第三十一話 変えられる死
南郡を巡る戦いは、簡単には終わらなかった。
赤壁で曹操軍を退けた後も、江陵を守る曹仁は粘り強く抵抗を続けていた。攻め寄せれば守りを固められ、兵を引けばその隙をうかがわれる。長江沿いでは衝突が繰り返され、陣へ戻る兵たちの足取りにも、次第に疲れがにじむようになった。
それでも、戦局は少しずつ呉へ傾いていった。
周瑜は肩の手当てを受けながら指揮を執り、傷が塞がってからも、医師に経過を確かめさせていた。凌華に何度も念を押され、そのたびに面倒そうな顔をしたが、診察を追い返すことはなかった。
あの日の矢傷が、凌華の知る歴史に記された負傷と同じものだったのかは分からない。
ただ、今の周瑜の傷は深くならずに済んだ。
凌華はそのことを、何度も心の中で確かめていた。
そして、長い攻防の末、曹仁はついに江陵から退いた。
勝利を告げる声が陣中を駆け抜けると、あちこちで歓声が上がった。兵たちは互いの肩を叩き、座り込んだまま天を仰いで笑う者もいた。
凌華はその声を聞きながら、ようやく肩から力を抜いた。
「……勝った」
「ええ」
隣にいた陸議も、城壁の方を見つめていた。
「長かったね」
「ようやく、ですね」
そう答えた横顔にも、いつもよりはっきりと安堵が浮かんでいる。
凌華はそれを見て、小さく笑った。
「陸議さんでも、そう思うんだ」
「私を何だと思っているのです?」
「何があっても落ち着いてる人」
「凌華が落ち着かなさすぎるのでは?」
「失礼な」
言い返す声にも、今日は力が戻っていた。
凌華の知る歴史でも、この戦いは周瑜が勝つ。
けれど、同じ勝利へたどり着いたからといって、そこへ至るすべてが同じだったわけではない。この陣には自分がいて、背の長剣には孫策がいる。孫策が長く生きたことで変わったものも、きっと数えきれないほどある。
「歴史って、同じように進んでるのに、全部同じじゃないんだね」
陸議が凌華へ目を向けた。
「一人違う人間がいるだけでも、その人が誰かと話し、何かを選べば、少しずつ変わるでしょう」
「……私が来たから?」
「それだけではありません。孫策様が長く生きられた分、孫権様も兄君と過ごされた。周瑜殿はあなたの話を聞いて警戒し、あの日は護衛も早く動けた」
陸議はそこで一度言葉を切り、凌華を見た。
「私も、あなたと出会いました」
凌華は返事をしかけたまま、口を閉じた。
城壁の向こうから吹いた風が、二人の間を通り抜けていく。
「……最後の一個、必要だった?」
「事実です」
「そうだけど」
顔をそらすと、背からすかさず声が届いた。
『顔、赤いぞ』
「うるさい」
「孫策様ですか?」
陸議に尋ねられ、凌華は頷いた。
「何と言っているのです?」
「言わない」
『陸議も人のこと言えねえ顔してるけどな』
「余計なこと言わないで!」
陸議がわずかに首を傾げる。
「……何を言われたのです?」
「本当に何でもない!」
その返事に、陸議は追及せず笑った。
南郡を得たその日、凌華は久しぶりに、勝てたことを素直に喜べた。
帰ってこなかった人たちを忘れたわけではない。それでも、生きて隣に立つ人と笑えることが、今は嬉しかった。
◇
南郡を巡る攻防が続く間にも、周囲の情勢は動いていた。
劉備は荊州南部へ勢力を広げ、零陵、桂陽、武陵、長沙といった地名が、次々に報告の中へ現れるようになっていた。
凌華がかつて文字として読んでいた場所には、今、それぞれに暮らす人がいる。その地を誰が治めるかという話は、地図の色を塗り替えるだけでは済まなかった。
戦後の方針を話し合う席で、孫権は広げられた地図を見つめていた。
「劉備は随分と早く動いたな」
「赤壁の勝利を、勢力を立て直す機会にしたのでしょう」
周瑜が答えると、呂蒙が腕を組んだ。
「こっちが江陵で手を焼いている間に、随分と広げたもんだ」
「劉備にも立場がある。領地を持たねば、兵も民も養えん」
「分かっちゃいるけどな」
凌華は黙って二人の話を聞いていた。
