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番外編 小さな歌が、広がるまで【前編】


孫家の屋敷で暮らすようになってから、凌華にはいくつかお気に入りの場所ができていた。


庭の端にある大きな木の根元。人通りの少ない廊下の突き当たり。少し高くなっていて、屋敷の屋根越しに空を眺められる場所。


どこも特別な場所ではない。


ただ、少しだけ人の気配が遠くなる。


一人になりたい時、凌華はそういう場所へ行った。


その日も、夕暮れが近づいた頃だった。


凌華は縁側の端に座り、両膝を立てて腕で抱えていた。


庭では風に揺れた葉が静かに音を立てている。遠くから誰かの話し声が聞こえてくるものの、言葉までは分からない。


凌華は膝に頬を預けた。


この時代へ来てから、随分いろいろなことがあった。


知らない土地。


知らない言葉や文字。


知らない決まり。


最初は何をするにも誰かに尋ねなければならなかった。


それでも最近は、少しずつ慣れてきた。


朝になれば誰に挨拶すればいいか分かるし、食事の作法も最初ほど周瑜に注意されなくなった。難しい文字は相変わらず読めないものが多いが、分からなければ陸議に聞けばいい。


呂蒙との鍛錬は大変だけれど、以前より身体は動く。


尚香とはくだらないことで笑えるようになった。


孫策には、もう遠慮する気がほとんどない。


だから、ここで暮らすことが嫌なわけではなかった。


それでも、時々こうなる。


何があったわけでもないのに、一人になりたくなる。


凌華は膝を抱える腕に少しだけ力を入れた。


ふと、頭の中に旋律が浮かんだ。


現代にいた頃、何度も聞いた歌だった。


通学途中にも聞いた。課題をしながら流していたこともある。友人と一緒に聞いた記憶もある。


こちらへ来てからは当然、一度も耳にしていない。


だから凌華は、自分で小さく口ずさんだ。


誰かに聞かせようとは思わなかった。


歌詞も全部を正確に覚えているわけではない。ところどころ曖昧になれば、鼻歌で繋げればいい。


ただ、自分の記憶の中に残っている旋律をなぞる。


それだけだった。


少し離れた廊下を、陸議が歩いていた。


手には書簡がある。


部屋へ戻る途中だったが、微かな声が聞こえて足を止めた。


最初は誰かが話しているのかと思った。


けれど違う。


歌だ。


声のする方へ視線を向けると、縁側の端に凌華がいた。


膝を抱えて座り、庭を眺めながら歌っている。


陸議は声をかけなかった。


以前にも一度、似た姿を見たことがある。


その時の凌華も膝を抱えていた。


歌っていたものは、今日とは違った。


普段の凌華は、静かな人間ではない。


孫策と言い合いをしているか、尚香と笑っているか、呂蒙に鍛錬で転がされて文句を言っているか。周瑜に作法を注意されれば露骨に顔へ出るし、読めない文字を持って陸議のところへ来れば、開口一番「これ何?」である。


