番外編 凌華、ちいさくなりました③
【市場の小さな友達】
身体が小さくなってから、凌華はそれなりに今の生活へ慣れ始めていた。
慣れたくて慣れたわけではない。
寝台から降りる時は端まで移動してから足を下ろす。段差は飛び降りず、一度止まる。長剣は最初から自分で持とうとしない。人の多い廊下では走らない。
どれも、数日前までは意識すらしなかったことばかりだった。
けれど、身体の扱いに少し慣れたからといって、できることが増えるわけではない。
訓練は禁止。
一人で外へ出るのも禁止。
高いところへ登るのも禁止。
長剣も双短剣もまともに扱えない。
そして何より。
「……暇」
昼前。
凌華は自室の床に座り込み、両手で頬を支えていた。
目の前では鈴が、小さくなった身体に合わせて仕立て直した衣を畳んでいる。
「そうでございますか」
「ものすごく暇」
「先ほどまで尚香様とお話しされていたではありませんか」
「尚香、弓の稽古行っちゃった」
「では、周瑜様のところへ――」
「勉強になる」
「よろしいことでは?」
「今、勉強したい気分じゃない」
鈴は手を止め、凌華を見た。
凌華は退屈そうに床へ寝転がる。
「呂蒙さんのところ行ったら訓練させてくれないし」
「当然です」
「陸議さんのところ行っても仕事してるし」
「それでも普段は行かれるではありませんか」
「行くけど」
「では、今日も」
凌華は天井を見上げたまま、しばらく黙った。
やがて、ぽつりと言う。
「……市場行きたい」
鈴の手が止まった。
「凌華様」
「見るだけ」
「以前、市場で見慣れぬ物へ触れたことが、今回の原因かもしれないのでしょう?」
「もう触らない!」
「本当に?」
「……たぶん」
「凌華様」
「触らない!」
すぐ近くの壁際から、剣の孫策が笑った。
『信用ねえな』
「孫策は黙って」
『俺でも止めるぞ』
「何でみんな同じこと言うの」
その時、戸の向こうから明るい声がした。
「何の話?」
孫尚香が入ってくる。
凌華は身体を起こした。
「市場行きたいって話」
「いいじゃん。私も行く!」
「尚香まで来たら目立つから駄目」
「何でよ!」
「絶対あっちこっち行くじゃん」
「それ凌華に言われたくない!」
「今の私は勝手に行ったら陸議さんに捕まるから!」
「分かってるじゃん!」
「納得してるわけじゃない!」
尚香は声を立てて笑った。
鈴はその二人を見て、静かに溜息をつく。
「どちらにせよ、お一人では行けません」
「分かってる」
「では、どなたかにご一緒いただく必要があります」
凌華は考えるまでもなく答えた。
「陸議さん」
尚香が一瞬だけ目を細める。
「即答なんだ」
「だって一番話早いし」
『便利扱いだな』
「違う」
『何が』
「陸議さんは……」
凌華は少し考えて。
「こういう時、ちゃんと考えてくれるから」
孫策は何も言わなかった。
尚香は、へえ、とだけ返した。
◇
陸議の部屋へ行くと、案の定。
最初の返事は一言だった。
「駄目です」
「まだ説明してない!」
「市場へ行きたいのでしょう」
凌華の顔が固まる。
「何で分かったの!?」
「その顔で分かります」
「最近みんなそれ言う!」
机の向こうで、陸議は書簡から視線を上げた。
「今の身体で、人の多い市場へ行くのは危険です」
「陸議さんも来ればいいじゃん」
「私も?」
「うん」
凌華は机へ近づき、両手を縁へ置く。
今の身体では机が高いため、顔だけを少し覗かせるような格好になった。
「一人で行くって言ってないよ。陸議さんと一緒ならいいでしょ?」
陸議は凌華を見る。
それから少し考えた。
「条件があります」
「何?」
「人の多い場所では、私が抱きます」
凌華の顔が固まった。
「……嫌」
「では行きません」
「…………」
市場。
抱っこ。
凌華の中で、二つが天秤にかかる。
長い沈黙の末。
「…………市場」
『負けたな』
「孫策うるさい」
陸議は僅かに口元を緩めた。
「では決まりです」
「人が多いところだけだからね!」
