」
またやった。
陸議が目を細める。
凌華は一瞬考えてから。
「……未来の朝ご飯」
「随分大きく出ましたね」
「任せて」
自信満々に歩き出す。
その背中を見ながら、陸議は嫌な予感しかしなかった。
そして。
その予感は正しかった。
***
「陸議さん!! 卵が鍋にくっついた!!」
朝の静けさを切り裂く凌華の声に、陸議は思わず目を閉じた。
つい先ほどまで。
山間の澄んだ空気の中、朝風呂を楽しみ、珍しく何の仕事にも追われない穏やかな時間を過ごしていたはずだった。
それがどうしてこうなったのか。
理由は簡単だ。
凌華が、
『未来の朝ご飯を作る』
などと言い出したからである。
「だから何をしているのですか!」
陸議が調理場へ入る。
そこには。
鍋を片手に持った凌華がいた。
そして、その鍋の底には。
黄色い何かが張りついていた。
陸議は黙った。
凌華も黙った。
「…………」
「…………」
陸議が鍋を見る。
凌華を見る。
もう一度、鍋を見る。
「これが」
静かな声だった。
「未来の朝食ですか?」
「違う」
即答だった。
「これは事故」
「事故」
「そう」
凌華は真剣だった。
「本来はもっと綺麗なの」
「そうですか」
「黄色くて、ふわふわで、こう……四角くて」
凌華は手で形を作る。
「何層にもなってて」
「それを作ろうとして」
「こうなった」
二人の視線が鍋へ落ちる。
どう見ても。
何層にもなってはいない。
「……なるほど」
「その納得やめて」
「まだ何も言っていません」
「顔が言ってる」
凌華は箸で鍋底をつついた。
剥がれない。
「おかしいな……」
現代なら。
卵を溶いて。
味をつけて。
油を引いた卵焼き器へ流して。
巻いて。
また流して。
巻いて。
それだけだったはずなのに。
「……道具って大事だったんだな」
凌華はしみじみ呟いた。
「今さらですか?」
「だって卵焼きなんて普通に作れてたもん」
「あなたのいた場所では?」
「うん」
陸議は鍋を覗き込む。
「では、何が違うのです?」
「全部」
「全部?」
「火加減も鍋も油も違うし、そもそもこの鍋、卵焼きに向いてない」
「なら何故始めたのです」
「作れると思ったから」
あまりにも堂々と言われ。
陸議は額を押さえた。
「あなたは時々、妙なところで自信がありますね」
「私だって料理くらいできるよ」
「今の状態で言われても」
「これは設備の問題!」
「そういうことにしておきましょう」
「陸議さん!」
笑っている。
ほんの僅かだが。
絶対に笑っている。
「じゃあ陸議さん作ってよ」
「何故私が?」
「私より器用そう」
「料理に関しては関係ないでしょう」
「剣も扱えるし、筆も綺麗だし」
「それと卵を焼くことに何の関係があるのです?」
「手先が器用」
「随分強引ですね」
凌華は鍋を差し出した。
「はい」
「渡さないでください」
「やってみて」
「嫌です」
「陸議さんならできる」
「煽っても無駄です」
「……できない?」
ぴたり。
陸議が止まった。
凌華の口元が僅かに上がる。
「…………」
「…………」
「貸してください」
凌華は吹き出した。
「陸議さん、そういうところあるよね」
「何がです?」
「負けず嫌い」
「違います」
「はいはい」
「違います」
言いながら鍋を受け取っている時点で、説得力はなかった。
***
「まず卵を溶きます」
「それくらいは分かります」
「で、味をつける」
「何を入れるのです?」
凌華の動きが止まった。
「…………」
現代の台所が脳裏に浮かぶ。
醤油。
砂糖。
出汁。
場合によってはみりん。
しかし。
ここには。
「…………」
「凌華?」
「……それっぽくしよう」
「急に曖昧になりましたね」
「塩ちょっと。あと……甘くする?」
