番外編 偽りの書簡
赤壁を目前に控え、呉を包む空気は日を追うごとに張り詰めていた。
曹操の大軍が南下している――その報せが届いてからというもの、屋敷には朝から晩まで伝令が出入りし、各地から運び込まれる書簡が途切れることはない。廊下を歩けば鎧の擦れる音が聞こえ、庭先では兵たちが慌ただしく行き交い、つい数日前まで当たり前だった穏やかな日常が、少しずつ遠ざかっているように凌華には感じられた。
軍議も連日のように続いている。
曹操軍の兵力、進軍速度、船の数、兵糧の位置。
凌華には聞き慣れない軍事の話も多かったが、その中には、現代で何度も目にした名前や地名が混じっている。
――赤壁。
教科書や資料の中では、ほんの数文字で語られていた戦い。
けれど今は違う。
その戦いへ向かって動いている人間の顔を、凌華は知っている。
笑った顔も、怒った顔も知っている。
一緒に食事をしたこともあれば、くだらないことで言い合ったこともある。
だからこそ、歴史の一頁だったはずの「赤壁」が近づいてくるたび、胸の奥に形のないものが積もっていくような感覚があった。
そして凌華が軍議に呼ばれる機会も、以前より増えていた。
理由を知る者は、ごく僅かしかいない。
凌華がこの時代の人間ではないこと。
遠い未来から来たこと。
そして、これから起こる出来事の一部を「歴史」として知っていること。
それは呉の中でも、限られた者だけが共有する秘密だった。
兵たちはもちろん、凌華の身の回りの世話をする侍女たちでさえ知らない。凌華自身も人前では決して未来について口にしないよう気をつけていたし、知っている者たちもまた、その事実を軽々しく扱うことはなかった。
――けれど。
そんな彼らにさえ、凌華が話していないことがある。
いつも背負っている長剣。
現代の資料展で見つけ、気づけばこの時代まで共に来ていた剣。
その中に、孫策がいる。
今、この時代を生きている孫策とは別の存在。
凌華にしか聞こえない声で話し、時には助言をし、時には余計なことを言い、腹が立つほど笑いながら――それでも、この世界へ来たその日からずっと、凌華の傍にいる。
その存在だけは。
まだ、誰にも話していなかった。
*
昼を少し過ぎた頃だった。
凌華は自室の机に向かい、朝から渡されていた書簡を整理していた。
漢字ばかりが並ぶ紙面にも随分慣れたとはいえ、やはり現代の文章を読むようにはいかない。時折分からない文字にぶつかっては眉を寄せ、前後の意味から推測し、それでも分からなければ後で陸議に聞こうと脇へ避ける。
そんな作業を続けていると、戸の向こうから声がした。
「凌華様」
「はい」
顔を上げると、侍女が一通の書簡を手に入ってきた。
「こちらを」
「私に?」
「陸議様より、と」
「陸議さん?」
思わず聞き返した。
同じ屋敷にいるのだから、何か用があれば直接訪ねてくることの方が多い。
もっとも今は赤壁を目前に控え、陸議も朝からあちこちを動き回っている。互いに顔を合わせる時間がないことも珍しくなくなっていたから、書簡で用件を伝えてきても、それほど不自然ではない。
凌華は礼を言って受け取り、封を開いた。
中には、短い文章だけが記されている。
――今宵、戌の刻。
――北の回廊へ、一人で来てください。
――お話ししたいことがあります。
「…………」
凌華は一度読み終えたあと、なぜかすぐには紙から目を離せなかった。
もう一度、最初から読む。
特別おかしなことは書かれていない。
けれど、胸のどこかに小さな棘が刺さったような、説明しにくい違和感だけが残った。
その時だった。
『逢引きか?』
「違う」
ほとんど反射だった。
言ってから、凌華の身体がぴたりと止まる。
恐る恐る顔を上げると――侍女がまだ目の前に立っていた。
「……凌華様?」
「…………」
しまった。
「いや、違うの。何でもない」
「はあ……」
「ありがとう。もう下がっていいよ」
