番外編 普通じゃないの?
あの席から、しばらく経った頃だった。
凌華本人は知らない。
兵の怪我に気づけば、華やかな衣の裾が汚れることも構わず駆け寄り、一兵卒を相手に「偉いとか偉くないとか関係ないでしょ」と言ったことが、思っていた以上に人の記憶へ残っていたことを。
まして、それをきっかけに自分の婚姻を巡る話まで持ち上がり、陸議が本人の知らないところでその動きを止めていることなど、知るはずもなかった。
凌華にとっては、もう終わった出来事だった。
だからその日も、いつもと変わらず陸議の仕事部屋にいた。
別に用事があったわけではない。
最初は本当に、なかった。
窓から入る風が机の上の書簡を僅かに揺らし、そのたびに陸議が端へ置いた重しが小さく音を立てる。凌華はいつもの壁際ではなく、今日は机から少し離れたところに座り、積まれていた帳面を何となく眺めていた。
文字のすべてを淀みなく読めるようになったわけではない。
けれど、以前よりはずっと分かる。
特に数字と地名なら、文章よりも追いやすかった。
「……ねえ、陸議さん」
「何です?」
陸議は書簡から顔を上げなかった。
「これ何?」
「どれです?」
「これ」
凌華が帳面を持ち上げる。
そこで戸口から、聞き慣れた低い声がした。
「またお前、陸議の仕事邪魔してんのか」
振り返ると、呂蒙が立っていた。
「邪魔してないよ」
「してるだろ」
「陸議さん」
「何です?」
「邪魔?」
「今のところは」
「ほら」
「今のところ、な」
呂蒙が笑いながら部屋へ入ってくる。
その手には別の書簡が数枚あった。陸議の机へ置くと、そのまま向かい側へ腰を下ろす。
「で、今度は何見つけたんだ」
「見つけたっていうか……」
凌華は帳面へ視線を戻した。
そこには兵へ支給された物資が記録されている。
衣類、履物、武具の補修に使う品。
以前なら、そんな帳面を見ても何も思わなかっただろう。
今は兵たちと接する機会が増えたせいか、文字の向こうに実際の顔が浮かぶ。
「これ、靴?」
「履物ですね」
陸議が答える。
「どのくらいで替えてるの?」
今度は陸議も顔を上げた。
「一律に決まっているわけではありません。傷みが酷ければ交換します」
「壊れたら?」
「簡単に言えばそうです」
凌華は少し考えた。
「呂蒙さん」
「あ?」
「兵士の人って、履物壊れたら替えるの?」
「そりゃ履けなくなりゃ替えるだろ」
「履けなくなる前は?」
「履けるなら履くだろ」
「戦の途中で壊れたら?」
「直せるなら直す。無理なら替える」
「予備は?」
呂蒙の眉間に皺が寄った。
「お前、さっきから何なんだ」
「いや……」
凌華は帳面を見ながら首を傾げた。
何かが引っかかる。
うまく説明できない。
「壊れるまで使うのって、もったいなくない?」
今度は呂蒙と陸議が同時に凌華を見た。
「逆だろ」
呂蒙が言う。
「使えるもん捨てる方がもったいねえ」
「捨てるんじゃなくて」
「じゃあ何だ」
「その前に直すとか」
「直せるもんなら直してるぞ」
「でも壊れてからでしょ?」
「……何が言いてえんだ」
凌華は少し考え、帳面を床へ置いた。
「例えばさ」
指を一本立てる。
「靴がちょっと傷んでる人が、そのまま戦に行くじゃん」
「ああ」
「途中で壊れる」
「ああ」
「歩きにくくなる」
「まあな」
「足痛めたら?」
「程度による」
「歩けなくなったら?」
呂蒙が腕を組んだ。
「誰かが手ぇ貸すことになるな」
「その人も動けなくなるじゃん」
呂蒙の表情が僅かに変わった。
凌華は続ける。
「一人の靴が壊れただけなのに、二人分動けなくなるかもしれないってことでしょ?」
「……そうなる場合はあるな」
「だったら、壊れるまで使うのが一番安いとは限らなくない?」
部屋が静かになった。
窓の外から、訓練中の兵たちの掛け声が微かに聞こえてくる。
陸議が筆を置いた。