荊州を巡る対立が、後に大きな争いにつながることは、すでに伝えてある。関羽の名も、その先に戦が起きることも。
けれど、知っている結末を口にすれば、そこへ至る事情まで説明できるわけではなかった。
「凌華」
孫権に呼ばれ、顔を上げる。
「前に話した荊州の争いは、今の領地の持ち方が関わってくるのだな」
「はい。領地を巡る食い違いが、後まで続くはずです。ただ、誰がいつ何を約束したのかまでは、私の知識だけでははっきり言えません」
「劉備は、このまま荊州を持ち続けるのか?」
「一部を持ちます。でも、ずっとではありません。前に話した通り、いずれ関羽さんと呉が戦うことになります」
言葉を選びながらも、今度は途中で飲み込まなかった。
「思い出せることは、その都度話します。ただ、今の劉備さんたちが、私の知る歴史と同じ判断をするかは分かりません」
周瑜が頷いた。
「ならば、お前の知識も踏まえた上で、今届いている報告を見て判断する。それでいい」
凌華は静かに息をついた。
未来を知っているのだから、正しい答えを一人で出さなければならない。以前は、そんなふうに考えてしまうことがあった。
けれど、自分が知っているのは、かつて読んだ歴史の一部だ。
その知識を渡した先には、自分よりこの土地を知り、人を知り、考えてくれる人たちがいる。
凌華は地図へ目を戻した。
分かることと、分からないこと。その境目を曖昧にせずに伝えることも、自分にできることの一つだった。
◇
その夜、周瑜は凌華を呼び止めた。
部屋に入ると、卓上には昼とは別の地図が広げられていた。灯火に照らされたその上を、周瑜の指が西へたどる。
「益州への進出を考えている」
凌華の胸が、強く脈打った。
「……劉璋さんのところですか」
「ああ。まだ構想の段階だが、孫権にも話すつもりだ」
益州へ向かう計画。
その言葉が、凌華の知識の中にあった断片を結びつけた。
周瑜が若くして病に倒れることは、もう伝えた。覚えている年についても話してある。
だが、その死の前に何をしようとしていたのかまでは、十分に整理できていなかった。
「周瑜さん。それ、前に話したことと、つながるかもしれません」
周瑜の指が止まる。
凌華は卓の向かいに座り、膝の上で手を握った。
「私が読んだ歴史では、周瑜さんは益州を攻める計画を立てた後、移動の途中で病に倒れたはずです。場所は……巴丘、だったと思います」
「病で亡くなると話した、その時のことか」
「はい」
言葉にした途端、遠くの知識だったものが、今この部屋の中まで近づいてきた気がした。
目の前には地図がある。周瑜はもう、その先を考えている。
「だから……行かないでください」
周瑜はすぐには答えなかった。
灯火が小さく揺れ、その横顔に落ちる影が動いた。
「危険は考慮する。だが、計画そのものを捨てるかどうかは、別の話だ」
「でも、その途中で――」
「同じ道を通らぬことも、時期を延ばすこともできる。私がすべての準備に足を運ぶ必要もない」
「それでも、周瑜さんは必要だと思ったら行くでしょう」
声が、自分でも驚くほど強くなった。
「自分が行かなきゃとか、自分がやらなきゃとか……孫策も、そうだった。そうやって死んでしまったら、残された方はどうしたらいいんですか」
周瑜の目がわずかに揺れた。
凌華は俯き、握った手へ目を落とす。
「もう嫌なんです。知っていたのに、また何もできなかったって思うのは」
しばらく、部屋の外を歩く人の足音だけが聞こえた。
やがて周瑜が、地図から手を離した。
「私は、死にに行くつもりはない」
凌華は顔を上げた。
「だから、前に聞いてから、身体のことも医師に相談している。今回思い出したことも伝えよう。移動の仕方と日程も見直す」
「……それで、助かりますか」
「それは分からん」
胸が沈みかけたところへ、周瑜の声が続いた。
「だが、分からぬから何もしないという話にはならんだろう」
凌華は黙って周瑜を見つめた。