侍女は明らかに不思議そうな顔をしていたが、それ以上は何も聞かず、一礼して部屋を出ていった。
戸が閉まる音を確認した瞬間、凌華は腰の長剣へ顔を向けた。
「もう!」
『何だよ』
「人がいる時に喋らないでよ!」
『俺の声はお前にしか聞こえねえだろ』
「そうだけど、私が返事しちゃうの!」
『それはお前の問題だろ』
「孫策のせいでしょ!」
『人のせいにすんな』
まったく悪びれる様子のない声に、凌華は深々と息を吐いた。
この男と話していると、秘密を守れていること自体が奇跡のように思えてくる。
「……ほんと、いつか絶対バレる」
『その時はその時だ』
「他人事だと思って」
『実際、喋ってんのはお前だからな』
「もういい」
これ以上相手をすると余計に腹が立つ。
凌華は再び書簡へ目を落とした。
『で?』
「何?」
『行くのか?』
凌華はすぐには答えなかった。
陸議からの書簡なら、行く。
そのつもりだった。
けれど紙面を眺めていると、先ほど感じた小さな違和感がどうしても消えない。
筆跡は陸議のものに見える。
言葉遣いもおかしくはない。
それなのに、知っている陸議の声でこの文章を読もうとすると、どこかで引っかかる。
「……なんか変」
『何が?』
「それが分かんないんだよね」
『役に立たねえな』
「孫策に言われたくない」
凌華は口を尖らせながらも、書簡を捨てることはせず、丁寧に折り畳んだ。
違和感の正体は分からない。
けれど。
覚えておこう。
そんな小さな引っかかりだけを胸の隅へ残して。
*
同じ頃。
陸議の手にも、一通の書簡が届けられていた。
差出人として記されていた名は――凌華。
陸議は何気なく封を開き、そこに並んだ文字へ目を通す。
――今宵、戌の刻。
――南の庭へ、一人で来てください。
――未来について、お話ししたいことがあります。
最後の一文まで読んだところで、陸議の視線が止まった。
ほんの僅かな変化だった。
傍らに控えていた兵が見ても、何が変わったのか分からない程度のもの。
けれど、それまで紙面を追っていた目から柔らかさが消え、静かに何かを測るような色が浮かんでいた。
「……これは」
「いかがなさいました?」
兵に尋ねられ、陸議は一度だけ書簡を見下ろした。
それから何事もなかったように折り畳み、懐へ収める。
「いえ。何でもありません」
声音も表情もいつもと変わらない。
けれど。
彼の中ではすでに、その書簡は「凌華からのもの」ではなくなっていた。
*
日が西へ傾き、屋敷の長い影が地面を覆い始めた頃。
凌華は北の回廊へ続く道を歩いていた。
指定された刻には、まだ少し早い。
腰にはいつもの長剣。
そして衣の内側には、陸議から授かった二振りの短剣。
歩く姿だけを見れば普段と変わらないだろう。
けれど凌華の意識は、先ほどからずっと周囲へ向けられていた。
人の動き。
建物の陰。
風で揺れる木々。
すれ違う兵。
何気ない景色の一つ一つを確認しながら進んでいると、長剣から呆れたような声が飛んできた。
『お前』
「何?」
『何でそんなに警戒してんだ』
「別に」
『嘘つけ』
凌華は返事をせず、懐から例の書簡を取り出した。
午後から何度も読み返した文章。
そしてようやく、胸に刺さっていた違和感の正体が分かり始めていた。
――一人で来てください。
そこだ。
今は曹操との決戦を目前に控えている。
間者への警戒も強められ、屋敷の中ですら人の出入りが細かく確認されている。
そんな時期に。
陸議が自分を、人気の少ない場所へ「一人で」呼び出すだろうか。
「……陸議さんなら」
凌華は書簡を見ながら呟いた。
『何だ?』
「たぶん、こんな書き方しない」
『分かるのか?』
「うん」
理由を説明しろと言われると難しい。
けれど。
これまで交わした言葉。
何度も見た表情。
凌華が危ないことをしようとすれば、呆れながらも結局ついてくること。