「何故私に聞くのです」
「陸議さん、甘い卵焼きとしょっぱい卵焼きどっち派?」
「その二つがあることを今知りました」
「あ、そっか」
凌華は腕を組んだ。
これは重大な問題である。
「私は……」
少し考える。
「甘いやつ」
「では、それで」
「いいの?」
「あなたが作りたいのでしょう?」
「じゃあ甘いやつ!」
方針が決まった。
問題はそこからだった。
「少し流して」
「これくらいですか?」
「多い多い!」
「先ほどあなたはもっと入れていました」
「だから失敗したんだよ!」
「なるほど」
「学習しないで!」
「どちらなのです?」
「もうちょっと……そうそうそう」
じゅっ。
卵が焼けていく。
凌華は真剣な顔で覗き込んだ。
「今!」
「何がです?」
「巻く!」
「どうやって?」
「向こうからこっち!」
「説明が雑です」
「こう、くるって!」
「分かりません」
「貸して!」
「熱いですよ」
「分かってる!」
結局、二人で鍋を囲むことになった。
凌華が箸を入れ。
陸議が鍋を支える。
「そっち持ち上げて」
「こちら?」
「違う違う、卵!」
「卵をどう持ち上げるのです?」
「箸!」
「あなたが持っているでしょう!」
「じゃあ鍋傾けて!」
「先に言ってください!」
「今今今!」
「何が今なのです!?」
ぐしゃ。
「…………」
「…………」
二人は黙った。
鍋の中。
黄色い塊が。
無惨な姿になっていた。
「……陸議さん」
「何です?」
「難しいね」
「あなたが言うのですか」
「共同責任」
「ほとんどあなたの指示でしたが」
「共同作業だから共同責任」
「随分都合のいい理屈ですね」
それでも。
凌華は笑っていた。
陸議も、呆れながらどこか楽しそうだった。
***
三度目。
「……今度こそ」
凌華は鍋を睨んだ。
「何故そこまでこだわるのです?」
「ここまで来たら意地」
「療養は?」
「してる」
「どこがです?」
「心が楽しい」
陸議が一瞬黙る。
それから。
「なら、まあ」
小さく呟いた。
凌華は気づかなかった。
「いくよ」
「はい」
少量の卵を流す。
焼ける。
巻く。
少し崩れる。
でも止めない。
再び卵を流す。
また巻く。
「お」
「先ほどよりは」
「いける!」
三度目。
巻く。
「陸議さん、そっち!」
「分かっています」
「火強い!」
「離します」
「そう!」
そして。
ついに。
鍋の中に。
少しいびつではあるものの。
黄色い、細長い塊ができた。
「…………」
凌華が固まる。
「…………できた」
陸議も見る。
「これが?」
「卵焼き」
「随分不格好ですが」
「初めてにしては百点!」
「先ほどまで作ったことがあると言っていませんでしたか?」
「この時代では初めてだから初めて!」
「また都合のいい理屈を」
凌華は満面の笑みだった。
「切ろう!」
切ってみる。
断面には。
ちゃんと層がある。
凌華の顔がさらに輝いた。
「陸議さん! 見て!」
「見えています」
「層!」
「ええ」
「卵焼きだ!」
「はいはい」
「未来だ!」
「それは大袈裟でしょう」
けれど。
陸議も少し笑っていた。
***
結局。
その日の朝食は。
炊いた穀物。
焼いた魚。
山菜。
汁物。
そして。
中央に置かれた。
少しいびつな卵焼き。
凌華は腕を組み、満足そうに食卓を眺めた。
「……かなり近い」
「何にです?」
「温泉旅館の朝ご飯」
陸議にはよく分からない。
それでも、凌華が嬉しそうなので何も言わなかった。
「食べよ」
二人で腰を下ろす。
凌華は真っ先に卵焼きを取った。
そして。
口へ入れる。
「…………」
陸議が見る。
「どうです?」
凌華はゆっくり噛む。
「…………」
「凌華?」
「……甘い」
「甘くしたのでしょう?」
