↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
番外編 それでも続いていく
72/75

番外編 普通じゃないの?


あの席から、しばらく経った頃だった。


凌華本人は知らない。


兵の怪我に気づけば、華やかな衣の裾が汚れることも構わず駆け寄り、一兵卒を相手に「偉いとか偉くないとか関係ないでしょ」と言ったことが、思っていた以上に人の記憶へ残っていたことを。


まして、それをきっかけに自分の婚姻を巡る話まで持ち上がり、陸議が本人の知らないところでその動きを止めていることなど、知るはずもなかった。


凌華にとっては、もう終わった出来事だった。


だからその日も、いつもと変わらず陸議の仕事部屋にいた。


別に用事があったわけではない。


最初は本当に、なかった。


窓から入る風が机の上の書簡を僅かに揺らし、そのたびに陸議が端へ置いた重しが小さく音を立てる。凌華はいつもの壁際ではなく、今日は机から少し離れたところに座り、積まれていた帳面を何となく眺めていた。


文字のすべてを淀みなく読めるようになったわけではない。


けれど、以前よりはずっと分かる。


特に数字と地名なら、文章よりも追いやすかった。


「……ねえ、陸議さん」


「何です?」


陸議は書簡から顔を上げなかった。


「これ何?」


「どれです?」


「これ」


凌華が帳面を持ち上げる。


そこで戸口から、聞き慣れた低い声がした。


「またお前、陸議の仕事邪魔してんのか」


振り返ると、呂蒙が立っていた。


「邪魔してないよ」


「してるだろ」


「陸議さん」


「何です?」


「邪魔?」


「今のところは」


「ほら」


「今のところ、な」


呂蒙が笑いながら部屋へ入ってくる。


その手には別の書簡が数枚あった。陸議の机へ置くと、そのまま向かい側へ腰を下ろす。


「で、今度は何見つけたんだ」


「見つけたっていうか……」


凌華は帳面へ視線を戻した。


そこには兵へ支給された物資が記録されている。


衣類、履物、武具の補修に使う品。


以前なら、そんな帳面を見ても何も思わなかっただろう。


今は兵たちと接する機会が増えたせいか、文字の向こうに実際の顔が浮かぶ。


「これ、靴?」


「履物ですね」


陸議が答える。


「どのくらいで替えてるの?」


今度は陸議も顔を上げた。


「一律に決まっているわけではありません。傷みが酷ければ交換します」


「壊れたら?」


「簡単に言えばそうです」


凌華は少し考えた。


「呂蒙さん」


「あ?」


「兵士の人って、履物壊れたら替えるの?」


「そりゃ履けなくなりゃ替えるだろ」


「履けなくなる前は?」


「履けるなら履くだろ」


「戦の途中で壊れたら?」


「直せるなら直す。無理なら替える」


「予備は?」


呂蒙の眉間に皺が寄った。


「お前、さっきから何なんだ」


「いや……」


凌華は帳面を見ながら首を傾げた。


何かが引っかかる。


うまく説明できない。


「壊れるまで使うのって、もったいなくない?」


今度は呂蒙と陸議が同時に凌華を見た。


「逆だろ」


呂蒙が言う。


「使えるもん捨てる方がもったいねえ」


「捨てるんじゃなくて」


「じゃあ何だ」


「その前に直すとか」


「直せるもんなら直してるぞ」


「でも壊れてからでしょ?」


「……何が言いてえんだ」


凌華は少し考え、帳面を床へ置いた。


「例えばさ」


指を一本立てる。


「靴がちょっと傷んでる人が、そのまま戦に行くじゃん」


「ああ」


「途中で壊れる」


「ああ」


「歩きにくくなる」


「まあな」


「足痛めたら?」


「程度による」


「歩けなくなったら?」


呂蒙が腕を組んだ。


「誰かが手ぇ貸すことになるな」


「その人も動けなくなるじゃん」


呂蒙の表情が僅かに変わった。


凌華は続ける。


「一人の靴が壊れただけなのに、二人分動けなくなるかもしれないってことでしょ?」


「……そうなる場合はあるな」


「だったら、壊れるまで使うのが一番安いとは限らなくない?」


部屋が静かになった。


窓の外から、訓練中の兵たちの掛け声が微かに聞こえてくる。


