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番外編 遠い日の名前


孫策の命を救い、本来ならば訪れるはずだった死の運命を退けてから、しばらく経った頃。


凌華が未来から来た人間であることは、すでにごく一部の者には知られていた。


孫策、周瑜、呂蒙、そして陸議。


もちろん、すべてを明かしたわけではない。凌華がいつも背負っている長剣についても、その内側に隠された秘密についても、まだ口を閉ざしたままだ。


ただ、自分がこの時代に生まれた人間ではないこと。遥か遠い未来から、ある日突然この世界へ来たこと。そして未来に残る歴史を知っていたからこそ、孫策に訪れるはずだった死を知っていたこと。


そこまでは話した。


最初は誰も、簡単には信じられなかった。


当然だった。千年以上も先の世から来たなどと真顔で告げられて、すぐに受け入れられる方がおかしい。


けれど、これまでの凌華を思い返せば説明のつくことも多かった。聞いたこともない言葉、妙な価値観、この時代では考えられない知識。そして何より、誰も知るはずのなかった孫策の死を、凌華だけが知っていた。


それらを重ね合わせれば、荒唐無稽な話として切り捨てることもできなかった。


それでも最後には、


「まあ、凌華ならそういうこともあるだろ」


孫策が妙に納得した顔で笑ったものだから、周瑜には深々と溜息をつかれた。


「どういう理屈だ、それは」


「だって凌華だぞ?」


「説明になっていない」


「細かいな、公瑾は」


「お前が考えなさすぎるんだ」


そんなやり取りの横で、凌華は何とも言えない顔をしていた。


自分が未来から来たという途方もない話を、最後には「凌華だから」で処理されてしまったのだ。


納得してもらえたことを喜ぶべきなのか、少しくらい疑ってほしいと思うべきなのか。


凌華自身にもよく分からなかった。


それから、しばらく経ったある夜。


「……これは駄目だな」


卓の向こうを眺めながら、呂蒙が低く呟いた。


「完全に出来上がっている」


周瑜も淡々と続ける。


「だから途中で止めたんだって、俺は!」


そう言いながらも、孫策だけは妙に楽しそうだった。


三人の視線の先では、凌華が卓に片頬をつけ、酒杯を片手にぼんやりと宙を眺めている。


今夜は身内だけの小さな祝いの席だった。


孫策の命が繋がり、それまで張り詰めていた空気がようやく少しずつ緩み始めている。未来を知る凌華にとっても、孫策自身にとっても、ひとつの大きな山を越えた。


だから今夜くらいは――そう言って用意された酒だった。


問題は、凌華が自分の酒量を完全に見誤っていたことにある。


最初の一杯を口にした時には、


「これ、意外と飲みやすい」


などと平然としていた。


一杯が二杯になり、二杯が三杯になった頃、さすがに呂蒙が止めた。孫策からも「そろそろやめとけ」と杯を取り上げられかけたのだが、凌華はそれを避けながら、


「大丈夫、大丈夫。未来にはもっと強いお酒あるから」


と、まったく根拠にならない理由で飲み続けた。


未来に強い酒が存在することと、凌華自身が酒に強いことには何の関係もない。


その事実に本人が気づいた時には、もう遅かった。


「凌華」


呂蒙が顔を覗き込むと、凌華の瞳がゆっくりと動いた。


「聞こえてるか?」


「……聞こえてるよぉ」


「目が半分閉じてるぞ」


「閉じてない」


「いや、閉じてる」


凌華は不服そうに呂蒙を見上げたものの、そのまま数秒ほど黙り込んだ。


やがて、ひどく真剣な顔で言う。


「……呂蒙さんが二人いる」


「それはもう駄目だろ」


孫策が腹を抱えて笑い出した。


「呂蒙が二人いたら戦力倍だな!」


「そういう問題じゃねぇ!」


その横で、周瑜は額へ手を当てていた。


「水を飲ませろ」


「飲んだ」


凌華が答える。


「いつだ」


「さっき」


「それは酒だ」


「…………」


凌華は手元の杯へ視線を落とし、中身をじっと見つめた。


