↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
番外編 それでも続いていく
73/76

番外編 一粒の重さ


履物の件がひとまず形になってから、凌華は少しだけ調子に乗っていた。


本人にその自覚はない。


兵の履物が傷む前に確認するようになり、補修で済むものが増えた。完全に使えなくなって交換する数も減り、足を傷めて訓練や行軍から外れる兵も少なくなった。


最初に「これ、おかしくない?」と言ったのが凌華だったせいで、兵たちから礼を言われることも増えた。


そのたびに凌華は、


「私じゃなくて呂蒙さんと陸議さんがやったんだけど」


と首を傾げていたのだが。


それでも、自分が何気なく気づいたことが誰かの役に立ったというのは、素直に嬉しかった。


だから今度も。


最初は、本当にそれくらいの気持ちだった。


「……少なくない?」


昼時。


訓練を終えた兵たちが食事を取る一角で、凌華は一人の兵が持つ器を覗き込んでいた。


声を掛けられた兵は慌てて背筋を伸ばした。


「凌華様」


「いや、そのままでいいよ。食べて」


「はっ」


言われても、兵の箸はすぐには動かなかった。


凌華はその器をもう一度見る。


穀物を煮たものが入っている。


何も入っていないわけではない。


けれど、朝から身体を動かし続けた男が食べる量としては、凌華にはどうにも少なく見えた。


「それで足りる?」


「問題ありません」


「本当に?」


「はい」


少し離れたところから声が飛んできた。


「凌華」


振り返ると、呂蒙がこちらへ歩いてくるところだった。


「また兵捕まえて何やってんだ」


「捕まえてないよ」


「そいつ飯食えなくなってるだろ」


凌華が兵を見る。


兵は器を持ったまま固まっている。


「あ、ごめん。食べて食べて」


「は、はい」


ようやく箸が動き始めた。


凌華は呂蒙の横へ移り、それでも気になってもう一度兵の器を見る。


「ねえ、呂蒙さん」


「今度は何だ」


「ご飯、少なくない?」


呂蒙の視線が兵たちへ向いた。


「今はこんなもんだ」


「今は?」


「兵糧に余裕がある時ばっかじゃねえんだよ」


「でも訓練してるじゃん。食べなかったら身体もたないでしょ」


「分かってる」


「だったらもうちょっと――」


「増やせるなら増やしてる」


返事が思ったより早かった。


凌華は口を閉じた。


呂蒙は怒っているわけではない。ただ事実を言っただけだった。


「……ないの?」


「ないってほどじゃねえ。だが、好きに食わせられるほどあるわけでもねえ」


「じゃあ買えば?」


口にしてから、凌華は呂蒙の顔を見た。


呂蒙は何も言わなかった。


「……何、その顔」


「いや」


「変なこと言った?」


「お前らしいなと思っただけだ」


それが褒め言葉ではないことくらい、凌華にも分かった。


「何で。お金ないの?」


「金があっても、物がなきゃ買えねえだろ」


「……え?」


「今年は実りの悪いところもある。余ってるところから回せるならそうするが、運ぶにも人がいる。馬もいる。そいつらも飯を食う。道が悪けりゃ時間もかかる」


呂蒙は兵たちの器を見ながら続けた。


「その間に敵が動けば、思った通りに届くとも限らねえ」


「でも、別の村とか町から――」


「そこにもなかったら?」


「もっと遠くから」


「道が塞がったら?」


「船で……」


「川が使えなきゃ?」


「じゃあ――」


言葉が続かなかった。


呂蒙が凌華を見る。


責める目ではなかった。


ただ、何度もそれを見てきた者の目だった。


「金出しゃどっかから食い物が湧いてくるわけじゃねえんだ」


凌華は何も言えなかった。


頭では分かる。


当たり前のことだ。


食べ物は、誰かが作らなければ存在しない。


けれど。


それを、こんな形で考えたことがなかった。


その時だった。


近くで食事をしていた兵の一人が立ち上がった。その器には、米粒ひとつ残っていない。


本当に綺麗だった。


凌華はなぜか、その器から目を離せなかった。


◇


その日の夕方、凌華は物資を扱う場所へ顔を出した。