戦場へ出れば誰より周囲を見ていること。
そういう小さな積み重ねを思い返すほど、この書簡に書かれた「一人で来てください」という言葉だけが、陸議から遠ざかっていく。
『だったら本人に聞きゃいいだろ』
「それじゃ、もし偽物だったら犯人逃げるじゃん」
一瞬。
長剣が沈黙した。
『……お前まさか』
「行ってみる」
『馬鹿か!?』
思った通りの反応が返ってきて、凌華は思わず笑った。
「大丈夫。何も知らないで行くわけじゃないし」
『怪しいと分かって罠に入っていく奴を馬鹿って言うんだよ!』
「ちゃんと警戒してるって」
『そういう問題じゃねえ!』
「何かあったら助けてね」
『俺は剣だぞ!』
「知ってる」
言いながら、凌華は長剣の柄を軽く握った。
すると孫策はしばらく黙ったあと、諦めたように息を吐く。
『……気ぃ抜くなよ』
さっきまでの呆れた声とは、ほんの少しだけ違っていた。
凌華の表情から笑みが消える。
「うん」
短く答え、北の回廊へ足を踏み入れた。
*
そこには、誰もいなかった。
夕暮れの赤い光が柱の間から斜めに差し込み、長い影を床へ落としている。
昼間なら人の往来がある場所なのに、今は風が通り抜ける音さえ妙に大きく聞こえた。
凌華は回廊の中央で足を止める。
「……陸議さん?」
声をかけてみる。
返事はない。
代わりに、木々の葉が擦れ合う音だけが遠くから聞こえてきた。
『いねえな』
「うん」
やっぱり。
そう思った瞬間だった。
何かが動いた。
音というより、空気が僅かに揺れたような感覚。
凌華は振り返らなかった。
視線だけを動かす。
柱の陰に一人。
回廊の奥に一人。
そして――見えないが、背後にも気配がある。
『三人』
孫策の声が低くなる。
凌華は長剣の柄へ指を掛けた。
「……分かってる」
「凌華殿」
背後から、知らない男の声がした。
凌華はゆっくりと振り返る。
そこに立っていた男の顔に見覚えはなかった。
「陸議さんじゃないね」
「残念でしたな」
男の口元が歪む。
けれど凌華は驚かなかった。
むしろ胸の中で、最後まで残っていた疑念がすとんと形を持った。
やっぱり。
あれは陸議の書簡ではなかった。
「別に残念じゃないよ」
「ほう」
「途中から違うと思ってたから」
男の笑みが僅かに消える。
「ならば、なぜ来た?」
凌華は答える代わりに、長剣を鞘から抜いた。
夕日を受けた刃が、赤く光る。
「誰があんな手紙を書いたのか、気になったから」
言い終わるより早く、柱の陰にいた男が飛び出した。
ほぼ同時に、背後の気配も動く。
凌華の視界の中で、三つの影が一斉に距離を詰めてきた。
正面から剣。
右からもう一人。
背後からは足音。
凌華は正面の刃を長剣で受け止めるのではなく、僅かに角度をつけて横へ流した。金属が擦れる甲高い音が耳元で弾け、その勢いを利用して身体を回す。
右から迫っていた刃が視界を横切った。
上体を沈める。
風を切る音が頭上を通過する。
『後ろ!』
孫策の声とほぼ同時に、背筋へ冷たいものが走った。
考えるより先に身体が動く。
凌華は床を蹴り、半歩だけ右へずれた。
直後、背後から振り下ろされた刃が肩のすぐ横を通り過ぎる。
「っ……!」
近い。
避けた勢いのまま振り返り、相手の手首へ長剣の柄頭を叩き込む。
男の指から剣が離れ、乾いた音を立てて床へ転がった。
その腹へ蹴りを入れる。
一人目が柱へ叩きつけられた。
息を整える暇はない。
残る二人が左右へ分かれる。
凌華も長剣を構え直した。
怖くないわけではない。
刃が身体のすぐ傍を通るたび、心臓は激しく脈打つ。
それでも。
初めてこの世界で剣を握った頃とは違う。
呂蒙に何度も転がされ。
陸議に何度も構えを直され。
戦場で何度も、生きるために剣を振るった。
その一つ一つが、今の凌華の身体の中に残っている。
「誰に頼まれたの?」
男たちは答えない。
『聞いて答える馬鹿がいるかよ』
「一応聞いただけ!」