「……水じゃなかった」


「今気づいたのか」


呂蒙の呆れた声が落ちた、その時だった。


廊下の向こうから足音が近づき、少し遅れて戸口に人影が現れた。


「遅くなりました」


陸議だった。


頼まれていた書簡の整理に思いのほか時間を取られ、席へ顔を出すのが遅くなったらしい。


「お、陸議」


孫策が振り返り、待ってましたとばかりに手招きする。


「ちょうどいいところに来た。凌華をどうにかしろ」


「どうにか……?」


言われるまま卓へ視線を向けた陸議は、そこにいる凌華を見つけて眉を寄せた。


「凌華?」


その声に反応して、凌華がゆっくりと顔を上げる。


ぼんやりしていた黒い瞳が陸議を捉え、そのまま動かなくなった。


一秒。


二秒。


三秒。


あまりにも長く見つめられるものだから、陸議の方が先に戸惑った。


「……凌華?」


もう一度呼ぶ。


すると凌華の目が、わずかに見開かれた。


そして。


「…………拓海?」


陸議が止まった。


孫策の笑い声も止まり、呂蒙が怪訝そうに眉を上げる。


周瑜だけが何かを察したように、静かに酒杯を卓へ置いた。


「……誰だ?」


孫策が小声で呟く。


その疑問に答える者はいない。


凌華は突然立ち上がった。酔いの回った身体は当然のように大きく揺れ、倒れかけたところを陸議が反射的に支える。


「危ないですよ」


その腕の中で、凌華は陸議の顔を見上げた。


そして、嬉しそうに笑った。


「やっぱ拓海じゃん」


「……え?」


「何してんの、こんなとこで」


「…………」


完全に意味が分からない。


陸議が助けを求めるように周囲を見回すと、孫策はすでに面白そうな顔をしているし、呂蒙も困惑したまま凌華を眺めている。


周瑜だけが冷静だった。


「恐らく、未来にいた知人と間違えているのだろう」


「私を?」


「そのようだな」


陸議がもう一度凌華を見る。


しかし凌華は、目の前にいるのが陸議ではないと完全に信じ切っているらしい。


「拓海」


袖を引かれる。


「返事してよ」


「……凌華。私は――」


「何、その喋り方」


「え?」


「今日どうしたの?」


凌華がさらに顔を近づけてくる。


「なんか変。罰ゲーム?」


「罰……?」


「それとも、また誰かと賭けた?」


何一つ分からない。


「凌華、私は――」


「拓海」


ぴしゃりと遮られた。


「名前呼んでるんだから返事して」


そのあまりの確信ぶりに、陸議は言葉を失った。


今の凌華に何を言っても理解してもらえないのだろう。それどころか否定を続ければ、余計に混乱させるかもしれない。


しばらく迷った末、陸議は小さく息を吐いた。


「……分かった」


すると凌華の表情がぱっと明るくなる。


「それそれ」


「何が?」


「その喋り方。今日ずっとそれでいて」


「…………」


横で孫策が顔を背けた。


肩が震えている。


「孫策様」


「いや、悪い」


「笑っていますよね」


「笑ってねぇって」


「ではこちらを向いてください」


「嫌だ」


そのやり取りを眺めていた周瑜が、面白がるでもなく淡々と言った。


「話を合わせてやれ。その方が早い」


「周瑜殿まで……」


「それに、未来で凌華がどのように暮らしていたのか、私も少し興味がある」


「そちらが本音でしょう」


「否定はしない」


陸議は諦めたように凌華へ向き直った。


「……それで?」


「ん?」


「何か話したかったんじゃないのか?」


その口調が気に入ったらしい。


凌華は満足そうに笑った。


「そうそう。拓海はそれでいいの」


自分は一体何をしているのだろう。


陸議はそう思ったが、もはや引き返せそうになかった。


*


凌華は当然のように陸議の隣へ座った。


しかも近い。


普段の凌華なら、陸議と二人きりの時でさえ、ここまで無防備に身体を寄せてくることはない。肩が触れそうな距離へ来れば、むしろ凌華の方が少し意識して離れることすらある。


