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番外編 小さな歌が、宴になるまで【後編】


始まりがいつだったのかと尋ねられれば、凌華には答えられた。


ただ一人で歌っていただけだった。


孫家の屋敷の、人通りの少ない縁側で膝を抱え、もう聞くことのできない故郷の歌を思い出して、小さく口ずさんでいた。


それだけだったはずなのに、いつの間にか周瑜が旋律を覚え、尚香が踊り始め、孫策が勝手に中央へ入り、呂蒙と陸議まで巻き込まれた。


最近では周瑜が楽器を手に庭へ出ただけで、侍女たちが「今日はあるらしい」と集まってくる。


兵士たちは旋律を覚えた。


子どもたちは、歌より先に跳ぶところを覚えた。


そして凌華は、その状況にまだ慣れていなかった。


「……なんで?」


庭の向こうで、子どもが三人並んで跳んでいる。


凌華は廊下からその光景を眺めながら、真剣に首を傾げた。


隣にいた尚香が笑った。


「また言ってる」


「だっておかしいでしょ。私が歌ってただけだよ?」


「楽しいからいいじゃない」


「そういう問題なのかな……」


「そういう問題だよ」


尚香は迷いなく答えた。


その時、庭の子どもたちが凌華に気づいた。


「凌華様!」


「はい?」


「今日もやりますか?」


何を、とは聞かなくても分かった。


三人とも期待に満ちた顔をしている。


凌華は困ったように笑った。


「周瑜さん次第かな」


「では、周瑜様にお願いしてきます!」


「えっ、ちょっと待って! そこまでしなくていいから!」


子どもたちは既に走り出していた。


凌華は頭を抱える。


尚香は楽しそうに笑っている。


「人気者だね」


「こういう人気者になる予定じゃなかったんだけど」


「どんな人気者になる予定だったの?」


「人気者になる予定自体なかったよ!」


その会話を聞いていた腰の長剣から、声がした。


『諦めろ』


「他人事だと思って」


『実際、俺は何もしてねぇし』


「毎回煽ってるじゃん」


『楽しいだろ?』


凌華は返事をしなかった。


少しだけ笑ったことを、剣の孫策は見逃さなかった。


◆


そんな日々が続いたある日のことだった。


孫家では、近しい者たちを招いた宴の準備が進められていた。


特別珍しいことではない。


祝い事や客人があれば宴を設けることはあるし、酒や料理だけではなく、楽師を呼ぶこともある。


凌華にとっても、以前ほど緊張するものではなくなっていた。


周瑜から礼儀作法を叩き込まれた成果もあり、少なくとも「何をしたらいいか分からない」と固まることは減っている。


その日の凌華は、宴の話を聞きながら料理に手を伸ばしていた。


「何か余興があってもいいな」


孫策が何気なく言った。


周瑜が答える。


「既に楽師は手配してある」


「それだけじゃ普通だろ」


「宴なのだから普通でいい」


「面白くねぇな」


「宴に何を求めている」


いつものやり取りだった。


凌華は特に気にせず食事を続けていた。


ところが、近くにいた者の一人が何気なく言った。


「それでしたら、凌華様のあの歌はいかがでしょう」


凌華の箸が止まった。


ゆっくり顔を上げる。


「…………私?」


孫策も顔を上げた。


「いいな、それ」


「待って」


尚香まで嬉しそうに身を乗り出す。


「やろう!」


「待って待って」


呂蒙が苦笑した。


「確かに、皆知っているな」


「呂蒙さんまで何言ってるの?」


周瑜は少し考えている。


その顔を見て、凌華は嫌な予感がした。


「周瑜さん?」


「悪くない」


「悪いよ!」


「何がだ」


「いつも庭で遊んでるだけじゃん!」


「だからこそだ。既に知っている者も多い」


「それを人前でやるの!?」


孫策が笑った。


「いつも人前だろ」


「規模が違う!」


「同じようなもんだ」


「絶対違う!」


凌華は最後の希望を求めるように陸議を見た。


陸議と目が合う。


「陸議さん」


「はい」


「止めて」


「なぜです?」


「そっち!?」


陸議は少し笑った。


「凌華が嫌なのであれば、やめればいいと思います」


「ほら!」


「ただ」


「ただ?」


「私は見てみたいですね」


凌華は固まった。


「……裏切り者」