そんな凌華が、一人の時だけ時折こうして小さくなる。


理由を、陸議は知らなかった。


故郷を思い出しているのかもしれない。


あるいは、まったく別のことを考えているのかもしれない。


どちらにしても、今の自分が尋ねることではないような気がした。


陸議はそのまま立ち去ろうとした。


その時だった。


歌っていた凌華の肩が、わずかに揺れた。


陸議は足を止める。


もう一度、肩が揺れる。


悲しんでいるようには見えない。


むしろ一定の間隔だった。


やがて膝を抱えていた指まで、軽く拍を刻み始めた。


「……ここ好きなんだよね」


凌華が一人で呟いた。


そして突然、膝から顔を上げた。


陸議は思わず見てしまう。


凌華は座ったまま片手を動かし、何かを確かめるように首を傾げた。


「ここがこうで……次が……」


もう一度やる。


「違う。逆だ」


今度は反対。


どうやら歌とは別に、何かの動きを思い出そうとしているらしい。


やがて凌華は立ち上がった。


先ほどまで膝を抱えていた人間とは思えないほど、動きが軽い。


歌を続けながら、両手を動かす。


一歩下がる。


少し身体を揺らす。


「そうそう、これこれ」


何やら一人で納得している。


そして歌が盛り上がるところまで来た瞬間、凌華は勢いよく地面を蹴った。


ぴょん、と跳び上がる。


陸議の目が少しだけ大きくなった。


凌華は着地すると、そのまま覚えている動きを続けようとした。


しかし途中で手と足が合わなくなった。


「あっ、違う!」


止まる。


少し考える。


「こっちか」


もう一度。


今度はうまくいったらしい。


凌華が笑った。


「よし!」


再び歌いながら動き始める。


やがて同じところが来ると、また跳ぶ。


二度目は一度目より高かった。


楽しそうだった。


本当に、ただ楽しそうだった。


陸議はその姿を眺めながら、自然と口元を緩めていた。


先ほどまでの静かな表情が何だったのか、彼には分からない。


凌華が抱えているものについても、まだ何も知らない。


ただ、今の凌華が笑っている。


それを見ていると、不思議と自分まで嬉しくなった。


結局、陸議は声をかけないまま、その場を離れた。


◆


それから何日か経った。


凌華自身は、あの日のことなど特に気にしていなかった。


一人になると、また同じ歌を口ずさんだ。


洗濯物を畳みながら。


廊下を歩きながら。


庭でぼんやりしながら。


時には、鈴に髪を整えてもらっている最中にも。


「凌華様、その歌がお好きなのですね」


「ん?」


言われて初めて、自分が歌っていたことに気づいた。


「……ああ。うん。昔よく聞いてたから」


「凌華様の故郷の歌ですか?」


「そうだね」


凌華は鏡越しに笑った。


「私のいたところの歌」


鈴はそれ以上尋ねなかった。


凌華も、それ以上は説明しなかった。


そして、その歌を耳にしていたのは陸議だけではなかった。


ある日の午後。


周瑜は庭を横切ろうとして、聞き覚えのある旋律に気づいた。


凌華が歌っている。


周瑜はそのまま歩いた。


翌日にも聞いた。


さらに数日後にも聞いた。


凌華本人は毎回、ほとんど無意識だった。


周瑜は何も言わなかった。


ただ、耳には残った。


しばらくして。


凌華が縁側で歌っていると、不意に別の音が重なった。


「……ん?」


凌華は歌うのをやめた。


音も止まった。


凌華は周囲を見回す。


誰もいない。


「気のせい?」


もう一度歌い始める。


すると数拍遅れて、再び音が重なった。


今度は間違いない。


楽器の音だった。


凌華は勢いよく振り返った。


少し離れた場所に、周瑜がいた。


「周瑜さん!?」


周瑜は何事もなかったように楽器を手にしている。


「今の周瑜さん!?」


「他に誰がいる」


「なんで弾けるの!?」


「何度か聞いた」


「何度かで!?」


「おおよその旋律は分かる」


凌華は絶句した。


「……怖っ」


「何がだ」


「いや、普通できないでしょ」


「お前は同じものを何度も歌っている」


「そんなに歌ってた!?」


「かなり」


知らなかった。


凌華は少し恥ずかしくなったが、それ以上に興味が勝った。


「もう一回やっていい?」


「構わない」


凌華は姿勢を整えた。


最初から歌う。


周瑜は少し遅れて音を重ねた。


当然、現代で聞いていたものと同じではない。


凌華自身の記憶が完全ではないうえに、周瑜は凌華の声だけを頼りに音を拾っている。


使っている楽器も違う。


けれど、それが妙に心地よかった。


凌華は途中から身体を揺らし始めた。


そして、いつものところが近づく。


少し離れた場所を歩いていた陸議が、二人に気づいた。


周瑜が演奏している。


凌華が歌っている。


陸議は足を止めた。


凌華が立ち上がる。


