番外編 一粒の重さ
履物の件がひとまず形になってから、凌華は少しだけ調子に乗っていた。
本人にその自覚はない。
兵の履物が傷む前に確認するようになり、補修で済むものが増えた。完全に使えなくなって交換する数も減り、足を傷めて訓練や行軍から外れる兵も少なくなった。
最初に「これ、おかしくない?」と言ったのが凌華だったせいで、兵たちから礼を言われることも増えた。
そのたびに凌華は、
「私じゃなくて呂蒙さんと陸議さんがやったんだけど」
と首を傾げていたのだが。
それでも、自分が何気なく気づいたことが誰かの役に立ったというのは、素直に嬉しかった。
だから今度も。
最初は、本当にそれくらいの気持ちだった。
「……少なくない?」
昼時。
訓練を終えた兵たちが食事を取る一角で、凌華は一人の兵が持つ器を覗き込んでいた。
声を掛けられた兵は慌てて背筋を伸ばした。
「凌華様」
「いや、そのままでいいよ。食べて」
「はっ」
言われても、兵の箸はすぐには動かなかった。
凌華はその器をもう一度見る。
穀物を煮たものが入っている。
何も入っていないわけではない。
けれど、朝から身体を動かし続けた男が食べる量としては、凌華にはどうにも少なく見えた。
「それで足りる?」
「問題ありません」
「本当に?」
「はい」
少し離れたところから声が飛んできた。
「凌華」
振り返ると、呂蒙がこちらへ歩いてくるところだった。
「また兵捕まえて何やってんだ」
「捕まえてないよ」
「そいつ飯食えなくなってるだろ」
凌華が兵を見る。
兵は器を持ったまま固まっている。
「あ、ごめん。食べて食べて」
「は、はい」
ようやく箸が動き始めた。
凌華は呂蒙の横へ移り、それでも気になってもう一度兵の器を見る。
「ねえ、呂蒙さん」
「今度は何だ」
「ご飯、少なくない?」
呂蒙の視線が兵たちへ向いた。
「今はこんなもんだ」
「今は?」
「兵糧に余裕がある時ばっかじゃねえんだよ」
「でも訓練してるじゃん。食べなかったら身体もたないでしょ」
「分かってる」
「だったらもうちょっと――」
「増やせるなら増やしてる」
返事が思ったより早かった。
凌華は口を閉じた。
呂蒙は怒っているわけではない。ただ事実を言っただけだった。
「……ないの?」
「ないってほどじゃねえ。だが、好きに食わせられるほどあるわけでもねえ」
「じゃあ買えば?」
口にしてから、凌華は呂蒙の顔を見た。
呂蒙は何も言わなかった。
「……何、その顔」
「いや」
「変なこと言った?」
「お前らしいなと思っただけだ」
それが褒め言葉ではないことくらい、凌華にも分かった。
「何で。お金ないの?」
「金があっても、物がなきゃ買えねえだろ」
「……え?」
「今年は実りの悪いところもある。余ってるところから回せるならそうするが、運ぶにも人がいる。馬もいる。そいつらも飯を食う。道が悪けりゃ時間もかかる」
呂蒙は兵たちの器を見ながら続けた。
「その間に敵が動けば、思った通りに届くとも限らねえ」
「でも、別の村とか町から――」
「そこにもなかったら?」
「もっと遠くから」
「道が塞がったら?」
「船で……」
「川が使えなきゃ?」
「じゃあ――」
言葉が続かなかった。
呂蒙が凌華を見る。
責める目ではなかった。
ただ、何度もそれを見てきた者の目だった。
「金出しゃどっかから食い物が湧いてくるわけじゃねえんだ」
凌華は何も言えなかった。
頭では分かる。
当たり前のことだ。
食べ物は、誰かが作らなければ存在しない。
けれど。
それを、こんな形で考えたことがなかった。
その時だった。
近くで食事をしていた兵の一人が立ち上がった。その器には、米粒ひとつ残っていない。
本当に綺麗だった。
凌華はなぜか、その器から目を離せなかった。
◇
その日の夕方、凌華は物資を扱う場所へ顔を出した。
昼間の話が引っかかっていた。
食べ物が少ない。