男の一人が怪訝な顔をした。
「……誰と話している?」
「…………」
凌華の表情が固まる。
しまった。
『おい』
「独り言!」
『またそれか』
「うるさい!」
二人の男が一瞬だけ顔を見合わせる。
その僅かな隙を、凌華は逃さなかった。
一気に踏み込む。
長剣を下から跳ね上げると、男の剣が手を離れ、夕暮れの空を回転しながら飛んだ。
驚いて顔を上げた男の懐へ入り、肩を押し込むように体当たりする。
男が後ろへ倒れる。
最後の一人が横から斬り込んできた。
凌華は刃を受け流しながら身体を回転させ、その足を払った。
重い音とともに男の背中が床へ落ちる。
凌華はすぐに剣先を喉元へ突きつけた。
「――動かないで」
荒い呼吸だけが、静かな回廊へ響いた。
三人とも、もう動かない。
凌華はようやく肩の力を抜く。
『危なっかしい戦い方しやがって』
「勝ったからいいでしょ」
「凌華!」
遠くから聞き慣れた声が飛んできた。
振り返る。
回廊の向こうから陸議が走ってくる。その後ろには数名の兵の姿もあった。
「陸議さん?」
凌華の姿を確認した瞬間、陸議の歩調が僅かに緩んだ。
けれど床に倒れている男たちを見ると、すぐに表情を引き締める。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
陸議は凌華の顔から肩、腕へと視線を動かし、血がついていないことを確認してからようやく息を吐いた。
「……やはり、こちらにも届いていましたか」
「こちらにも?」
陸議が懐から書簡を取り出した。
凌華はそれを受け取る。
読み始めて――すぐに眉を寄せた。
――未来について、お話ししたいことがあります。
「……私、こんなの書かない」
「でしょうね」
「未来って、そのまま書いてあるじゃん」
凌華の声が自然と小さくなる。
同時に、周囲にいる兵たちへ視線を走らせた。
幸い彼らは倒れた男たちの拘束に集中している。
陸議も声を落とした。
「私も、そこを読んだ時点で偽物だと判断しました」
「これ、他の人に見られた?」
「届けた者以外には」
「その人は?」
「すでに姿を消しています」
胸の奥がざわついた。
自分の秘密が漏れたのか。
一瞬そう考えたが、陸議は凌華の表情を見て静かに首を振る。
「これだけでは、言葉の意味まで知られているとは限りません」
凌華も書簡へ目を落とした。
確かにそうだ。
誰かが偶然耳にした言葉を使っただけかもしれない。
あるいは、自分と陸議が他人には聞かせられない何かを話している――その程度しか知らない可能性もある。
「……決めつけない方がいいね」
「はい」
その時。
廊下の向こうから兵が駆け込んできた。
「陸議様!」
「何事です」
「周瑜様より、直ちに執務室へ戻られよと!」
陸議の目が鋭くなる。
「何があった?」
「軍議に関わる書簡が狙われました!」
その言葉を聞いた瞬間。
凌華の中で、ばらばらだったものが一本の線に繋がった。
自分への偽書。
陸議への偽書。
同じ刻。
違う場所。
――そういうことか。
凌華は陸議を見る。
陸議も同じ結論に達したらしい。
「……私たちが目的じゃない」
凌華が呟く。
「ええ」
陸議の声が低くなる。
「我々を動かすこと自体が、目的だったのでしょう」
*
執務室へ戻ると、孫策、周瑜、呂蒙がすでに揃っていた。
諸葛亮もいる。
普段なら何か一言くらい言いそうな孫策も、凌華の姿を見るなり最初に尋ねたのは別のことだった。
「怪我は?」
「ない」
「本当だな?」
「本当」
孫策は一度だけ凌華を上から下まで確認すると、それ以上は何も言わなかった。
机の上には、何通もの書簡が並べられている。
凌華は近づき、息を呑んだ。
孫策の名。
周瑜の名。
ほかにも何人かの将の名がある。
けれど。
「……全部、偽物?」
「ああ」
周瑜が答えた。
「同じ刻、別々の場所へ人を動かすよう仕向けられている」
「じゃあ……」
