番外編 分け隔てなく【後編】
数日後。
陸議の前に置かれた書簡の山は、朝からほとんど高さを変えていなかった。
片づけても、次が来る。
戦の後始末に加え、各地との調整、兵糧や人員の確認、諸家から届く報告。ひとつひとつに目を通し、必要なものを分け、返答が要るものには印をつけていく。
窓から差し込んでいた朝の光が机の端を離れ、部屋の中央まで伸びてきた頃、廊下から足音が近づいた。
「陸議」
顔を上げると、呂蒙が戸口に立っていた。
「呂蒙殿。どうされました?」
「ちょっと来い。話がある」
「今ですか?」
「今だ」
妙に短い。
陸議は手にしていた筆を置いた。
◇
通された部屋には、すでに数人の臣下が集まっていた。
軍議というほど張り詰めた雰囲気ではない。
机の上に地図もなければ、兵の配置を示す札もない。代わりに置かれているのは数通の書簡と、いくつかの家名が記された紙だった。
陸議はそれを一目見て、僅かに眉を動かした。
「これは?」
「凌華様のことだ」
年長の臣下が答えた。
陸議の視線が止まる。
隣に座った呂蒙は何も言わない。
「先日の席で、凌華様を初めてご覧になった方も多かった」
「ああ。随分と評判がよかったらしい」
別の臣下が続けた。
「孫策様の御息女でありながら驕るところがなく、兵にも分け隔てなく接される。戦場にも立たれ、孫権様からの信も厚い」
「周瑜殿から礼も学ばれている。あの席での振る舞いを見れば、どの家へ入られても恥じることはないだろう」
そこまで聞いたところで、陸議には話の行き先が見えた。
視線を机へ落とす。
家名が並んでいる。
「……婚姻ですか」
「話が早いな」
年長の男が頷いた。
「まだ正式な申し入れではない。ただ、いくつかの家から探りが入っている」
陸議の表情は変わらなかった。
「そうですか」
隣で呂蒙が横目を向けた。
声も。
顔も。
いつもの陸議だった。
ただ、紙へ落ちた視線が、先ほどからまったく動いていない。
「いずれは考えねばならぬことだ」
臣下の一人が言う。
「凌華様は孫策様が娘として迎えられた方。今のままでも孫家における立場が揺らぐとは思わぬが、しかるべき家との縁を結べば、より確かなものになる」
「こちらにも利がある。相手方にも利がある」
「何より、凌華様ご自身の先々を考えても悪い話ではない」
誰も凌華を物のように扱っているわけではなかった。
それは陸議にも分かる。
孫策がいなくなった今だからこそ、彼女の立場を案じている者もいる。
孫家の中でこれからも安定して暮らしていけるように。
政治の争いに巻き込まれぬように。
強い後ろ盾となる家と結ぶ。
この時代では、それもまた一つの守り方だった。
だからこそ。
陸議は感情だけで否定することができなかった。
「候補としては――」
男の手が、一枚の紙へ伸びる。
「お待ちください」
静かな声だった。
その場の視線が陸議へ集まった。
「何だ?」
「凌華は、この話を知っているのですか?」
「いや。まだ何も決まっておらん」
「では、本人には何も?」
「当然だろう。話が固まってもいない段階で余計な心配をさせる必要はない」
それについては、陸議も異論はなかった。
まだ探り合いにすぎない話を凌華へ伝えれば、どうなるか。
――陸議さん! 私、結婚させられるかも!?