昼間の話が引っかかっていた。


食べ物が少ない。


なら、どれくらいあるのか知ればいい。


どこから来るのか。


どれくらい使うのか。


履物の時だって、最初はそこからだった。


分からないなら見ればいい。


そう思っていた。


「陸議さん」


帳面を確認していた陸議が顔を上げる。


「どうしました?」


「食べ物」


「……はい?」


「兵糧って、どのくらいあるの?」


陸議の目が凌華の後ろへ向いた。


そこには腕を組んだ呂蒙がいる。


「昼からずっとこれだ」


「なるほど」


陸議は何かを察したらしい。


凌華はその横へ座り込むと、広げられた帳面を覗いた。


「これ?」


「こちらです」


陸議が別の帳面を開いた。


現在の備蓄。


入ってきた量。


出ていった量。


凌華にも分かる数字が並んでいる。


「……あるじゃん」


「ありますよ」


「じゃあ増やせるんじゃないの?」


「増やせません」


即答だった。


「なんで?」


「これは余っているのではありません」


「でも残ってるよね?」


「残しているのです」


凌華が顔を上げる。


「何が違うの?」


陸議は少しだけ考えたあと、帳面の一箇所を指した。


「次の補給が予定通り届くとは限らないからです」


「……」


「雨で道が使えなくなることもあります。輸送中に失われることもある。敵軍の動き次第では、予定していた道を使えなくなる場合もあります」


「じゃあ、届かなかったら」


「ここにあるもので耐えます」


凌華は数字を見る。


さっきまで「ある」と思っていた数字が、急に違って見えた。


今食べられる量ではない。


明日。


明後日。


その先まで生きるために、食べずに残している量なのだ。


「……じゃあ、もっと買っとけばいいんじゃない?」


言いながら、自分でも昼間と同じことを言っていると気づいた。


それでも陸議は笑わなかった。


「どこから買います?」


「食べ物があるところ」


「その場所にも余裕がなければ?」


「……」


「仮にあったとしても、こちらまで運ぶ必要があります」


呂蒙が横から口を挟んだ。


「運ぶ奴も食うぞ」


「分かってる」


「馬もな」


「分かってるって」


「途中で腐ることもある」


「……分かってる」


声が少し小さくなった。


陸議は帳面を閉じなかった。


凌華がまだ考えていると分かっているからだ。


「じゃあ」


凌華は別の数字を見る。


「値段上げたら、もっと集まったりしないの?」


「集まる可能性はあります」


「じゃあ――」


「ですが」


陸議の声が続いた。


「それを続ければ、買えなくなる者も出ます」


凌華の指が止まる。


「……誰が?」


「金を持たない民です」


部屋の外から、荷を運ぶ声が聞こえてくる。


穀物を詰めた袋が運び込まれ、床へ置かれるたびに重い音がした。


「高く買えば、それだけこちらへ集めることはできるかもしれません。しかし、それで周囲の民が買えなくなれば意味がない」


「……」


「軍だけが食べられればよいわけでもありません」


凌華は完全に黙った。


履物の時とは違う。


壊れる前に直す。


使う人に聞く。


傷みやすい部隊から確認する。


あの時は、考えれば道が見えた。


今回は違う。


右へ動かせば左から消える。


ここへ持ってくれば、向こうが減る。


金を出せば買えると思った。


けれど、買えば誰かが買えなくなるかもしれない。


「……難しい」


凌華がぽつりと言った。


呂蒙が鼻を鳴らした。


「だから難しいんだよ」


「何その言い方」


「やっと分かったか」


「分かってないから困ってるんでしょ」


「なら考えろ」


いつもなら言い返すところだった。


けれど今日は、凌華は黙って帳面へ視線を落とした。


◇


それから数日。


凌華は食事の光景を以前より見るようになった。


見ようと思わなければ、気づかなかったものばかりだった。


兵たちは食べ物を粗末にしない。


落としたものまで何でも食べるわけではないが、器に残る量は驚くほど少ない。


ある日。


凌華は朝から妙に食欲がなく、自分の器に少しだけ食事を残した。