「甘すぎる」
陸議が目を閉じた。
「あなたが入れたのですよ」
「目分量って怖いね」
「今さらですか」
「でも美味しい」
凌華はもう一口食べた。
「陸議さんも食べて」
差し出す。
陸議も一つ取る。
口へ運ぶ。
「…………」
「どう?」
「…………甘いですね」
「でしょ?」
「何故嬉しそうなのです?」
凌華が笑う。
「同じ失敗を共有できたから」
「巻き込まないでください」
「でも食べられるでしょ?」
「まあ」
もう一口。
「悪くはありません」
凌華はにやっとした。
「気に入った?」
「そこまでは言っていません」
「もう一個取ったじゃん」
陸議の手が止まった。
「…………」
「気に入ってるじゃん」
「食べ物を粗末にしないためです」
「はいはい」
「本当です」
「じゃあ全部食べていいよね」
凌華が皿を自分の方へ引き寄せようとする。
陸議が皿を押さえた。
「何をするのです?」
「私が食べる」
「多すぎます」
「残さないために」
「私も食べます」
「気に入ってるじゃん」
「凌華」
「はいはい」
朝の食卓に、凌華の笑い声が響いた。
しばらくして。
食事を終えた凌華は、満足そうに息を吐いた。
「……完璧」
「卵焼きは失敗していましたが」
「細かいことはいいの」
「先ほどまで必死だった人の言葉とは思えませんね」
凌華は外を見る。
朝日が山々を照らしている。
身体は温泉で温まり。
お腹もいっぱいになった。
隣には陸議がいる。
「……なんか」
凌華がぽつりと言った。
「こういうの、久しぶり」
「こういうの?」
「朝からお風呂入って、ご飯作って、一緒に食べて」
現代にいた頃。
それは特別なことではなかった。
旅行に行けば普通にあった時間。
家族や友人と過ごした、何でもない朝。
それが今では。
ひどく懐かしくて。
ひどく大切に思える。
「……楽しい」
凌華は小さく笑った。
陸議はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「なら」
静かな声がした。
「また作ればよいのでは?」
凌華が振り向く。
「え?」
「温泉でなくても、朝食なら作れます」
「……また卵焼き作ってくれる?」
「何故私が作ることになっているのです?」
「だって共同作業でしょ?」
「今日だけです」
「じゃあ次はもっと上手く作ろう」
「話を聞いていますか?」
「陸議さん、今度はしょっぱいのね」
「凌華」
「出汁巻きもいいな」
「だしまき?」
「それはね――」
凌華が身を乗り出す。
陸議は呆れながらも、その話を遮らなかった。
帰る場所は。
一つだけではないのかもしれない。
失った場所と同じものを作ることはできなくても。
新しい場所で。
新しい誰かと。
また一つずつ、何でもない日常を作っていくことはできる。
朝の光の中。
少しいびつな卵焼きが一切れだけ残った皿を挟んで。
凌華は楽しそうに、未来の朝食について話し続けていた。
***
数日後。
山あいの湯場を発った凌華と陸議は、昼を少し過ぎた頃、ようやく城へ戻ってきた。
「帰ってきたぁ……!」
門をくぐった瞬間、凌華は馬上で大きく伸びをした。
数日の湯治のおかげなのか、出発前より身体は明らかに軽い。
肩の張りも取れ、戦続きで重たかった脚も随分楽になっている。
何より。
気分がいい。
「陸議さん」
「何です?」
「また行こうね」
「戻ってきたばかりでしょう」
「次いつ行く?」
「今その話をしますか?」
「だって次の楽しみ決めとかないと」
「しばらくありません」
「えー」
隣を進む陸議は、帰路についてから何度目か分からない溜息をついた。
しかし凌華は気にしない。
温泉。
朝風呂。
朝食。
少しいびつだった卵焼き。
