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三国凌華伝 ーあなたがくれた、もうひとつの時ー  作者: 隆月 アン
番外編 それでも続いていく
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番外編 凌華、ちいさくなりました④


【見つけてくれた】


「……いない」


阿春の言葉が落ちた瞬間、陸議の表情から、先ほどまでの穏やかさが消えた。


市場は何も変わらず騒がしい。


店先では商人が声を張り、荷車が土を踏みしめて進み、人々が肩をぶつけながら行き交っている。


その中で、陸議だけが一瞬静止した。


けれど次の瞬間には、もう動いていた。


「阿春」


「……うん」


「凌華を最後に見た時、どこにいました?」


「ここ」


阿春が、自分のすぐ横を指す。


「何をしていました」


「話してた。次どこで遊ぶかって」


「凌華は自分からどこかへ行きましたか?」


「違う!」


阿春は勢いよく首を振った。


「絶対違う。だって、俺が向こう見た時まではいたんだ」


周りの子どもたちも、不安そうに頷く。


一人の小さな子が、今にも泣きそうな顔で呟いた。


「俺たちがちゃんと見てなかったから……」


「違います」


陸議の声は低かった。


けれど、責める響きはなかった。


「あなたたちのせいではありません」


「でも……」


「凌華はあなたたちと遊んでいただけです。悪いことは何もしていません」


言いながら、陸議は周囲へ視線を走らせる。


市場の出入口。


建物の隙間。


裏へ続く細い路地。


大人なら、人混みの中で突然姿を消すことなど難しい。


だが今の凌華は小さい。


人の肩と荷物に隠れてしまえば、ほんの数歩離れただけでも見失う。


そして――。


陸議の手にある長剣から、孫策の声が響いている。


『陸議! 凌華だ!』


もちろん、届かない。


『聞こえねえのかよ! くそっ……!』


剣そのものが僅かに揺れるわけではない。


それでも孫策の焦りが、もし形を持っていたなら、今にも鞘を破って飛び出していたかもしれない。


『凌華!』


返事はない。


いつもなら、うるさいと返ってくる。


黙ってて、と怒鳴られる。


それがない。


孫策の声にも、次第に焦りが混じっていった。


陸議は長剣を握り直した。


「近くの兵へ伝えます。市場の出入口を見ていてください」


周囲にいた者へ素早く指示を出す。


大騒ぎにして相手を刺激するわけにはいかない。


けれど、時間をかけることもできない。


「阿春」


陸議が再びしゃがみ、子どもたちと目線を合わせた。


「よく思い出してください。凌華の近くに、何か気になる人はいませんでしたか?」


「気になる人……」


阿春は唇を噛んだ。


遊んでいた時。


凌華が笑っていた。


小石を投げて。


負けて。


またやると言って。


その向こうに――。


「あ」


阿春の目が上がった。


「いた」


陸議の視線が鋭くなる。


「誰が?」


「男」


「どのような?」


「ずっとこっち見てた」


記憶が一気に戻ってくる。


「凌華が遊んでる時からいた。店の前とか、あっちの角とか……」


阿春が市場の端にある細い路地を指した。


「途中でいなくなったけど……さっきまたいた」


「どちらへ行きました」


「分かんない。でも、あっち」


陸議は立ち上がった。


「ありがとうございます」


「俺も行く!」


阿春がすぐに言う。


けれど陸議は首を振った。


「ここにいてください」


「でも!」


「凌華を見つけるためです」


強い声ではなかった。


それでも阿春は止まった。


「もし他に何か思い出したら、近くの兵へ伝えてください」


阿春は悔しそうに唇を噛み、それから大きく頷いた。


「……分かった」


「お願いします」


陸議は踵を返した。


長剣を携えたまま、路地へ入っていく。


その背中へ向かって、孫策が叫んでいた。


『急げ、陸議!』


聞こえなくても。


向かう場所は同じだった。


◇


凌華は、自分がどこまで運ばれたのか分からなかった。