今夜は違った。


目の前にいる男を、長い付き合いの友人だと思い込んでいるからなのだろう。


「拓海、覚えてる?」


「……何を?」


「大学二年の時」


いきなり話が始まった。


陸議は一瞬、周瑜へ視線を送った。


周瑜は涼しい顔で酒を飲んでいる。


助ける気はないらしい。


「夏休み前にさ、私が課題の提出日、一週間間違えてたやつ」


「……ああ」


とりあえず頷いてみる。


すると凌華の顔が明るくなった。


「覚えてるじゃん!」


どうやら正解だった。


「朝、拓海から連絡来たんだよね。『今日までだけど大丈夫?』って。私、まだ半分しかやってなくてさ」


「それは……大変だったな」


「何その言い方。他人事みたいに」


凌華が陸議の腕を軽く叩く。


「あんたが図書館で手伝ってくれたんじゃん」


「……そうだった」


「そうだよ。結局、閉館ぎりぎりまで二人でやったでしょ」


「そうだったな」


少しずつ、話を合わせる要領が分かってきた。


しかし凌華はさらに続ける。


「私、途中で寝たけど」


「……寝たのか?」


「寝た」


「課題が終わっていないのに?」


「眠かったんだもん」


あまりにも悪びれずに言うものだから、陸議は思わず素に戻った。


「それはあなたが悪いでしょう」


凌華が止まった。


じっと陸議を見る。


「……何です?」


「今、一瞬陸議さんみたいだった」


陸議の背筋が固まった。


次の瞬間、孫策が盛大に噴き出す。


「ぶっ……!」


「孫策様」


「悪い、無理だ! 似てるんだな、お前ら!」


「何がそんなに面白いの?」


凌華が孫策を見る。


そのまま数秒ほど見つめたあと、首を傾げた。


「……誰?」


「俺!?」


孫策の笑いが一瞬で止まった。


「凌華、俺だぞ!」


「…………拓海の友達?」


「違う!」


「じゃあ知らない」


「ひどくないか!?」


呂蒙が耐えきれずに顔を背ける。


周瑜の口元まで僅かに緩んでいた。


「公瑾、お前まで笑うな!」


「笑っていない」


「目が笑ってる!」


凌華だけが何が面白いのか分からないらしく、再び陸議へ身体を寄せた。


「ねえ拓海」


「今度は何?」


「お腹すいた」


「さっき食べていただろう」


「ラーメン食べたい」


「……らーめん?」


「ほら、駅前の」


当然、陸議には何のことか分からない。


「講義終わったあと、よく行ったじゃん。拓海、いっつも醤油だった」


「……そうだったな」


「私は?」


突然試された。


陸議は一瞬言葉に詰まる。


凌華がじっと答えを待っている。


「…………塩」


完全に勘だった。


ところが凌華は嬉しそうに笑った。


「覚えてるじゃん」


当たったらしい。


陸議は内心で安堵する。


「あと餃子。いつも半分こしてたよね」


その言葉に、陸議の眉がほんの少し動いた。


「……いつも?」


「ん?」


「その……拓海という男と?」


「そうだよ」


「二人で?」


「うん」


「頻繁に?」


「結構」


そこまで聞いて、陸議は口を閉ざした。


自分でも、なぜそんなことを確認したのか分からない。


凌華が不思議そうに顔を覗き込んでくる。


「どうしたの?」


「いや……何でもない」


「餃子嫌いになった?」


「そういう問題ではない」


「じゃあ何?」


「何でもないと言ったでしょう」


凌華は納得していないようだったが、すぐに別の記憶へ意識が移ったらしい。


「あと映画」


「映画?」


「観に行ったじゃん。私がずっと観たいって言ってたやつ」


陸議は少しだけ間を置いた。


「……二人で?」


また聞いてしまった。


「うん」


「その拓海と?」


「だから拓海と喋ってるんだけど」


「……そうだったな」


「でも拓海、途中で寝てたよね」


「それは失礼な男だな」


「でしょ? 私めっちゃ楽しみにしてたのに」


凌華が頬を膨らませる。


陸議は少し考え、それから無意識に尋ねていた。


「では、なぜそんな男と二人で行ったんだ?」


口に出してから、自分自身が最初に違和感を覚えた。


孫策が陸議を見る。


呂蒙も視線を向ける。


周瑜は酒杯を傾けたまま、何も言わない。


凌華だけがきょとんとしていた。


「……え?」


「いや」


陸議は静かに視線を逸らした。


「何でもない」


「拓海が行こうって言ったんじゃん」


「…………そうだったな」


話を合わせているはずなのに、なぜか自分で自分を追い込んでいる気がする。


その理由は、陸議自身にも分からなかった。


*


「そういえば、高校の文化祭もあったね」