「そういうつもりでは」


「絶対ちょっと楽しんでるでしょ」


陸議は否定しなかった。


その瞬間、凌華は悟った。


味方がいない。


腰の長剣からも声がする。


『やれよ』


「お前もか!」


周囲が一斉に凌華を見る。


凌華は慌てて口を押さえた。


孫策が眉を寄せる。


「俺、今なんか言ったか?」


「言ってない!」


「じゃあ誰に怒ってんだ?」


「気にしないで!」


『俺に決まってんだろ』


「だから黙ってて!」


「だから俺は喋ってねぇって!」


「ややこしい!」


周囲から笑いが起こった。


こうして、凌華が最後まで納得したのかどうか曖昧なまま、話は進み始めた。


◆


しかし、やると決まってから最も本気になったのは凌華ではなかった。


周瑜だった。


「……周瑜さん?」


凌華は目の前の光景を見ていた。


普段、凌華の歌に合わせて周瑜が一人で弾いていた旋律を、今日は数人の楽師が奏でている。


弦の音。


笛の音。


拍を刻む打楽器。


凌華の記憶にある現代の音とはまるで違う。


それでも、間違いなく「あの歌」だった。


「なんでこんなことになってるの?」


「一人で奏でる必要はないだろう」


「そうだけど!」


「宴で披露するならば、こちらの方がいい」


周瑜は当然のように答える。


凌華は楽師たちを見る。


彼らは周瑜の指示を聞きながら、何度も同じ部分を確認していた。


「……これ、私が鼻歌で歌ってたやつだよ?」


「知っている」


「そんな本気でやるものじゃないんだけど」


「中途半端にやる方が失礼だ」


周瑜はそれだけ言うと、再び楽師へ指示を出した。


凌華は何も言えなくなった。


少し離れたところで、孫策が笑っている。


「周瑜に任せた時点で諦めろ」


「孫策が言い出したんでしょ!」


「俺は歌えばいいって言っただけだ」


「責任取ってよ!」


「踊るぞ」


「そこは責任取るんだ……」


尚香が凌華の腕を引いた。


「私たちも練習しよう」


「尚香まで本気だ」


「だって人がいっぱい見るんでしょ?」


「それが嫌なの!」


そう言いながらも、凌華は尚香についていった。


◆


宴の日。


日が沈み始める頃には、屋敷の広場に多くの人が集まっていた。


現代の舞台とは何もかもが違う。


電気の光はない。


巨大な音を響かせる道具もない。


代わりに広場の周囲にはいくつもの篝火が焚かれ、軒下には灯りが並べられていた。


風が吹けば炎が揺れ、赤い光が地面を照らす。


正面には少し高く作られた舞台があり、その後方には楽師たちが並んでいる。


凌華は舞台の脇から客席を覗いた。


そして、すぐに顔を引っ込めた。


「無理」


尚香が隣から覗く。


「多いね」


「でしょ!?」


「楽しそう」


「なんで尚香は平気なの!?」


「だっていつもと同じじゃない」


「全然違うよ!」


孫策が二人の後ろから顔を出した。


「お、結構いるな」


「孫策は緊張とかしないの?」


「しねぇな」


「聞いた私が馬鹿だった」


呂蒙は少し離れたところで腕を組んでいる。


「今さら逃げるなよ」


「呂蒙さん、私より緊張してない?」


「俺は戦の方が気楽だ」


「分かる」


「分かるのか」


「今すごく分かる」


そこへ陸議が来た。


凌華はすぐに陸議を見る。


「陸議さん」


「はい」


「やっぱり帰らない?」


「どこへです?」


「部屋」


「もう始まりますよ」


「だから帰りたいの」


陸議は困ったように笑った。


「凌華」


「何?」


「いつものようにすればいいのではありませんか」


凌華は客席を指差した。


「いつもあんなにいない」


「ですが、知っている顔も多いでしょう」


そう言われて、凌華はもう一度そっと覗いた。


確かにそうだった。


いつも庭で立ち止まっていた侍女。


鼻歌を歌っていた兵士。


跳ぶところだけ覚えた子どもたち。


最近では周瑜が演奏を始めると、当たり前のように集まってくる人たち。


知らない顔もある。


それでも、知っている顔がたくさんあった。


凌華の肩から少しだけ力が抜けた。


「……そっか」


陸議が頷く。


「はい」


凌華は小さく息を吐いた。


「じゃあ、まあ……やるか」


「その方が凌華らしいと思います」


