番外編 分け隔てなく【前編】
孫家の屋敷が朝から慌ただしいのは、今に始まったことではない。
けれどその日は、いつもより廊下を行き交う人の数が多かった。各地から訪れた有力者や使者、その供をする者たちが次々と屋敷へ入り、庭先には普段見かけない馬が並んでいる。戦の後、改めて孫家との関係を確かめようとする者も多く、孫権のもとでは朝からいくつもの話し合いが続いていた。
凌華もまた、孫策の娘としてその席へ顔を出すことになっていた。
もっとも、こうした場は初めてではない。
孫策が生きていた頃から宴や人の集まる席には何度も出ているし、そのたびに周瑜から礼の取り方や言葉遣いを叩き込まれてきた。
最初の頃など、席へ出る前から何度も注意され、話しかけられるたびに周瑜の顔色を窺っていたものだ。
今は、そこまでではない。
「凌華様、できました」
背後から鈴の声がして、凌華は磨かれた銅板の中の自分を眺めた。
長い黒髪はいつもより丁寧にまとめられ、孫家の娘として人前へ出るのに相応しい飾りが添えられている。赤を基調にした衣も華やかではあるものの、戦装束とはまったく違う柔らかな形をしていた。
凌華は左右から自分の姿を確かめる。
「……やっぱり動きにくそう」
「本日は戦へ行かれるわけではありません」
「分かってるよ」
「では、そのような顔をなさらないでください」
「どんな顔?」
「今すぐ着替えたいという顔です」
「よく分かったね」
「長いお付き合いですから」
鈴は淡々と答えながら、凌華の肩の辺りをもう一度整えた。
傍らの長剣から笑い声がする。
『顔に出すぎなんだよ』
凌華は剣へ視線だけを向けた。
――うるさい。
声に出さなくても、孫策には十分伝わったらしい。
『はいはい』
楽しそうな声が返ってくる。
「凌華様?」
「何でもない」
鈴は不思議そうにしたものの、それ以上は聞かなかった。
身支度を終えた凌華は長剣を手に取り、立ち上がった。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。お気をつけて」
「転ばないから」
「そこまでは申し上げておりません」
「顔に書いてあった」
「凌華様ほどではございません」
言い返せず、凌華は口を尖らせたまま部屋を出た。
◇
広間へ続く廊下には、すでに何人もの人間が行き交っていた。
見慣れた顔もあれば、今日初めて見る者もいる。
以前なら、こういう日は少しだけ落ち着かなかった。
誰にどこまで頭を下げるのか。どう呼ぶのか。どの程度話してよいのか。
現代にいた頃には考えもしなかったことを一つずつ覚えさせられ、間違えるたびに周瑜から訂正された。
今でも面倒だとは思う。
けれど、もう分からないわけではない。
廊下の先から歩いてきた周瑜が凌華を見つけ、足を緩めた。
「凌華」
「周瑜さん」
凌華も立ち止まる。
周瑜の視線が、髪から衣へと一度動いた。
「今日は随分と大人しく整えられたな」
「鈴に捕まったから」
「だろうな」
「なんでみんな納得するの」
周瑜は答えず、そのまま歩き出した。
凌華も隣へ並ぶ。
「何か言わないの?」
「何をだ」
「今日は余計なことを言うな、とか。姿勢、とか。人の話をちゃんと聞け、とか」
「必要か?」
「……いや」
「ならば言わん」
凌華が少し意外そうに周瑜を見る。
周瑜は前を向いたままだった。
「礼の取り方くらいは、もう分かっているだろう」
「まあね」
「随分とかかったがな」
「そこ言わなくてよくない?」
「事実だ」
「最初はしょうがないじゃん。何にも分かんなかったんだから」
「だから教えた」
「厳しかったけどね、先生」
わざと最後だけそう呼ぶと、周瑜が横目で凌華を見る。
「今はその時間ではないぞ」
「分かってますよ、先生」
「凌華」
笑いを堪えながら歩いていると、少し先の曲がり角から別の人影が現れた。
凌華の表情が自然に変わった。
「陸議さん」
陸議も足を止める。
「凌華」
それだけなら、何でもない挨拶だった。
公の場へ向かう途中なのだから、二人とも長く話し込むつもりもない。
けれど陸議の視線が、凌華の髪から衣へと静かに下りる。
ほんの僅かな間だった。
「今日は随分と整えられましたね」
凌華の眉が寄る。
「陸議さんまでそれ言うの?」
「まで?」