以前、尚香との会話だけで部屋へ飛び込んできた姿が鮮明に蘇る。
あの時ですら、あれだった。
今回のように実際にいくつかの家の名が出ていると知れば、間違いなく騒ぐ。
剣の孫策まで巻き込んで。
おそらく自分の部屋で。
陸議は一度目を伏せた。
「……まだ何も決まっていない話を、凌華へ伝える必要はないと思います」
「そうだろう」
「ですが」
陸議は顔を上げた。
「本人の知らないところで、候補まで決める必要もありません」
部屋の空気が僅かに変わった。
「候補を挙げることまで問題だと言うのか?」
「検討すること自体を否定しているのではありません」
陸議の声は穏やかだった。
「ただ、家同士にとってどれほど利のある縁組であろうと、婚姻するのは凌華です。我々ではありません」
呂蒙が黙って陸議を見る。
「しかし、こうした話は本人にすべてを任せて済むものでもない」
「承知しています」
「ならば――」
「だからこそ、順序の話をしています」
陸議は机の上に並ぶ家名へ視線を落とした。
「こちらで相手を絞り、話をある程度進めた後に凌華へ知らせれば、断ることそのものが難しくなります」
誰かが口を開きかけたが、陸議は静かに続けた。
「凌華自身が望む婚姻であるなら、私が反対する理由はありません」
一瞬。
呂蒙の眉が動いた。
陸議は気づいていない。
「ですが、凌華が何を望むのかも確かめず、家にとって都合のよい相手を先に決めることには賛成できません」
「凌華様のためでもある」
「ええ」
否定しない。
「皆様が凌華を案じておられることは分かっています」
だからこそ、陸議の声にも敵意はなかった。
「ですが、本人のためを思うことと、本人の意思を必要としないことは同じではありません」
静寂が落ちた。
呂蒙は腕を組んだまま、天井へ視線を向けた。
――随分と喋る。
普段の陸議なら、必要なことだけを言う。
筋道を立て、結論を示し、それ以上は口を挟まない。
今日は違う。
誰も凌華を粗末に扱おうとしているわけではない。それを理解した上で、ひとつひとつ逃げ道を塞ぐように反論している。
理由など、呂蒙には聞くまでもなかった。
だが口には出さない。
今それを言えば、目の前の男がどんな顔をするかくらい想像がつく。
「……では、陸議殿はどうすべきと?」
年長の臣下が尋ねた。
「急ぐ必要はないと思います」
「なぜだ」
「凌華の立場は、現時点で婚姻によって補強しなければならないほど不安定ではありません。孫策殿が娘として迎えた事実は広く知られていますし、孫権様もそれを認めておられます」
陸議は一つずつ言葉を置いていく。
「軍の中でも凌華を知らぬ者は少ない。今回の席で、外から来た方々にもその人柄が伝わったのでしょう」
「だからこそ、今のうちに良縁を――」
「急いで決めれば、それだけ相手の家の思惑も強くなります」
陸議は即座に返した。
「孫家との結びつきを求めて凌華を望む家であれば、なおさら慎重に見るべきです」
また一つ、言葉が止まる。
呂蒙が今度は俯いた。
笑いそうになったからだ。
――強えな。
理屈として間違っていない。
むしろ、かなり真っ当だ。
だから誰も簡単には崩せない。
「少なくとも」
陸議は最後に言った。
「今は、凌華本人に伝える段階でも、相手を決める段階でもないかと」
しばらくして。
年長の臣下が息を吐いた。
「……分かった。今日のところは、話を進めぬ」
「ありがとうございます」
陸議が頭を下げる。
話はそこで終わった。
ただし。
消えたわけではない。
◇
部屋を出ると、昼を過ぎた日差しが廊下へ差し込んでいた。
陸議は何事もなかったように歩き出す。
その後ろを呂蒙がついてくる。
しばらく、どちらも話さなかった。
「陸議」
「はい」
「随分と熱心だったな」
陸議の足が、ほんの僅かに遅くなる。
「何がです?」
「いや、別に」
「でしたら何ですか」
「お前、普段より口数多かったぞ」
「必要な反論をしただけです」
「へえ」
呂蒙が横から顔を覗き込む。
陸議は前だけを見ている。
「何ですか」
「何でもねえよ」
「先ほどからそればかりですね」
「気にすんな」
呂蒙は笑った。
聞く必要などない。
あれだけ丁寧に。
あれだけ冷静に。
凌華に不利な道だけを一つずつ潰していく。
しかも自分の名を候補へ挙げるわけでもない。