「死ぬという結果だけでなく、その前にできることを考える。お前一人に考えろと言っているのではない。私も、医師も、ほかの者もいる」
そう言って、周瑜は椅子へ深く座り直した。
「病の詳しいことは、やはり分からんのだな」
「はい。傷が関係したという話を読んだ気もしますけど、それが史実なのか、物語なのかも……」
「なら、そこは分からぬまま扱う。今の傷と身体の状態を、きちんと診させよう」
凌華はゆっくり頷いた。
食事も休養も、身体の変化に早く気づくことも、病を必ず防げる方法ではない。
それでも、何もできないわけではなかった。
「……私も、できることはします」
「頼む。ただし、お前まで寝ずに見張るような真似はするな」
返事に詰まると、周瑜が眉を上げた。
「考えていたな」
「まだ何も言ってません」
「顔に出ている」
凌華は目元を拭い、少しだけ笑った。
◇
西進に向けた検討は続けられた。
ただし、周瑜自身が移動する日程は急いで決めず、先に使者や報告を通して進められる準備を整えることになった。
身体の状態は医師が継続して診る。異変があれば予定を見直す。
孫権の了承も得た上で決められたことだったが、その確認に最も熱心だったのは、やはり凌華だった。
「お酒は、しばらく控える」
周瑜が顔を上げた。
「医師にも聞いたのか」
「聞きました」
「……そうか」
隣で呂蒙が笑いを堪えている。
「周瑜、お前、完全に見張られてるぞ」
「見れば分かる」
凌華は気にせず指を折った。
「傷が痛むなら我慢しない。食事を抜かない。ちゃんと寝る」
「私は子供か?」
「子供じゃなくても、全部後回しにする人は言われます」
陸議が横から静かに頷いた。
「書簡や報告の整理は、私も手伝います。急ぎでないものまで、その日のうちに片づける必要はないでしょう」
「陸議まで……」
「必要なことです」
「俺も手伝うぞ」
呂蒙が言うと、周瑜は三人を順に見た。
「随分と話がまとまっているな」
「まとまりましたから」
凌華はまっすぐ頷いた。
「熱が出たり、いつもと違ったりしたら、すぐ言ってください。黙って無理したら、孫権に全部言います」
「本人の了承まで取ってあるのか」
「あります」
呂蒙がとうとう笑った。
「諦めろ。せっかく先の危険を聞いたんだ。皆で備えとけばいい」
周瑜はため息をついたが、その表情は厳しくなかった。
「伯符がいないというのに、騒がしさだけは変わらんな」
「孫策がいたら、絶対に一番うるさいですよ」
『当たり前だ』
すぐに届いた声に、凌華の口元が緩んだ。
「孫策も、当たり前だって」
周瑜は一瞬長剣へ目を向け、それから小さく笑った。
「……容易に想像できる」
◇
準備は少しずつ進んだ。
周瑜の傷は落ち着いており、食事の席にも普段と変わらない姿があった。仕事を切り上げる時刻をめぐって凌華とやり合うことはあったが、以前ほど遅くまで灯をともす日は減っていた。
このまま、何事もなく過ぎてくれればいい。
凌華がそう願い始めていた、ある朝だった。
「周瑜様が倒れられた!」
廊下へ飛び込んできた知らせに、凌華は手にしていたものを置いた。
「どこですか!」
「幕舎です。医師は、もう――」
最後まで聞くより早く、足が動いていた。
幕舎へ入ると、周瑜は寝台に横になっていた。顔には熱がにじみ、枕元では医師が様子を確かめている。
「周瑜さん!」
「……大声を出すな。聞こえている」
返事はあった。けれど、いつもの張りがない。
凌華は寝台の脇へ膝をつき、医師の手元を邪魔しないように身を寄せた。
「いつからですか」
「昨日の夕方から少しだるかった。医師には伝えて、早めに休んだのだがな」
医師が頷いた。
「夜には熱が上がりました。今朝、起き上がろうとされた際に、足元がふらつかれたのです」
約束を破って隠していたのではなかった。
休んでいても、備えていても、病になることはある。
その当たり前のことが、今は恐ろしかった。