凌華はすっかり昔話に夢中になっていた。


「高校というのは……学校だったな」


「そうそう。拓海、文化祭で女装したじゃん」


陸議が止まる。


その言葉には孫策が食いついた。


「女装?」


「男の人が女の格好するの」


孫策の視線が、ゆっくり陸議へ移る。


「お前、したのか?」


「私ではありません!」


「でも今はお前が拓海なんだろ?」


「話をややこしくしないでください!」


凌華は楽しそうに笑っている。


「結構似合ってたよ。拓海、顔は整ってたから」


「……その男は、顔立ちが良かったのか?」


「うん。背も高かったし、女子に結構モテてた」


「…………そう」


「でも本人は全然気づいてなかった」


陸議は凌華を見る。


「あなたと少し似ていますね」


「何が?」


本気で分からないらしい。


「……何でもありません」


「変なの」


凌華は笑って、また昔の話を続けた。


話題は、さらに幼い頃へ遡っていった。


「中学の時、私が自転車で田んぼに落ちたの覚えてる?」


陸議は思わず眉を寄せる。


「……なぜ田んぼへ?」


「猫を避けた」


「それで?」


「そのまま田んぼ」


「…………」


思わず額へ手が伸びた。


「何その顔」


「いや……あなたは昔から変わらないのだと思って」


「何が?」


「自分より先に何かを助けようとして無茶をするところが」


「失礼だなぁ」


「事実でしょう」


「拓海、前にも同じこと言った」


凌華が懐かしそうに笑う。


「泥だらけの私を見て、最初めちゃくちゃ笑ったんだよ。それから家までタオル取りに走ってくれて」


「先に怪我を確認するべきでは?」


「ほら」


凌華が笑った。


「そういうところ、陸議さんみたい」


自分の名が突然出てきて、陸議は僅かに目を見開いた。


「……陸議という男は、そんな人なのか?」


「うん。心配性」


「そうなのか」


「すぐ『怪我はありませんか』って聞く。ちょっと転んだだけでも飛んでくるし」


「迷惑か?」


思わず尋ねた。


凌華はきょとんとした。


「なんで?」


「いや……あまり心配されるのは、鬱陶しいかと思って」


「別に」


凌華は何でもないことのように答える。


「迷惑じゃないよ。優しいし、頼りになるし」


陸議は黙った。


「真面目すぎるけど」


「…………」


「たまに細かいけど」


「…………」


「でも、困った時にいると安心する」


そこまで言ってから、凌華は何かに気づいたように笑った。


「拓海とちょっと似てるかも」


なぜか。


その言葉は、あまり嬉しくなかった。


褒められているはずなのに。


陸議は自分の中に生まれた奇妙な引っかかりを理解できず、そのまま黙って酒杯へ視線を落とした。


*


「高校卒業した時もさ」


凌華の声が少し柔らかくなる。


「私、泣いたよね」


「そうだったな」


「拓海、笑った」


「また笑ったのか」


「『大学一緒なのに何で泣いてんの』って」


「確かに、また会えるなら不思議ではある」


「酷いなぁ。卒業式ってそういうものなの」


凌華は頬杖をつきながら、懐かしそうに目を細めた。


「小学校の時も泣いたし、中学の時も泣いたし、高校でも泣いた」


「その時も拓海は一緒だったのか?」


「うん」


「小学校から?」


「うん」


「中学も?」


「一緒」


「高校も?」


「一緒」


「大学も?」


「一緒だよ」


陸議はそれ以上、すぐには言葉を返せなかった。


凌華が言う学校というものが、それぞれ何年に相当するのか、まだ正確には理解していない。


それでも、かなり長い年月であることくらいは分かる。


「……随分、長い付き合いなんだな」


「幼馴染だもん」


「家も近かった?」


「歩いて五分くらい」


「家族同士も知っている?」


「もちろん」


質問を重ねながら、陸議は自分でも不思議に思っていた。


なぜ、こんなことが気になるのだろう。


聞けば聞くほど、拓海という男が凌華の人生の至るところにいる。


自分の知らない幼い凌華。


制服という服を着て学校へ通っていた凌華。


田んぼへ落ちて泥だらけになった凌華。


課題に追われて机に突っ伏して眠る凌華。


卒業の日に泣いていた凌華。


陸議が出会うより遥か以前の凌華を、その男はすべて知っている。


ただ、それだけのことなのに。


胸の奥に、小さな棘が刺さったような感覚が残った。


「そうだ」


凌華が何気なく笑った。


「拓海、私が初めて彼氏できた時さ――」


陸議の思考が止まった。


「…………彼氏?」


孫策も反応する。


「何だ、それ」


「恋人」


凌華がさらりと答えた。