なら、どれくらいあるのか知ればいい。
どこから来るのか。
どれくらい使うのか。
履物の時だって、最初はそこからだった。
分からないなら見ればいい。
そう思っていた。
「陸議さん」
帳面を確認していた陸議が顔を上げる。
「どうしました?」
「食べ物」
「……はい?」
「兵糧って、どのくらいあるの?」
陸議の目が凌華の後ろへ向いた。
そこには腕を組んだ呂蒙がいる。
「昼からずっとこれだ」
「なるほど」
陸議は何かを察したらしい。
凌華はその横へ座り込むと、広げられた帳面を覗いた。
「これ?」
「こちらです」
陸議が別の帳面を開いた。
現在の備蓄。
入ってきた量。
出ていった量。
凌華にも分かる数字が並んでいる。
「……あるじゃん」
「ありますよ」
「じゃあ増やせるんじゃないの?」
「増やせません」
即答だった。
「なんで?」
「これは余っているのではありません」
「でも残ってるよね?」
「残しているのです」
凌華が顔を上げる。
「何が違うの?」
陸議は少しだけ考えたあと、帳面の一箇所を指した。
「次の補給が予定通り届くとは限らないからです」
「……」
「雨で道が使えなくなることもあります。輸送中に失われることもある。敵軍の動き次第では、予定していた道を使えなくなる場合もあります」
「じゃあ、届かなかったら」
「ここにあるもので耐えます」
凌華は数字を見る。
さっきまで「ある」と思っていた数字が、急に違って見えた。
今食べられる量ではない。
明日。
明後日。
その先まで生きるために、食べずに残している量なのだ。
「……じゃあ、もっと買っとけばいいんじゃない?」
言いながら、自分でも昼間と同じことを言っていると気づいた。
それでも陸議は笑わなかった。
「どこから買います?」
「食べ物があるところ」
「その場所にも余裕がなければ?」
「……」
「仮にあったとしても、こちらまで運ぶ必要があります」
呂蒙が横から口を挟んだ。
「運ぶ奴も食うぞ」
「分かってる」
「馬もな」
「分かってるって」
「途中で腐ることもある」
「……分かってる」
声が少し小さくなった。
陸議は帳面を閉じなかった。
凌華がまだ考えていると分かっているからだ。
「じゃあ」
凌華は別の数字を見る。
「値段上げたら、もっと集まったりしないの?」
「集まる可能性はあります」
「じゃあ――」
「ですが」
陸議の声が続いた。
「それを続ければ、買えなくなる者も出ます」
凌華の指が止まる。
「……誰が?」
「金を持たない民です」
部屋の外から、荷を運ぶ声が聞こえてくる。
穀物を詰めた袋が運び込まれ、床へ置かれるたびに重い音がした。
「高く買えば、それだけこちらへ集めることはできるかもしれません。しかし、それで周囲の民が買えなくなれば意味がない」
「……」
「軍だけが食べられればよいわけでもありません」
凌華は完全に黙った。
履物の時とは違う。
壊れる前に直す。
使う人に聞く。
傷みやすい部隊から確認する。
あの時は、考えれば道が見えた。
今回は違う。
右へ動かせば左から消える。
ここへ持ってくれば、向こうが減る。
金を出せば買えると思った。
けれど、買えば誰かが買えなくなるかもしれない。
「……難しい」
凌華がぽつりと言った。
呂蒙が鼻を鳴らした。
「だから難しいんだよ」
「何その言い方」
「やっと分かったか」
「分かってないから困ってるんでしょ」
「なら考えろ」
いつもなら言い返すところだった。
けれど今日は、凌華は黙って帳面へ視線を落とした。
◇
それから数日。
凌華は食事の光景を以前より見るようになった。
見ようと思わなければ、気づかなかったものばかりだった。
兵たちは食べ物を粗末にしない。
落としたものまで何でも食べるわけではないが、器に残る量は驚くほど少ない。
ある日。
凌華は朝から妙に食欲がなく、自分の器に少しだけ食事を残した。