思い返すだけで頬が緩む。
「楽しかったなぁ」
「療養です」
「楽しかった療養」
「……もうそれでいいです」
陸議が諦めたところで、前方から聞き慣れた声が飛んできた。
「お、帰ってきたか」
「呂蒙!」
ちょうど城内へ戻るところだったらしい呂蒙が、二人を見つけて近づいてくる。
凌華は満面の笑みで手を振った。
「ただいま!」
「随分元気になってんじゃねえか」
「温泉最高だった!」
「そりゃよかったな」
「朝も入った!」
「おう」
「ご飯も作った!」
「……おう?」
呂蒙の返事が少し変わった。
「何しに行ったんだ、お前」
「湯治」
「今の話のどこに湯治要素があった?」
「最初に温泉って言ったじゃん」
「そういう意味じゃねえよ」
凌華は首を傾げた。
その隣で、陸議が静かに馬を降りる。
呂蒙はそんな陸議を見る。
「で?」
「何でしょう」
「ちゃんと休めたのか?」
陸議は答えようとして。
一度、凌華を見た。
凌華も陸議を見る。
「…………」
「…………」
「何、その間」
凌華が言った。
「あなたが言いますか」
「休めたじゃん」
「誰かが夜明け前に起こさなければ、もう少し休めました」
呂蒙の眉が上がる。
「夜明け前?」
「あ」
凌華が目を逸らした。
陸議は淡々と続ける。
「朝風呂というものに行きたいと」
「陸議さん」
「部屋まで来て起こされました」
「言わなくていいじゃん!」
呂蒙が吹き出した。
「お前、陸議まで起こしたのかよ!」
「だって一緒に来たんだから一緒に楽しんだ方がいいでしょ!」
「湯は別だろ」
「そういう意味じゃない!」
「分かってるわ!」
呂蒙が腹を抱えて笑い始める。
凌華はむっとした。
「陸議さんだって気持ちいいって言ってた!」
「『悪くない』と言っただけです」
「同じようなもんじゃん」
「随分違います」
「また行くって言ったじゃん」
「そこまで言っていません」
「言った!」
「『そうですね』です」
「それは行くって意味でしょ!」
「確約ではありません」
「ずるい!」
二人の言い争いを見ながら、呂蒙はますます楽しそうに笑っていた。
***
そして。
当然ながら。
凌華が戻ったことは、すぐ孫策の耳にも入った。
「おう、帰ったか」
「父上、ただいま」
孫策の部屋へ顔を出した凌華は、機嫌よく頭を下げた。
以前なら孫策相手にそんな挨拶をする自分など想像もできなかったが、今では随分自然になった。
孫策はそんな凌華を上から下まで見る。
「顔色いいじゃねえか」
「すごく良かった」
「そんなにか?」
「最高だった」
即答だった。
孫策が笑う。
「そりゃ連れてった甲斐があったな、陸議」
少し後ろに控えていた陸議が一礼する。
「身体を休めるという目的は、ある程度果たせたかと」
「ある程度?」
孫策が聞き返した。
凌華の動きが止まる。
「陸議さん」
「何です?」
「余計なこと言わなくていいからね」
「余計なこと?」
孫策の目が輝いた。
嫌な輝き方だった。
「何かあったのか?」
「何もない」
凌華が即答する。
「何もありません」
陸議も答える。
「ほう」
孫策が二人を見る。
その顔は明らかに信じていない。
ちょうどそこへ。
「伯符」
周瑜が入ってきた。
凌華は一瞬、ほっとした。
助かった。
話が逸れる。
そう思った。
「凌華も戻っていたか」
「ただいま、周瑜さん」
「身体は?」
「絶好調」
「それなら何よりだ」
周瑜が穏やかに頷く。
「湯に浸かり、身体を休めることはできたか?」
「うん!」
今度こそ安全な質問だった。
凌華は元気よく頷いた。
「すっごく気持ちよかった!」
「そうか」
「朝も入った!」
「朝?」
「夜明け前に陸議さん起こして」
周瑜の視線が陸議へ向いた。
陸議は静かに目を伏せた。