陸議が筆を置いた。


「凌華」


「何?」


「もう少し詳しく話してください」


「え?」


「今の話です」


「いや、今ので全部だけど」


「全部?」


「うん」


陸議はしばらく凌華を見る。


凌華はその視線の意味が分からず、呂蒙を見る。


「……何?」


「いや」


呂蒙が顎を撫でる。


「言ってることは分かる」


「でしょ?」


「だがな、兵全員に傷む前から新しい履物を渡してたら、いくらあっても足りねえぞ」


「全員じゃなくていいじゃん」


「じゃあ誰だ」


「壊れやすい人」


呂蒙が止まった。


「……どういう意味だ?」


「だって、みんな同じだけ歩くわけじゃないでしょ?」


凌華は当然のように言った。


「山とか歩く人もいれば、あんまり移動しない人もいるだろうし。雨の日に動く人もいるだろうし。使い方違ったら、傷み方も違うんじゃない?」


今度は陸議が帳面へ視線を落とした。


「……確かに」


「でしょ?」


「部隊によって移動距離は異なります。任務によっても違う」


「だったら、いっぱい歩く人のを先に見るとか」


呂蒙が陸議を見る。


「陸議」


「はい」


「こいつ、たまに変なところ突くな」


「ええ」


凌華が二人を見比べた。


「褒めてる?」


「一応な」


「一応って何」


呂蒙は答えず立ち上がった。


「来い」


「え?」


「行くぞ」


「どこに?」


「訓練場」


「今?」


「実際に使ってる奴に聞きゃ早えだろ」


凌華の顔が明るくなる。


「行く」


「でしょうね」


陸議が立ち上がる。


凌華が振り返った。


「陸議さんも?」


「行きます」


「仕事は?」


「誰かが余計な仕事を増やしましたので」


「私?」


「他に誰が?」


「まだ何も増やしてないじゃん!」


そんな二人を置いて、呂蒙はすでに廊下へ出ていた。


「置いてくぞ」


「待って!」


凌華は慌ててその後を追った。


◇


訓練場には乾いた土の匂いが立ち、何組もの兵が武器を手に動いていた。


剣戟の音。


掛け声。


踏み込むたびに上がる砂埃。


呂蒙が姿を見せると、近くの兵たちの動きが引き締まった。


「何人か来い」


呼ばれた兵が集まってくる。


「履物見せろ」


「……は?」


兵たちが揃って呂蒙を見る。


凌華も横から言った。


「靴。見せて」


今度は兵たちの視線が凌華へ移る。


「凌華様?」


「うん」


「なぜ……?」


「いいから」


数人が困惑しながら足元を見せる。


凌華はその場へしゃがみ込んだ。


一足ずつ見ていく。


新しいもの。


補修の跡があるもの。


かなり擦り減っているもの。


その中で、一人の履物の端が僅かに捲れていることに気づいた。


「これ」


兵がびくりとする。


「まだ使えます!」


「使えるかじゃなくて」


凌華は顔を上げた。


「痛くない?」


「……」


「歩いてて」


兵はすぐには答えなかった。


呂蒙が腕を組んだまま見る。


陸議も何も言わない。


「……長く歩けば、少し」


ようやく兵が答えた。


「ほら」


凌華が呂蒙を見る。


呂蒙は笑わなかった。


兵の足元を見ている。


「いつからだ」


「五日ほど前からです」


「行軍の時は?」


「少し擦れます」


「血は?」


兵が一瞬黙った。


「……一度だけ」


呂蒙の顔から完全に笑みが消えた。


「なぜ言わなかった」


「この程度で新しい物をいただくわけには……」


「誰が新しいのよこせって話した?」


兵が顔を上げる。


「補修できるうちに言え」


「はっ」


呂蒙は隣の兵を見る。


「お前は?」


「問題ありません!」


凌華が足元を見る。


「それ、本当に?」


「はい!」


「じゃあ走っても痛くない?」


「……」


「痛いんじゃん」


「い、いえ」


「どっち?」


「少しだけ……」


凌華は立ち上がった。


「やっぱりみんな言わないんだ」


陸議が静かに尋ねる。


「なぜ申告しないのです?」


兵たちは顔を見合わせた。


やがて一人が答えた。


