番外編 偉くなっても、孫権は孫権
孫策がいなくなってから、孫権の周囲には人が増えた。
以前から孫家の中で重きを置かれる存在ではあったが、今は意味が違う。朝から各地の報告が運び込まれ、軍の配置や兵糧のこと、土地を治める者たちからの申し出まで、大小さまざまな判断が孫権のもとへ集まってくる。
廊下を歩けば臣下が道を空け、部屋へ入れば皆が一斉に頭を下げる。
孫権自身も、それに応えるように変わっていた。
背筋を伸ばし、以前よりも言葉を慎重に選び、迷いがあっても簡単には表情に出さない。
兄が残したものを背負う。
その覚悟を、周囲の誰もが感じ取っていた。
――ただ一人を除いて。
「孫権ー!」
静かな屋敷の廊下に、よく通る女の声が響いた。
書簡を抱えて歩いていた臣下が、ぎょっとして振り返る。
別の者も足を止めた。
声の主は遠慮なく廊下を駆けてくる。長い黒髪を揺らし、片手には何やら紙を持っていた。
部屋の中にいた孫権は、閉じた戸の向こうから聞こえた声だけで眉間を押さえた。
「……またか」
向かいに座っていた臣下が困惑する。
「何が、でございますか?」
「いや」
孫権が答えるより早く、戸が開いた。
「孫権、これ分かんない」
「まず入っていいかと聞け」
「入っていい?」
「入ってから聞くな」
凌華は一度、開け放った戸を見た。
それから孫権を見る。
「……出直す?」
「もういい」
「じゃあ入る」
「だからもう入っているだろう」
臣下は目を瞬かせていた。
孫策の養女、凌華。
その名を知らない者は、もはや孫家の内では少ない。
戦場にも立つ孫家の姫君。
亡き孫策が娘として迎えた女性。
その凌華が、今や孫家を率いる孫権の部屋へ何の前触れもなく入り、「これ分かんない」と紙を差し出している。
臣下が固まっていることなど気にも留めず、凌華は孫権の机まで歩いてきた。
「これ」
「何だ」
「読めない」
「……それだけか?」
「うん」
孫権は差し出された紙を見る。
「陸議に聞け」
「陸議さん忙しかった」
「周瑜殿は」
「周瑜さんに持っていったら、絶対この前の続きやらされる」
「やれ」
「嫌」
即答だった。
孫権は額を押さえた。
「では呂蒙に聞け」
「呂蒙さんに文字聞いても『知らん』って言われそう」
「……否定できんな」
「でしょ?」
なぜそこで意気投合したような顔をする。
孫権は凌華から紙を受け取った。
その瞬間、視界の端にまだ臣下がいることを思い出した。
見ると、相手は明らかに居場所を失っていた。
「……今日はここまででよい。続きは後で聞く」
「は」
臣下は立ち上がると、孫権へ深々と頭を下げた。
そして凌華にも礼をしてから部屋を出ていく。
戸が閉じる直前。
もう一度だけ振り返った。
凌華は気づかなかった。
「これ、何て読むの?」
「少し待て」
「一文字だけ」
「分かっている」
「読んでくれるだけでいいから」
「今見ている!」
廊下へ出た臣下は、閉じた戸をしばらく見つめていた。
中から聞こえてくる会話は、とても先ほどまで政務を行っていた部屋のものとは思えなかった。
◇
「……凌華」
「ん?」
「少しは立場を考えろ」
「立場?」
孫権から読み方を教えてもらった凌華は、紙へ書き込みながら首を傾げた。
「私の?」
「そうだ」
「孫策の娘?」
「それもあるが」
孫権は言いかけて、やめた。
問題はそこではない。
「私のところへ来る時の話だ」
「何か変だった?」
「全部だ」
凌華が顔を上げる。
本気で分かっていない顔だった。
「以前とは違う」
「何が?」
「……周囲がだ」
孫権は窓の外へ視線を向けた。
庭の向こうを、数人の兵が歩いている。その姿勢は以前よりどこか張り詰めているようにも見えた。
兄がいた頃とは違う。
自分が決めなければならない。
自分が迷えば、下の者まで迷う。
自分が弱みを見せれば、それを不安に思う者もいる。
だから。
孫権は孫策ではない。
それでも孫策が背負っていたものを、今は自分が背負わなければならなかった。
「今は、私にもそれなりの立場がある」
「うん」
「分かっているのか?」
「分かってるよ」
あまりにあっさり返され、孫権が凌華を見る。
凌華は紙を畳んでいた。
「孫策がやってた仕事、今は孫権がやってるんでしょ?」
その言葉に、孫権の表情が僅かに止まった。
「……簡単に言うな」
「簡単だとは思ってないよ」
凌華は顔を上げた。
いつもの調子のまま。
けれど、その目だけは真っ直ぐ孫権を見ていた。
「大変だと思ってる」
「なら――」
「でも孫権は孫権じゃん」
言葉が途切れた。
「…………」
「何?」
「いや」
「なんでそこで黙るの?」
「お前は……」
孫権は何か言いかけたものの、結局それを飲み込んだ。
凌華は分からないまま首を傾げている。
本当に。
この女は何も変わらない。
周囲の者は変わった。
話しかける前に一度姿勢を正すようになった。
以前なら直接言っていたことを、言葉を選んで伝えるようになった者もいる。
兄の弟だった孫権ではなく。
孫家を率いる者として。
皆が自分を見るようになった。
それが悪いとは思わない。
当然なのだ。
そうでなければならない。
なのに。
「孫権」
凌華が手を伸ばし、机の上に積まれた書簡を一枚持ち上げる。