市場の音が遠ざかる。


店の声が消える。


人の足音も少なくなる。


口元を塞がれたまま、大きな腕に抱えられていた。


「んっ……!」


身体を捻る。


肘を当てようとする。


足を振る。


けれど、どれも思ったようには届かなかった。


普段の身体なら。


こんな掴まれ方をされたら、どうすれば外せるか分かる。


重心を崩せる。


足も使える。


短剣があれば、一瞬の隙を作れる。


なのに。


今は何一つうまくいかない。


「暴れるな」


低い声が頭上から落ちてきた。


凌華はさらに強く腕へ爪を立てた。


「んーっ!」


「静かにしろ!」


抱えている腕がきつくなる。


息が詰まる。


怖い。


その感情がはっきり浮かんだ瞬間、凌華は自分で驚いた。


戦場とは違う。


敵がいると分かっている場所でもない。


剣を持って向かい合っているわけでもない。


突然。


何の準備もないまま。


力の入らない身体で連れていかれている。


それだけで、こんなにも違う。


そして何より。


「……っ」


耳を澄ませる。


孫策の声が聞こえない。


さっきまでは、遠くから一度だけ聞こえた。


『凌華!』


その声も、もうない。


長剣は陸議が持っている。


距離が離れすぎた。


分かってはいる。


それなのに。


いつも頭の中にあるはずの声が消えただけで、周囲の静けさが急に大きく感じられた。


やがて、薄暗い建物の中へ連れ込まれた。


戸が閉まる。


外の光が細くなる。


ようやく口を塞いでいた手が離れた。


凌華はすぐに男の腕へ噛みつこうとした。


「痛っ!」


一瞬緩んだ隙に身体を捻り、床へ降りる。


着地した途端、出口へ向かった。


けれど。


数歩も進まないうちに、後ろから腕を掴まれた。


「離して!」


「大人しくしろ!」


「嫌!」


腕を振りほどこうとする。


できない。


反対の手で相手を叩く。


小さな拳では、大した力にならない。


足を蹴り上げる。


届かない。


「離して!」


自分の声が、薄暗い室内へ響く。


声は出る。


でも。


誰にも届かないかもしれない。


その考えが頭をよぎった瞬間、背中が冷たくなった。


凌華は部屋の中を見回した。


積まれた木箱。


壁際の荷物。


狭い窓。


戸。


男との距離。


頭だけは動いている。


どうすれば逃げられるか。


使える物はないか。


外から音はしないか。


何度も見る。


それでも。


身体がついてこない。


一歩走ればすぐ追いつかれる。


腕を掴まれれば外せない。


高い窓へは届かない。


箱を動かす力もない。


「……っ」


悔しかった。


何より。


自分の身体が自分のものではないような感覚が怖かった。


いつもならできることが。


何もできない。


凌華は壁際へ押し込まれた。


男が戸の方を気にしている。


誰かと合流するつもりなのか。


それとも移動するつもりなのか。


分からない。


凌華は唇を噛んだ。


泣くものかと思った。


こんなところで泣いたら負けたような気がする。


けれど。


頭に浮かんだ名前だけは、止められなかった。


「……陸議さん」


声は、自分でも驚くほど小さかった。


いつもみたいに。


「陸議さーん!」と遠くから呼ぶ声ではない。


何か分からない字を見つけた時でも。


道に迷った時でも。


暇になった時でもない。


ただ。


来てほしかった。


「……陸議さん」


もう一度呼ぶ。


当然、返事はない。


◇


路地の奥。


陸議は足を止めた。


土の上に残った足跡。


一つは大人。


その脇に、ごく小さな靴跡が途中まで乱れている。


自分で歩いた跡ではない。


暴れた時についたような、不規則な跡だった。


陸議の目が細くなる。


「……こちらですね」


『見つけたのか?』


孫策が叫ぶ。


聞こえない。


けれど陸議は走り出した。


細い道を抜ける。


古い建物が並んでいる。


倉として使われているものもあれば、今はほとんど人の出入りがないものもある。


そこへ、後ろから足音が聞こえた。