隣にいた兵へ何気なく声を掛ける。


「これ、食べる?」


兵が凌華を見る。


その視線が一瞬だけ器へ落ちた。


本当に、一瞬だった。


「よろしいのですか?」


「うん。私もうお腹いっぱい」


「では……いただきます」


渡した食事は、すぐになくなった。


「……お腹空いてた?」


「いえ」


兵は笑った。


「食える時に食っておいた方がいいですから」


凌華はその言葉に、笑い返せなかった。


「食える時に?」


「はい」


「……食べられない時あるの?」


兵は少し不思議そうな顔をした。


質問の意味が分からないのではない。


なぜそんな当たり前のことを聞くのか、分からない顔だった。


「ありますよ」


凌華の胸の奥に、何かが引っかかった。


「お腹空いてても?」


「まあ」


「食べ物なくて?」


「そういう時もあります」


「……眠れる?」


兵が笑った。


「疲れてりゃ寝ます」


「でもお腹空いてるんでしょ?」


「腹が減ってようが、食う物がなけりゃ仕方ないですから」


あまりにも普通の口調だった。


凌華はそれ以上、何も聞けなかった。


◇


その夜。


いつものように、陸議の部屋へ行った。


戸を開けると、灯りの下で陸議が書簡を読んでいた。


「陸議さん」


「はい」


「入っていい?」


陸議が顔を上げる。


「今日は先に聞くのですね」


「たまにはね」


「どうぞ」


凌華は入ると、いつもの壁際へ向かった。


背中を壁につけて座り、膝を抱える。


陸議は一度だけ凌華を見て、それ以上は何も尋ねなかった。


しばらく、紙をめくる音だけが部屋に響いた。


窓の外では風が木々を揺らしている。


凌華はその音を聞きながら、昼間から何度も頭に浮かんでいたことを口にした。


「陸議さん」


「何です?」


「……お腹空いて、眠れないことってある?」


紙をめくる音が止まった。


陸議の視線が凌華へ向く。


「ありますよ」


「陸議さんも?」


「ええ」


それがあまりにも普通の返事で、凌華は顔を上げた。


「食べ物なくて?」


「そういう時もありました」


「……そっか」


凌華はまた膝へ顔を寄せた。


少しして。


「私、ないかも」


陸議は黙っている。


「お腹空いたことはあるよ。ダイエットしてた時とか、ご飯食べるの遅くなった時とか。大学行って、お昼買うの忘れたとか」


「だいえっと?」


「……痩せようとするやつ。今そこはいい」


「そうですか」


「でも」


凌華は膝を抱く腕へ少し力を入れた。


「食べたいのに、食べ物がないって……多分ない」


遠い記憶を探す。


朝になれば食べ物があった。


冷蔵庫を開ければ、何かが入っていた。


家になければ店へ行けばいい。


夜でも明かりのついた店があって、お金を払えば温かいものさえ買えた。


棚いっぱいに並んだ弁当。


パン。


お菓子。


飲み物。


選べないほどの食べ物。


それが、普通だった。


「冷蔵庫開けたら何かあったし」


「れいぞうこ?」


「食べ物を冷たくして入れとく箱」


「箱……」


「うん。あと、コンビニっていう、夜でも食べ物買える店があって。スーパーっていう大きい店にも、食べ物いっぱい並んでて」


説明しながら、凌華の声がだんだん小さくなった。


「……いっぱいあったんだよ」


「そうですか」


「ありすぎて」


凌華は一度言葉を止めた。


「捨てることもあった」


陸議は何も言わない。


責めもしない。


驚きもしない。


ただ、凌華が話すのを待っている。


「賞味期限っていうのがあってね。食べられるかもしれないけど、古くなったから捨てたり。店でも売れなかったら捨てたりしてた」


そこまで話してから、凌華は自分の手を見る。


「私も残してたし」


昼間、自分が渡した器。


それを綺麗に食べた兵の姿が浮かぶ。


「歴史では知ってるんだよ」


陸議が僅かに目を細めた。


「飢饉があったとか。不作だったとか。兵糧が尽きたとか。民が飢えたとか」


何度も読んだ。


試験にも出た。


年号と出来事を結びつけた。


卒論の資料を読みながら、当時の人口や戦乱への影響を考えたこともある。