遅れて入ってきた陸議が入口を空け、呂蒙は寝台のそばで足を止めた。周瑜の顔を見ると、笑みを消して医師へ目を向ける。
凌華は膝の上で手を握りしめた。
これが、歴史の中で周瑜を死なせた病なのだろうか。
見分ける知識など、自分にはない。
「先生、お願いします」
医師は短く頷き、再び周瑜へ向き直った。
凌華もその横顔を見つめた。
「出発は、延期ですよね」
「ああ。今の状態では動けん」
素直な返事に、かえって胸が締めつけられた。
「仕事も、今日はやめてください」
周瑜は何か言いかけ、凌華の顔を見て口を閉じた。
「……分かった。急ぎのものは、呂蒙と陸議に頼む」
「任せろ」
呂蒙が答え、陸議も頷いた。
凌華はようやく、詰めていた息を吐いた。
◇
それから数日、周瑜の熱は上がったり下がったりを繰り返した。
凌華は毎日、幕舎へ通った。
医師の指示を聞き、飲めそうな時に水を差し出し、食事を口にできたか確かめる。汗で湿った布を替えるのを手伝い、眠れた時には物音を立てないように席を外した。
それ以上のことは、できなかった。
病の名も、身体の中で何が起きているのかも分からない。現代にいた時に知っていたつもりのことは、目の前の一人を確実に救う方法にはならなかった。
「少し、飲めますか」
凌華が器を差し出すと、周瑜は重そうに目を開けた。
「……少しならな」
背を支えてもらい、ゆっくりと水を口にする。その喉が動くのを、凌華は息を潜めるように見守った。
「もういい」
「はい。また飲めそうになったら言ってください」
器を置く手に力が入りすぎていたのか、周瑜が薄く目を開いた。
「凌華」
「何ですか」
「お前は、寝ているか」
返事が遅れると、弱いながらも、いつものように眉が寄った。
「陸議に聞くぞ」
「……寝ます」
「今度はお前が言われる番だな」
そんな軽口を返せる時もあれば、声を出すのもつらそうな時もあった。
少し良くなったと思って帰った翌朝、また熱が上がっている。そのたびに凌華の胸は冷え、何か見落としているのではないかと、同じことを何度も考えた。
夜、一人になると、孫策を失った日のことがよみがえった。
あの時も、助けたいと思っていた。
今度こそと願うだけで、結果が変わるわけではない。
「……孫策。周瑜さん、助かるかな」
傍らの長剣へ問いかけると、少し間を置いて声が返ってきた。
『分からねえ』
凌華は膝を抱えた。
「そこは、助かるって言ってよ」
『嘘ついてどうすんだ』
「……そうだね」
しばらく黙っていると、孫策が続けた。
『でも、あいつはちゃんと休んでる。医師もそばにいる。仕事は呂蒙たちが引き受けてる』
「うん」
『お前が全部背負わなくても、皆、あいつを生かしたいと思ってる』
凌華は膝へ額を寄せた。
自分が離れている間に何かあったらと思うと、休むことさえ怖くなる。
けれど、幕舎には今も、周瑜を見ている人がいるのだ。
『今夜は寝ろ。明日また、顔を見に行けばいい』
「……親父みたい」
『親父だろ』
凌華は顔を上げ、長剣を見た。
その声に安心することと、亡くした孫策が恋しいことは、胸の中に一緒にあった。
「そういうところ、二人とも似てる」
『どっちも俺だからな』
思わず笑うと、孫策も少し声を緩めた。
『ほら、寝ろ』
「うん。おやすみ、孫策」
凌華はようやく身体を横たえた。
◇
七日目の朝、幕舎の入口で医師と行き会った。
凌華が声をかけるより先に、医師の表情が和らいだ。
「熱は落ち着いてきています。昨夜は、まとまってお休みになれました」
胸に詰まっていたものが、少しだけ動いた。
「……会っても、大丈夫ですか」
「長くならなければ」
凌華は頷き、そっと中へ入った。
寝台の周瑜が、物音に顔を向ける。
「……周瑜さん?」
「何だ」
まだ疲れは残っていた。けれど、その声は昨日までよりはっきりしている。
凌華は寝台の脇まで歩き、顔をのぞき込んだ。
「熱、下がったって」
「ああ。ようやくな」
「ご飯は?」