「状況によります」
「そこは『はい』でしょ!」
「約束できないことは言いません」
「そういうところ真面目!」
◇
出発前。
鈴は凌華の衣を整え、髪を丁寧にまとめていた。
小さな身体に合わせた衣はよく似合っている。
それがまた凌華には不満だった。
鏡を見ながら頬を膨らませる。
「……完全に子ども」
「よくお似合いですよ」
「それが嫌なの」
「なぜです?」
「中身はそのままなのに、みんな子ども扱いするから」
「子ども扱いというより、今のお身体に合わせているだけかと」
「それ陸議さんも言う」
「正しいからでは?」
「鈴まで……」
そこへ尚香が顔を覗かせた。
「かわいい!」
「尚香も目悪い!」
「またそれ言ってる!」
「だっておかしいもん」
「どこが!」
「全部」
「意味分かんない!」
尚香が凌華の頬をつつこうと手を伸ばす。
凌華はすぐ避けた。
「触らないで!」
「かわいい」
「だからやめて!」
笑い声の中、陸議が部屋へ入ってきた。
その手には長剣がある。
凌華が見る。
『今日は最初から俺を持つ気か』
「私じゃ持てないから仕方ないでしょ」
『何だか複雑だな』
「陸議さん、よろしく」
「はい」
『俺には?』
「孫策もよろしく」
『軽いな!』
陸議は長剣を手にしたまま、凌華を見下ろした。
「準備は?」
「できた」
「では行きましょう」
鈴が戸口まで見送る。
「お気をつけて」
「うん!」
「知らない物には触れないでくださいませ」
「……はい」
「陸議様から離れないように」
「鈴、私のお母さんみたいになってない?」
「それだけ心配なのです」
凌華は少しだけ笑った。
「行ってきます」
尚香も手を振る。
「何か面白いものあったら教えて!」
「尚香が来なかった意味!」
「見るだけ!」
「駄目!」
そんなやり取りを背に、凌華は陸議と市場へ向かった。
◇
市場は、数日前と変わらず賑わっていた。
道の両脇には布や食べ物、器、飾り物が並び、店先から威勢のいい声が飛び交っている。
焼いた肉の匂い。
甘い果実の香り。
乾いた土の上を荷車が通る音。
布が風を受けてはためき、陽の光が金具や硝子へ反射する。
いつもと違うのは。
凌華から見える景色だった。
「……人の足しか見えない」
「だから抱くと言ったのです」
陸議が答える。
「まだ大丈夫」
「本当に?」
「うん」
凌華は人の間を抜けながら進む。
けれど人通りが多くなるにつれて、前が見えなくなった。
誰かとぶつかりそうになるたび、陸議の手が肩へ伸びる。
三度目。
何も言わず身体が浮いた。
「ちょっと!」
「約束です」
「まだ歩けた!」
「私からあなたが見えません」
「私は陸議さん見える!」
「こちらから見えなければ意味がありません」
「……むう」
抱かれてしまえば、視界は一気に開けた。
店先も品物もよく見える。
それはそれで便利なのが悔しい。
「あ、陸議さん。あれ何?」
「干した果実でしょう」
「その隣」
「薬草です」
「その横」
「凌華」
「何?」
「触らないでください」
「まだ手伸ばしてない!」
『伸ばそうとしてたぞ』
「孫策まで!」
陸議が長剣を見る。
「孫策殿ですか?」
「触ろうとしてたって」
「やはり」
「やはりじゃない!」
市場を進んでいくうち、凌華の目に子どもたちの姿が入った。
道から少し入った場所。
数人の子どもが地面に線を引き、小石を使って何かをしている。
楽しそうな声が響く。
凌華の視線が、そちらへ吸い寄せられた。
陸議はすぐに気づいた。
「遊びたいのですか?」
「……ちょっと」
「…………」
「見るだけでもいい」
陸議は周囲を確認した。
人通りはある。
危険な路地でもない。
子どもたちは皆、近くの商家や家の子らしく、大人の目も完全にないわけではなかった。
「ここから離れないこと」
「うん!」
「勝手に別の場所へ行かない」
「うん!」
「知らない人について行かない」
「それくらい分かってるって!」
「本当に?」
「陸議さん、私を何だと思ってるの」