凌華が誰かを選ぶなら、それを認めると言い切った。
そこまで含めて、呂蒙には十分だった。
「……面倒くせえ奴」
「何か言いましたか?」
「何も」
「聞こえましたが」
「気のせいだ」
陸議が僅かに眉を寄せる。
その時。
廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。
「陸議さーん」
二人が同時に顔を上げる。
凌華がこちらへ歩いてくる。
先日の華やかな衣とは違う、普段の動きやすい格好だった。片手には何枚かの書簡を抱え、腰には短剣がある。
何も知らない顔で。
「お」
呂蒙が小さく言う。
陸議が横を見る。
「何です?」
「いや?」
また笑っている。
「じゃ、俺は行くわ」
「呂蒙殿」
「頑張れよ」
「何をですか」
返事はなかった。
呂蒙は片手を上げ、そのまま廊下の向こうへ消えていく。
入れ替わるように凌華がやってきた。
「陸議さん」
「凌華」
顔を合わせた瞬間。
つい先ほどまで婚姻について話していたせいだろう。
陸議は一瞬だけ、凌華の顔を見すぎた。
「……何?」
凌華が首を傾げる。
「いえ」
「最近それ多くない?」
「最近?」
「この前も『何でもありません』って言ってたじゃん」
「そうでしたか?」
「言ったよ」
凌華は怪しむように陸議を見上げた。
陸議は平静を装って視線を手元の書簡へ移す。
「それは?」
「あ、これ」
凌華はすぐに目的を思い出した。
「この前のやつ」
「この前?」
「ほら、席で分かんなかった字。陸議さんが後でって言ったやつ」
「ああ」
陸議はようやく思い出し、書簡を受け取った。
「これですか?」
「それ」
指先で示された文字を見る。
「これは――」
いつものように説明する。
凌華は隣から紙を覗き込み、何度か頷いた。
「なるほど」
「以前にも一度見ていますよ」
「嘘」
「本当です」
「いつ?」
「少し前に」
「覚えてない」
「でしょうね」
「何その言い方」
「事実です」
「周瑜さんみたいなこと言うようになってきたよ」
「それは心外です」
「周瑜さんに言お」
「やめてください」
凌華が笑う。
つい先ほどまでの部屋とは、あまりにも空気が違った。
陸議は書簡を返す。
「それだけですか?」
「うん。……あ、あと」
凌華が陸議の顔を見る。
「…忙しくない?」
陸議の指が止まった。
「そうですか?」
「忙しいよ。部屋行ってもいない時あるし」
「政務がありますので」
「そっか」
あっさり納得する。
まさか、その政務の中に自分の婚姻話が混ざっているなど考えてもいない。
「じゃあ邪魔しちゃ悪いね」
凌華が書簡を抱え直す。
「戻る」
「どこへ?」
「部屋」
一歩進んで。
止まった。
「……やっぱり陸議さんの部屋行っていい?」
「なぜです?」
「静かだから」
「自分の部屋へ戻るのでは?」
「戻る途中で人に会うと話しかけられる」
「私の部屋へ来ても私がいますが」
「陸議さんはいいの」
あまりにも普通に言う。
陸議が黙った。
凌華はその沈黙を別の意味に取ったらしい。
「邪魔?」
「……いえ」
「じゃあ行く」
先に歩き出してしまう。
陸議はその背中を見つめた。
――陸議さんはいいの。
どういう意味なのか。
以前、本人から聞いている。
静かだから。
気を遣わなくていいから。
何を言っても、いつものことのような顔をしているから。
凌華にとって、自分の部屋はただ休める場所なのだ。
分かっている。
分かっているのだが。
今日ばかりは、その無防備な言葉が少し重かった。
「陸議さん?」
先を歩いていた凌華が振り返る。
「行かないの?」
「……行きます」
陸議は歩き出した。
◇
部屋へ入ると、凌華は迷うことなくいつもの場所へ向かった。
壁際。
窓から少し離れた角。
そこへ腰を下ろし、膝を抱える。
陸議は机へ戻った。
朝から積まれていた書簡が、まだ残っている。
「やっぱここ落ち着く」
「そうですか」
「うん」
凌華は壁へ背を預けた。
長剣を隣へ置く。
『またここか』
「いいじゃん」
思わず返してから、凌華は陸議を見る。
もう隠す必要のない相手だ。
陸議は筆を取ったまま、ちらりと長剣へ視線を向ける。
「何か言っているのですか?」
「またここかって」
『だってまたここだろ』
「静かなんだもん」
『お前の部屋も静かだろ』
「行くまでが静かじゃないの」
『なるほどな』