それを見た瞬間、陸議には次に何が起こるのか分かった。


案の定、凌華が跳んだ。


陸議は思わず笑った。


周瑜は演奏を続けながら、跳んだ凌華を見た。


「何だ、それは」


「踊り!」


「歌だけではないのか」


「本当はこういう動きもあるの!」


「そうか」


周瑜はそれだけ言って、また楽器へ視線を落とした。


凌華は続けようとしたが、少しして止まった。


「周瑜さん」


「何だ」


「そこの音、もうちょっとこう……強くできる?」


「こう、とは何だ」


「だから、跳びたくなる感じ!」


周瑜が凌華を見る。


「説明が雑すぎる」


「音楽詳しくないんだから仕方ないじゃん!」


「ならば歌え。こちらで考える」


「おお……」


凌華はもう一度歌った。


周瑜が合わせる。


二度目。


三度目。


少しずつ拍が明確になっていく。


凌華の顔が明るくなった。


「それ! それ好き!」


「ならばこれでいいだろう」


「もう一回!」


「まだやるのか」


「やる!」


陸議は少し離れたところで、そのやり取りを眺めていた。


◆


次に増えたのは、尚香だった。


周瑜の演奏を聞きつけて庭へやって来ると、凌華が一人で妙な動きをしている。


「凌華、何してるの?」


「踊ってる!」


「何それ?」


「私のいたところの踊り」


尚香の目が輝いた。


「私もやりたい!」


「やる!?」


凌華の目も輝いた。


そこからは早かった。


凌華が振りを見せる。


尚香が真似する。


最初こそ左右を間違えたものの、身体を動かすことに慣れている尚香はすぐに覚えた。


「次は?」


「ここでちょっと下がって、それから――」


凌華が笑う。


「跳ぶ!」


「分かった!」


周瑜が演奏する。


凌華と尚香が並ぶ。


「来るよ!」


「うん!」


凌華が合図を出した。


「せーの!」


二人が同時に跳んだ。


着地した尚香が笑う。


「楽しい!」


「でしょ!?」


「もう一回!」


「やろ!」


周瑜が小さく息を吐いた。


「私がもう一度弾くことは決定なのか」


「お願いします、周瑜先生!」


「そういう時だけ先生と呼ぶな」


凌華と尚香が笑った。


その笑い声を聞きつけて、今度は孫策が現れた。


「何やってんだ?」


凌華は嫌な予感がした。


「……踊り」


「面白そうだな」


「見るだけにしとく?」


「俺もやる」


やはりそうなった。


「ちゃんと覚えてよ」


「見りゃ分かる」


「尚香、今の聞いた?」


「絶対分かってないね」


「お前ら俺を何だと思ってんだ」


孫策は二人の間へ入った。


凌華が目を丸くする。


「なんで真ん中なの!?」


「空いてたから」


「端も空いてる!」


「ここがいい」


「絶対目立ちたいだけでしょ!」


「早くやろうぜ」


周瑜が演奏を始めた。


凌華と尚香は揃って動く。


孫策も動いた。


一拍目から違った。


「逆!」


「こっちか!」


「そっちも違う!」


「どっちだよ!」


「ちゃんと見てって言ったじゃん!」


尚香は踊りながら笑っている。


「兄上、全然違う!」


「楽しけりゃいいだろ!」


「よくない! そこ私が好きなところなの!」


「細けぇな!」


散々だった。


ところが、跳ぶところだけは三人揃った。


「せーの!」


三人が同時に跳ぶ。


見事に揃った。


凌華と尚香が顔を見合わせる。


孫策は得意そうに笑った。


「ほらな」


「そこだけ!」


「揃えばいいだろ」


「他が全部違うの!」


周瑜まで演奏しながら笑っていた。


凌華の腰にある長剣からも声がした。


『俺、結構うまいじゃねぇか』


凌華の眉がぴくりと動く。


「今の孫策であって、孫策じゃないから」


『俺だろ』


「ややこしいんだよ」


生身の孫策が振り返った。


「何が?」


「なんでもない!」


『ひでぇな』


「黙ってて!」


「だから俺は何も言ってねぇぞ?」


「孫策じゃなくて孫策に言ってるの!」


「は?」


『ほら、ややこしくしたのお前じゃねぇか』


「もういい!」


尚香が腹を抱えて笑い始めた。


事情を知らない周瑜は怪訝そうな顔をしていたが、凌華は説明する気などなかった。


◆


数日後には呂蒙まで捕まった。


さらにその次には、陸議も逃げ切れなかった。


「陸議さんも!」


凌華が手を差し出す。


陸議はその手を見た。


「私は見ています」


「なんで?」


「十分楽しんでいますので」


「踊った方が楽しいって!」


「そうでしょうか」


「そうなの!」


凌華は手を引っ込めない。


陸議はしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「分かりました」


「やった!」


陸議は一度見ただけで、ほとんど間違えなかった。