陸議は答えなかった。
「何で黙るの!?」
それでも、ようやく地面へ下ろしてもらえた凌華は、すぐに子どもたちの方へ向かった。
最初に気づいたのは、少し日に焼けた活発そうな男の子だった。
「誰?」
「凌華」
「名前じゃなくて」
「じゃあ何?」
男の子は凌華の衣を見る。
小さな身体でも、身に着けている物を見れば普通の家の子ではないと分かる。
「お前、いいところのお嬢様?」
凌華は自分の衣を見下ろした。
孫策の養女。
孫家の娘。
確かに、今の立場だけ見れば間違ってはいない。
「……たぶん?」
「何で自分で分かんねえんだよ」
「色々あるの!」
男の子は怪訝そうに凌華を見る。
それから笑った。
「変な奴」
「初対面で失礼!」
「俺、阿春」
「阿春?」
「そう」
阿春は足元を指した。
「やる?」
地面には線が引かれ、いくつかの小石が置かれていた。
凌華は首を傾げる。
「何これ?」
「知らねえの?」
「知らない」
「やっぱ変」
「知らないものは知らないの!」
「じゃあ教えてやる」
そう言って阿春がしゃがむ。
凌華も隣へ座った。
ルールは単純だった。
けれど、初めてやる凌華には思ったより難しい。
一回目。
負けた。
「もう一回」
「また?」
「今のは分かってなかったから!」
二回目。
また負ける。
「もう一回!」
「弱っ」
「今のなし!」
「何でだよ!」
「やりながら覚えるタイプなの!」
「何だそれ!」
阿春が笑う。
凌華も笑った。
周りの子どもたちも、次第に凌華へ話しかけ始める。
「その髪飾りきれい」
「これ? 鈴がやってくれた」
「鈴って誰?」
「私のお世話してくれてる人」
「やっぱお嬢様じゃん」
「……たぶん?」
「またそれ!」
笑い声が広がる。
少し離れたところで、陸議は長剣を持ちながらその様子を見ていた。
『楽しそうだな』
当然、返事はない。
『お前も安心したか?』
陸議には聞こえない。
けれど、確かに先ほどより表情は柔らかかった。
小さな身体になってから、凌華はずっと不自由していた。
今だけは、周囲の子どもたちと同じ目線で、同じ遊びをしている。
誰も凌華を「孫策の娘」として扱わない。
戦場へ出る人間とも知らない。
ただ、変なことを言う同じくらいの子として接している。
それが凌華には楽しいらしかった。
「凌華、こっち!」
阿春が立ち上がる。
「何?」
「今度これやろう」
凌華の手を掴み、別の遊びへ引っ張っていく。
その瞬間。
陸議の眉が、ごく僅かに動いた。
『お』
孫策が面白そうに声を上げる。
『今の何だ?』
返事はない。
『相手、子どもだぞ』
陸議は無表情のままだった。
ただ。
凌華と阿春の手が離れるまで、視線だけはそこへ向いていた。
◇
しばらく遊んだあと。
阿春がようやく、少し離れた場所に立っている陸議へ気づいた。
「なあ」
「何?」
「あの兄ちゃん、ずっとお前見てるけど」
凌華も振り返る。
「ああ。陸議さん?」
「兄ちゃん?」
「違うよ」
「じゃあ何?」
凌華は陸議を見る。
「陸議さん」
「だから、それは名前だろ」
「そうだけど」
「何なんだよ」
「何って……」
凌華は困った。
陸議は陸議だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「陸議さんは陸議さんだよ」
阿春は完全に分からない顔をした。
「意味分かんねえ」
「私も説明できない」
「家族?」
「違う」
「兄ちゃん?」
「違う」
「じゃあ何?」
「だから陸議さん!」
「答えになってない!」
二人の声が大きくなったため、本人が近づいてきた。
「何を揉めているのです?」
阿春がすぐに尋ねる。
「兄ちゃん、凌華の何?」
陸議は一瞬、凌華を見る。
凌華も見上げてくる。
「…………」
少し考えたあと。
「今は、保護者のようなものです」
「ほら!」
阿春が納得する。
凌華だけが不満そうな顔をした。
「保護者……」
「今のあなたには必要でしょう」
「中身は大人なんだけど」