「物資にも限りがあります。履けぬわけでもないのに申し出るのは……」


贅沢だと思われる。


言葉の続きを聞かなくても分かった。


凌華は少し黙った。


先日の宴を思い出した。


指を切った兵もそうだった。


――自分のような者に。


凌華には、やはりその感覚がよく分からない。


「でもさ」


兵たちが凌華を見る。


「我慢して戦えなくなったら、そっちの方が困らない?」


誰も答えない。


凌華は呂蒙を見る。


「困るよね?」


「困る」


今度は即答だった。


呂蒙は兵たちへ向き直った。


「傷んだら言え。新しいの寄越せって話じゃねえ。直せるうちに直せってことだ」


「しかし――」


「戦場で歩けなくなってから言われる方が迷惑だ」


「……はっ」


「他にもいるなら後で出せ」


兵たちが頭を下げる。


凌華はその横で、小さく笑った。


「ほら」


「何がほらだ」


「呂蒙さんも同じこと言ってる」


「お前の言い方じゃ兵が納得しねえだろ」


「なんで」


「なんででもだ」


「同じことなのに」


「違う」


二人が言い合っている横で、陸議は集まった兵たちの履物を順番に見ていた。


傷み方が違う。


補修された回数も違う。


「呂蒙殿」


「あ?」


「いくつかの部隊で、試してみませんか」


呂蒙が陸議を見る。


「何をだ」


「一定の間隔で履物の状態を確認します。すべてを交換するのではなく、補修できる段階で手を入れる」


「手間は増えるぞ」


「まずは移動の多い部隊だけで構いません」


凌華が二人の間へ顔を出す。


「それでどっちが得か比べればいいじゃん」


陸議が頷いた。


「補修に必要な物資と、完全に使えなくなって交換する数。加えて、足を傷める者がどの程度変わるか」


凌華はぱっと笑った。


「それ!」


「あなたはそこまで考えていなかったでしょう」


「考えてたよ」


「本当ですか?」


「……半分くらい」


「半分かよ」


呂蒙が吹き出した。


◇


試みは、小さく始まった。


すべての兵へ一斉に何かを配るわけではない。


移動の多い一部の隊を選び、一定の間隔で履物を確認する。傷みが浅いうちに補修し、使えないものだけを交換する。


最初は兵たちも戸惑っていた。


まだ履ける。


これくらいなら平気だ。


そう言う者は多かった。


そのたびに呂蒙が、


「壊してから持ってくる方が面倒なんだよ」


と一喝した。


凌華はもっと単純だった。


「痛かったら言って」


「しかし――」


「痛い?」


「……少し」


「じゃあ言って」


それだけだった。


そのうち、兵たちの方から少しずつ声が上がるようになった。


履物だけではない。


「凌華様、この布なんですが」


「何?」


「濡れると重くなりまして」


「へえ」


「こちらの紐は解けやすく――」


「それ呂蒙さんに言った?」


「いえ」


「なんで?」


「その程度でお時間を取らせるわけには」


「じゃあ私が聞いとく」


そして持って帰る。


「呂蒙さん」


「今度は何だ」


「布」


翌日は。


「陸議さん」


「今度は何です?」


「紐」


さらに翌日は。


「呂蒙さん」


「まだあんのか!?」


「干し肉」


「履物どこ行った!?」


凌華は兵たちから聞いた話を持ってくる。


呂蒙が、それが戦場で本当に問題になるのかを判断する。


陸議が帳面を調べ、物資と手間を計算する。


すべてが採用されるわけではなかった。


「これは無理だ」


呂蒙に即座に却下されることもあれば、


「費用が増えすぎます」


と陸議に止められることもある。


凌華もそのたびに、


「じゃあ駄目か」


と案外あっさり引いた。


自分の考えを通したいわけではない。


困っているなら、少し変えられないか。


それだけだった。


そしてひと月ほど経った頃。


陸議は二つの帳面を並べていた。


凌華と呂蒙も机を挟んで座っている。


「結果が出ました」


凌華が身を乗り出した。


「どう?」


陸議は数字を指で追う。


「補修に使用した物資は増えています」


「え」


凌華の顔が曇る。


呂蒙が笑う。


「駄目じゃねえか」


