番外編 幽霊だけは無理
それは、赤壁を目前に控えた頃のことだった。
曹操の大軍が南下しているという報せは、すでに呉の隅々にまで届いていた。
屋敷を行き交う兵の数は増え、軍議は連日のように開かれている。劉備のもとから訪れた諸葛亮も、周瑜や孫策たちと幾度となく言葉を交わしていた。
そして凌華もまた、以前までとは少し違う立場で、その中にいた。
――自分は、この時代の人間ではない。
遠い未来から来た。
この先に起こる出来事を、歴史として知っている。
つい先日、凌華はとうとうその事実を打ち明けた。
すべてを話したわけではない。
誰がいつ死ぬのか。
どの戦がどのような結末を迎えるのか。
自分が知っている未来のすべてを口にしたわけではなかった。
それでも、長い間胸の奥へ押し込めていた秘密を明かしたことで、凌華の肩からは少しだけ重荷が下りていた。
もっとも。
だからといって毎日が深刻になるわけでもない。
戦が近づいていようが、未来人だと知られようが、腹は減るし、眠くもなる。
そして孫策とは相変わらず喧嘩をする。
「それでね、孫策がまた勝手なこと言うから、私もさすがにそれは違うでしょって言ったの」
その日の昼下がり。
凌華は鈴と並んで屋敷の廊下を歩いていた。
午前中の鍛錬を終え、珍しく急ぎの用事もない。
赤壁を前にした緊張の中では、貴重なくらい穏やかな時間だった。
「また孫策様と喧嘩なさったのですか?」
「喧嘩じゃないよ。話し合い」
「凌華様がそう仰る時は、大抵喧嘩です」
「違うって。今回は本当に――」
言いながら、凌華は何気なく顔を横へ向けた。
本当に、それだけだった。
物音がしたわけでもない。
誰かの気配を感じたわけでもない。
警戒していたわけですらなかった。
ただ鈴と話しながら歩いていて、ふと視線を横へ動かした。
屋敷の建物と塀との間には、人が一人どうにか身体を滑り込ませられる程度の細い隙間がある。
昼間だというのに奥までは陽が届かず、薄暗い。
普段なら、わざわざ気にも留めない場所だった。
その隙間から。
人の顔が、半分だけ覗いていた。
「…………」
凌華の足が止まった。
思考も止まった。
誰なのか。
なぜそんなところにいるのか。
そもそも――人なのか。
そんなことを考える余裕すらなかった。
薄暗い壁の隙間から、こちらを向いた顔が半分だけ見えている。
その光景を頭が理解するより先に、凌華の身体が勝手に反応した。
「ぎゃああああああああああっ!!」
屋敷中に響き渡るほどの絶叫だった。
「きゃっ!?」
隣を歩いていた鈴まで、凌華の声に驚いて肩を跳ねさせる。
「り、凌華様!? どうなさいました!?」
凌華は答えられない。
完全に思考が停止している。
顔を引きつらせたまま、震える指で壁の隙間を指差すことしかできなかった。
「そ、そこ……!」
「そこ?」
鈴が振り返る。
その瞬間だった。
壁の隙間に潜んでいた男が動いた。
見つかったと悟ったのだろう。
男が一気に隙間から飛び出してくる。
その手には、抜き身の短刀が握られていた。
「――っ!」
今度は鈴の顔から血の気が引いた。
「きゃあああああああっ! 曲者です!!」
凌華とはまったく違う意味で、鈴の絶叫が屋敷へ響く。
男が短刀を振り上げ、そのまま凌華へ襲いかかった。
刃が視界に入る。
その瞬間。
凌華の目が変わった。
――人間だ。
そう認識した途端、先ほどまでの恐怖が嘘のように消えた。
凌華の手が長剣へ伸びる。
鯉口を切り、刃を抜く。
男の短刀が届くより早く間合いへ入り、柄頭で手首を強く打ち据えた。
「ぐっ……!」
短刀が床へ落ちる。
そのまま足を払い、男を背中から床へ叩きつけた。
「凌華様!」
鈴の声。
一人ではない。
最初の男が飛び出してきた壁の隙間から、二人目が姿を現した。
「まだいるの!?」
二人目が斬りかかってくる。
凌華は一歩下がって刃を避けると、すぐさま踏み込み直した。相手の腕を外へ弾き、空いた胴へ蹴りを叩き込む。