「凌華」
「何?」
「もう少し詳しく話してください」
「え?」
「今の話です」
「いや、今ので全部だけど」
「全部?」
「うん」
陸議はしばらく凌華を見る。
凌華はその視線の意味が分からず、呂蒙を見る。
「……何?」
「いや」
呂蒙が顎を撫でる。
「言ってることは分かる」
「でしょ?」
「だがな、兵全員に傷む前から新しい履物を渡してたら、いくらあっても足りねえぞ」
「全員じゃなくていいじゃん」
「じゃあ誰だ」
「壊れやすい人」
呂蒙が止まった。
「……どういう意味だ?」
「だって、みんな同じだけ歩くわけじゃないでしょ?」
凌華は当然のように言った。
「山とか歩く人もいれば、あんまり移動しない人もいるだろうし。雨の日に動く人もいるだろうし。使い方違ったら、傷み方も違うんじゃない?」
今度は陸議が帳面へ視線を落とした。
「……確かに」
「でしょ?」
「部隊によって移動距離は異なります。任務によっても違う」
「だったら、いっぱい歩く人のを先に見るとか」
呂蒙が陸議を見る。
「陸議」
「はい」
「こいつ、たまに変なところ突くな」
「ええ」
凌華が二人を見比べた。
「褒めてる?」
「一応な」
「一応って何」
呂蒙は答えず立ち上がった。
「来い」
「え?」
「行くぞ」
「どこに?」
「訓練場」
「今?」
「実際に使ってる奴に聞きゃ早えだろ」
凌華の顔が明るくなる。
「行く」
「でしょうね」
陸議が立ち上がる。
凌華が振り返った。
「陸議さんも?」
「行きます」
「仕事は?」
「誰かが余計な仕事を増やしましたので」
「私?」
「他に誰が?」
「まだ何も増やしてないじゃん!」
そんな二人を置いて、呂蒙はすでに廊下へ出ていた。
「置いてくぞ」
「待って!」
凌華は慌ててその後を追った。
◇
訓練場には乾いた土の匂いが立ち、何組もの兵が武器を手に動いていた。
剣戟の音。
掛け声。
踏み込むたびに上がる砂埃。
呂蒙が姿を見せると、近くの兵たちの動きが引き締まった。
「何人か来い」
呼ばれた兵が集まってくる。
「履物見せろ」
「……は?」
兵たちが揃って呂蒙を見る。
凌華も横から言った。
「靴。見せて」
今度は兵たちの視線が凌華へ移る。
「凌華様?」
「うん」
「なぜ……?」
「いいから」
数人が困惑しながら足元を見せる。
凌華はその場へしゃがみ込んだ。
一足ずつ見ていく。
新しいもの。
補修の跡があるもの。
かなり擦り減っているもの。
その中で、一人の履物の端が僅かに捲れていることに気づいた。
「これ」
兵がびくりとする。
「まだ使えます!」
「使えるかじゃなくて」
凌華は顔を上げた。
「痛くない?」
「……」
「歩いてて」
兵はすぐには答えなかった。
呂蒙が腕を組んだまま見る。
陸議も何も言わない。
「……長く歩けば、少し」
ようやく兵が答えた。
「ほら」
凌華が呂蒙を見る。
呂蒙は笑わなかった。
兵の足元を見ている。
「いつからだ」
「五日ほど前からです」
「行軍の時は?」
「少し擦れます」
「血は?」
兵が一瞬黙った。
「……一度だけ」
呂蒙の顔から完全に笑みが消えた。
「なぜ言わなかった」
「この程度で新しい物をいただくわけには……」
「誰が新しいのよこせって話した?」
兵が顔を上げる。
「補修できるうちに言え」
「はっ」
呂蒙は隣の兵を見る。
「お前は?」
「問題ありません!」
凌華が足元を見る。
「それ、本当に?」
「はい!」
「じゃあ走っても痛くない?」
「……」
「痛いんじゃん」
「い、いえ」
「どっち?」
「少しだけ……」
凌華は立ち上がった。
「やっぱりみんな言わないんだ」
陸議が静かに尋ねる。
「なぜ申告しないのです?」
兵たちは顔を見合わせた。
やがて一人が答えた。
「物資にも限りがあります。履けぬわけでもないのに申し出るのは……」
贅沢だと思われる。