凌華は喋ってから気づく。
「……あ」
孫策が笑いを堪えている。
周瑜は少し考えた。
「まあ、朝の湯も悪くはないだろう」
「でしょ!?」
凌華の顔が明るくなる。
「あと朝ご飯作った!」
「ほう」
「卵焼き!」
「卵を焼いたものか」
「そう! 未来の――」
凌華の口が止まった。
孫策と周瑜は、凌華が未来から来たことを知っている。
だから隠す必要はない。
それでも未来の話をする時には、未だに一瞬だけ言葉を選ぶ癖があった。
「……私がいた時代の料理」
「どんなものだ?」
孫策が興味を示す。
凌華は待ってましたとばかりに説明し始めた。
「卵を溶いて、味つけて、少しずつ焼いて巻くの。何回か重ねると、切った時に層になってて」
「美味いのか?」
「美味しいよ!」
「ほう」
「ちょっと甘くして――」
「甘すぎましたが」
陸議が静かに付け加えた。
凌華が振り向く。
「陸議さん!」
「事実でしょう」
孫策の眉が上がる。
「陸議も食ったのか?」
「作るの手伝ってもらった」
「ほう?」
「何、その顔」
「いや?」
明らかに面白がっている。
周瑜だけは話を整理していた。
「つまり」
全員の視線が集まる。
「身体を休めるために湯へ向かい――」
「うん」
「凌華は長湯をし」
凌華の笑顔が固まった。
「……誰から聞いたの」
「先ほど呂蒙から」
「早い!」
あいつ。
もう喋ったのか。
周瑜は続ける。
「のぼせて陸議に介抱され」
「介抱ってほどじゃない!」
「翌朝は夜明け前に陸議を起こし」
「朝風呂!」
「その後、自ら朝食を作ろうとして騒ぎを起こした」
「騒ぎじゃない!」
「鍋に卵を張りつかせたとも聞いたが」
「呂蒙さぁぁん!!」
孫策がとうとう吹き出した。
「お前、何しに行ったんだ!」
「湯治だよ!」
「どこがだ!」
「ちゃんと温泉入ったもん!」
「入ってのぼせてんじゃねえか!」
「一回だけ!」
「一回でも十分だろ!」
凌華の顔が赤くなる。
陸議は少し離れたところで静かにしている。
凌華は助けを求めるようにそちらを見た。
「陸議さん!」
「何でしょう」
「なんか言って!」
「周瑜殿のおっしゃったことに、間違いはありません」
「裏切り者!」
孫策の笑い声がさらに大きくなる。
周瑜はこめかみを押さえた。
「私は、身体を休めてくるようにと聞いていたのだが」
「休んだよ!」
「本当に?」
「……心はすごく休んだ」
一瞬。
部屋が静かになった。
凌華は、言ってから少し照れくさくなった。
けれど。
それは本当だった。
身体が楽になったこともそうだが、それ以上に。
何も考えず湯に浸かって。
朝日を眺めて。
陸議と朝食を作って。
失った世界を少し思い出して。
それでも寂しいだけではなく、今いる場所で笑えた。
「楽しかったし」
凌華は小さく笑った。
「……また頑張れそうだから」
孫策の表情から、からかうような色が少し消えた。
周瑜も何も言わない。
陸議だけが静かに凌華を見ている。
「なら」
孫策が言った。
「行って正解だったな」
凌華が顔を上げる。
「……うん」
「次は俺も行くか」
「え!」
凌華の目が輝いた。
「行こう!」
「おう」
「朝風呂も!」
「いいぞ」
「孫策なら分かってくれると思った!」
「任せろ!」
二人が妙に盛り上がり始める。
陸議の眉間に皺が寄った。
周瑜も嫌な予感を覚えたらしい。
「待て、伯符」
「なんだよ」
「お前まで凌華に乗るな」
「いいじゃねえか、湯くらい」
「そこを止めているのではない」
「じゃあ何?」
周瑜は凌華を見る。
「長湯はしない」
「はい」
「夜明け前に人を起こさない」
「……はい」
「調理場を騒がせない」
「…………はい」
「そして伯符」
「俺?」
「お前が加わると、恐らくさらに騒ぎが大きくなる」