「それ褒めてる?」


「もちろんです」


凌華は少し疑ったが、それ以上は追及しなかった。


◆


最初の音が鳴った。


周瑜が楽師たちを率いる。


いつも庭で聞いていた旋律が、何倍にも広がって夜の空気を震わせた。


凌華は思わず振り返った。


知っている。


けれど、知らない音だった。


現代で聞いていた歌とも違う。


自分が一人で口ずさんでいた歌とも違う。


いつの間にか、この場所の音になっていた。


周瑜が凌華を見る。


始めろ、ということだろう。


凌華は一度だけ深く息を吸った。


それから舞台へ出た。


人々の視線が集まる。


一瞬、足が止まりそうになった。


けれど前の方にいた子どもが、凌華を見つけて嬉しそうに笑った。


凌華も笑い返した。


そして歌い始めた。


最初は少しだけ声が硬かった。


しかし、隣へ尚香が出てくる。


いつものように目が合う。


尚香が笑う。


それだけで、凌華の声から余計な力が抜けた。


少しずつ身体が揺れる。


客席から手拍子が始まった。


凌華は驚いた。


一人。


二人。


やがて周囲へ広がっていく。


「すご……」


思わず声が漏れた。


尚香が笑った。


「凌華、次!」


「えっ? あ、やばっ!」


凌華は慌てて位置へ戻った。


孫策が出てくる。


当然のように中央へ立った。


凌華は歌いながら横目で睨む。


「やっぱりそこなの!?」


「もう俺の場所だろ!」


「誰も認めてない!」


客席から笑い声が上がる。


孫策はますます楽しそうだった。


「ほら、来るぞ!」


凌華もすぐに笑った。


「分かってる!」


尚香が反対側に並ぶ。


三人が構える。


凌華が声を上げた。


「せーの!」


三人が同時に跳んだ。


その瞬間。


客席でも、何人もの人が跳んだ。


凌華は着地したまま目を丸くした。


前の方にいた子どもたちは全員跳んでいる。


侍女たちも。


兵士の中にも何人かいる。


少し後ろでは、事情を知らずに来た者まで周囲を真似して跳んでいた。


凌華は一瞬、歌うことすら忘れそうになった。


「みんなやってる……」


孫策が笑う。


「お前が教えたんだろ」


「教えてないよ!」


「じゃあ勝手に覚えたんだろ」


「もっとすごいじゃん!」


尚香が凌華の腕を引く。


「まだ続いてるよ!」


「あっ!」


凌華は慌てて戻った。


周瑜の演奏は止まらない。


むしろ客席の反応に合わせるように、拍がさらに力強くなる。


呂蒙も舞台へ出た。


最初の頃とは違い、もう左右を間違えない。


「呂蒙さん上手くなってる!」


「何度やったと思っている!」


「最初ひどかったもんね!」


「それは言うな!」


陸議も加わる。


相変わらず正確だった。


凌華が隣へ来る。


「陸議さん!」


「はい」


「楽しい?」


陸議は少しだけ驚いた。


凌華は踊りながら、答えを待っている。


陸議は笑った。


「楽しいですよ」


「よかった!」


凌華はそれだけで満足したように前を向いた。


陸議は、その横顔を見た。


ふと、最初にこの歌を聞いた日のことを思い出す。


夕暮れの縁側。


膝を抱えた凌華。


誰にも聞かせるつもりなどないような、小さな声。


なぜあの日、凌華があんな顔をしていたのか。


今でも陸議には分からない。


彼女が何を失い、何を恐れ、何を抱えているのか。


まだ知らないことの方が多い。


けれど今、凌華は笑っている。


大勢の人に囲まれ、尚香と肩を並べ、孫策に文句を言い、呂蒙をからかいながら、楽しそうに笑っている。


その顔を見ていると、陸議も自然と笑顔になった。


◆


歌がさらに盛り上がる。


凌華は客席を見た。


たくさんの人がいる。


手を叩いている。


笑っている。


自分の知らない人まで、同じ拍に合わせて身体を揺らしている。


振り返る。


周瑜がいる。


楽師たちを率いながら、自分が現代から持ってきた曖昧な旋律を、この時代の音へ変えている。


呂蒙がいる。


最初は右と左すら混乱していたのに、今では随分まともに踊っている。


陸議がいる。


いつもの穏やかな顔で、自分を見ている。


隣には尚香がいる。


そして中央では、孫策が誰より楽しそうに笑っている。


生きている孫策が。