言葉の続きを聞かなくても分かった。
凌華は少し黙った。
先日の宴を思い出した。
指を切った兵もそうだった。
――自分のような者に。
凌華には、やはりその感覚がよく分からない。
「でもさ」
兵たちが凌華を見る。
「我慢して戦えなくなったら、そっちの方が困らない?」
誰も答えない。
凌華は呂蒙を見る。
「困るよね?」
「困る」
今度は即答だった。
呂蒙は兵たちへ向き直った。
「傷んだら言え。新しいの寄越せって話じゃねえ。直せるうちに直せってことだ」
「しかし――」
「戦場で歩けなくなってから言われる方が迷惑だ」
「……はっ」
「他にもいるなら後で出せ」
兵たちが頭を下げる。
凌華はその横で、小さく笑った。
「ほら」
「何がほらだ」
「呂蒙さんも同じこと言ってる」
「お前の言い方じゃ兵が納得しねえだろ」
「なんで」
「なんででもだ」
「同じことなのに」
「違う」
二人が言い合っている横で、陸議は集まった兵たちの履物を順番に見ていた。
傷み方が違う。
補修された回数も違う。
「呂蒙殿」
「あ?」
「いくつかの部隊で、試してみませんか」
呂蒙が陸議を見る。
「何をだ」
「一定の間隔で履物の状態を確認します。すべてを交換するのではなく、補修できる段階で手を入れる」
「手間は増えるぞ」
「まずは移動の多い部隊だけで構いません」
凌華が二人の間へ顔を出す。
「それでどっちが得か比べればいいじゃん」
陸議が頷いた。
「補修に必要な物資と、完全に使えなくなって交換する数。加えて、足を傷める者がどの程度変わるか」
凌華はぱっと笑った。
「それ!」
「あなたはそこまで考えていなかったでしょう」
「考えてたよ」
「本当ですか?」
「……半分くらい」
「半分かよ」
呂蒙が吹き出した。
◇
試みは、小さく始まった。
すべての兵へ一斉に何かを配るわけではない。
移動の多い一部の隊を選び、一定の間隔で履物を確認する。傷みが浅いうちに補修し、使えないものだけを交換する。
最初は兵たちも戸惑っていた。
まだ履ける。
これくらいなら平気だ。
そう言う者は多かった。
そのたびに呂蒙が、
「壊してから持ってくる方が面倒なんだよ」
と一喝した。
凌華はもっと単純だった。
「痛かったら言って」
「しかし――」
「痛い?」
「……少し」
「じゃあ言って」
それだけだった。
そのうち、兵たちの方から少しずつ声が上がるようになった。
履物だけではない。
「凌華様、この布なんですが」
「何?」
「濡れると重くなりまして」
「へえ」
「こちらの紐は解けやすく――」
「それ呂蒙さんに言った?」
「いえ」
「なんで?」
「その程度でお時間を取らせるわけには」
「じゃあ私が聞いとく」
そして持って帰る。
「呂蒙さん」
「今度は何だ」
「布」
翌日は。
「陸議さん」
「今度は何です?」
「紐」
さらに翌日は。
「呂蒙さん」
「まだあんのか!?」
「干し肉」
「履物どこ行った!?」
凌華は兵たちから聞いた話を持ってくる。
呂蒙が、それが戦場で本当に問題になるのかを判断する。
陸議が帳面を調べ、物資と手間を計算する。
すべてが採用されるわけではなかった。
「これは無理だ」
呂蒙に即座に却下されることもあれば、
「費用が増えすぎます」
と陸議に止められることもある。
凌華もそのたびに、
「じゃあ駄目か」
と案外あっさり引いた。
自分の考えを通したいわけではない。
困っているなら、少し変えられないか。
それだけだった。
そしてひと月ほど経った頃。
陸議は二つの帳面を並べていた。
凌華と呂蒙も机を挟んで座っている。
「結果が出ました」
凌華が身を乗り出した。
「どう?」
陸議は数字を指で追う。
「補修に使用した物資は増えています」
「え」
凌華の顔が曇る。
呂蒙が笑う。
「駄目じゃねえか」
「最後まで聞いてください」
陸議が続ける。