隣にいた兵へ何気なく声を掛ける。
「これ、食べる?」
兵が凌華を見る。
その視線が一瞬だけ器へ落ちた。
本当に、一瞬だった。
「よろしいのですか?」
「うん。私もうお腹いっぱい」
「では……いただきます」
渡した食事は、すぐになくなった。
「……お腹空いてた?」
「いえ」
兵は笑った。
「食える時に食っておいた方がいいですから」
凌華はその言葉に、笑い返せなかった。
「食える時に?」
「はい」
「……食べられない時あるの?」
兵は少し不思議そうな顔をした。
質問の意味が分からないのではない。
なぜそんな当たり前のことを聞くのか、分からない顔だった。
「ありますよ」
凌華の胸の奥に、何かが引っかかった。
「お腹空いてても?」
「まあ」
「食べ物なくて?」
「そういう時もあります」
「……眠れる?」
兵が笑った。
「疲れてりゃ寝ます」
「でもお腹空いてるんでしょ?」
「腹が減ってようが、食う物がなけりゃ仕方ないですから」
あまりにも普通の口調だった。
凌華はそれ以上、何も聞けなかった。
◇
その夜。
いつものように、陸議の部屋へ行った。
戸を開けると、灯りの下で陸議が書簡を読んでいた。
「陸議さん」
「はい」
「入っていい?」
陸議が顔を上げる。
「今日は先に聞くのですね」
「たまにはね」
「どうぞ」
凌華は入ると、いつもの壁際へ向かった。
背中を壁につけて座り、膝を抱える。
陸議は一度だけ凌華を見て、それ以上は何も尋ねなかった。
しばらく、紙をめくる音だけが部屋に響いた。
窓の外では風が木々を揺らしている。
凌華はその音を聞きながら、昼間から何度も頭に浮かんでいたことを口にした。
「陸議さん」
「何です?」
「……お腹空いて、眠れないことってある?」
紙をめくる音が止まった。
陸議の視線が凌華へ向く。
「ありますよ」
「陸議さんも?」
「ええ」
それがあまりにも普通の返事で、凌華は顔を上げた。
「食べ物なくて?」
「そういう時もありました」
「……そっか」
凌華はまた膝へ顔を寄せた。
少しして。
「私、ないかも」
陸議は黙っている。
「お腹空いたことはあるよ。ダイエットしてた時とか、ご飯食べるの遅くなった時とか。大学行って、お昼買うの忘れたとか」
「だいえっと?」
「……痩せようとするやつ。今そこはいい」
「そうですか」
「でも」
凌華は膝を抱く腕へ少し力を入れた。
「食べたいのに、食べ物がないって……多分ない」
遠い記憶を探す。
朝になれば食べ物があった。
冷蔵庫を開ければ、何かが入っていた。
家になければ店へ行けばいい。
夜でも明かりのついた店があって、お金を払えば温かいものさえ買えた。
棚いっぱいに並んだ弁当。
パン。
お菓子。
飲み物。
選べないほどの食べ物。
それが、普通だった。
「冷蔵庫開けたら何かあったし」
「れいぞうこ?」
「食べ物を冷たくして入れとく箱」
「箱……」
「うん。あと、コンビニっていう、夜でも食べ物買える店があって。スーパーっていう大きい店にも、食べ物いっぱい並んでて」
説明しながら、凌華の声がだんだん小さくなった。
「……いっぱいあったんだよ」
「そうですか」
「ありすぎて」
凌華は一度言葉を止めた。
「捨てることもあった」
陸議は何も言わない。
責めもしない。
驚きもしない。
ただ、凌華が話すのを待っている。
「賞味期限っていうのがあってね。食べられるかもしれないけど、古くなったから捨てたり。店でも売れなかったら捨てたりしてた」
そこまで話してから、凌華は自分の手を見る。
「私も残してたし」
昼間、自分が渡した器。
それを綺麗に食べた兵の姿が浮かぶ。
「歴史では知ってるんだよ」
陸議が僅かに目を細めた。
「飢饉があったとか。不作だったとか。兵糧が尽きたとか。民が飢えたとか」
何度も読んだ。
試験にも出た。
年号と出来事を結びつけた。