「陸議殿!」


先ほど指示を出していた兵の一人だった。


「こちらで、子どもを抱いた男を見た者がいました」


「どこへ?」


兵が指す。


「奥の古い倉です」


陸議は答えるより早く、その方向へ向かった。


長剣が腰元で揺れる。


『凌華!』


孫策の声が、剣の中で何度も響く。


『聞こえるか!』


◇


倉の中。


外から物音がした。


男が顔を上げる。


凌華も同時に戸を見る。


足音。


一つではない。


男が凌華の腕を掴む。


「来い」


「嫌!」


「静かにしろ」


「離して!」


その瞬間。


戸が大きく開いた。


外の光が、薄暗い室内へ一気に差し込む。


眩しくて。


凌華は一瞬目を細めた。


けれど。


その向こうに立っている姿だけは、すぐに分かった。


「凌華!」


聞き慣れた声。


落ち着いている時より少し低く、焦りを隠しきれていない声。


胸の奥で張り詰めていたものが、一気にほどけた。


「陸議さん!」


凌華は男の腕を振りほどこうとする。


同時に陸議が動いた。


迷いはなかった。


男の腕を取り、凌華から引き離す。


兵がすぐに相手を押さえ込んだ。


凌華の身体が自由になる。


その瞬間。


走った。


普段なら。


小さい身体で走るなと言われる。


転ぶと言われる。


止められる。


そんなことは、今は何も考えなかった。


「陸議さん!」


陸議が両腕を広げる。


凌華はそのまま飛び込んだ。


小さな身体が胸元へぶつかる。


陸議の腕がすぐに背中へ回る。


凌華は衣を掴んだ。


強く。


「凌華」


「……怖かった」


声が震えた。


「はい」


「怖かった……」


「もう大丈夫です」


いつもなら。


抱き上げられた瞬間に「降ろして」と言う。


今日は言わなかった。


むしろ、自分から陸議の首元へ腕を回した。


離れない。


陸議も、何も言わず凌華を抱き上げた。


「怪我は?」


「ない……たぶん」


陸議が凌華の腕や顔を確認する。


大きな傷はない。


手首に少し赤い跡がある程度だった。


それを見た陸議の目が僅かに険しくなる。


「痛みますか?」


凌華は首を振った。


「大丈夫」


「本当に?」


「……ほんと」


いつもの「大丈夫」とは違った。


虚勢ではないことを確認して、陸議はようやく息を吐いた。


その時。


長剣から。


ずっと聞きたかった声がした。


『凌華』


凌華の身体が震える。


顔を上げた。


「……孫策」


『無事か』


「……うん」


『怖かったな』


凌華の目に涙が浮かんだ。


さっきまで堪えていたものが、今さら溢れてくる。


「……うん」


『もう大丈夫だ』


一筋。


頬を涙が伝った。


「……うん」


陸議には孫策の言葉は聞こえない。


けれど。


凌華が何を聞いたのかは、何となく分かった。


何も言わず。


ただ、背中へ添えた手を少しだけ強くした。


◇


市場へ戻ると、阿春たちはその場から動かず待っていた。


凌華を抱いた陸議が見えた瞬間。


最初に走ってきたのは阿春だった。


「凌華!」


凌華が顔を上げる。


「阿春」


「……よかった」


阿春の顔は、今にも泣きそうだった。


「ごめん!」


「何で?」


「俺が見てなかったから」


「違うよ」


「でも……」


「阿春のせいじゃない」


凌華は少し身体を起こした。


「阿春が、あの人のこと覚えてたんでしょ?」


阿春が黙る。


陸議が代わりに答えた。


「阿春が教えてくれたおかげで、探す場所を絞れました」


阿春が陸議を見る。


「ほんと?」


「はい」


凌華も頷く。


「だから、ありがとう」


阿春はしばらく何も言わなかった。


それから俯き、鼻をすすった。


「……怖かった?」


凌華は一瞬だけ考えた。


いつもなら、平気だったと言ったかもしれない。


けれど。


今日は。


「うん」


素直に答えた。


「怖かった」


周りの子どもたちの顔が曇る。


凌華はすぐに笑った。


「でも、陸議さん来てくれたから大丈夫」