「完全に使えなくなり、交換した履物の数は減っています」
凌華の目が大きくなる。
「それって」
「補修にかかった分を含めても、以前より負担は少ない」
凌華が勢いよく呂蒙を見る。
「ほら!」
「うるせえ」
陸議はさらに別の記録を開いた。
「足の傷を理由に訓練や行軍から外れた兵も、試した隊では減っています」
「ほら!!」
「二回言うな」
「だって合ってた!」
「調子乗んな」
「今褒めるところでしょ!」
「誰が褒めるか」
「陸議さん」
「私に振らないでください」
そう言いながら。
陸議の口元にも、僅かな笑みがあった。
凌華はそれを見逃さなかった。
「陸議さんも笑ってるじゃん」
「笑っていません」
「笑ってる」
「結果を確認しているだけです」
「じゃあ成功?」
陸議は改めて帳面へ目を落とした。
「少なくとも、この方法を続ける価値はあると思います」
凌華は満足そうに頷いた。
「よし」
「何がよしだ」
呂蒙が言う。
「お前、最初に靴見てただけだろ」
「そこから始まったんだからいいじゃん」
「途中から俺と陸議の仕事になってただろうが」
「だから二人がすごいんじゃん」
あまりにも自然に言われて。
今度は呂蒙が黙った。
陸議も凌華を見る。
「何?」
「……いえ」
「またそれ」
凌華は笑った。
◇
変化を一番早く感じたのは、兵たちだった。
大きな改革ではない。
食事が急に豪華になったわけでもない。
全員へ新しい物が配られたわけでもない。
それでも。
以前なら我慢するしかなかった小さな不具合を、口にしてもよくなった。
そして口にしたものの一部が、本当に変わった。
訓練場を歩いていた凌華へ、一人の兵が駆け寄ってくる。
「凌華様!」
「ん?」
「ありがとうございました!」
突然頭を下げられ、凌華が後ろへ半歩退いた。
「何が?」
「履物の件です。自分たちの隊でも確認していただけることになりました」
「ああ」
「凌華様のおかげです!」
「いや、私じゃないよ」
即答だった。
兵が顔を上げる。
「え?」
「実際にどうするか考えたの陸議さんだし、現場のこと決めたの呂蒙さんだよ。私、靴見てただけ」
「ですが、最初に話を聞いてくださったのは凌華様です」
「……そうだっけ?」
「そうです」
凌華は少し考えた。
「じゃあ三人?」
兵が思わず笑う。
「はい」
「じゃあそれで」
あっさり話を終えて、凌華は歩いていった。
その背中を、兵はしばらく見送っていた。
少し離れた場所では、別の兵たちが話している。
「やっぱり凌華様だな」
「ああ」
「この前は迷って倉の裏にいたけどな」
「それとこれは別だろ」
「一人で戻れなくなってたぞ」
「それとこれとは別だ」
「二回言ったな」
笑い声が上がった。
兵たちの間で凌華の評判が、また一つ上がった。
本人の知らないところで。
◇
そして。
さらに数日後。
陸議の机の上へ、一通の書簡が置かれた。
置いたのは呂蒙だった。
「ほら」
陸議が顔を上げる。
「何ですか?」
「読め」
嫌な予感がした。
封を開き、目を通す。
陸議の表情は変わらない。
ただ。
読み終わるまで、いつもより少しだけ時間がかかった。
「……またですか」
「まただ」
呂蒙は壁へ背を預けた。
正式な申し入れではない。
だが内容は明白だった。
先日の席で凌華を見た家とは、また別の家。
孫策の娘としての立場。
戦場に立つ勇気。
孫権や重臣たちとの信頼関係。
兵にも驕らぬ人柄。
そして最近では、兵の物資について意見し、実際に改善へ繋がったという話まで耳にしたらしい。
陸議は静かに書簡を畳んだ。
「……話が早すぎませんか」
「兵の話なんざ広がるの早えぞ」
「そういう意味ではありません」
「分かってる」
呂蒙は笑いを堪えていた。
「孫策の娘で、戦えて、礼もできる」
陸議は何も言わない。
「兵にも慕われてる」
沈黙。
「今度は物資まで改善した」