男がよろめいたところへ長剣の峰を肩へ振り下ろした。
鈍い音とともに、二人目も床へ崩れる。
「後ろです!」
凌華が振り返る。
三人目。
先ほどの隙間から、また男が出てきた。
「何人挟まってるのよ、そこ!」
腰の長剣から、呆れたような声が響いた。
『そこ気にするとこか!?』
「だって怖かったんだもん!」
『お前、刺客より壁の隙間の方が怖ぇのかよ』
「だって怖かったんだも――」
そこまで言って。
凌華の動きが止まった。
鈴がこちらを見ている。
「……凌華様?」
「…………」
しまった。
凌華は一瞬で言葉を飲み込む。
「いや! なんでもない!」
「今、どなたかと……」
「独り言!」
『下手くそか』
「うるさ――」
また言いかけた。
凌華は慌てて口を閉じる。
「…………」
鈴が不思議そうに見ている。
「凌華様?」
「何でもないから!」
『ははっ』
(孫策、黙って!)
今度は心の中だけで叫んだ。
三人目が斬りかかる。
凌華は正面から刃を受け止め、そのまま相手の力を外へ流す。
手首を取る。
捻る。
剣が落ちた。
そのまま床へ押さえ込んだ。
「動かないで!」
三人。
全員、制圧。
凌華は息を整えながら周囲を見る。
「……もういない?」
「おそらく……」
鈴が恐る恐る壁の隙間を見る。
凌華もつられて視線を向け――すぐに逸らした。
「もう見ない」
『まだ怖ぇのかよ』
凌華は無言で長剣の鞘を軽く叩いた。
『いてっ。何すんだ』
当然、剣が痛いはずはない。
けれど今は、それで黙らせたことにした。
その時。
廊下の向こうから複数の足音が近づいてきた。
「凌華!」
真っ先に姿を現したのは孫策だった。
その後ろから周瑜、呂蒙、陸議。
そして少し遅れて、白羽扇を手にした諸葛亮まで姿を現した。
「何があった!?」
「曲者です!」
鈴が答える。
全員の視線が廊下へ向いた。
床には三人の男。
その中央には、抜いた長剣を手にした凌華。
一瞬、何とも言えない沈黙が落ちた。
呂蒙が倒れている男を見る。
凌華を見る。
もう一度男を見る。
「……終わってるじゃねえか」
「うん」
「俺たち、来る意味なかったな」
「そんなことないよ」
陸議は男たちより先に凌華へ近づいた。
「凌華、怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん。鈴も大丈夫」
鈴も頷く。
「私は何もされておりません」
それを聞き、陸議の表情が僅かに緩んだ。
孫策は倒れた男の一人を確認してから、壁の隙間へ目を向けた。
「しかし、よく気づいたな。こいつら相当上手く隠れてたみてえだが」
「…………」
凌華が黙った。
「凌華?」
「……たまたま」
「たまたま?」
「歩いてたら、視界に……」
言いかけて、思い出す。
薄暗い隙間から半分だけ覗いていた顔。
「…………」
凌華の表情が引きつった。
「もういい。思い出したくない」
「何だそりゃ」
孫策が首を傾げる。
その時だった。
「ところで」
周瑜が静かに口を開いた。
「最初の悲鳴は誰だ?」
凌華の動きが止まる。
「…………」
嫌なところに気づいた。
鈴が素直に答えた。
「凌華様です」
「鈴!」
孫策が凌華を見る。
「お前?」
「……」
「曲者を見つけて叫んだのか?」
「違う」
「何が?」
「鈴は曲者だって分かってから叫んだの!」
「じゃあお前は?」
「…………」
孫策の口元が、ゆっくりと上がった。
「お前まさか、あいつらが人間だって分かる前に叫んだのか?」
凌華は答えない。
呂蒙まで何かに気づいたようだった。
「じゃあ何だと思ったんだ?」
「言わない」
「何でだよ」
「絶対言わない」
周瑜は凌華の表情を見て、ほとんど答えへ辿り着いたらしい。
「……なるほど」
「周瑜さん、その『なるほど』やめて」
そのやり取りを少し離れたところで見ていた諸葛亮が、羽扇の向こうから静かに尋ねた。