剣の孫策が笑う。
陸議はそれを聞くことはできない。
けれど凌華の表情を見ていれば、何となく会話の流れは分かる。
「寝ないでくださいね」
「寝ないよ」
「先に言っておきます」
「今日は本当に寝ない」
「そうですか」
「信じてないでしょ」
「いえ」
「その顔、絶対信じてない」
陸議は答えず、書簡へ視線を戻した。
部屋に筆の走る音が響く。
外では風が木々を揺らし、時折、遠くから兵たちの声が聞こえてくる。
しばらくして。
その声が遠くなった頃。
陸議は筆を止めた。
静かすぎる。
顔を上げる。
壁際で、凌華が眠っていた。
膝を抱えていた腕は少し緩み、頭が壁へ傾いている。
「……やはり」
小さく息を吐く。
立ち上がり、部屋の隅へ置いてある掛け布を取った。
いつからか。
凌華がここで眠ることが増えてから、そこに置くようになったものだ。
本人は気づいていない。
陸議は眠る凌華の前へしゃがみ、肩へそっと掛け布をかけた。
凌華は起きない。
つい先ほど。
別の部屋では、いくつもの家名が並べられていた。
この家なら孫家にも利がある。
こちらなら凌華の立場も安定する。
相手の人柄も悪くない。
将来を考えれば良縁だろう。
そのどれもが、まったく間違っているとは言えない。
けれど。
――好きじゃなきゃ嫌。
以前、この部屋で聞いた言葉を思い出す。
――ちゃんと自分で好きになって、この人と一緒にいたいって思った人じゃないと嫌。
陸議は眠る凌華を見る。
彼女は何も知らない。
今日、自分の知らない場所で、自分の人生について話し合われていたことも。
陸議がその話を止めたことも。
知らなくていい。
少なくとも、今は。
まだ何も決まっていない。
不確かな話で怯えさせる必要はない。
けれど、いつか。
凌華自身が誰かを選ぶ時は来る。
今日、陸議自身が言った。
凌華自身が望む婚姻ならば、反対する理由はないと。
その言葉に嘘はなかった。
それが凌華自身の意思なら。
尊重しなければならない。
そう思っている。
思っているのに。
陸議の手が、掛け布の端を整えたところで止まった。
「……難しいものですね」
小さな声は、眠る凌華には届かなかった。
長剣から声がする。
『何がだ?』
当然、陸議には聞こえない。
凌華も眠っているため、答える者はいない。
剣の孫策だけが、しばらく二人を見ていた。
やがて陸議は立ち上がり、机へ戻る。
筆を取る。
その時。
「……陸議さん」
掠れた声がした。
振り返る。
凌華はまだ目を閉じている。
「はい」
返事をしてから、眠っていることに気づく。
寝言だったらしい。
陸議は少しだけ困ったように笑った。
「……ここにいますよ」
それにも返事はなかった。
陸議は再び書簡へ目を落とした。
◇
数日後。
婚姻の話は消えるどころか、少しずつ形を変えながら残っていた。
正式な申し入れには至らない。
陸議が止めた通り、候補を絞るところまでも進んでいない。
それでも。
「先日の件だが」
「またですか」
「そう嫌そうな顔をするな」
呂蒙が笑う。
「していません」
「してるぞ」
「していません」
二人が歩く廊下の先では、臣下たちが何かを話していた。
その中から凌華の名が聞こえる。
陸議の足が僅かに遅くなった。
「今度はどこの家だ?」
呂蒙が聞く。
「まだ決まった話ではありません」
「聞いただけだ」
「聞かなくてもよいでしょう」
「お前が詳しそうだからな」
陸議が呂蒙を見る。
呂蒙は平然としていた。
「何です?」
「いや」
また、それだ。
陸議は小さく息を吐く。
その時。
庭の方から笑い声がした。
凌華だった。
尚香と何か話しているらしい。
二人で笑いながら歩いている。
こちらには気づいていない。
呂蒙はその姿を見て。
次に陸議を見る。
陸議もまた、凌華を見ていた。
ほんの少しだけ。
普段より長く。
「……陸議」
「何ですか」
「いや、別に」
「呂蒙殿」
呂蒙は笑いながら歩き出した。
本人だけが知らない。
自分を見た者たちが、どれほど好意的にその人柄を語ったのか。
その好意が、いつの間にか婚姻という話へ変わっていたことも。
そして。
その話が自分へ届くより前に。
一人の男が、誰より静かに。
けれど誰より頑固に。
彼女が自分で選ぶための道を守っていたことも。
凌華は、まだ何も知らなかった。
ーー了