「最後まで聞いてください」


陸議が続ける。


「完全に使えなくなり、交換した履物の数は減っています」


凌華の目が大きくなる。


「それって」


「補修にかかった分を含めても、以前より負担は少ない」


凌華が勢いよく呂蒙を見る。


「ほら!」


「うるせえ」


陸議はさらに別の記録を開いた。


「足の傷を理由に訓練や行軍から外れた兵も、試した隊では減っています」


「ほら!!」


「二回言うな」


「だって合ってた!」


「調子乗んな」


「今褒めるところでしょ!」


「誰が褒めるか」


「陸議さん」


「私に振らないでください」


そう言いながら。


陸議の口元にも、僅かな笑みがあった。


凌華はそれを見逃さなかった。


「陸議さんも笑ってるじゃん」


「笑っていません」


「笑ってる」


「結果を確認しているだけです」


「じゃあ成功?」


陸議は改めて帳面へ目を落とした。


「少なくとも、この方法を続ける価値はあると思います」


凌華は満足そうに頷いた。


「よし」


「何がよしだ」


呂蒙が言う。


「お前、最初に靴見てただけだろ」


「そこから始まったんだからいいじゃん」


「途中から俺と陸議の仕事になってただろうが」


「だから二人がすごいんじゃん」


あまりにも自然に言われて。


今度は呂蒙が黙った。


陸議も凌華を見る。


「何?」


「……いえ」


「またそれ」


凌華は笑った。


◇


変化を一番早く感じたのは、兵たちだった。


大きな改革ではない。


食事が急に豪華になったわけでもない。


全員へ新しい物が配られたわけでもない。


それでも。


以前なら我慢するしかなかった小さな不具合を、口にしてもよくなった。


そして口にしたものの一部が、本当に変わった。


訓練場を歩いていた凌華へ、一人の兵が駆け寄ってくる。


「凌華様!」


「ん?」


「ありがとうございました!」


突然頭を下げられ、凌華が後ろへ半歩退いた。


「何が?」


「履物の件です。自分たちの隊でも確認していただけることになりました」


「ああ」


「凌華様のおかげです!」


「いや、私じゃないよ」


即答だった。


兵が顔を上げる。


「え?」


「実際にどうするか考えたの陸議さんだし、現場のこと決めたの呂蒙さんだよ。私、靴見てただけ」


「ですが、最初に話を聞いてくださったのは凌華様です」


「……そうだっけ?」


「そうです」


凌華は少し考えた。


「じゃあ三人?」


兵が思わず笑う。


「はい」


「じゃあそれで」


あっさり話を終えて、凌華は歩いていった。


その背中を、兵はしばらく見送っていた。


少し離れた場所では、別の兵たちが話している。


「やっぱり凌華様だな」


「ああ」


「この前は迷って倉の裏にいたけどな」


「それとこれは別だろ」


「一人で戻れなくなってたぞ」


「それとこれとは別だ」


「二回言ったな」


笑い声が上がった。


兵たちの間で凌華の評判が、また一つ上がった。


本人の知らないところで。


◇


そして。


さらに数日後。


陸議の机の上へ、一通の書簡が置かれた。


置いたのは呂蒙だった。


「ほら」


陸議が顔を上げる。


「何ですか?」


「読め」


嫌な予感がした。


封を開き、目を通す。


陸議の表情は変わらない。


ただ。


読み終わるまで、いつもより少しだけ時間がかかった。


「……またですか」


「まただ」


呂蒙は壁へ背を預けた。


正式な申し入れではない。


だが内容は明白だった。


先日の席で凌華を見た家とは、また別の家。


孫策の娘としての立場。


戦場に立つ勇気。


孫権や重臣たちとの信頼関係。


兵にも驕らぬ人柄。


そして最近では、兵の物資について意見し、実際に改善へ繋がったという話まで耳にしたらしい。


陸議は静かに書簡を畳んだ。


「……話が早すぎませんか」


「兵の話なんざ広がるの早えぞ」


「そういう意味ではありません」


「分かってる」


呂蒙は笑いを堪えていた。


「孫策の娘で、戦えて、礼もできる」


陸議は何も言わない。


「兵にも慕われてる」


沈黙。