「もしや、凌華殿は――」
「孔明さんも言わなくていいです」
「まだ何も申しておりませんが」
「顔がもう分かってる顔してる!」
「それは困りました」
「絶対困ってない!」
孫策がにやにやしながら凌華の顔を覗き込む。
「まさかお前――」
「言うな」
「幽霊だと思ったのか?」
「言うなって言ったでしょおおおおお!!」
本日三度目の絶叫が、屋敷中へ響き渡った。
一瞬の静寂。
そして。
「ぶはっ!」
真っ先に吹き出したのは孫策だった。
「笑うな!」
「いや、だってお前……!」
「何!?」
「刺客三人を一人でぶっ倒す奴が、幽霊!?」
「幽霊は斬れないでしょ!」
あまりにも真剣な反論だった。
孫策がさらに笑う。
呂蒙まで口元を押さえた。
「呂蒙さんも笑ってる!」
「いや、すまん……だが、お前にもそんな苦手なものがあったんだな」
「あるよ!」
周瑜まで目元を緩めている。
「周瑜さんも!」
「いや。少し意外だっただけだ」
「笑ってるじゃん!」
凌華は最後の望みを託すように陸議を見る。
「陸議さん」
「はい」
「笑わないよね?」
「……」
ほんの一瞬。
陸議が視線を逸らした。
「今笑った!」
「笑っていません」
「絶対笑った!」
「気のせいです」
「口元!」
その横で、諸葛亮が静かに羽扇を動かした。
「しかし、不思議なものですね」
凌華が振り返る。
「何が?」
「未来には、幽鬼を退ける術はないのですか?」
「…………」
全員の視線が諸葛亮へ集まった。
凌華は数秒黙ってから答えた。
「ないです」
「そうですか」
「少なくとも私の時代では、幽霊が出ても剣ではどうにもならないです」
「なるほど」
諸葛亮がゆっくり頷く。
「未来とは、存外不便なのですね」
「そこ!?」
孫策が腹を抱えた。
「ははははっ! 孔明、お前それはひでえぞ!」
「私は素朴な疑問を申し上げただけですが」
「絶対面白がってますよね!?」
「さて」
「その顔!」
『ははははっ!』
今度は長剣の孫策まで笑い始めた。
凌華が鞘を叩く。
「孫策も笑うな!」
「俺は今何も言ってねえぞ」
「そっちじゃない!」
「ややこしいな!」
「私だってややこしいと思ってるよ!」
その場に、束の間笑いが広がった。
曹操の大軍が迫っている。
間もなく、歴史に残る大戦が始まる。
それを誰もが知っている中で生まれた、ほんの僅かな平穏だった。
*
その日の夜。
凌華は布団の中で、目を開けていた。
眠れない。
昼間の刺客たちはすでに厳重に拘束され、背後関係を調べられている。
屋敷の警備も増やされた。
だから何も心配する必要はない。
あれは人間だった。
幽霊ではなかった。
ちゃんと分かっている。
分かっているのだが――。
「…………」
凌華は布団を鼻の辺りまで引き上げた。
目を閉じるたびに思い出す。
薄暗い壁の隙間。
何の前触れもなく視界へ入ってきた、人の顔。
半分だけ。
「……人だったし」
枕元へ置いた長剣から、すぐに声が返ってきた。
『そうだな』
「ちゃんと人だった」
『三人ともな』
「うん」
『幽霊じゃなかった』
「分かってるって」
『だったら寝ろよ』
「寝ようとしてる」
『さっきから全然寝てねえだろ』
「……目閉じると出てくる」
『何が』
「顔」
『ははっ』
「笑うな!」
『悪い悪い』
「絶対悪いと思ってない」
凌華は布団の中から手を伸ばし、枕元の長剣を少しだけ自分の方へ引き寄せた。
しばらく沈黙したあと、孫策がぽつりと尋ねる。
『なあ』
「何?」
『俺のことは怖くねえの?』
「なんで?」
『いや。幽霊とかそういうのが駄目なら、俺だって似たようなもんじゃねえか』
凌華は少し考えた。
「全然違う」
『何が?』
「孫策は孫策じゃん」
『……答えになってねえぞ』
「でも怖くないよ」
凌華は何でもないことのように答えた。
「最初は剣から声が聞こえてびっくりしたけど、もうずっと一緒にいるし。今さら孫策を怖がる理由ないでしょ」