卒論の資料を読みながら、当時の人口や戦乱への影響を考えたこともある。
「何人死んだ、とか」
紙の上では数字だった。
一行だった。
「……私、この言葉ずっと知ってたのに」
凌華は俯いた。
「何にも分かってなかったんだね」
陸議が筆を置いた。
静かな音だった。
「凌華」
「うん」
「知らなかったのでしょう」
「……うん」
「では、今知った」
凌華が顔を上げる。
陸議はいつもと変わらない顔をしていた。
慰めるような笑顔でもない。
ただ、まっすぐ凌華を見ている。
「知らなかったことと、知ろうとしないことは違います」
凌華はしばらく陸議を見た。
やがて小さく息を吐く。
「……そういうこと言うよね、陸議さん」
「何がです?」
「私が一人で勝手に落ち込もうとすると、途中で止める」
「落ち込んでも食糧は増えませんので」
「そういうとこ!」
思わず声が大きくなった。
陸議の口元が僅かに緩む。
凌華も少しだけ笑った。
それから、また静かになる。
「……ねえ」
「はい」
「増やせないならさ」
凌華は膝から顔を上げた。
「減らさないことはできないの?」
陸議の目が僅かに動く。
「どういう意味です?」
「食べ物そのものを増やす方法、私には分かんない」
凌華は指を折りながら考える。
「買おうとしてもないかもしれない。遠くから運ぶにも大変。高く買ったら他の人が買えなくなる」
数日前、自分がぶつかった壁を一つずつ口にする。
「だったら」
凌華は陸議を見る。
「今ある食べ物を、途中で無駄にしない方法なら考えられない?」
陸議はすぐには答えなかった。
凌華は続ける。
「運んでる途中でどれくらい駄目になるの?」
「状況によります」
「保管してる間は?」
「湿気や鼠などで失うことはあります」
「どこで一番減ってる?」
陸議が黙る。
凌華が首を傾げた。
「……分かんない?」
「記録を確認すれば、おおよそは」
「じゃあ見たい」
「今からですか?」
「明日」
「珍しいですね」
「何が?」
「今日は帰るのですね」
凌華がむっとする。
「私だって帰るよ」
「いつもそこで寝ていますが」
陸議の視線が、壁際に置かれた掛け布へ向いた。
凌華も見る。
「……今日は寝てない」
「そうですか」
「その顔何」
「何も」
少しだけ。
いつもの調子が戻った。
◇
翌日から、凌華はまた動き始めた。
ただし、履物の時とは違った。
最初に答えを持ってはいなかった。
「呂蒙さん、運んでる途中で食べ物駄目になることある?」
「ある」
「どんな時?」
「雨。荷車が壊れる。袋が破れる。川なら水被ることもある」
「他は?」
「お前、今度は兵糧か」
「うん」
呂蒙は少しだけ凌華を見た。
以前なら、凌華は「じゃあこうしたらいいじゃん」と先に答えを出していた。
今日は違う。
「教えて」
そう言っている。
呂蒙は腕を組んだ。
「……保管が悪けりゃ鼠にも食われる。湿ったまま置きゃ傷む。古いのが奥に残って、先に新しい方使っちまうこともある」
「それ!」
凌華の顔が上がる。
「古い方から使えばいいじゃん」
「分かってても、積み方悪けりゃ取り出せねえこともあるんだよ」
「じゃあ積み方変えよう」
「簡単に言うな」
「だから見せて」
「……ったく」
呂蒙は歩き出した。
凌華がその隣へ並ぶ。
少し遅れて陸議も続いた。
倉へ入ると、乾いた穀物の匂いと木の匂いが混ざっていた。袋や容器が並び、奥では兵が荷を動かしている。
凌華は端から端まで歩いた。
どこから入るのか。
どこへ置くのか。
何から使うのか。
誰が記録するのか。
分からなければ聞いた。
呂蒙が現場の事情を答えた。
陸議が帳面と照らし合わせた。
凌華の案が通らないこともあった。
「ここ分けたら?」
「狭くなります」
「じゃあこっち」
「運ぶ距離が増える」
「……じゃあ駄目か」
それでもまた考えた。
古いものが奥へ入り込まないよう置き方を少し変える。
入ってきた時期を分かりやすくする。