一瞬、部屋が妙に静かになった。


陸議は自分でも分からないまま、先ほどより僅かに姿勢を正していた。


「……恋人がいたのか」


「いたよ?」


まるで「今日、雨が降ったよ」とでも言うような軽さだった。


「三ヶ月だけ」


「……三ヶ月」


「すぐ別れたけど」


「なぜ?」


自分でも驚くほど早く問いが出た。


凌華は少し考える。


「なんか合わなかった」


「どこが?」


「もう覚えてない」


「覚えていないのか?」


「そんな昔のことだもん」


陸議にはいまひとつ理解できない。


かつて恋人だった相手のことを、そんなにも簡単に過去へ置いていけるものなのだろうか。


「拓海にも言われたなぁ」


「何を?」


「『絶対合わないと思ってた』って」


「……拓海は最初から分かっていた?」


「みたい」


「なぜ」


「知らないよ。幼馴染だからじゃない?」


陸議は再び黙った。


それから少しして、また問いが浮かぶ。


「その恋人と別れた時、拓海に相談したのか?」


「したよ」


「…………」


「夜に電話して」


「電話?」


「遠くにいる人と話せる道具」


「夜に?」


「うん」


「二人で?」


凌華が眉を寄せた。


「電話なんだから二人でしょ」


「……そうか」


「拓海、今日変なことばっかり聞くね」


「そうか…」


「うん」


凌華は不思議そうに首を傾げた。


そこに疑うような色はまるでない。


少し離れたところで聞いていた孫策が、周瑜へちらりと視線を送る。


周瑜もそれに気づいた。


けれど、二人とも何も言わなかった。


言葉にしたところで、恐らく陸議本人が最も理解していない。


*


それまで楽しそうに昔話をしていた凌華の声が変わったのは、それから少し経ってからだった。


「拓海」


「なに?」


「卒業したら、東京行くって言ってたよね」


「……そうだったな」


「就職で」


凌華の視線が、陸議を通り越して遠くへ向かう。


もう、この部屋を見ていない。


「私も卒業してさ。みんなで写真撮って、卒論もちゃんと出して……拓海に『またギリギリじゃん』って笑われて。それから――」


そこで言葉が途切れた。


凌華は手元の酒杯へ視線を落とした。


先ほどまで浮かんでいた笑みが、ゆっくりと消えていく。


「……私、卒業できなかったな」


その一言で、部屋の空気が変わった。


孫策の笑みが消え、呂蒙も目を伏せる。周瑜は何も言わず、ただ凌華を見つめていた。


陸議の胸に残っていた、拓海という男への名も分からないざわつきも、その瞬間だけは跡形もなく消えていた。


「卒論、途中だった」


凌華はぽつりと呟いた。


「ちゃんと最後まで書きたかった。資料展に行ったのも、そのためだったし。閉館まで見て、それから帰って……次の日も大学行って……」


そこまで言ったところで、凌華の声が止まる。


何かを思い出したように、黒い瞳がわずかに揺れた。


「…………あ」


誰も口を挟まなかった。


凌華はしばらく酒杯を見つめていた。


やがて、ひどく静かな声が落ちる。


「そっか」


唇が僅かに動いた。


「私……、死んだんだ…」


陸議の表情が変わった。


孫策も、周瑜も、呂蒙も何も言えなかった。


凌華が未来から来たことは聞いている。


そのきっかけとなった出来事についても、すでに知っていた。


卒業論文の資料を集めるために訪れた展示会。


そこで起きた、凌華の言葉でいう「テロ」。


大勢の人々を巻き込んだ襲撃の中で、凌華は命を落とした。


そして次に目を覚ました時には、見知らぬ時代にいた。


だから凌華にとって、あの日より先の現代は存在しない。


けれど、凌華が死んだあとも。


残された者たちの時間は続いている。


「……じゃあ、みんな知ってるんだ」


凌華が呟いた。


「何を?」


陸議が静かに尋ねる。


「私が死んだこと」


その言葉だけは、酒に酔った声とは思えないほどはっきりしていた。


「お母さんも、お父さんも。大学のみんなも……拓海も」


陸議は答えられなかった。


凌華は少し俯き、酒杯を両手で包む。


「ニュースになったのかな」


聞き慣れない言葉だった。


けれど今は、その意味を尋ねる者はいなかった。


「大学にも連絡いったんだろうな。教授も知ったんだろうな……卒論、途中のまま残ってたかな」


ぽつり、ぽつりと零れていく。


泣いてはいない。


むしろ凌華の表情は、不思議なくらい穏やかだった。


だからこそ、陸議には余計に痛々しく見えた。


「拓海」


凌華が顔を上げる。


目の前にいるのが誰なのか、まだ分かっていない。


「……お葬式、来た?」