「おい、勝手に触るな」
「これ今日全部読むの?」
「戻せ」
「これも?」
「戻せと言っている」
「こっちも?」
「凌華!」
「いっぱいあるねえ」
「人の話を聞け!」
慌てて紙を取り返す。
凌華は怒られているのに、どこか楽しそうだった。
「大変そう」
「誰のせいで仕事が止まっていると思っている」
「私?」
「お前だ!」
「じゃあ帰ろっかな」
「最初からそうしろ」
「冷たい」
「仕事中だ!」
凌華は笑いながら立ち上がった。
長剣を持ち直し、戸の方へ向かう。
そこで一度足を止めた。
「あ、そうだ」
「今度は何だ」
「ご飯食べた?」
孫権は瞬きをした。
「……何?」
「お昼」
「なぜ急にその話になる」
「鈴が、孫権ずっと部屋にいるって言ってたから」
「食べた」
「何食べた?」
「…………」
凌華の目が細くなる。
「食べてないじゃん」
「後で食べる」
「ダメだよ」
「お前に言われる筋合いはない」
「あるよ」
「何がある」
「孫策いないから」
孫権の動きが止まった。
凌華も、言ってから少しだけ黙った。
部屋の空気が変わる。
先ほどまで響いていた二人の声が消え、窓から入る風が紙の端を僅かに揺らした。
凌華は一度視線を落とした。
「……孫策いたら、絶対言うでしょ」
孫権は答えなかった。
言う。
間違いなく言う。
それどころか、仕事中だろうが何だろうが部屋へ押しかけ、無理やり連れ出しかねない。
兄ならそうする。
「だから」
凌華は少しだけ笑った。
「私が言っとく」
「なぜお前が」
「なんとなく」
「なんとなくで兄の代わりをするな」
「代わりじゃないよ」
即座に返ってきた。
孫権が凌華を見る。
「孫策の代わりなんてできないし」
凌華は長剣の柄へ触れた。
そこにいるもう一人の孫策のことではない。
二人とも分かっていた。
「私が気になったから言ってるだけ」
それだけ言うと、凌華はいつもの顔へ戻った。
「ご飯食べて」
「分かった」
「ちゃんと?」
「分かったと言っている」
「じゃあ食べたら教えて」
「なぜ報告しなければならない」
「嘘つきそうだから」
「凌華」
「じゃ、お仕事頑張ってー」
言いたいことだけ言い残し、凌華は戸を開けた。
「廊下を走るなよ!」
「走らないよ!」
そう答えた直後。
廊下から駆けていく足音が響いた。
孫権は目を閉じる。
「……走っているではないか」
静けさが戻った。
先ほどまで凌華が立っていた場所には、当然もう誰もいない。
机の上には書簡が積まれたまま。
やるべきことも何一つ減っていない。
それでも。
孫権はしばらく筆を取らなかった。
――でも孫権は孫権じゃん。
何でもないことのように言った。
たぶん凌華にとっては、本当に何でもないのだろう。
孫策がいなくなった。
自分の立場が変わった。
周囲から向けられる視線も、求められるものも変わった。
けれど凌華にとっては。
自分は昨日までと同じ孫権なのだ。
それが。
少しだけ。
ありがたかった。
◇
数日後。
凌華はまた何の前触れもなく現れた。
今度は孫権が数人の臣下と話をしている最中だった。
戸の外で足音が止まる。
そして。
「孫権ー」
室内の臣下たちの肩が揃って僅かに強張った。
孫権は眉間を押さえる。
「……入れ」
戸が開いた。
凌華が顔だけを覗かせる。
「あ、今日人いる」
「見れば分かるだろう」
「じゃあ後にする」
珍しく空気を読んだ。
戸が閉まりかける。
そこで孫権は気づいた。
凌華の手に紙がある。
「待て」
戸が止まる。
「何だ、それは」
「これ?」
凌華が紙を持ち上げる。
「分かんない字」
孫権は目を閉じた。
「……陸議は」
「いなかった」
「周瑜殿」
「聞いたら絶対勉強始まる」
「だから勉強しろ」
「じゃあ後で来るね」
「待て!」
臣下たちが驚いて孫権を見る。
孫権自身も、一瞬だけ黙った。
なぜ呼び止めた。
だが凌華はそんなことなど考えもしない。
「何?」
「……置いていけ」
「読んでくれるの?」
「後でだ」
凌華の顔が明るくなる。
「ありがとう!」
紙を机へ置き、今度こそ出ていく。
「仕事頑張ってね」
「廊下を走るな」
「分かってるって!」
戸が閉まる。
三秒ほどして。
たたたたた、と遠ざかっていく足音が聞こえた。
孫権の眉間に皺が寄る。
臣下の一人が、思わず口を開いた。
「……随分と、その……」
「何だ」
「いえ」
慌てて頭を下げる。
「何でもございません」
孫権は小さく息を吐き、凌華が置いていった紙を机の端へ寄せた。
「続けろ」
「は」
話し合いが再開される。
孫権の声も表情も、すぐに先ほどまでのものへ戻った。
冷静に報告を聞き、必要なところで問いを挟み、判断を下していく。
けれど。
机の端には一枚だけ。
政務とは何の関係もない紙が置かれていた。
臣下の一人が、それをちらりと見る。
そして少しだけ理解した。
誰もが孫権を見る目を変えていく中で。
あの女性だけは。
たぶん、何も変えなかったのだ。
孫策の弟だった頃も。
その後を継いだ今も。
凌華にとって孫権は――ただの孫権だった。
そして孫権もまた。
そんな凌華を追い返すようなことを言いながら。
結局は毎回、分からない文字を教えてやるのだった。