『そうかよ』
「むしろ急に喋らなくなった方が怖い」
剣の中の孫策が、一瞬黙った。
「何?」
『……別に』
「何その反応」
『何でもねえって』
いつもより少しだけ静かな声だった。
凌華は長剣へ手を置いたまま目を閉じる。
この剣がある。
孫策もいる。
だから大丈夫。
そう思った時だった。
コト。
「…………」
凌華の目が開いた。
「……孫策」
『ん?』
「今、音した?」
『したな』
「…………」
『風じゃねえか?』
「本当に?」
『多分』
「多分って何」
凌華は布団から目だけを出し、部屋の中を見回した。
窓。
机。
衣装掛け。
何も変わっていない。
誰もいない。
当然だ。
けれど昼間のことを思い出したせいで、普段なら何とも思わない影まで何かに見える。
「……確認してきてよ」
『どうやって!?』
「孫策なんだから何とかして」
『俺は剣だぞ!』
「役に立たないなあ」
『お前な!』
凌華は少しだけ笑った。
それで怖さも僅かに和らぐ。
もう一度横になった。
今度こそ眠ろうと目を閉じる。
コト。
「っ!」
勢いよく起き上がった。
『だから風だって』
「二回鳴った!」
『風なら二回くらい鳴るだろ』
「でも昼間だって、最初は何か分かんなかったし」
『あれは人間だったろ』
「だから最初は分からなかったの!」
『じゃあ見てくりゃいいじゃねえか』
「……行く」
『行くのかよ』
「だって気になるもん」
凌華は意を決して布団から出た。
寝間着のまま長剣を腰へ佩く。
髪も下ろしたままだったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
そっと戸を開ける。
廊下には誰もいなかった。
月明かりが庭から差し込み、屋敷の中には昼間とは違う静けさが満ちている。
凌華は一歩、外へ出た。
「……何もいない」
『だから言っただろ』
「まだ分かんないでしょ」
『何を期待してんだよ』
「期待してない!」
「凌華?」
「ぎゃあああああああっ!!」
突然背後から聞こえた声に、凌華は文字通り飛び上がった。
反射的に振り返り、長剣の柄へ手を掛ける。
「待ってください!」
聞き慣れた声だった。
月明かりの下に立っていたのは、陸議だった。
「……陸議さん?」
「はい」
「…………」
「…………」
凌華はゆっくり柄から手を離した。
「びっくりした……」
「こちらも驚きました」
「なんでいるの!?」
「昼間の件がありましたから、今夜は見回りを増やしています」
「あ……」
陸議の視線が凌華へ向く。
髪は下ろしたまま。
完全な寝間着姿。
それなのに、腰には長剣。
「凌華は?」
「…………」
「なぜこの時間に剣を持って廊下へ?」
「…………」
答えたくない。
陸議が少し考える。
そして昼間の一件を思い出したらしい。
「……眠れなかったのですか?」
「違う」
即答だった。
「そうですか」
「違うからね」
「はい」
「本当に」
「分かりました」
その言い方が優しすぎて、逆に悔しい。
「……音がしただけ」
結局、自分から白状した。
「音?」
「何回か。だから確認しようと思って」
「それで剣を?」
「念のため」
陸議は笑わなかった。
ただ廊下の先へ目を向ける。
「どちらから聞こえました?」
「え?」
「音です」
凌華が指差した。
「あっち」
「では、一緒に確認しましょう」
「いいの?」
「一人で行かれるおつもりだったのでしょう?」
「……うん」
「でしたら、二人の方がいい」
陸議はそう言って歩き始めた。
凌華もすぐ隣へ並ぶ。
先ほどまで一人で見ていた時には不気味だった暗い廊下が、今は不思議なくらい普通に見えた。
『急に平気そうな顔してんな』
凌華の眉が動いた。
返事をしそうになって、寸前で止める。
陸議が気づいた。
「どうしました?」
「……何でもない」
『危ねえ危ねえ』
(黙ってて!)