「今度は物資まで改善した」


「実際に改善したのは私たちです」


「本人も同じこと言ってたな」


陸議の眉が僅かに動く。


「凌華と話したのですか?」


「兵に礼言われてたぞ。『私じゃない、呂蒙さんと陸議さんがやった』ってな」


陸議は一瞬だけ黙った。


それから視線を書簡へ戻す。


呂蒙はその横顔を見る。


「まあ、自分で株上げてんだから仕方ねえな」


「本人には、そのつもりなどありません」


「だから余計なんだろ」


陸議は否定できなかった。


目立とうとしてやっているわけではない。


褒められようともしていない。


兵士の履物が傷んでいるのを見つけた。


不便そうだった。


だから聞いた。


それだけ。


それが凌華なのだと。


陸議は、ずっと前から知っている。


問題は。


他の者たちまで、それに気づき始めたことだった。


「で」


呂蒙が腕を組む。


「どうする?」


陸議はもう一度書簡を開いた。


先方の家。


立場。


意図。


まだ正式な話ではない。


それらを順に確認していく。


「まず、何も進めません」


「やっぱりな」


「凌華本人の意思が確認されていません」


「はいはい」


「呂蒙殿」


「何だよ」


「何か言いたそうですね」


「別に?」


「……」


陸議が疑わしげに見る。


呂蒙は口元だけで笑った。


何も言うつもりはない。


言わなくても分かる。


凌華が兵の暮らしを良くするたび。


人に慕われるたび。


外からの評価が上がるたび。


目の前の男が処理しなければならない話まで増えている。


本人は何も知らないまま。


その時、廊下から足音が近づいてきた。


「陸議さーん」


呂蒙が吹き出した。


陸議が目を閉じる。


「……何ですか」


「いや、来たなと思って」


戸口から凌華が顔を出した。


「呂蒙さんもいる」


「いるぞ」


「ちょうどよかった」


二人が同時に嫌な予感を覚える。


凌華は楽しそうに一枚の紙を掲げた。


「兵士の人から聞いたんだけどさ」


呂蒙が天井を仰ぐ。


「まだあんのかよ」


「今度は水入れるやつ」


「お前なあ!」


「だって使いにくいって!」


凌華はずかずかと部屋へ入ってくる。


そのまま陸議の机へ近づき――。


「あ、何見てたの?」


手を伸ばしかけた。


陸議は婚姻について書かれた書簡を、さりげなく別の書類の下へ滑らせた。


「政務です」


「ふーん」


凌華はまったく疑わない。


「じゃあこれ後で見て」


「……分かりました」


「呂蒙さんもね」


「俺もかよ」


「現場のこと分かるの呂蒙さんでしょ?」


「お前、そういう時だけ俺使うな」


「頼りにしてるんだよ」


「……ったく」


呂蒙は文句を言いながら、凌華から紙を受け取った。


陸議はそんな二人を見てから、机の上へ視線を落とした。


凌華が持ってきた、兵の水入れについての話。


その下には、今日届いた婚姻の打診。


陸議は静かに息を吐いた。


何も知らない凌華は呂蒙の隣で、


「だから、口のところが――」


と一生懸命説明している。


兵のためになることを思いつけば持ってくる。


自分の評判がどうなるかなど考えもしない。


その結果、また自分を望む家が増えていることにも気づかない。


呂蒙が陸議を見た。


目が合う。


その顔には、はっきり書いてあった。


――また増えるぞ。


陸議は無言で視線を逸らした。


「陸議さん、聞いてる?」


「聞いています」


「本当に?」


「水入れの口が使いにくいのでしょう」


「そう! それでね――」


凌華が再び話し始める。


その声を聞きながら、陸議は筆を取った。


兵たちからの信頼も。


臣下たちからの評価も。


外の家々から向けられる関心も。


おそらく、これからまだ増えていく。


その中心にいる本人だけが、何一つ狙っていない。


ただ自分にとっての当たり前を、この時代でも当たり前のように続けているだけだった。


そしてそれこそが。


この時代では、少しばかり――。


目立ちすぎるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。