袋が傷んでいないか、運び込んだ時点で確認する。
濡れたものを他と一緒に置かない。
どこで損失が出たのかも記録する。
どれも、食べ物を生み出す方法ではなかった。
一粒も増えない。
けれど。
失う一粒を減らすことはできた。
◇
すぐに大きな結果が出たわけではない。
季節が変わるほどの時間が経った頃。
陸議が帳面を持って凌華を呼んだ。
「凌華」
「何?」
「こちらを」
差し出された帳面を受け取る。
凌華は数字を追った。
「……減ってる?」
「ええ」
「何が?」
「保管中に使えなくなった分です」
凌華はもう一度見る。
劇的な数字ではない。
食糧事情が一気に良くなるような量でもない。
それでも。
確かに減っている。
失われるはずだった食べ物が、残っている。
「……そっか」
履物の時のように「ほら!」とは言わなかった。
ただ、小さく笑った。
「よかった」
それだけだった。
◇
その日の夕方。
倉の近くを通った凌華へ、一人の兵が声を掛けた。
以前、凌華が食事を分けた兵だった。
「凌華様」
「ん?」
「ありがとうございました」
凌華は一瞬、何のことか分からなかった。
兵が倉を見る。
「兵糧の扱いが変わったのは、凌華様が仰ったからだと」
「ああ……」
凌華は少し困ったように笑った。
「私のおかげじゃないよ」
「ですが――」
「今回は本当に違う」
以前なら、そこで呂蒙や陸議の名前を出して終わっていた。
今日は少し違った。
凌華は倉へ視線を向ける。
荷を運ぶ兵。
記録をつける者。
袋の状態を確認する者。
そして、自分が知らなかったことを教えてくれた人たち。
「私、最初は何にも分かってなかったから」
兵が凌華を見る。
「食べ物がなくなるっていうのも。食べたいのに食べられないっていうのも」
凌華は少しだけ照れたように頬を掻いた。
「だから、みんなに教えてもらったんだよ」
「……」
「私が教えたんじゃない。今回は私が教えてもらったの」
兵はしばらく何も言わなかった。
やがて、深く頭を下げた。
凌華は慌てる。
「いや、だから頭下げなくていいって」
「それでもです」
「何で」
「聞いてくださったので」
凌華の動きが止まった。
兵は顔を上げる。
「我々の話を」
それだけ言うと、もう一度礼をして去っていった。
凌華はその背中を見送った。
夕暮れの光が、倉の壁を赤く染めている。
中には、積み上げられた食糧がある。
以前なら。
凌華には、ただの備蓄に見えていただろう。
今は違う。
一袋の向こうに、それを作った人がいる。
運んだ人がいる。
今日食べずに、明日のために残した人がいる。
その一粒を必要としている人がいる。
歴史の本には、きっと書かれない。
何年に不作。
何年に飢饉。
何人が飢えた。
文字にすれば、一行で終わる。
けれど、その一行の中には。
こうして今日を生きている人たちがいる。
「……歴史って」
凌華が小さく呟いた。
『ん?』
腰にある長剣から、孫策の声が返る。
凌華は倉を見つめたまま答えた。
「知ってるつもりになるの、簡単なんだね」
『急にどうした』
「なんでもない」
少しだけ笑って、歩き出す。
『おい。そう言われると気になるだろ』
「帰るよ、孫策」
『聞けよ』
「今日お腹空いた」
『なら食え』
「うん」
それができることを。
今日は少しだけ、ありがたいと思った。
凌華は夕暮れの中を歩いていく。
何でも変えられるわけではない。
未来から来たからといって、答えを持っているわけでもない。
知らないことの方が、きっとずっと多い。
それでも。
知らなかったなら、知ればいい。
分からなければ、聞けばいい。
そして、自分にできることが一つでもあるのなら。
そこから始めればいい。
倉の中では今日も、兵たちが明日のための食糧を運んでいる。
その一粒一粒が持つ重さを。
凌華はようやく、少しだけ知り始めていた。