そんなやり取りをしながら歩いているうちに、音がした辺りへ着いた。
陸議が周囲を確認する。
風が吹いた。
窓の近くに置かれていた小さな木片が揺れ、壁へ当たる。
コト。
凌華は黙った。
陸議も黙っている。
もう一度風が吹く。
コト。
「……これ?」
「おそらく」
「…………」
「…………」
「誰にも言わないで」
「何をです?」
「私がこれ怖がって、剣まで持って出てきたこと」
「分かりました」
「孫策には絶対」
陸議が僅かに笑う。
「呂蒙さんにも」
「はい」
「周瑜さんにも」
「承知しました」
「孔明さんには特に!」
陸議が少しだけ首を傾げる。
「なぜ諸葛亮殿には特に?」
「絶対また未来はどうとか言ってくるもん!」
陸議の口元が僅かに緩んだ。
「今笑った」
「笑っていません」
「笑った!」
「気のせいです」
二人で来た道を戻る。
しばらくして、陸議が尋ねた。
「部屋までお送りしましょうか?」
「大丈夫。一人で戻れるよ」
「そうですか」
「うん」
陸議が足を止める。
「では、私は見回りへ戻ります」
「……うん」
「おやすみなさい、凌華」
「おやすみ、陸議さん」
陸議が別の廊下へ向かおうとする。
凌華も自分の部屋へ戻ろうとした。
一歩。
二歩。
そこで止まった。
目の前には暗い廊下が続いている。
月明かりもある。
何もいない。
さっきの音の正体だって分かった。
大丈夫。
「…………」
昼間。
壁の隙間から半分だけ覗いていた顔が、脳裏に浮かんだ。
凌華は振り返った。
「陸議さん」
陸議が振り返る。
「はい?」
「…………」
言いづらい。
ものすごく言いづらい。
「……やっぱり送って」
陸議は笑わなかった。
理由も聞かなかった。
ただ凌華のところまで戻ってくる。
「分かりました」
「……ごめん」
「構いませんよ」
再び二人で歩き始める。
凌華の腰には長剣がある。
剣の中には孫策がいる。
この時代へ来た時から、ずっと凌華の傍にいてくれた存在だ。
それでも今は、隣を歩く陸議の足音が聞こえていることも、不思議なくらい心強かった。
『……俺いるんだけどな』
「知ってるよ」
『じゃあ何で陸議に送ってもらうんだよ』
「それとこれとは別」
『何が違うんだ?』
「知らない」
『知らないってお前――』
「もういいでしょ」
陸議が隣で尋ねる。
「さっきから何をぶつぶつ言っているのですか?」
「……内緒」
「そうですか」
陸議はそれ以上追及しなかった。
ただ、その視線が一瞬だけ凌華の腰の長剣へ落ちたことに気づき、凌華は僅かに身構える。
この剣を手にしている時、凌華が時折、誰もいないところへ返事をすること。
何かに腹を立てたり、急に笑ったりすること。
そして、ごく稀に――孫策の名を口にしてしまうこと。
陸議は、おそらく気づいている。
けれど、何に気づいているのか。
どこまで察しているのか。
凌華には分からなかった。
陸議もまた、それを尋ねようとはしなかった。
少し考えるような間を置いてから、彼は静かに言った。
「では……いつも凌華を守ってくださっている方に、お伝えください」
「え?」
「今夜だけは、私にも役目を譲っていただきたいと」
「…………」
凌華は思わず陸議を見た。
月明かりの下。
陸議はいつもと変わらない穏やかな顔をしている。
冗談なのか。
何かを知っているのか。
それとも、凌華が誰かを心の支えにしていると考えただけなのか。
その表情からは、何も読み取れなかった。
「……誰のこと?」
凌華は、とぼけてみる。
「さあ」
「さあって」
「内緒なのでしょう?」
「…………」
先ほど自分が使った言葉を、そのまま返された。
凌華は何も言えなくなる。
胸の奥が、ほんの少しだけ妙な動きをした。
その時。
腰の長剣から、低い声が響いた。
『……気に食わねえ』
「なんでよ」
反射的に答えてしまった。
「……あ」
陸議がこちらを見る。
「どうしました?」
「な、何でもない!」
『何でもなくねえ』
凌華は長剣の柄をぎゅっと握った。
(黙ってて!)