「何人死んだ、とか」


紙の上では数字だった。


一行だった。


「……私、この言葉ずっと知ってたのに」


凌華は俯いた。


「何にも分かってなかったんだね」


陸議が筆を置いた。


静かな音だった。


「凌華」


「うん」


「知らなかったのでしょう」


「……うん」


「では、今知った」


凌華が顔を上げる。


陸議はいつもと変わらない顔をしていた。


慰めるような笑顔でもない。


ただ、まっすぐ凌華を見ている。


「知らなかったことと、知ろうとしないことは違います」


凌華はしばらく陸議を見た。


やがて小さく息を吐く。


「……そういうこと言うよね、陸議さん」


「何がです?」


「私が一人で勝手に落ち込もうとすると、途中で止める」


「落ち込んでも食糧は増えませんので」


「そういうとこ!」


思わず声が大きくなった。


陸議の口元が僅かに緩む。


凌華も少しだけ笑った。


それから、また静かになる。


「……ねえ」


「はい」


「増やせないならさ」


凌華は膝から顔を上げた。


「減らさないことはできないの?」


陸議の目が僅かに動く。


「どういう意味です?」


「食べ物そのものを増やす方法、私には分かんない」


凌華は指を折りながら考える。


「買おうとしてもないかもしれない。遠くから運ぶにも大変。高く買ったら他の人が買えなくなる」


数日前、自分がぶつかった壁を一つずつ口にする。


「だったら」


凌華は陸議を見る。


「今ある食べ物を、途中で無駄にしない方法なら考えられない?」


陸議はすぐには答えなかった。


凌華は続ける。


「運んでる途中でどれくらい駄目になるの?」


「状況によります」


「保管してる間は?」


「湿気や鼠などで失うことはあります」


「どこで一番減ってる?」


陸議が黙る。


凌華が首を傾げた。


「……分かんない?」


「記録を確認すれば、おおよそは」


「じゃあ見たい」


「今からですか?」


「明日」


「珍しいですね」


「何が?」


「今日は帰るのですね」


凌華がむっとする。


「私だって帰るよ」


「いつもそこで寝ていますが」


陸議の視線が、壁際に置かれた掛け布へ向いた。


凌華も見る。


「……今日は寝てない」


「そうですか」


「その顔何」


「何も」


少しだけ。


いつもの調子が戻った。


◇


翌日から、凌華はまた動き始めた。


ただし、履物の時とは違った。


最初に答えを持ってはいなかった。


「呂蒙さん、運んでる途中で食べ物駄目になることある?」


「ある」


「どんな時?」


「雨。荷車が壊れる。袋が破れる。川なら水被ることもある」


「他は?」


「お前、今度は兵糧か」


「うん」


呂蒙は少しだけ凌華を見た。


以前なら、凌華は「じゃあこうしたらいいじゃん」と先に答えを出していた。


今日は違う。


「教えて」


そう言っている。


呂蒙は腕を組んだ。


「……保管が悪けりゃ鼠にも食われる。湿ったまま置きゃ傷む。古いのが奥に残って、先に新しい方使っちまうこともある」


「それ!」


凌華の顔が上がる。


「古い方から使えばいいじゃん」


「分かってても、積み方悪けりゃ取り出せねえこともあるんだよ」


「じゃあ積み方変えよう」


「簡単に言うな」


「だから見せて」


「……ったく」


呂蒙は歩き出した。


凌華がその隣へ並ぶ。


少し遅れて陸議も続いた。


倉へ入ると、乾いた穀物の匂いと木の匂いが混ざっていた。袋や容器が並び、奥では兵が荷を動かしている。


凌華は端から端まで歩いた。


どこから入るのか。


どこへ置くのか。


何から使うのか。


誰が記録するのか。


分からなければ聞いた。


呂蒙が現場の事情を答えた。


陸議が帳面と照らし合わせた。


凌華の案が通らないこともあった。


「ここ分けたら?」


「狭くなります」


「じゃあこっち」


「運ぶ距離が増える」


「……じゃあ駄目か」


それでもまた考えた。


古いものが奥へ入り込まないよう置き方を少し変える。


入ってきた時期を分かりやすくする。


袋が傷んでいないか、運び込んだ時点で確認する。