「周瑜さんにも言われた」
「そうですか」
陸議の口元が僅かに緩んだ。
「鈴に捕まったんです」
「でしょうね」
「ほら! またそれ!」
「違うのですか?」
「違わないけど!」
凌華が不満そうに頬を膨らませる。
陸議はそれを見て、今度ははっきりと目元を和らげた。
ほんの短いやり取りだった。
触れもしない。
特別な言葉を交わしたわけでもない。
けれど、すぐそばにいた周瑜は何も言わず二人を見ていた。
さらに少し離れたところを歩いていた臣下の一人も、何気なくその光景へ目を向けていた。
孫策の娘と、若い陸議。
親しいとは聞いている。
実際、会話だけを聞けば、それだけだった。
ただ。
陸議が他の者と話す時より僅かに柔らかく見えたことも、凌華が彼を見つけた途端、先ほどまで周瑜へ向けていた悪戯っぽい顔とはまた違う、気の抜けた笑顔になったことも。
知らない者から見れば、ごく小さな違和感として残った。
「では、私は先に」
陸議が言う。
「うん。また後でね」
凌華は何の気なしに返した。
「はい」
陸議が歩き去る。
凌華もすぐに周瑜の隣へ戻った。
「行こ、周瑜さん」
「……ああ」
それだけで、凌華の意識はもうこれから始まる席へ向いていた。
◇
広間には、すでに多くの者が集まっていた。
凌華が姿を見せても、孫家の者たちは特別驚かない。
彼女がこうした場に出るのは初めてではないからだ。
一方、今日初めて凌華を見る者たちは、少なからず視線を向けていた。
孫策が娘として迎えた女性。
戦場にも立つという。
兵たちの間でもよく名を聞く。
噂だけなら、もっと荒々しい人物を想像していた者もいる。
しかし席についた凌華は静かだった。
話を聞く時は聞き、求められればきちんと礼を取る。年長者から声をかけられれば相応の言葉で応じ、必要以上に出しゃばることもない。
周瑜も、そんな凌華を逐一目で追ってはいなかった。
自分の話すべき相手と話し、必要なところで孫権の言葉を補う。
以前なら、凌華が誰かに話しかけられるたびに視界の端で確認していた時期もあった。
今はもう、その必要はない。
「凌華様は、赤壁でも兵とともに戦われたと伺いました」
年嵩の男から声をかけられ、凌華はそちらを向いた。
「はい」
「孫策様の御息女自ら前へ出られるとは、随分と勇ましい」
「私一人で戦っていたわけではありませんから」
凌華は少し考えてから続ける。
「むしろ、周りの人に助けてもらうことの方が多かったです」
「ご謙遜を」
「いえ、本当に――」
そこまで言って。
凌華は一瞬止まった。
説明し始めると長くなる。
昔なら、そのまま全部話していたかもしれない。
「……皆さんがいてくれたからです」
短くまとめる。
男が感心したように頷いた。
少し離れた場所で周瑜がその会話を耳にしていたが、何も言わない。
凌華はそのことにも気づかなかった。
やがて話は別の者へ移り、凌華は小さく息を吐いた。
視線を落とすと、近くに置かれていた書簡の中に、見慣れない文字が一つある。
眉が僅かに寄った。
――何だっけ、これ。
反射的に周瑜を探しかけて、やめる。
その時。
ふと視線を感じた。
少し離れた席にいる陸議と目が合った。
凌華は一瞬迷ってから、紙へ目を落とす。
それからもう一度、陸議を見る。
陸議の視線も紙へ落ちた。
何を聞きたいのか察したらしい。
けれど今は席の最中だ。
陸議はほんの僅かに首を振り、声には出さず唇だけを動かした。
――後で。
凌華も小さく頷く。
それだけ。
すぐに二人とも前へ視線を戻した。
ほとんど誰にも気づかれないほど短いやり取りだった。
ただ。
少し離れた場所にいた呂蒙だけが、それを見ていた。
何も言わず、酒の入った器を口元へ運ぶ。
口元だけが、少し笑っていた。
◇
席が進むにつれ、張り詰めていた空気も次第に緩んでいった。
軽い食事や飲み物が運ばれ、場所を移して話をする者も増えていく。
凌華もようやく肩から力を抜いた。
孫権の近くを通りかかったところで、小声で話しかける。
「孫権」
「何だ」
「疲れた」
「まだ終わっていない」
「分かってるよ」
「なら顔に出すな」
「孫権も出てるよ」
「出ていない」
「出てるって」
近くにいた臣下が、僅かに目を見開いた。
凌華は気づかない。