『俺は最初から気に食わねえって言ってんだよ』
今度は答えない。
絶対に答えない。
陸議はそんな凌華と、その腰の長剣を一度だけ見比べた。
けれど――やはり何も尋ねなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩める。
「では、戻りましょうか」
「……うん」
「部屋までお送りします」
凌華は隣を歩き始めた。
何も聞かれなかったことに安堵したはずなのに、なぜか落ち着かない。
陸議は何も知らない。
――たぶん。
気づいていない。
――たぶん。
けれど。
(……どこまで分かってるんだろ)
『さあな』
凌華は危うく返事をしそうになり、慌てて口を閉じた。
隣では、陸議が何も知らないような顔で歩いている。
それが余計に怪しかった。
そして何より。
怖かったはずの暗い廊下は、いつの間にか、もうそれほど怖くなくなっていた。
*
翌朝。
凌華は朝餉を終えると、早々にその場から立ち去ろうとしていた。
理由は単純だった。
昨日のことを蒸し返されたくない。
特に孫策に。
「凌華」
「聞こえない」
「まだ何も言ってねえぞ」
「どうせ幽霊の話でしょ」
「分かってんじゃねえか」
「やっぱり!」
凌華が振り返る。
そこには孫策。
周瑜。
呂蒙。
陸議。
そして――。
「ああ、凌華殿」
「…………」
諸葛亮までいた。
嫌な予感しかしない。
「何ですか」
諸葛亮はいつもの穏やかな表情で羽扇を持っている。
「昨夜はよく眠れましたか?」
「…………」
凌華の視線が、ゆっくり陸議へ向いた。
「言ってません」
陸議が即答した。
「まだ何も聞いてませんよ」
諸葛亮も続ける。
「じゃあなんで聞いたの!?」
「昨日あれほど幽鬼を恐れておられましたので、案じただけです」
「絶対嘘!」
孫策が笑う。
「で? 寝られたのか?」
「寝た!」
「一人で?」
「一人で!」
『俺いたけどな』
「孫策は黙ってて!」
「だから俺は今何も――」
「そっちじゃない!」
朝から騒がしい。
呂蒙が呆れ、周瑜が額を押さえ、陸議は小さく笑っている。
その様子を眺めていた諸葛亮が、ふと凌華へ声を掛けた。
「凌華殿」
「……何?」
先ほどまでとは少し違う声だった。
「一つ、尋ねても?」
凌華も、その変化に気づいた。
「うん」
「あなたの知る赤壁と――」
諸葛亮が静かに言う。
「これから我らが迎える赤壁は、果たして同じなのでしょうか」
笑い声が止まった。
凌華は答えなかった。
いや。
すぐには答えられなかった。
自分は未来を知っている。
赤壁がどうなるのかも知っている。
誰が勝つのか。
この戦いが後の天下へどのような影響を与えるのか。
けれど。
自分がここへ来た。
本来なら存在しなかったはずの自分が孫策と出会い、周瑜と出会い、呂蒙と出会い、陸議と出会った。
すでに変わってしまったこともある。
これから変わることも、きっとある。
「……分からない」
凌華はようやく答えた。
諸葛亮が黙って聞いている。
「私が知ってる歴史では、こうなるっていうのはある。でも……もう同じじゃないから」
腰の長剣へ、そっと手を置く。
「私がここにいる時点で、私の知ってる歴史とは違う」