「実際に改善したのは私たちです」
「本人も同じこと言ってたな」
陸議の眉が僅かに動く。
「凌華と話したのですか?」
「兵に礼言われてたぞ。『私じゃない、呂蒙さんと陸議さんがやった』ってな」
陸議は一瞬だけ黙った。
それから視線を書簡へ戻す。
呂蒙はその横顔を見る。
「まあ、自分で株上げてんだから仕方ねえな」
「本人には、そのつもりなどありません」
「だから余計なんだろ」
陸議は否定できなかった。
目立とうとしてやっているわけではない。
褒められようともしていない。
兵士の履物が傷んでいるのを見つけた。
不便そうだった。
だから聞いた。
それだけ。
それが凌華なのだと。
陸議は、ずっと前から知っている。
問題は。
他の者たちまで、それに気づき始めたことだった。
「で」
呂蒙が腕を組む。
「どうする?」
陸議はもう一度書簡を開いた。
先方の家。
立場。
意図。
まだ正式な話ではない。
それらを順に確認していく。
「まず、何も進めません」
「やっぱりな」
「凌華本人の意思が確認されていません」
「はいはい」
「呂蒙殿」
「何だよ」
「何か言いたそうですね」
「別に?」
「……」
陸議が疑わしげに見る。
呂蒙は口元だけで笑った。
何も言うつもりはない。
言わなくても分かる。
凌華が兵の暮らしを良くするたび。
人に慕われるたび。
外からの評価が上がるたび。
目の前の男が処理しなければならない話まで増えている。
本人は何も知らないまま。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
「陸議さーん」
呂蒙が吹き出した。
陸議が目を閉じる。
「……何ですか」
「いや、来たなと思って」
戸口から凌華が顔を出した。
「呂蒙さんもいる」
「いるぞ」
「ちょうどよかった」
二人が同時に嫌な予感を覚える。
凌華は楽しそうに一枚の紙を掲げた。
「兵士の人から聞いたんだけどさ」
呂蒙が天井を仰ぐ。
「まだあんのかよ」
「今度は水入れるやつ」
「お前なあ!」
「だって使いにくいって!」
凌華はずかずかと部屋へ入ってくる。
そのまま陸議の机へ近づき――。
「あ、何見てたの?」
手を伸ばしかけた。
陸議は婚姻について書かれた書簡を、さりげなく別の書類の下へ滑らせた。
「政務です」
「ふーん」
凌華はまったく疑わない。
「じゃあこれ後で見て」
「……分かりました」
「呂蒙さんもね」
「俺もかよ」
「現場のこと分かるの呂蒙さんでしょ?」
「お前、そういう時だけ俺使うな」
「頼りにしてるんだよ」
「……ったく」
呂蒙は文句を言いながら、凌華から紙を受け取った。
陸議はそんな二人を見てから、机の上へ視線を落とした。
凌華が持ってきた、兵の水入れについての話。
その下には、今日届いた婚姻の打診。
陸議は静かに息を吐いた。
何も知らない凌華は呂蒙の隣で、
「だから、口のところが――」
と一生懸命説明している。
兵のためになることを思いつけば持ってくる。
自分の評判がどうなるかなど考えもしない。
その結果、また自分を望む家が増えていることにも気づかない。
呂蒙が陸議を見た。
目が合う。
その顔には、はっきり書いてあった。
――また増えるぞ。
陸議は無言で視線を逸らした。
「陸議さん、聞いてる?」
「聞いています」
「本当に?」
「水入れの口が使いにくいのでしょう」
「そう! それでね――」
凌華が再び話し始める。
その声を聞きながら、陸議は筆を取った。
兵たちからの信頼も。
臣下たちからの評価も。
外の家々から向けられる関心も。
おそらく、これからまだ増えていく。
その中心にいる本人だけが、何一つ狙っていない。
ただ自分にとっての当たり前を、この時代でも当たり前のように続けているだけだった。
そしてそれこそが。
この時代では、少しばかり――。
目立ちすぎるのだった。