陸議の胸が詰まった。


知らない。


当然、知るはずがない。


拓海という男が、凌華の死をどこで知ったのか。


その知らせを聞いた時、何を思ったのか。


葬儀に参列したのか。


泣いたのか。


それとも、幼い頃から知っている友人が突然死んだという事実を、しばらく受け入れることさえできなかったのか。


陸議には何ひとつ分からない。


それでも。


凌華は答えを待っている。


「……行ったよ」


陸議は静かに答えた。


凌華の目が少し細くなる。


「そっか」


「うん」


「泣いた?」


今度は、すぐに答えられなかった。


けれど凌華は、困らせるつもりなどないのだろう。


小さく笑って、自分で答えを出した。


「拓海、あんまり人前で泣かないもんね」


その笑顔を見た瞬間、陸議は思わず言葉を挟んでいた。


「……泣いたと思う」


凌華が目を瞬いた。


「え?」


「きっと、泣いた」


自分は拓海ではない。


その男が実際にどうしたのかなど、知る由もない。


だからこれは、ただの想像だ。


それでも。


「幼い頃からずっと一緒だったのでしょう?」


「……うん」


「小学校も、中学も、高校も、大学も。あなたが笑ったところも、泣いたところも、泥だらけになったところも知っている」


陸議は一度言葉を切った。


「そんな人が突然いなくなったのなら……平気でいられるはずがない」


凌華は黙っていた。


酔いで潤んだ瞳が、じっと陸議を見つめている。


やがて。


「……そっか」


凌華は小さく笑った。


けれど今度の笑みは、少しだけ震えていた。


「泣いてくれたかな」


「うん」


「みんなも?」


「ああ」


「……そっか」


凌華の指が、陸議の袖を掴んだ。


強くはない。


ただ、そこに誰かがいることを確かめるように。


「じゃあ私、ちゃんといたんだね」


その言葉に、陸議は息を止めた。


凌華は遠くを見るように目を細めた。


「大学行って、課題で徹夜して、みんなとご飯食べて。拓海とくだらないことで喧嘩して、お母さんに怒られて……普通に生きてたんだよね」


「ああ」


陸議は今度こそ迷わなかった。


「生きていた」


凌華の指先が、ほんの少し強く袖を握る。


「……うん」


しばらくして、その頭が陸議の肩へ静かに預けられた。


「拓海」


「なに?」


「眠い」


「そうだろうな」


「……帰りたい」


陸議の胸の奥が、静かに痛んだ。


今度は「どこへ」とは尋ねなかった。


その言葉が意味する場所を、今の陸議には選べなかったから。


代わりに、凌華の身体を支える。


「部屋まで送るよ」


「うん」


凌華は素直に頷き、それから目を閉じた。


「拓海」


「なに?」


「久しぶり」


陸議は少しだけ間を置いた。


今夜、凌華が会いたかったのは自分ではない。


遠い未来に残してきた友人だった。


ならば、今だけは。


「……久しぶり」


そう返すと、凌華は安心したように笑った。


*


部屋へ連れていく途中も、凌華はほとんど陸議へ身体を預けていた。


「歩けますか?」


「歩いてる」


「半分ほど私が運んでいます」


「気のせい」


「では離しますよ」


「それは嫌」


あまりにも即答だったため、陸議の方が黙った。


「……分かった」


そのまま歩き出そうとすると、凌華が立ち止まる。


「拓海」


「今度は何?」


「手」


「手?」


凌華が当たり前のように片手を差し出した。


「昔みたいに」


何のことか分からない。


それでも陸議は、差し出された手を取った。


すると凌華の指が自然に絡んでくる。


陸議の足が止まった。


思わず、繋がれた手を見る。


凌華にとっては何でもないことなのだろう。


幼い頃から一緒にいた友人と、昔そうして歩いたことがある。ただそれだけ。


「どうしたの?」


「……いや」


「早く帰ろ」


「ああ」


歩き出す。


その手は、凌華の部屋へ着くまで離れなかった。


けれど陸議は最後まで、自分から離そうともしなかった。


*


翌朝。


「…………死ぬ」


凌華は寝台の上で頭を抱えていた。


「頭、割れる……」


鈴が呆れた顔で水を差し出す。


「自業自得です」


「……はい」


反論する元気もない。


「昨夜は随分楽しそうでしたよ」


その一言で、凌華の動きが止まった。


「…………昨夜?」


「はい」


「私、何かした?」


鈴は答えず、意味ありげに微笑んだ。


嫌な笑顔だった。


「陸議様にお尋ねになってはいかがですか?」


凌華の顔から、ゆっくり血の気が引いていった。


「……なんで陸議さん?」