「その隙に軍船の配置に関する書簡を持ち出そうとした者がいた」
凌華の胸が強く脈打った。
「盗まれたの?」
「いや。未遂だ」
その言葉を聞いて、凌華は知らず詰めていた息を吐いた。
しかし周瑜の表情は緩まない。
諸葛亮が机の上の書簡を一通取り上げ、ゆっくりと眺めた。
「興味深いですね」
「何が?」
凌華が尋ねる。
「この者は、ただ筆跡を真似ただけではありません」
諸葛亮は凌華に届いたものと、陸議へ届いたものを並べた。
「誰が、誰からの言葉であれば動くのか。それを考えている」
部屋の空気が僅かに変わった。
凌華も改めて二通を見比べる。
自分には陸議。
陸議には自分。
周瑜には孫策。
ただ適当に名を借りたのではない。
それぞれが、無視しない相手を選んでいる。
「……嫌だな」
ぽつりと零れた。
文字を真似されたことよりも。
自分たちの関係を観察され、それを利用されたことの方が、凌華にはずっと気味が悪かった。
諸葛亮は静かに羽扇を動かした。
「人は、信用していない者からの言葉には警戒します」
その視線が、机上の偽書へ落ちる。
「ゆえに偽りとは、信用する相手の姿を借りた時にこそ、最も人を動かすのでしょう」
凌華は自分に届いた書簡を手に取った。
陸議の字に似ている。
陸議が使いそうな言葉が並んでいる。
けれど。
陸議ではない。
「……でも私、途中で分かったよ」
隣にいた陸議が凌華を見る。
「何がです?」
「これが、陸議さんの書いたものじゃないって」
「なぜ?」
「『一人で来てください』ってところ」
凌華はその一文を指で示した。
「今の状況で、陸議さんなら私を一人で人気のないところに呼ばないと思ったから」
陸議が一瞬黙った。
やがて、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……正解です」
「でしょ?」
思わず得意げになる。
しかし。
「では、なぜ行ったのです?」
「…………」
凌華の笑顔が止まった。
孫策が横から凌華を見る。
「確かに」
「いや、それは……」
「偽物だと思ったんだろ?」
「思ったけど」
「一人で行ったのか?」
「犯人捕まえられるかなって」
一拍。
「馬鹿かお前は!」
「捕まえたじゃん!」
「結果論だ!」
「ちゃんと武器も持ってたし!」
「そういう問題じゃねえ!」
「じゃあどういう問題よ!」
「そこから説明しなきゃ分からねえのか!?」
呂蒙が深々と息を吐き、周瑜は額へ手を当てる。
諸葛亮だけは羽扇で口元を隠していた。
そして。
陸議は笑っていなかった。
「凌華」
「……はい」
静かな声だった。
けれど孫策に怒鳴られるより、なぜかこちらの方が効く。
「次からは、先に私へ確認してください」
「……はい」
「絶対に」
「はい」
『怒られてやんの』
腰の長剣から楽しそうな声がした。
凌華の眉が僅かに動く。
(うるさい)
もちろん声には出さない。
けれど。
ふと顔を上げると、陸議の視線が凌華の腰へ落ちていた。
長剣。
ほんの一瞬だけだった。
すぐに陸議は視線を戻し、何事もなかったように周瑜たちの話へ耳を傾ける。
凌華は何も言わなかった。
ただ無意識に、長剣の柄へ触れた。
*
事件についての確認が一段落した頃には、すっかり夜になっていた。
屋敷の喧騒も少しずつ遠のき、灯された明かりが長い廊下を柔らかく照らしている。
凌華と陸議は並んで歩いていた。
昼間の出来事が嘘だったかのように静かな夜だった。
「ねえ」
凌華が口を開く。
「はい」
「やっぱり、ちょっと悔しい」
「何がです?」
凌華は懐から例の偽書を取り出した。
「これ」
「まだ持っていたのですか?」
「証拠だから」
「もう必要な部分は確認されていますが」
「いいの」
凌華は書簡を開いた。
灯りの下で見ると、改めてよく似ている。
「字、本当に陸議さんっぽい」
「そうですね」
「最初は、本当に陸議さんからだと思った」