凌華は納得がいかない。


「なんでできるの!?」


「何度も見ていますから」


「いつ!?」


「皆さんがやっている時に」


「ずっと見てたの!?」


「時々ですが」


「だったらもっと早く入ってよ!」


「誘われませんでしたので」


凌華は一瞬黙った。


「……じゃあ、これからは誘う」


陸議が笑う。


「はい」


周瑜の演奏が始まった。


孫策が中央へ行く。


尚香がその隣へ並ぶ。


呂蒙はまだ動きを確認している。


陸議も位置についた。


凌華はみんなを見回した。


いつの間にか増えた。


最初は自分一人だったはずなのに。


「じゃあ、いくよ!」


凌華が声を上げる。


みんなが動き始めた。


◆


さらにしばらく経ったある日。


凌華が廊下を歩いていると、向こうから兵士が二人やって来た。


そのうち一人が、何かを鼻歌で口ずさんでいる。


凌華は通り過ぎかけて、止まった。


振り返る。


兵士も立ち止まった。


「……今の、何?」


「え?」


「今歌ってたやつ」


兵士は不思議そうな顔をした。


「凌華様がよく歌われているものですが」


凌華は固まった。


「なんで知ってるの?」


「よく聞こえてきますので」


「そんなに!?」


「はい」


あまりにも即答だった。


別の日には、庭で遊んでいる子どもたちを見かけた。


何人かが並んでいる。


一人が何かを口ずさむ。


そして決まったところへ来ると、全員で跳んだ。


凌華はその場で立ち尽くした。


「…………嘘でしょ」


後ろから尚香がやって来た。


「あ、あれ凌華のだ」


「広まってる!」


「うん」


「なんで!?」


「楽しいからじゃない?」


あまりにも単純な答えだった。


凌華は頭を抱えた。


「私、一人で歌ってただけなんだけど……」


尚香は笑う。


「今は一人じゃないでしょ」


凌華は顔を上げた。


庭では子どもたちが、もう一度跳んでいる。


遠くから楽器の音が聞こえた。


周瑜だった。


すると子どもたちが一斉にそちらを見る。


廊下を歩いていた侍女まで足を止めた。


「今日は始まるみたいですよ」


隣の侍女が笑う。


「行きましょう」


二人が庭へ向かっていく。


凌華はぽかんとその背中を見送った。


「……何これ」


『お前の歌だろ』


腰の長剣から声がした。


「そうだけど……」


『随分でかくなったな』


「私、こんなつもりじゃなかったんだけど」


『いいじゃねぇか』


凌華は少しだけ黙った。


剣の孫策は、それ以上何も言わなかった。


向こうから生身の孫策の声が響いてくる。


「凌華ー! 早く来い!」


「なんで孫策が仕切ってんの!?」


「始まるぞ!」


「私の歌なんだけど!」


「だったら早く来い!」


「意味分かんない!」


文句を言いながらも、凌華は走り出した。


尚香も笑いながら後を追う。


庭へ出ると、周瑜が楽器を手にしていた。


呂蒙もいる。


陸議もいる。


そして、いつの間にか侍女や兵士まで周囲に集まっていた。


凌華はその人数を見て、思わず足を止めた。


「……増えてない?」


陸議が答える。


「増えましたね」


「なんでそんな冷静なの」


「皆、楽しみにしているのでしょう」


「これを?」


「はい」


凌華は周囲を見回した。


最初は、誰にも聞かせるつもりのない歌だった。


膝を抱えて、一人で小さく口ずさんでいただけだった。


今は、その旋律が聞こえると人が集まってくる。


どうしてこうなったのか、自分でもよく分からない。


それでも。


周瑜が最初の音を鳴らした瞬間、凌華の顔には自然と笑みが浮かんだ。


「……まあ、いっか」


尚香が隣へ来る。


孫策が当然のように中央へ立つ。


「だからなんで真ん中!」


「ここが俺の場所になった」


「いつ決まったの!?」


「今」


「勝手に決めるな!」


周囲から笑い声が上がった。


呂蒙まで呆れたように笑っている。


陸議も静かに笑っていた。


凌華はみんなを見回してから、大きく息を吸った。


「じゃあ、いくよ!」


歌が始まる。


やがて、みんなが待っているところが近づいてくる。


子どもたちが身構えた。


侍女たちまで笑いながら膝を曲げる。


凌華は目を丸くしたあと、堪えきれずに笑った。


「そこまで覚えてるの!?」


そして凌華も構える。


「せーの!」


庭にいた大勢が、一斉に跳んだ。


その日から孫家では、周瑜があの旋律を奏で始めると、自然と人が集まるようになった。


まだ誰も知らない。


一人の少女が故郷を思いながら口ずさんでいた小さな歌が、やがて孫家を巻き込む大きな催しになることを。


もちろん、その少女本人が一番知らなかった。

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