孫権も、いちいち咎める様子はなかった。
「少しは黙っていろ」
「はいはい」
「返事が軽い」
「じゃあ、はい」
「変わっていない」
凌華が小さく笑う。
孫権も呆れたように息を吐いた。
その様子を見ていた者たちには、また一つ、凌華についての印象が加わった。
孫策の娘というだけではない。
今の孫家を率いる孫権とも、随分と近い。
そんな時だった。
広間の端で、陶器の割れる乾いた音が響いた。
話し声が途切れる。
飲み物を運んでいた若い兵が器を落としたらしい。
「申し訳ございません!」
顔色を変え、すぐに膝をつく。
床に散らばった破片を慌てて拾おうとして――。
「……あ」
凌華の目が止まった。
兵の指先に赤いものが滲んでいた。
凌華はすぐに立ち上がった。
「凌華」
周瑜の声が飛ぶ。
強い声ではない。
けれど、僅かに低く、嗜める響きがあった。
凌華にも聞こえていた。
それでも足は止まらなかった。
振り返ることもなく、そのまま兵のもとへ向かう。
周瑜はそれ以上呼ばなかった。
ただ、その背中を見送る。
凌華は華やかな衣の裾も気にせず、その場へしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
兵が顔を上げた。
「り、凌華様……!?」
「手、見せて」
「いえ、この程度――」
「切ってるじゃん」
凌華は兵の手元を見る。
指先から血が流れている。
深い傷ではなさそうだが、放っておけるほどでもない。
「布……」
凌華が周囲を見回す。
すぐ近くに孫権がいた。
「孫権、布ない?」
その場にいた何人かが、また凌華を見る。
孫権は慣れた様子で脇を指した。
「そこだ」
「これ?」
「それだ」
「ありがとう」
凌華は布を取ると、兵へ差し出した。
「ここ押さえて」
「しかし……」
「ほら」
兵は戸惑いながら受け取った。
「申し訳ございません。このようなことで凌華様のお手を……」
「いいから。痛くない?」
「大丈夫でございます」
「本当に?」
「はい」
ようやく凌華が少し安心した顔をする。
ところが兵は、まだひどく恐縮していた。
「自分のような者に、このようなことまでしていただくなど……」
凌華の眉が寄った。
「自分のような者って?」
「自分は、ただの一兵卒にございます」
凌華は一度瞬きをした。
何を言われているのか理解するまでに、ほんの少し間があった。
「……でも怪我してるでしょ?」
「はい」
「じゃあ関係なくない?」
兵が言葉を失う。
凌華は本当に不思議そうだった。
「偉いとか偉くないとかで、血が止まるわけじゃないし」
周囲が静かになる。
凌華だけが、その変化に気づいていなかった。
「破片はもう触らないでね。誰かに箒みたいなの……」
そこまで言って、この時代に何と言えばいいのか一瞬迷う。
近くにいた者が察して、片付けを引き受けた。
「ありがとうございます」
凌華は普通に礼を言った。
そして立ち上がる。
衣の裾には少し埃がついていた。
それを軽く払っていると、視線を感じた。
陸議だった。
目が合う。
凌華は首を傾げた。
「……何?」
近くまで来ていた陸議は、少しだけ間を置いた。
「いえ」
「何、その顔」
「何もありません」
「絶対なんかある」
「ありませんよ」
そう答えながら。
陸議の目元は、僅かに柔らかかった。
凌華には理由が分からない。
けれど陸議には、今の一連の行動があまりにも凌華らしく見えていた。
公の場であることも。
自分がどういう立場にいるかも。
もう知らないわけではない。
それでも、怪我をした人間を見つければそちらへ行く。
相手が誰かなど、その後にしか考えない。
「変なの」
凌華はそう呟くと、何事もなかったように席へ戻っていった。
陸議はその背中を見送った。
そして。
その様子を見ていた者が、彼以外にもいた。
◇
「……随分と変わった方ですな」
席の端で、年嵩の男が小さく呟いた。
隣の者が頷く。
「噂では、もっと奔放な方と聞いておりましたが」
「礼節も心得ておられる」
「周瑜殿が長く教えておられるそうです」
「なるほど」
男は凌華を見る。
先ほどまでの席では、孫家の娘としてきちんと振る舞っていた。
話を振られれば応じる。
出しゃばりもしない。
それなのに。
一兵卒が怪我をした途端、自ら席を立った。