鈴は何も答えてくれなかった。


*


昼過ぎ。


凌華は恐る恐る陸議のもとを訪ねた。


「……陸議さん」


「はい」


いつも通り、書簡を読んでいる。


その姿を見て、凌華は少しだけ安心した。


「昨日のことなんだけど」


「はい」


「私……何かした?」


陸議が書簡を置く。


「覚えていないのですか?」


「途中から、ほとんどない」


「そうですか」


妙な間があった。


凌華の眉が寄る。


「何、その間」


「別に」


「絶対何かある」


陸議はしばらく凌華を見たあと、静かに口を開いた。


「拓海」


凌華の顔が固まった。


「…………」


「という方をご存じですか?」


「待って」


「幼馴染で」


「待って待って」


「家は徒歩五分」


「やめて」


「大学まで一緒で――」


「陸議さん!」


凌華が両手で顔を覆った。


記憶が戻ってきた。


断片的に。


陸議の顔を見て、拓海と呼んだ。


昔の話をした。


隣に座った。


何かものすごく色々喋った気がする。


「……嘘」


「本当です」


「私、陸議さんのこと拓海だと思ってた?」


「最初から最後まで」


「何で訂正しないの!?」


「訂正しようとはしました」


凌華が顔を上げる。


「した?」


陸議は少し考えた。


「……いいえ」


「してないじゃん!」


「かなりの確信を持って、私を拓海だと思っていましたから。否定しても余計に混乱するかと」


「それでも一回くらい言ってよ!」


「凌華」


「なに!」


「『拓海じゃん』と言いながら、あれほど嬉しそうな顔をされたら、少々言いにくいです」


凌華が固まった。


「…………そんな顔してた?」


「していました」


「最悪……」


再び顔を覆う。


「私、何話した?」


「聞きたいですか?」


「……やっぱり聞きたくない」


「大学の課題」


「うわ」


「ラーメン」


「うわぁ……」


「映画」


「もういい」


「田んぼ」


「やめて!」


「女装」


「それ私じゃない!」


「知っています」


陸議の口元が僅かに緩む。


凌華は顔を真っ赤にして睨んだ。


「……忘れて」


「難しいですね」


「忘れてよ!」


「努力はします」


「絶対しない顔してる!」


陸議は小さく笑った。


その笑顔が妙に楽しそうで、凌華はますます恥ずかしくなる。


やがて笑いが収まった頃、陸議が何気ない口調で尋ねた。


「ところで、拓海という方ですが」


「まだその話するの?」


「随分長い付き合いだったのですね」


「うん。幼馴染だから」


「今も……未来にいるのでしょうか」


「いると思うよ」


「そうですか」


少し間があった。


「会いたいですか?」


凌華は考えた。


すぐに答えなかった。


「……会えるならね」


陸議の指先が、書簡の端で僅かに止まる。


けれど凌華は気づかない。


「でも、拓海だけじゃないよ。家族にも会いたいし、大学のみんなにも会いたい。教授にも、卒論途中でごめんなさいって言いたいし」


そう言って少し笑う。


「友達、いっぱいいたから」


「……そうでしたか」


なぜだろう。


その答えを聞いた瞬間、陸議の胸に引っかかっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった。


その理由は分からない。


「それにしても」


凌華が首を傾げる。


「陸議さん、拓海のことよく聞くね」


陸議の手が止まった。


「……そうでしょうか」


「うん。昨日のことそんなに面白かった?」


「それは……」


「もしかして、友達になってみたかった?」


「…………」


陸議が完全に黙った。


凌華はその沈黙を肯定と受け取ったらしい。


「性格ちょっと似てるもんね。真面目だし、世話焼きだし。会ったら案外仲良くなれそう」


「……そうですか」


「でも拓海、結構口悪いから、陸議さん最初はびっくりするかも」


「そうでしょうか」


「うん。あと、めちゃくちゃモテる」


陸議の表情がほんの僅かに止まった。


凌華はまったく気づかない。


「高校の時なんか、後輩の女の子に告白されて――」


「凌華」


「なに?」


「頭痛はもう治りましたか?」


唐突な話題の変化に、凌華が目を瞬く。


「え? もう治ったけど」


「昨夜あれだけ飲んだのです。今日は休んだ方がいいでしょう」


「大丈夫だよ」


「念のためです」


「なんで急に?」


凌華は本気で分からない顔をしている。


「陸議さん、今日ちょっと変だよ」


「そうですか?」


「うん。さっきから急に話変えるし」