凌華の動きが、一瞬だけ小さくなった。


腰には、いつもの重みがある。


長剣。


そこから声は聞こえなかった。


凌華は少しだけ視線を落とした。


「……孫策?」


小さく呼ぶ。


目の前の孫策が振り返った。


「ん?」


「そっちじゃない」


「は?」


腰の剣から、ようやく声がした。


『何だよ』


凌華は踊りながら、小さく笑う。


「静かだから」


少しだけ間があった。


『俺だって静かな時くらいある』


「珍し」


『うるせぇ』


凌華は笑った。


剣の孫策が何を見ていたのか、凌華は尋ねなかった。


剣の孫策も何も話さなかった。


目の前では、生身の孫策が尚香に何かを言って笑っている。


周瑜の音が響いている。


呂蒙も、陸議もいる。


剣の孫策は、ただその光景を見ていた。


『ほら』


「ん?」


『次、来るぞ』


凌華は顔を上げた。


歌の中で、みんなが一番楽しみにしているところが近づいていた。


凌華の表情が一気に明るくなる。


「みんな!」


声を張る。


孫策が笑う。


尚香が構える。


呂蒙も腰を落とす。


陸議まで準備する。


客席の子どもたちは、凌華が言う前から既に身構えていた。


「早い早い!」


凌華が笑う。


周瑜の演奏が駆け上がる。


凌華は大きく息を吸った。


「せーの!!」


舞台の上で、五人が跳んだ。


客席でも、大勢の人が一斉に跳んだ。


地面が揺れたように感じた。


歓声と笑い声が夜空へ上がる。


凌華も声を上げて笑った。


着地した孫策が勢い余って呂蒙へぶつかった。


「おい!」


「悪い!」


「お前、毎回それだろう!」


「今日は人が多いから仕方ねぇ!」


「関係あるか!」


尚香が腹を抱えて笑っている。


凌華も耐えられない。


「孫策、最後までちゃんとやってよ!」


「やってるだろ!」


「呂蒙さんに突っ込むの振り付けにないから!」


「今入った!」


「入れるな!」


客席まで笑っている。


周瑜は演奏を続けながら呆れた顔をした。


「少しは真面目にできないのか」


孫策がすぐに言い返す。


「お前も来いよ!」


「私は演奏している」


「最後くらいいいだろ!」


「断る」


尚香も声を上げる。


「周瑜も!」


呂蒙まで加わった。


「ここまで来たなら諦めろ」


「なぜお前までそちら側なんだ」


凌華は周瑜を見る。


「周瑜さん!」


「何だ」


「一回だけ!」


周瑜は凌華たちを見た。


五人とも待っている。


さらに客席からまで期待するような声が上がり始めた。


周瑜は長く息を吐いた。


「……一度だけだ」


「やった!」


演奏を別の楽師へ任せ、周瑜が舞台へ出る。


孫策が笑った。


「遅ぇぞ!」


「誰のせいだと思っている」


「周瑜さんここ!」


凌華が自分の隣を指す。


周瑜がそこへ入る。


六人が並んだ。


凌華はその光景を見て、ほんの一瞬だけ黙った。


孫策。


尚香。


呂蒙。


周瑜。


陸議。


そして、自分。


腰には、もう一人の孫策もいる。


『何ぼーっとしてんだ』


剣から声がする。


凌華は笑った。


「別に」


『始まるぞ』


「分かってる」


凌華は前を向いた。


大勢の人たちが待っている。


音が始まった。


六人が動く。


当然、周瑜は一度見ただけでほぼ正確だった。


凌華が気づく。


「なんで周瑜さんまで上手いの!?」


「何度見たと思っている」


「陸議さんと同じこと言ってる!」


「凌華、前!」


尚香に言われ、慌てて向き直る。


「やばっ!」


笑い声が上がる。


そして最後のところが来た。


今度は凌華が合図をする必要すらなかった。


舞台も。


客席も。


みんな知っている。


凌華はそれがおかしくて、嬉しくて、笑いながら叫んだ。


「いくよ!」


音が弾ける。


「せーの!!」


六人が跳んだ。


大勢の人が跳んだ。


凌華も、思い切り跳んだ。


◆


宴が終わったあと。


広場にはまだ熱気が残っていた。


片付けをする人々の間を歩きながら、凌華は大きく伸びをした。


「疲れたぁ……」


「随分楽しそうだったな」


呂蒙が言う。


「楽しかったけど疲れたの!」


尚香はまだ元気だった。