その言葉に。
陸議の歩みが僅かに緩んだ。
「……それは、あまり喜べませんね」
「なんで?」
陸議が足を止める。
凌華も数歩先で気づき、振り返った。
夜の灯りの中で、陸議は静かにこちらを見ていた。
「私の名を使えば、凌華を呼び出せるということでしょう?」
「…………」
凌華は手元の偽書へ目を落とした。
先ほど諸葛亮が言った言葉が蘇る。
信用する相手の姿を借りる。
今回、自分はその罠に半分まで足を踏み入れた。
それでも。
「でも」
「はい?」
「本当に陸議さんからだったら、たぶん私、行くよ」
陸議の目が僅かに見開かれた。
「一人で来て、と書いてあっても?」
凌華は少し考えた。
危ないと言われれば、その通りだと思う。
今日のことを考えれば、軽々しく信用してはいけないことも分かる。
それでも。
目の前にいる陸議を見ていると、答えはあまり変わらなかった。
「……たぶん」
「困りましたね」
「なんで?」
「今の話を聞いていましたか?」
「聞いてたよ」
「でしたら、もう少し警戒してください」
「でも、陸議さんでしょ?」
その言葉が落ちた瞬間。
陸議が黙った。
凌華も、なぜ彼が黙ったのか分からず見つめ返す。
ただ。
自分の口から出た言葉を頭の中でもう一度繰り返した時、なぜか少しだけ恥ずかしくなった。
――でも、陸議さんでしょ。
それだけ信用しているのだと、自分から言ってしまったようなものだった。
「……だからです」
陸議がようやく口を開く。
「私の名を見ただけで信用してしまうのなら、同じことがまた起こります」
「……うん」
正論だった。
凌華は偽書を畳む。
「じゃあ、どうする?」
「決めておきましょう」
「何を?」
「本当に私が書いた書簡だと、凌華だけが分かるものを」
凌華の目が僅かに大きくなる。
「暗号?」
「そこまで大げさなものでなくても構いません。他人には意味がなく、しかし凌華には分かる言葉があればいい」
「いいね、それ」
「ただし」
「何?」
「凌華から私へ送る時にも必要です」
「あ、そっか」
二人は再び歩き始めた。
しばらくの間、足音だけが廊下に響く。
「何がいいかな」
凌華は考えながら天井を見上げた。
「普通すぎたら、たまたま使われるかもしれないし」
「ですが、不自然すぎても怪しまれます」
「難しいね」
「そうですね」
何かないだろうか。
二人だけが意味を知っていて。
けれど、誰かが見ても不思議に思わない言葉。
考えているうちに、凌華の頭へ一つの言葉が浮かんだ。
あまりに普通で。
だからこそ、この時代へ来てから、その意味を以前より強く感じるようになった言葉。
「……『また明日』は?」
陸議が凌華を見る。
「また明日?」
「うん」
凌華は少し笑った。
「書簡の最後に、必ず『また明日』って書くの」
「戦場からの書簡でも?」
「書く」
「遠征で、何日も戻れないとしても?」
「書く」
「明日、会えないと分かっていても?」
凌華は一瞬だけ黙った。
脳裏に、現代で読んだ歴史が浮かぶ。
そこでは、人の人生がたった一行で終わる。
誰が何年に死んだ。
誰がどの戦いで敗れた。
誰が病に倒れた。
そんな記録を、以前の凌華はただの知識として読んでいた。
けれど今は。
その名前に顔がある。
声がある。
明日になれば、また会えると思っている人たちがいる。
だからこそ。
「……それでも書く」
凌華は答えた。
「だって」
少し照れながら、それでも陸議から目を逸らさなかった。
「明日も会うつもりってことでしょ」
陸議が何も言わなくなる。
廊下を吹き抜けた夜風が、凌華の髪を僅かに揺らした。
言ってから急に恥ずかしくなり、凌華は視線を落とす。
「……変?」
「いいえ」
返ってきた声は穏やかだった。
凌華が顔を上げる。
陸議は微かに笑っていた。
「いい言葉だと思います」
その答えを聞いた瞬間。
凌華の胸の奥に、ほんの少しだけ温かなものが広がった。