「なんでだよ!」
「容易に想像できる」
「俺は静かに湯に入るぞ」
凌華が孫策を見る。
孫策も凌華を見る。
「…………」
「…………」
凌華がにやりとする。
孫策もにやりとした。
周瑜はその瞬間。
深く息を吐いた。
「……やはり駄目だ」
「なんで!?」
「まだ何もしてねえだろ!」
凌華と孫策の声が綺麗に重なる。
陸議は目を伏せた。
「周瑜殿」
「何だ」
「私も、次はお止めした方がよいと思います」
「陸議さんまで!?」
「当然でしょう」
「今度はのぼせない!」
「そこではありません」
「卵焼きも上手くなってるかもしれない!」
「さらに不安になりました」
孫策がまた笑い出す。
結局。
静養から帰ってきたはずの凌華がいる部屋は。
その日一番。
騒がしい場所になった。
***
その夜。
凌華は自室へ戻り、荷を片づけていた。
持っていった衣。
小物。
そして。
「あ」
荷の中から、小さな包みが出てきた。
開いてみる。
中には、湯場の近くで拾った小さな石が入っていた。
何の変哲もない。
丸く削れた石。
凌華はそれを掌の上で転がした。
「……楽しかったな」
思わず笑う。
すると。
開いたままだった戸の向こうから声がした。
「何がです?」
凌華が顔を上げる。
「陸議さん」
「まだ片づけていたのですか」
「うん」
陸議が部屋へ入ってくる。
凌華は掌の石を見せた。
「これ、持って帰ってきた」
「石?」
「記念」
「……石を?」
「いいじゃん」
陸議は少し不思議そうにそれを見る。
凌華は石を握った。
「私のいた時代だとね、旅行に行ったら、お土産買ったり写真撮ったりするの」
「しゃしん」
「景色とか、その時一緒にいた人とかを、そのまま残せるもの」
「そのまま?」
「うん。見たら、その日のこと思い出せる」
陸議はしばらく考えていた。
「便利ですね」
「すごくね」
凌華は石を見る。
「でもここじゃ写真撮れないし、お土産屋さんもなかったから」
「それで石ですか」
「そう」
少し笑う。
「これ見たら思い出すでしょ」
温泉に入って。
のぼせて。
朝早く陸議を起こして。
一緒に卵焼きを失敗して。
笑った。
「だから」
凌華は石を大切そうに包み直した。
「これはこれでいいかなって」
陸議はその様子を静かに見ていた。
そして。
「では」
懐から何かを取り出す。
凌華が首を傾げた。
「なに?」
差し出されたものを見る。
小さな石だった。
凌華のものとは違う。
少し白っぽく、表面が滑らかな石。
「……これ」
「湯場の近くにありました」
「陸議さんも拾ったの?」
「あなたが石を拾っているのを見たので」
凌華は目を瞬いた。
「……なんで?」
「記念なのでしょう?」
それだけ言って。
陸議は凌華の掌へ石を置いた。
凌華は二つの石を見る。
自分が拾ったもの。
陸議が拾ったもの。
並べてみる。
形も色も違う。
けれど。
なぜだか少し嬉しくなった。
「……じゃあ二つとも取っとく」
「好きにしてください」
「次行ったら、また拾おう」
「また行く前提ですか」
「もちろん」
陸議は呆れたように息を吐いた。
けれど。
今度は否定しなかった。
凌華は二つの石を同じ包みへ入れる。
未来にいた頃のように、写真は残せない。
旅館の名前が入った土産もない。
それでも。
きっと何年経っても。
この石を見れば思い出す。
湯気の向こうに昇った朝日も。
甘すぎた卵焼きも。
隣にいた人の声も。
「……次は絶対、牛乳見つけようね」
「まだ諦めていなかったのですか」
「そこは重要だから」
「何故です?」
「温泉だから」
「答えになっていません」
凌華は笑った。
陸議の呆れた声も。
いつかきっと。
この二つの石と一緒に思い出すのだろう。