「存じています」
「なら保護者じゃないじゃん」
「では、一人で市場を歩きますか?」
「…………」
「できませんね」
「できる」
「では長剣も自分で持ちますか?」
「…………」
『俺まで使うな』
凌華は頬を膨らませた。
「今だけだからね」
「はい」
阿春はそんな二人を交互に見た。
よく分からない。
けれど。
凌華が陸議へまるで警戒していないことだけは分かった。
むしろ。
何か言われればすぐ言い返し、止められれば怒り、困れば当然のように頼る。
それがあまりに自然だった。
「凌華」
「何?」
「また来いよ」
「うん!」
「今度はちゃんと勝てよ」
「次は絶対勝つ!」
「無理だって」
「勝つ!」
阿春は楽しそうに笑った。
凌華も笑う。
また会えたらいいな、と阿春は思った。
変な奴だけど。
一緒に遊ぶと面白い。
それくらいの、まだ名前もつかない小さな気持ちだった。
◇
その時だった。
「陸議殿」
近くの店から声がかかった。
先ほど頼んでいた品について、店主が確認したいらしい。
陸議がそちらを見る。
距離はほんの数歩。
凌華は阿春たちと一緒にいる。
周囲には人も多い。
陸議は一度、凌華へ視線を戻した。
「凌華」
「何?」
「ここにいてください」
「分かってる」
「離れないように」
「さっきからずっとここだよ」
陸議はもう一度周囲を確認してから、店主の方へ向いた。
長剣もその手にある。
『おい、陸議』
孫策の声がする。
もちろん陸議には聞こえない。
『さっさと済ませろよ』
凌華は阿春と話していた。
「次、何する?」
「向こうにも遊ぶところあるぞ」
「どこ?」
阿春が指を差す。
凌華がそちらを見る。
ほんの一瞬。
それだけだった。
背後から、大きな影が近づいた。
最初に感じたのは、腕だった。
口元を強く塞がれる。
「――っ!」
声が出ない。
身体が浮いた。
凌華の目が大きく見開かれる。
何が起きたのか理解するより早く、人の流れへ押し込まれるように運ばれた。
「ん――!」
暴れる。
腕を掴む。
蹴る。
けれど。
小さな身体では、相手の腕を振りほどけない。
阿春たちは、別の方を見ている。
陸議も店主と話している。
「――っ、ん!」
必死に手を伸ばす。
届かない。
長剣も。
孫策も。
陸議の手の中だ。
人混みの中へ入り込んだところで。
遠くから、孫策の声がした。
『凌華!?』
凌華の身体が震えた。
返事をしたい。
けれど口を塞がれている。
『凌華!』
声が遠ざかる。
「……っ!」
必死に振り返ろうとする。
見えない。
人の肩。
荷物。
布。
市場の雑音。
すべてに遮られる。
そして。
ついに孫策の声も聞こえなくなった。
◇
「……あれ?」
阿春が振り返った。
ほんの少し前まで。
凌華はそこにいた。
「凌華?」
返事がない。
「おい、凌華」
周りの子どもたちも振り返る。
「どこ行った?」
「知らない」
「さっきいたよ」
阿春の顔から笑いが消える。
「凌華!」
少し大きな声を出した。
その声に。
店主と話していた陸議が振り返った。
「どうしました?」
阿春が陸議を見る。
それから。
さっきまで凌華がいた場所を見る。
もう一度。
陸議を見る。
「……凌華が」
陸議の表情が変わった。
「凌華は?」
阿春の顔が青ざめる。
「……いない」
陸議はすぐに周囲を見渡した。
人の流れ。
店先。
路地。
どこにも、あの小さな黒髪は見えない。
手にしていた長剣から。
焦った孫策の声が響く。
『陸議!』
当然。
陸議には聞こえない。
けれど。
その顔から、先ほどまでの穏やかさは完全に消えていた。
「最後に見たのはいつです」
阿春は答えようとして、言葉を詰まらせた。
ほんの少し前だ。
本当に。
ほんの一瞬だった。
「……さっき」
市場の喧騒は変わらない。
人々は行き交い、店の声も響いている。
けれど陸議の目には、もう何も入っていなかった。
ただ一人。
そこにいるはずだった凌華の姿だけを探していた。
――第四話へ続く。




