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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
第三章 赤壁編 ~抗えない運命~
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番外編 偉くなっても、孫権は孫権


孫策がいなくなってから、孫権の周囲には人が増えた。


以前から孫家の中で重きを置かれる存在ではあったが、今は意味が違う。朝から各地の報告が運び込まれ、軍の配置や兵糧のこと、土地を治める者たちからの申し出まで、大小さまざまな判断が孫権のもとへ集まってくる。


廊下を歩けば臣下が道を空け、部屋へ入れば皆が一斉に頭を下げる。


孫権自身も、それに応えるように変わっていた。


背筋を伸ばし、以前よりも言葉を慎重に選び、迷いがあっても簡単には表情に出さない。


兄が残したものを背負う。


その覚悟を、周囲の誰もが感じ取っていた。


――ただ一人を除いて。


「孫権ー!」


静かな屋敷の廊下に、よく通る女の声が響いた。


書簡を抱えて歩いていた臣下が、ぎょっとして振り返る。


別の者も足を止めた。


声の主は遠慮なく廊下を駆けてくる。長い黒髪を揺らし、片手には何やら紙を持っていた。


部屋の中にいた孫権は、閉じた戸の向こうから聞こえた声だけで眉間を押さえた。


「……またか」


向かいに座っていた臣下が困惑する。


「何が、でございますか?」


「いや」


孫権が答えるより早く、戸が開いた。


「孫権、これ分かんない」


「まず入っていいかと聞け」


「入っていい?」


「入ってから聞くな」


凌華は一度、開け放った戸を見た。


それから孫権を見る。


「……出直す?」


「もういい」


「じゃあ入る」


「だからもう入っているだろう」


臣下は目を瞬かせていた。


孫策の養女、凌華。


その名を知らない者は、もはや孫家の内では少ない。


戦場にも立つ孫家の姫君。


亡き孫策が娘として迎えた女性。


その凌華が、今や孫家を率いる孫権の部屋へ何の前触れもなく入り、「これ分かんない」と紙を差し出している。


臣下が固まっていることなど気にも留めず、凌華は孫権の机まで歩いてきた。


「これ」


「何だ」


「読めない」


「……それだけか?」


「うん」


孫権は差し出された紙を見る。


「陸議に聞け」


「陸議さん忙しかった」


「周瑜殿は」


「周瑜さんに持っていったら、絶対この前の続きやらされる」


「やれ」


「嫌」


即答だった。


孫権は額を押さえた。


「では呂蒙に聞け」


「呂蒙さんに文字聞いても『知らん』って言われそう」


「……否定できんな」


「でしょ?」


なぜそこで意気投合したような顔をする。


孫権は凌華から紙を受け取った。


その瞬間、視界の端にまだ臣下がいることを思い出した。


見ると、相手は明らかに居場所を失っていた。


「……今日はここまででよい。続きは後で聞く」


「は」


臣下は立ち上がると、孫権へ深々と頭を下げた。


そして凌華にも礼をしてから部屋を出ていく。


戸が閉じる直前。


もう一度だけ振り返った。


凌華は気づかなかった。


「これ、何て読むの?」


「少し待て」


「一文字だけ」


「分かっている」


「読んでくれるだけでいいから」


「今見ている!」


廊下へ出た臣下は、閉じた戸をしばらく見つめていた。


中から聞こえてくる会話は、とても先ほどまで政務を行っていた部屋のものとは思えなかった。


◇


「……凌華」


「ん?」


「少しは立場を考えろ」


「立場?」


孫権から読み方を教えてもらった凌華は、紙へ書き込みながら首を傾げた。


「私の?」


「そうだ」


「孫策の娘?」


「それもあるが」


孫権は言いかけて、やめた。


問題はそこではない。


「私のところへ来る時の話だ」


「何か変だった?」


「全部だ」


凌華が顔を上げる。


本気で分かっていない顔だった。


「以前とは違う」


「何が?」


「……周囲がだ」


孫権は窓の外へ視線を向けた。


庭の向こうを、数人の兵が歩いている。その姿勢は以前よりどこか張り詰めているようにも見えた。


兄がいた頃とは違う。


自分が決めなければならない。


自分が迷えば、下の者まで迷う。


自分が弱みを見せれば、それを不安に思う者もいる。


だから。


孫権は孫策ではない。


それでも孫策が背負っていたものを、今は自分が背負わなければならなかった。


「今は、私にもそれなりの立場がある」


「うん」


「分かっているのか?」


「分かってるよ」


あまりにあっさり返され、孫権が凌華を見る。


凌華は紙を畳んでいた。


「孫策がやってた仕事、今は孫権がやってるんでしょ?」


その言葉に、孫権の表情が僅かに止まった。


「……簡単に言うな」


「簡単だとは思ってないよ」


凌華は顔を上げた。


いつもの調子のまま。


けれど、その目だけは真っ直ぐ孫権を見ていた。


「大変だと思ってる」


「なら――」


「でも孫権は孫権じゃん」


言葉が途切れた。


「…………」


「何?」


「いや」


「なんでそこで黙るの?」


「お前は……」


孫権は何か言いかけたものの、結局それを飲み込んだ。


凌華は分からないまま首を傾げている。


本当に。


この女は何も変わらない。


周囲の者は変わった。


話しかける前に一度姿勢を正すようになった。


以前なら直接言っていたことを、言葉を選んで伝えるようになった者もいる。


兄の弟だった孫権ではなく。


孫家を率いる者として。


皆が自分を見るようになった。


それが悪いとは思わない。


当然なのだ。


そうでなければならない。


なのに。