「じゃあ決まり」
「はい」
「誰にも内緒ね」
「もちろんです」
『俺には丸聞こえだけどな』
「…………」
危ない。
凌華は反射的に開きかけた口を閉じた。
『また明日、ねえ』
返事をしない。
『随分と仲良くなったもんだ』
聞こえない。
『凌華』
無視。
『おーい』
「…………」
「凌華?」
隣から陸議の声がした。
「何でもない!」
少し大きな声が出た。
陸議が不思議そうにこちらを見る。
凌華は誤魔化すように前を向き、そのまま歩き続ける。
けれど横目に、陸議の視線が一度だけ自分の腰へ落ちるのが見えた。
――長剣。
凌華の胸が小さく跳ねる。
しかし陸議は何も言わなかった。
そのまま何事もなかったように視線を前へ戻す。
凌華も聞かなかった。
けれど最近、時折こういうことがある。
凌華が誰もいないところで返事をした時。
何かに腹を立てたような顔をした時。
誰も言葉を発していないのに、突然笑った時。
陸議が長剣を見る。
何かに気づいているのだろうか。
それとも、凌華がこの剣を特別に大切にしていると知っているから、ただ見ているだけなのか。
分からない。
陸議も尋ねない。
凌華も話さない。
二人の間には、まだ言葉になっていないものがいくつもあった。
今は。
それでいい気がした。
やがて凌華の部屋の前へ着く。
陸議が足を止めた。
「今日はもう休んでください」
「うん」
「明日はまた朝から軍議です」
「分かってる」
凌華は戸へ手を掛ける。
「おやすみ、陸議さん」
「おやすみなさい、凌華」
部屋へ入ろうとして。
ふと、足を止めた。
「あ」
振り返る。
陸議もこちらを見る。
ほんの少し前に決めたばかりの言葉。
まだ一度も使っていない、二人だけの合図。
凌華は少しだけ笑った。
「――また明日」
一瞬。
陸議の目が僅かに見開かれた。
それから意味を理解したように、その表情がゆっくりと柔らかくなる。
「はい」
静かな声だった。
「また明日」
凌華は戸を閉めた。
背中を戸へ預ける。
なぜだろう。
ただ四文字を交わしただけなのに、妙に頬が熱い。
「…………」
『…………』
珍しく長剣も静かだった。
凌華はゆっくり剣を見る。
「何?」
『いや』
「何よ」
『別に』
「絶対なんかあるでしょ」
『何でもねえよ』
「変な孫策」
『うるせえ』
思わず笑った。
長剣をいつもの場所へ置き、凌華は寝台へ腰を下ろす。
――また明日。
現代にいた頃なら、何の意味も考えず使っていた。
別れ際に言う、ただの挨拶。
明日が来ることを疑いもしない人間が、当たり前のように交わす言葉。
けれど。
今は違う。
もうすぐ戦が始まる。
凌華は、その先にある歴史を知っている。
誰かにとっての「また明日」が、必ず叶うわけではないことも知っている。
未来を知っているからこそ、考えてしまう。
もし。
明日が来なかったら。
もし。
今日が最後になったら。
そんなことを考えるたび、胸の奥が締めつけられる。
けれど――だからこそ。
明日も会うつもりでいたい。
明日も同じように笑って、怒って、くだらないことで言い合って。
その次の日も。
また、その次の日も。
歴史に何と書かれていようと。
少なくとも今ここにいる自分だけは、そう願っていたい。
凌華は灯りを消した。
部屋が静かな闇に包まれる。
布団へ入り、目を閉じようとして。
「……また明日」
小さく呟いた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
陸議へなのか。
この屋敷にいる皆へなのか。
それとも――。
少しの沈黙のあと。
暗闇の中で、長剣から声がした。
『ああ』
いつものからかうような調子ではない。
不思議なくらい静かな声だった。
『また明日』
凌華は目を閉じた。
口元が僅かに緩む。
長剣の中から聞こえるその声の正体を知る者は――
まだ、誰もいなかった。