「気のせいでしょう」


「そうかなぁ」


凌華は首を傾げた。


しばらく考えた末、


「あ、分かった」


と言った。


陸議の胸が一瞬ざわつく。


「……何がです?」


「陸議さん、昔の話聞いてたら疲れたんでしょ」


「…………」


「知らない人の話ばっかりだったもんね。ごめんね」


「……違います」


「え?」


「いえ。何でもありません」


「やっぱり今日変だよ?」


凌華は最後まで分からない。


そして、ふと思い出したように尋ねた。


「そういえば私、昨日陸議さんに送ってもらった?」


「はい」


「ごめんね。重かったでしょ」


「いえ」


「何か変なことしなかった?」


陸議の脳裏に、昨夜の光景が蘇る。


差し出された手。


『昔みたいに』


そう言って、自分の指へ絡んできた凌華の手。


そのまま部屋まで歩いた。


陸議は一瞬黙った。


「……特には」


「よかったぁ」


凌華が心底安心したように胸を撫で下ろす。


「酔うと距離感おかしくなる人いるじゃん。私そういうのだったら嫌だなって」


「…………」


「大丈夫だった?」


陸議は凌華を見た。


本当に。


何ひとつ気づいていない。


「はい」


「ならよかった」


「ただし」


「?」


「今後、酒は一杯までにしてください」


凌華の顔が変わった。


「なんで!?」


「あなたは自分の酒量を理解していません」


「昨日はたまたまだって!」


「一杯です」


「二杯」


「一杯」


「じゃあ一杯半」


「では一杯半」


「陸議さん厳しい!」


「必要な措置です」


「孫策なんてもっと飲んでるじゃん!」


「孫策様と比較しないでください」


「えぇー……」


不満そうに頬を膨らませる凌華を眺めながら、陸議は昨夜知った一人の男のことを思い出していた。


拓海。


凌華が自分と出会うより、ずっと前から隣にいた男。


幼い頃の凌華を知っている。


泣いた顔も。


笑った顔も。


泥だらけになった姿も。


誰かを好きになった時の凌華も、その恋が終わった夜の凌華も。


陸議が決して見ることのできなかった時間を、その男は知っている。


それがなぜ、これほど胸に引っかかるのか。


陸議には分からなかった。


羨ましい、というのとも少し違う。


腹が立つわけでもない。


ただ、自分の知らない凌華を知っている男がいる。


それを考えると、胸の奥に何か小さなものが残り続ける。


名前をつけるには、まだ輪郭が曖昧すぎた。


「陸議さん?」


凌華が顔を覗き込んでくる。


「どうしたの?」


「……何でもありません」


「ぼーっとしてたよ」


「少し考え事をしていました」


「仕事?」


「いえ」


「じゃあ何?」


陸議は答えなかった。


凌華も深く追及するつもりはないらしく、


「まあいいや」


と笑って引き下がる。


その笑顔を見た瞬間、陸議の脳裏に昨夜の凌華が重なった。


知らない男の名前を呼びながら、自分へ向けられた笑顔。


――久しぶり。


あの時は、凌華が少しでも安らげるのなら、それでいいと思った。


今も、その気持ちは変わらない。


それなのに。


もう一度同じことが起きても、同じように平然と「拓海」と呼ばれ続けられるかと問われれば。


なぜか素直に頷けない自分がいた。


「凌華」


「なに?」


陸議は少し迷ったあと、書簡へ視線を落としたまま言った。


「……次に酒を飲む時は、私も同席します」


「え? なんで?」


「念のためです」


「陸議さん、本当に心配性だね」


凌華は可笑しそうに笑った。


「大丈夫だって。次から気をつけるから」


「そうしてください」


「拓海にも昔、同じこと言われたなぁ。『お前、自分で大丈夫って言う時が一番大丈夫じゃない』って」


陸議の手が止まった。


「…………」


「陸議さん?」


「凌華」


「なに?」


「やはり、一杯です」


「なんで今ので減ったの!?」


陸議は答えなかった。


凌華は「意味分かんない!」と抗議している。


少し離れた場所を通りかかった周瑜が、そのやり取りを聞いて足を止めた。


陸議を見る。


次に凌華を見る。


そして何も言わず、ほんの僅かに口元を緩めて通り過ぎていった。


気づいていないのは、おそらく二人だけだった。


凌華は、自分へ向けられている感情に。


陸議は、自分の中に芽生え始めた感情の名前に。


遠い未来に置いてきた一人の男の名前が、ほんの少しだけその輪郭を浮かび上がらせたことを。


二人はまだ、知らなかった。

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