「孫権」


凌華が手を伸ばし、机の上に積まれた書簡を一枚持ち上げる。


「おい、勝手に触るな」


「これ今日全部読むの?」


「戻せ」


「これも?」


「戻せと言っている」


「こっちも?」


「凌華!」


「いっぱいあるねえ」


「人の話を聞け!」


慌てて紙を取り返す。


凌華は怒られているのに、どこか楽しそうだった。


「大変そう」


「誰のせいで仕事が止まっていると思っている」


「私?」


「お前だ!」


「じゃあ帰ろっかな」


「最初からそうしろ」


「冷たい」


「仕事中だ!」


凌華は笑いながら立ち上がった。


長剣を持ち直し、戸の方へ向かう。


そこで一度足を止めた。


「あ、そうだ」


「今度は何だ」


「ご飯食べた?」


孫権は瞬きをした。


「……何?」


「お昼」


「なぜ急にその話になる」


「鈴が、孫権ずっと部屋にいるって言ってたから」


「食べた」


「何食べた?」


「…………」


凌華の目が細くなる。


「食べてないじゃん」


「後で食べる」


「ダメだよ」


「お前に言われる筋合いはない」


「あるよ」


「何がある」


「孫策いないから」


孫権の動きが止まった。


凌華も、言ってから少しだけ黙った。


部屋の空気が変わる。


先ほどまで響いていた二人の声が消え、窓から入る風が紙の端を僅かに揺らした。


凌華は一度視線を落とした。


「……孫策いたら、絶対言うでしょ」


孫権は答えなかった。


言う。


間違いなく言う。


それどころか、仕事中だろうが何だろうが部屋へ押しかけ、無理やり連れ出しかねない。


兄ならそうする。


「だから」


凌華は少しだけ笑った。


「私が言っとく」


「なぜお前が」


「なんとなく」


「なんとなくで兄の代わりをするな」


「代わりじゃないよ」


即座に返ってきた。


孫権が凌華を見る。


「孫策の代わりなんてできないし」


凌華は長剣の柄へ触れた。


そこにいるもう一人の孫策のことではない。


二人とも分かっていた。


「私が気になったから言ってるだけ」


それだけ言うと、凌華はいつもの顔へ戻った。


「ご飯食べて」


「分かった」


「ちゃんと?」


「分かったと言っている」


「じゃあ食べたら教えて」


「なぜ報告しなければならない」


「嘘つきそうだから」


「凌華」


「じゃ、お仕事頑張ってー」


言いたいことだけ言い残し、凌華は戸を開けた。


「廊下を走るなよ!」


「走らないよ!」


そう答えた直後。


廊下から駆けていく足音が響いた。


孫権は目を閉じる。


「……走っているではないか」


静けさが戻った。


先ほどまで凌華が立っていた場所には、当然もう誰もいない。


机の上には書簡が積まれたまま。


やるべきことも何一つ減っていない。


それでも。


孫権はしばらく筆を取らなかった。


――でも孫権は孫権じゃん。


何でもないことのように言った。


たぶん凌華にとっては、本当に何でもないのだろう。


孫策がいなくなった。


自分の立場が変わった。


周囲から向けられる視線も、求められるものも変わった。


けれど凌華にとっては。


自分は昨日までと同じ孫権なのだ。


それが。


少しだけ。


ありがたかった。


◇


数日後。


凌華はまた何の前触れもなく現れた。


今度は孫権が数人の臣下と話をしている最中だった。


戸の外で足音が止まる。


そして。


「孫権ー」


室内の臣下たちの肩が揃って僅かに強張った。


孫権は眉間を押さえる。


「……入れ」


戸が開いた。


凌華が顔だけを覗かせる。


「あ、今日人いる」


「見れば分かるだろう」


「じゃあ後にする」


珍しく空気を読んだ。


戸が閉まりかける。


そこで孫権は気づいた。


凌華の手に紙がある。


「待て」


戸が止まる。


「何だ、それは」


「これ?」


凌華が紙を持ち上げる。


「分かんない字」


孫権は目を閉じた。


「……陸議は」


「いなかった」


「周瑜殿」


「聞いたら絶対勉強始まる」


「だから勉強しろ」


「じゃあ後で来るね」


「待て!」


臣下たちが驚いて孫権を見る。


孫権自身も、一瞬だけ黙った。


なぜ呼び止めた。


だが凌華はそんなことなど考えもしない。


「何?」


「……置いていけ」


「読んでくれるの?」


「後でだ」


凌華の顔が明るくなる。


「ありがとう!」


紙を机へ置き、今度こそ出ていく。


「仕事頑張ってね」


「廊下を走るな」


「分かってるって!」


戸が閉まる。


三秒ほどして。


たたたたた、と遠ざかっていく足音が聞こえた。


孫権の眉間に皺が寄る。


臣下の一人が、思わず口を開いた。


「……随分と、その……」


「何だ」


「いえ」


慌てて頭を下げる。


「何でもございません」


孫権は小さく息を吐き、凌華が置いていった紙を机の端へ寄せた。


「続けろ」


「は」


話し合いが再開される。


孫権の声も表情も、すぐに先ほどまでのものへ戻った。


冷静に報告を聞き、必要なところで問いを挟み、判断を下していく。


けれど。


机の端には一枚だけ。


政務とは何の関係もない紙が置かれていた。


臣下の一人が、それをちらりと見る。


そして少しだけ理解した。


誰もが孫権を見る目を変えていく中で。


あの女性だけは。


たぶん、何も変えなかったのだ。


孫策の弟だった頃も。


その後を継いだ今も。


凌華にとって孫権は――ただの孫権だった。


そして孫権もまた。


そんな凌華を追い返すようなことを言いながら。


結局は毎回、分からない文字を教えてやるのだった。

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