濡れたものを他と一緒に置かない。


どこで損失が出たのかも記録する。


どれも、食べ物を生み出す方法ではなかった。


一粒も増えない。


けれど。


失う一粒を減らすことはできた。


◇


すぐに大きな結果が出たわけではない。


季節が変わるほどの時間が経った頃。


陸議が帳面を持って凌華を呼んだ。


「凌華」


「何?」


「こちらを」


差し出された帳面を受け取る。


凌華は数字を追った。


「……減ってる?」


「ええ」


「何が?」


「保管中に使えなくなった分です」


凌華はもう一度見る。


劇的な数字ではない。


食糧事情が一気に良くなるような量でもない。


それでも。


確かに減っている。


失われるはずだった食べ物が、残っている。


「……そっか」


履物の時のように「ほら!」とは言わなかった。


ただ、小さく笑った。


「よかった」


それだけだった。


◇


その日の夕方。


倉の近くを通った凌華へ、一人の兵が声を掛けた。


以前、凌華が食事を分けた兵だった。


「凌華様」


「ん?」


「ありがとうございました」


凌華は一瞬、何のことか分からなかった。


兵が倉を見る。


「兵糧の扱いが変わったのは、凌華様が仰ったからだと」


「ああ……」


凌華は少し困ったように笑った。


「私のおかげじゃないよ」


「ですが――」


「今回は本当に違う」


以前なら、そこで呂蒙や陸議の名前を出して終わっていた。


今日は少し違った。


凌華は倉へ視線を向ける。


荷を運ぶ兵。


記録をつける者。


袋の状態を確認する者。


そして、自分が知らなかったことを教えてくれた人たち。


「私、最初は何にも分かってなかったから」


兵が凌華を見る。


「食べ物がなくなるっていうのも。食べたいのに食べられないっていうのも」


凌華は少しだけ照れたように頬を掻いた。


「だから、みんなに教えてもらったんだよ」


「……」


「私が教えたんじゃない。今回は私が教えてもらったの」


兵はしばらく何も言わなかった。


やがて、深く頭を下げた。


凌華は慌てる。


「いや、だから頭下げなくていいって」


「それでもです」


「何で」


「聞いてくださったので」


凌華の動きが止まった。


兵は顔を上げる。


「我々の話を」


それだけ言うと、もう一度礼をして去っていった。


凌華はその背中を見送った。


夕暮れの光が、倉の壁を赤く染めている。


中には、積み上げられた食糧がある。


以前なら。


凌華には、ただの備蓄に見えていただろう。


今は違う。


一袋の向こうに、それを作った人がいる。


運んだ人がいる。


今日食べずに、明日のために残した人がいる。


その一粒を必要としている人がいる。


歴史の本には、きっと書かれない。


何年に不作。


何年に飢饉。


何人が飢えた。


文字にすれば、一行で終わる。


けれど、その一行の中には。


こうして今日を生きている人たちがいる。


「……歴史って」


凌華が小さく呟いた。


『ん?』


腰にある長剣から、孫策の声が返る。


凌華は倉を見つめたまま答えた。


「知ってるつもりになるの、簡単なんだね」


『急にどうした』


「なんでもない」


少しだけ笑って、歩き出す。


『おい。そう言われると気になるだろ』


「帰るよ、孫策」


『聞けよ』


「今日お腹空いた」


『なら食え』


「うん」


それができることを。


今日は少しだけ、ありがたいと思った。


凌華は夕暮れの中を歩いていく。


何でも変えられるわけではない。


未来から来たからといって、答えを持っているわけでもない。


知らないことの方が、きっとずっと多い。


それでも。


知らなかったなら、知ればいい。


分からなければ、聞けばいい。


そして、自分にできることが一つでもあるのなら。


そこから始めればいい。


倉の中では今日も、兵たちが明日のための食糧を運んでいる。


その一粒一粒が持つ重さを。


凌華はようやく、少しだけ知り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。