そう言って、陸議の衣を掴む。


阿春はその手を見る。


そして陸議を見る。


市場で遊んでいた時よりも。


ずっと近い。


凌華が自分からそうしている。


阿春にはまだ、それが何を意味するのか分からない。


ただ。


この兄ちゃんが来たから。


凌華はこんな顔をしているんだということだけは分かった。


「また遊べる?」


阿春が聞く。


凌華は笑った。


「うん」


「今度は勝てよ」


「絶対勝つ!」


「さっきも言ってた」


「次はほんと!」


ようやく。


いつもの凌華の声が戻った。


◇


帰り道。


夕暮れの光が街を橙色に染めていた。


店じまいを始める者も増え、市場の賑わいは少しずつ静かになっている。


陸議は凌華を抱いたまま歩いていた。


長剣は兵に持たせず、反対の手で自分が持っている。


凌華は静かだった。


いつもなら。


とっくに「降ろして」と言っている。


「自分で歩ける」と暴れている。


けれど今日は、一度も言わなかった。


むしろ。


陸議の胸元に額を預け、小さな指で衣を掴んでいる。


しばらくして。


陸議が静かに尋ねた。


「凌華」


「何?」


「歩きますか?」


凌華は顔を上げた。


少し考える。


「……今日は」


「はい」


「今日は、抱っこでいい」


陸議の目が僅かに柔らかくなる。


「そうですか」


「今日だけだからね」


「はい」


「明日からは歩く」


「身体が戻るまでは状況によります」


いつもなら。


「何で!」と即座に返す。


今日は。


少しだけ頬を膨らませて。


「……分かった」


それだけだった。


『珍しいな』


孫策が言う。


凌華は長剣へ視線を向ける。


「……今日はいいの」


『そうか』


「うん」


孫策も、それ以上は何も言わなかった。


陸議の胸元へ、凌華がもう一度額を預ける。


その手は。


屋敷へ着くまで、衣を離さなかった。


◇


孫家へ戻る頃には、すでに知らせが届いていた。


門の内側には、孫尚香が立っている。


少し後ろには鈴もいた。


「凌華!」


尚香が駆け寄る。


凌華が顔を上げた。


「尚香」


その声を聞いた瞬間、尚香の顔から力が抜けた。


「よかった……」


いつもなら。


陸議に抱かれている凌華を見ただけで、「また抱っこされてる」と笑ったはずだった。


でも今日は違う。


凌華は陸議の衣を掴んだまま。


降りようともしていない。


それだけで十分だった。


「……怖かった?」


尚香の声も自然と小さくなる。


凌華は少しだけ黙った。


それから。


「……うん」


小さく頷いた。


尚香は何も言わず、凌華の頭を撫でた。


普段なら「子ども扱いしないで」と避ける手を。


今日は凌華も振り払わなかった。


鈴も近づく。


「凌華様……」


「鈴」


「お怪我はございませんか?」


「大丈夫。何もされてない」


「本当に?」


「うん」


それから凌華は、陸議を見上げた。


「陸議さんが見つけてくれたから」


鈴と尚香の視線が陸議へ向く。


陸議は何も言わなかった。


ただ。


凌華がまだ衣を掴んでいることには、最後まで触れなかった。


◇


その夜。


寝支度を整えた鈴が、灯りを少し落とす。


「では凌華様。私はこれで失礼いたします」


戸口へ向かおうとした時。


「……鈴」


鈴が振り返る。


凌華は寝台の上で少し迷ったあと、小さな声で言った。


「今日、一緒に寝ない?」


鈴の目が僅かに見開かれた。


けれど理由は聞かなかった。


「もちろんでございます」


「……今日だけだからね」


「はい」


「子どもだからじゃないから」


「はい」


少しして。


鈴の隣へ横になった凌華は、いつの間にかその袖を握ったまま眠っていた。


壁際には孫策の宿る長剣。


部屋の外には、いつもの屋敷の気配。


もう、誰の声も届かない場所ではなかった。


そしてその夜も。


凌華の身体は――まだ、小さいままだった。


――第五話へ続く。

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