「またやろうね」


「また!?」


孫策が即座に乗る。


「次はもっとでかくしようぜ」


「しない!」


「なんでだよ」


「今日でも十分大きかったから!」


「もっと人呼べるだろ」


「呼ばなくていい!」


周瑜が静かに言った。


「既に次も期待されているようだが」


凌華が止まる。


「……え?」


周瑜が視線を向けた先では、何人かの子どもたちが今日の動きを真似している。


侍女たちも楽しそうに話していた。


兵士たちの間から、あの旋律の鼻歌まで聞こえてくる。


凌華はしばらくそれを眺めた。


「……本当に、なんでこうなったんだろ」


陸議が隣へ来た。


「凌華が歌ったからでしょう」


「歌っただけだよ?」


「それを周瑜殿が奏でました」


「うん」


「尚香殿が踊りました」


「うん」


「孫策殿が勝手に中央へ入りました」


少し離れたところから孫策の声が飛ぶ。


「勝手って言うな!」


凌華が吹き出した。


陸議も笑いながら続ける。


「呂蒙殿も加わり、私も加わりました。そして、それを見ていた皆が覚えた」


凌華は広場を見る。


「……そっか」


「はい」


「私一人じゃ、こうならなかったんだね」


陸議は頷いた。


「そうでしょうね」


凌華は少しだけ考えたあと、笑った。


「じゃあ、私の歌じゃなくなったのかも」


陸議は凌華を見る。


「嫌ですか?」


「ううん」


答えはすぐに出た。


「その方が好き」


陸議は何も言わず、穏やかに笑った。


腰の長剣から、小さな声がした。


『すっかり孫家の娘だな』


凌華の足が止まった。


「……何それ」


『そのまんまの意味だ』


「急に変なこと言わないでよ」


『変じゃねぇだろ』


凌華は少しだけ俯いた。


それから、誤魔化すように前を向く。


「知らない」


『照れてんのか?』


「照れてない!」


孫策がまた振り返った。


「だから俺、何も言ってねぇぞ!」


「そっちじゃないってば!」


「さっきから何なんだよ!」


「なんでもない!」


尚香が笑う。


呂蒙は首を傾げる。


周瑜は呆れた顔をしている。


陸議だけが、何も尋ねずに凌華を見ていた。


その時、遠くで誰かがあの旋律を奏で始めた。


凌華が振り返る。


楽師の一人が、片付けながら覚えたばかりの旋律を確かめているらしい。


すると近くにいた子どもたちが集まってきた。


「凌華様!」


嫌な予感がした。


「……何?」


「もう一回!」


凌華は目を丸くした。


「今終わったところだよ!?」


「もう一回!」


「元気すぎない!?」


孫策が笑いながら前へ出る。


「いいじゃねぇか」


「孫策まで!」


尚香も隣へ来た。


「私もやる」


「尚香も!?」


呂蒙は大きく息を吐いたが、帰る気配はない。


周瑜は「私はもうやらない」と言いながら、なぜか楽師のところへ向かっている。


陸議は凌華の隣で笑っていた。


「どうしますか?」


凌華はみんなを見る。


それから子どもたちを見る。


最後に、夜空を見上げた。


疲れている。


本当に疲れている。


それでも口元が緩むのを止められなかった。


「……一回だけだからね!」


歓声が上がった。


『絶対一回じゃ終わらねぇな』


剣の孫策が笑う。


「うるさい!」


凌華も笑った。


周瑜の音が、もう一度夜の広場に響き始める。


人が集まってくる。


誰かが手を叩く。


子どもたちが跳ぶ準備をする。


凌華はその真ん中へ走っていった。


かつてその歌は、一人の少女の記憶の中にしかなかった。


遠い故郷を思いながら、膝を抱えて小さく口ずさむだけの歌だった。


けれど今、その旋律は孫家の庭に残っている。


周瑜の楽器に。


尚香の踊りに。


孫策の笑い声に。


呂蒙の不器用な足取りに。


陸議の穏やかな笑顔に。


それを覚えた人々の手拍子に。


そして、凌華自身の笑い声に。


もう、一人だけの歌ではなかった。


「みんな、いくよ!」


凌華の声が夜空へ響く。


「せーの!」


今度は誰が合図したのかも分からないほど大勢が、一緒になって跳んだ。


その中心で凌華は、誰より楽しそうに笑っていた。

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