「兵にも、あのように接するのか」
「軍の中で慕われているとは聞いておりましたが」
「理由が分かった気がするな」
その言葉は、凌華の耳には届かない。
別の場所でも。
似たような会話が始まっていた。
「孫権様とも随分と親しい」
「陸議殿とも以前から近しいと聞く」
「呂蒙殿や周瑜殿とも気安く話されるとか」
「孫策様が娘として迎えられた方だ。当然ではあるが……」
そのうち、一人が何気なく尋ねた。
「ところで」
声が少しだけ落ちる。
「凌華様には、すでに決まったお相手がおられるのか?」
「いや。聞いたことはないな」
「そうか」
それだけだった。
この時はまだ。
ただの会話だった。
◇
席が終わる頃には、外は夕暮れに染まっていた。
人が少なくなった広間を出た凌華は、廊下へ出るなり大きく息を吐いた。
「終わったあ……」
「凌華」
背後から呼ばれる。
凌華は足を止めた。
振り返ると、周瑜がこちらへ歩いてくる。
「周瑜さん」
「先ほどのことだが」
「あ」
何を言われるのか、すぐに分かった。
「兵士のところ行ったこと?」
「そうだ」
凌華は少しだけ身構えた。
「呼ばれたのは聞こえてたよ」
「だろうな」
「でも血出てたから」
「それも見ていた」
周瑜は怒ってはいなかった。
ただ静かに凌華を見る。
「お前が礼を知らずに動いたとは思っていない」
凌華が瞬きをする。
「じゃあ、怒ってない?」
「怪我人を気遣ったことを叱るつもりはない」
「よかった」
凌華の肩から力が抜ける。
「ただし」
「やっぱりある」
「最後まで聞け」
「はい」
周瑜は廊下の向こうへ一度目を向けた。
先ほどまで同じ席にいた者たちが、まだ何人か庭先で話をしている。
「お前は以前より、この時代の礼を覚えた」
「周瑜さんが散々やったからね」
「散々やらせたのは誰だ」
「私です」
素直に認めると、周瑜が小さく息を吐いた。
「だが、礼を覚えることと、お前の考え方そのものがこちらのものになることは別だ」
「……うん」
「それで構わん」
凌華が顔を上げた。
周瑜は続ける。
「ただ、自分の行動が以前より多くの者に見られていることは覚えておけ」
「今日のも?」
「当然だ」
「怪我した人助けただけなのに」
「お前にとってはな」
凌華は少し考えた。
「……悪かった?」
「いや」
周瑜は首を振った。
「少なくとも、悪く受け取った者はほとんどいないだろう」
「じゃあいいじゃん」
すぐに凌華が笑う。
「単純だな、お前は」
「良く受け取られたなら問題ないでしょ?」
「良く受け取られることが、必ずしも面倒を招かないとは限らん」
「?」
凌華が首を傾げた。
周瑜自身、この時点では具体的に何かを予想していたわけではない。
ただ。
人を見る目には長けている。
先ほどの席で。
凌華へ向けられる視線が、途中から少し変わったことには気づいていた。
「まあ、いい」
周瑜が歩き出す。
凌華も隣へ並んだ。
数歩進んだところで、周瑜が何気なく言う。
「それと」
「まだあるの?」
「孫権を公の場で当然のように呼び捨てにするのは、少し考えろ」
凌華が止まった。
「え」
「何だ」
「そこ?」
「そこもだ」
「だって孫権は孫権じゃん」
「そういう話ではない」
「じゃあ……孫権様?」
口にしてみる。
凌華の顔が何とも言えないものになった。
「…………」
「何だ」
「無理」
「凌華」
「変だって! 孫権様って誰!?」
「孫権だ!」
「分かってるけど!」
廊下に二人の声が響く。
少し先にいた呂蒙が振り返り、何をやっているのかと笑った。
その日の凌華にとっては。
結局、それが一番大きな問題だった。
自分の振る舞いを見た者たちが何を考えていたのか。
どんな話が、これから孫家の内側で始まろうとしているのか。
知る由もない。
数日後。
ある臣下同士の会話の中で、再び凌華の名が出た。
「先日の凌華様だが」
「ああ」
「まだ縁談はないそうだな」
「そのようだ」
「ならば――」
そこで初めて。
ただの好意的な評判だったものに。
家と家とを結ぶための、別の意味が加わった。
そしてその話は。
少しずつ、孫家の臣下たちの間へ広がっていく。
まだ凌華は知らない。
そして。
陸議の耳にも――まだ届いていなかった。
ーー後編へ続く