孫策も、周瑜も何も言わない。
陸議だけが静かに凌華を見ていた。
「だから……絶対にこうなるなんて、もう言えない」
諸葛亮はしばらく凌華を見つめていた。
やがて静かに頷く。
「なるほど」
「……うん」
「つまり、未来とは定められたものではない」
「少なくとも、私はそう思いたい」
凌華はそう答えた。
未来を知っているからこそ。
変えられないものがあることも、知っている。
それでも。
変えたい。
守りたい。
今ここにいる人たちを。
諸葛亮は羽扇を口元へ寄せた。
「では――」
「うん」
「幽鬼への対処法も、これから見つかる可能性がありますね」
「…………」
凌華が固まった。
孫策の肩が震える。
呂蒙が顔を背ける。
周瑜まで視線を逸らした。
陸議は口元を押さえている。
「…………孔明さん」
「はい」
「今、すっごくいい話してたよね?」
「そのつもりですが」
「だったらなんで最後それなの!?」
「未来は変えられるのでしょう?」
「そういう意味じゃない!」
「ならば、凌華殿が幽鬼を克服する未来も――」
「いらない!」
「しかし」
「いらないってば!」
孫策がとうとう耐えきれず吹き出した。
「ははははっ!」
「孫策!」
「いや、無理だって! お前、孔明相手だと全然勝てねえな!」
「うるさい!」
『俺も孔明に一票』
「本当にうるさい!」
「何で2回言うんだよ!」
笑い声が広がる。
間もなく戦が始まる。
凌華が知る歴史では、天下の行方を大きく変える戦い。
赤壁。
それを目前にして、誰もがそれぞれの不安を抱えていた。
未来から来た凌華でさえ、これから何が起こるのかを完全には知ることができなくなっている。
けれど。
この朝だけは。
まだ笑っていられた。
孫策がいて。
周瑜がいて。
呂蒙がいて。
陸議がいる。
そして諸葛亮まで加わって。
未来では歴史上の人物としてしか知らなかった者たちが、今はこうして目の前で笑っている。
凌華は少しだけ、その光景を眺めた。
――絶対に守りたい。
胸の奥で、そう思う。
「凌華?」
陸議に呼ばれ、凌華は我に返った。
「何?」
「急に静かになったので」
「……何でもない」
「そうですか」
「うん」
凌華は笑った。
「さ、今日もやることいっぱいあるんでしょ」
「ああ」
周瑜が頷く。
「赤壁まで、そう時間はない」
「うん」
凌華は腰の長剣へ手を添えた。
未来が同じになるのか。
変わるのか。
今はまだ、誰にも分からない。
それでも前へ進くしかない。
そう思って歩き出した――その時。
庭の木陰で、何か白いものが揺れた。
「…………」
凌華の足が止まる。
風に揺れる白布だった。
ただ、それだけだった。
「…………」
孫策が気づく。
「凌華?」
「何でもない」
「お前、今あれ幽霊だと思っただろ」
「思ってない」
「絶対思った」
「思ってない!」
諸葛亮が白布を見る。
そして凌華を見る。
「未来では、白布も――」
「孔明さんは黙ってて!!」
凌華の声が朝の屋敷へ響き渡った。
赤壁を目前に控えた呉は、今日も騒がしい。
そしてこの日からしばらく。
凌華が夜の廊下を一人で歩く時だけ、長剣をいつもより強く握っていたことは――。
陸議と、剣の中の孫策だけが知っていた。