「少し食べた。医師からは、まだ寝ていろと言われている」
普段なら、そこで凌華も何か返せたはずだった。
ところが口を開いた途端、先に涙が落ちた。
「凌華?」
慌てて拭っても、次から次へとこぼれてくる。
凌華は寝台のそばへ腰を下ろし、何度も頷いた。
「……よかった。本当に、よかった……」
周瑜は困ったように眉を下げた。
「まだ、しばらくはお前に叱られるらしいぞ」
「いくらでも叱ります」
「それは少し手加減しろ」
凌華は泣きながら笑った。
病が何だったのかも、この先まで無事でいられるのかも、今ここで言い切ることはできない。
それでも、熱に浮かされていた人が、自分を見て言葉を返している。
昨日まで怖くて仕方がなかった朝に、こんなふうに話せている。
そのことが、嬉しかった。
「……私の知ってる歴史のこと、ずっと考えてました」
周瑜は黙って聞いていた。
「また同じになるのかもしれないって。何をしても、変わらないのかもしれないって」
「だが、私は今ここにいる」
凌華が顔を上げると、周瑜は自分の手をゆっくり開いた。
「先のことは、身体が戻ってから考える。今はそれでいいだろう」
「……はい」
「世話をかけたな」
不意にそう言われ、凌華はまた目元を押さえた。
「本当ですよ。一週間、毎日来たんですから」
「ああ。知っている」
いつものように言い返されると思っていたので、凌華は少し黙った。
周瑜の口元が緩む。
「だから、お前も休め」
「元気になった途端、それですか」
「言っておかんと聞かんだろう」
「……孫策みたい」
「お前の相手をしているとな」
入口で、小さな笑い声がした。
振り向くと、呂蒙と陸議が立っていた。二人の顔にも、ようやく安心した色が浮かんでいる。
「凌華。良かったですね」
陸議の声に、凌華は大きく頷いた。
「……うん」
◇
周瑜は、その日を境に少しずつ回復した。
すぐに以前と同じ働き方へ戻れるわけではなかった。寝台を離れる時間を増やし、食事を戻し、短い報告から聞くようになる。そのたびに医師が様子を確かめ、凌華も無理をしていないか顔を出した。
西進の計画は、周瑜自身の出発を延期したまま、改めて検討されることになった。
季節が移り、冷たい風が陣の旗を鳴らす頃には、周瑜は再び皆と卓を囲むようになっていた。
そして、凌華の記憶にあった、周瑜が亡くなる年が過ぎた。
その朝も、特別なことが起きたわけではなかった。
周瑜は届いた書簡を読み、呂蒙と言葉を交わし、凌華が入口で立ち止まっているのを見て顔を上げた。
「何だ。用があるなら入れ」
それだけの声に、凌華は胸がいっぱいになった。
歴史の中では、もういないはずの人がいる。
自分の名を呼び、少し呆れた顔をして、返事を待っている。
「……はい」
凌華は部屋へ足を踏み入れた。
孫策の最期を変えられなかったことは、今も痛かった。長く生きてくれた時間があっても、最後に失った悲しみが薄れるわけではない。
それでも、その一つの別れが、これから先のすべてを決めるわけではなかった。
周瑜は生きている。
凌華だけの力ではない。医師も、陸議も、呂蒙も、休むと決めた周瑜自身も、この先の時間へつないでくれた。
隣へ来た陸議が、凌華の顔を見て足を止めた。
「どうしました?」
「……何でもない。嬉しいだけ」
陸議はそれ以上尋ねず、静かに微笑んだ。
彼にも、凌華の知る歴史の中では、苦しい未来が待っている。
そのすべてを今すぐ変える方法は分からない。けれど、分かることを伝え、皆で考え、その時々に選んでいくことはできる。
今日まで周瑜と、そうしてきたように。
卓上では、新しい地図が広げられていた。
荊州を巡る問題も、劉備の動きも、曹操との対立も、終わってはいない。
その続きを考える人々の中に、周瑜がいる。
凌華は地図を見下ろし、それから、指先で道を示す周瑜の声に耳を傾けた。
呉の未来はもう、彼女が読んだ歴史と同じではなかった。
――第三十一話・了




